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福島県須賀川市 稲村御所跡 須賀川市立博物館 団子山古墳 二階堂氏

2024年07月22日 15時08分33秒 | 福島県

 

稲村御所跡。福島県須賀川市稲御所舘。

2024年5月31日(金)。

会津の大内宿を見学後、中通りへ戻り、須賀川市へ入って、室町時代の稲村御所跡を探したが、稲村御所跡があるらしい丘は分かるものの付近には案内板がなく良く分からなかった。須賀川市立博物館へ行くと、稲村御所跡に関するまとまった展示があった。

須賀川市立博物館。福島県須賀川市池上町。

 

団子山古墳。須賀川市日照田にある市指定史跡の団子山古墳は、中通り地方では確認例が少ない古墳時代前期の古墳で、中通り地方の古墳時代前期の前方後円墳としては最大で、最も南に位置する。また、東北地方では古墳時代前期の埴輪が出土した古墳は数例のみで大変貴重である。

阿武隈川東岸に向かって張り出した舌状台地の先端裾部を利用した古墳で、残っている形状から円墳と考えられてきたが、2012年から実施している福島大学による発掘調査で、全長65m、後円部径55m、高さ10.8mの規模の前方後円墳となることや、後円部の墳頂中心では、南北6.2m、東西2.7mの墓壙が確認され、後円部墳頂からは円筒埴輪が並べられた状態で出土した。埴輪は北関東や山梨、東海地方と共通しており、その特徴などから古墳時代前期4世紀の中頃から後半にかけてつくられたものと推測されている。

人物埴輪頭部(三角冠帽の男性、通称「天冠埴輪」)。塚畑古墳出土。

塚原古墳は6世紀後半築造の全長40mの前方後円墳

 

古代、須賀川を含む石背郡は、中央と地方とを結ぶ官道である東山道(推定)が通り、さらに浜通り地方や茨城県へ至る街道と、会津へ至る街道が交差する交通の要衝であったと考えられている。このため、奈良時代には東山道(推定)の沿線に当たる現在の須賀川駅周辺に、陸奥国石背郡の役所である石背郡衙(栄町遺跡)やそれに付属する寺院(上人壇廃寺跡)、官人たちが住む集落(うまや遺跡)等が形成され、養老 2(718)年には、陸奥国から石背国と石城国が分離独立し、一時的ではあるが、石背国の国府が置かれたと考えられている。

平泉藤原氏によって整備された奥大道が幹線となった中世は、鎌倉幕府で政所執事を務めるなど有力な御家人だった二階堂氏が岩瀬郡を領地とし、奥大道から会津街道に至る沿線に稲村城を築いたとされている。

二階堂氏は藤原姓で、藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れである。工藤行政は文官として源頼朝に仕え、建久3年(1192年)に建立された永福寺(二階建ての仏堂)の周辺に邸宅を構えたため、二階堂氏を称したという。行政には行光と行村の二人の子がいた。行光は鎌倉幕府の政所執事に任命され、二階堂氏から同職が補任される慣例が成立した。当初は行光を祖とする「信濃流」と呼ばれる一族が執事職を占めていたが、鎌倉時代末期には信濃流の二階堂行貞の系統と隠岐流の二階堂行藤の系統が交互に執事の地位を占め、前者は室町幕府でも評定衆の地位にあった

二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府・建武政権・室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を出した

なかでも、陸奥国岩瀬郡須賀川を支配し須賀川城を居城とした戦国大名須賀川二階堂氏が著名である。

文安元年(1444年)頃、鎌倉から二階堂為氏が須賀川に下向し、命令に従わなくなった須賀川代官二階堂治部大輔を討ち、須賀川城に入ったという。この為氏が須賀川二階堂氏の初代当主といわれている。現存する須賀川二階堂氏の系図の多くは後世に作成されたものであり、為氏以前がどの家系につながるかは判然としない。

南北朝時代には後醍醐天皇の孫である守永親王や北畠顕信が拠った宇津峰に対し、奥州管領の吉良貞家が多賀城から一時稲村城に移り、北朝側の拠点として機能した。このときの宇津峰は南朝側だった田村氏の勢力下にあり、山頂から田村・安積・岩瀬・白河の県南地方が一望できる自然の要害としては最適な地形であるとして、南朝の重要な拠点となっていた。

一年以上に及んだ戦いの後、宇津峰は落城し、岩瀬郡における南北朝の戦いが終結した。その後、室町時代には、稲村城の近くに、足利将軍家の子孫である足利満貞が下向し稲村御所が置かれ、東北地方の政治拠点となった。

足利満貞(1385年頃~1439年)は、第2代鎌倉公方・足利氏満の四男で、応永6年(1399年)に陸奥国岩瀬郡稲村(須賀川市)に下向し、稲村御所(稲村公方)とよばれた。

奥州管領の衰退や小山氏の乱に対応するため、元中8年(1391年)に陸奥国・出羽国が鎌倉府の管轄となった。だが、奥羽両国には有力な武士が存在しており、鎌倉府の統治も順調ではなかった。応永5年(1398年)の足利氏満の急死をきっかけに鎌倉府の奥州統治体制の再編成を迫られ、応永6年(1399年)に新しい鎌倉公方となった長兄満兼の命により陸奥国岩瀬郡稲村に下向した。

同時に次兄満直も稲村から北の陸奥安積郡篠川(郡山市)に下向し、篠川御所(篠川公方)とよばれた。両御所は鎌倉府の出先機関として陸奥の国人勢力を統合し、伊達氏や斯波氏といった反鎌倉府勢力に対抗することが主要任務だったと考えられる。満貞の執事には後世の深谷上杉家の先祖にあたる庁鼻和(こばなわ)上杉家が務めていたと考えられている。

岩瀬郡は二階堂氏の勢力圏で、満貞は二階堂氏や安積郡の伊東氏、白河郡の白河結城氏(結城満朝・氏朝父子)などと連携してたびたび反抗した伊達氏(伊達政宗・持宗)と衝突している。

応永9年(1402年)に関東管領上杉朝宗(犬懸上杉家)が伊達政宗の乱に介入するために息子の上杉氏憲(後の禅秀)率いる遠征軍を派遣すると、稲村公方対反鎌倉府勢力の構造が崩れ、犬懸上杉家の勢力が直接奥州に浸透した影響で満貞の立場は弱体化することになる。

鎌倉公方が甥の持氏に代替わりすると、鎌倉で持氏を補佐していた三兄の満隆が応永23年(1416年)に上杉禅秀と結んで謀反を起こし(上杉禅秀の乱)、翌24年(1417年)に禅秀と共に敗死したことで犬懸上杉家の奥州進出は幕を閉じるが、一度失われた満貞の権威は回復することはなかった。

続いて満直と持氏の関係が悪化し、満直は幕府と結びつき鎌倉公方の地位への野望を持ち、加えて持氏も満直らに対抗するために奥州の直接統治を目指すようになり、満貞の立場はますます弱体化して稲村公方は鎌倉府と奥州諸将の間の取次機関に過ぎなくなった。それに伴い応永31年(1424年)11月に満貞は鎌倉に入り、稲村公方は事実上終焉した。正長年間以後は鎌倉に滞在して関東管領上杉憲実に対抗する形で持氏を補佐したとみられる。

永享10年(1438年)に発生した永享の乱では持氏に与力し、翌11年(1439年)2月10日に鎌倉の永安寺で持氏と共に自害した。

鎌倉時代末期から続く二階堂氏は、二階堂行朝が川中郷(今の中宿・下宿・和田・浜尾辺り)を支配するにあたり、愛宕山城を築いたと言われている。これを機に、岩瀬郡は稲村城を本拠とする「稲村二階堂氏」愛宕山城を本拠とする「須賀川二階堂氏」が支配するようになったと考えられている。応永 11(1404)年に書かれた「仙道国人一揆契状」には、「須賀川刑部少輔行嗣」と「稲村藤原満じ藤」の名が見える。

須賀川二階堂氏は鎌倉府の時期には三河守系と遠江守系の二つの系統があったようで、戦国期につながるのは足利義政から御内書を下された二階堂藤寿の遠江守系で、二階堂貞藤(備中家)の兄・時藤の養子であった二階堂成藤の子孫と推定される。ただ、藤寿は現存する二階堂氏の系図には名前が見当たらず、為氏との関係は定かでない。

戦国時代になると、戦いに備えた城館が各地に築かれるようになる。現在の市街地中心部に位置する須賀川城をはじめ長沼城、今泉城などがその代表である。

須賀川城は、奥大道に近い丘陵上に設置され、天正 18(1589)年、伊達政宗との戦いにより落城するまで、二階堂氏の居城として機能した。

天文11年(1542年)に勃発した天文の乱と呼ばれる伊達氏の内訌に端を発した大乱では、伊達稙宗の娘婿二階堂照行(輝行)は稙宗方となっている。

永禄年間(1558年から1570年)になると、度々蘆名氏に攻められ、二階堂盛義は息子を人質として送り講和した。

盛義の死後当主となった二階堂行親は早世し、その跡は盛義の未亡人であり、伊達政宗の伯母にあたる阿南の方(大乗院)が継いでいた。そのため政宗も幾度となく降伏を薦めたが、阿南の方はこれを頑強に拒否天正17年(1589年)10月26日政宗に攻められて、須賀川城は落城した。阿南の方はその後政宗を嫌って甥の岩城常隆を頼り、常隆の死後は佐竹義宣の元に身を寄せた。佐竹氏が出羽に移封されると病のため須賀川に留まることになり、1602年に62歳で没したという。

江戸時代、奥州街道など主要幹線となる街道が全国に整備され、古くからの交通の要地や城下町の一部などに宿場が置かれると、須賀川にも奥州街道、会津街道沿いにいくつかの宿場が設置された。なかでも須賀川宿は、奥州街道と岩城(磐城)街道、棚倉街道、三春街道が交わる交通の要衝として栄え、相楽家や市原家などの豪商が生まれた。 

 

このあと、須賀川牡丹園へ向かった。

福島県下郷町 大内宿


根室市歴史と自然の資料館⑤根室と千島のアイヌ文化

2024年07月22日 09時16分02秒 | 北海道

根室市歴史と自然の資料館。根室市花咲港。

2022年6月14日(火)。

 

北と南の文化が出会い「アイヌ文化」へ

トビニタイ土器。擦文土器とオホーツク式土器の形や文様など、両方の特徴を備えている。トビニタイ、は羅臼町飛仁帯で出土したことから名づけられた(北海道博物館収蔵)

 

オホーツク文化(5~9世紀)と擦文文化(7~12世紀)は、北海道で8~9世紀ごろに出会った。オホーツク文化が終わり、10世紀になるとオホーツク文化と擦文文化の両方の特徴をもった土器が作られるようになった。このような土器を「トビニタイ土器」とよんでいる。

また、住居も両文化の特徴をもつようになった。遺跡は海岸だけでなく、擦文文化と同じように内陸の河川沿いにもみられるようになる。これは、この地域のオホーツク文化の人びとが、擦文文化に近い生活に移り変わっていったことを示している。その後のアイヌ文化には、このオホーツク文化と擦文文化の両方の要素が受けつがれている。

一方、南から中央政権が北上し、「エミシ」とよばれた東北の有力豪族が組み込まれていった。12世紀ころには奥州藤原氏をはじめ東北の豪族が平泉文化を花ひらかせた。

13・14世紀になると、道南に和人が住み着くようになった。また陶器や鉄鍋などが北海道にひろがり、土器が作られなくなった。住居は竪穴住居から平地住居に変わり、またカマドから炉に変わった。擦文文化は、アイヌ文化へと変わっていった。

このように北海道の文化は、北からの人びと、南からの人びとが交流や交流などにより、文化の影響を受け合っていた。

 

根室・千島のアイヌ

トーサムポロ湖周辺竪穴群には約8千年前の縄文時代から18世紀のアイヌ文化期までの住居の跡が残されていた。

 

 

千島列島 (外務省 われらの北方領土 2020年版より)

近代以前の千島列島には、主にアイヌなどが居住していた。先住民はさらに千島アイヌと道東アイヌとに分かれており、北東側の占守島(シュムシュ、千島列島最北の島)から新知(シムシル)島までは千島アイヌが住む領域であり、南西側の武魯頓(ブロトン)島より南側は道東アイヌが居住していた。

室町時代(15世紀)までにアイヌが進出。彼らは主に道東アイヌの領域の北方領土と得撫郡以南、千島アイヌの領域の新知郡の羅処和(ラショワ)島や占守郡の幌筵(パラムシル)島、占守島などに居住していた。

近代以降に日本とロシアは競って千島列島への侵略を進め、日本人(和人)やロシア人が徐々に島々へ入植した。

日本の領有時代

1855年、日本とロシアとが日露和親条約を結んだ。これにより択捉島より南の4島は日本の領土、得撫島より北の21島はロシアの領土となった。

1875年、日本とロシアとが樺太千島交換条約を結び、千島列島の全島が日本の領土となった。この条約によって、樺太および千島列島の先住民であったアイヌは、3年以内に自身の国籍について日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要された。さらに千島列島のアイヌがロシア国籍を選んだ場合、千島および日本領から退去してロシア領へ移住することを余儀なくされた。

 

千島アイヌとは、かつて千島列島北部の新知郡や占守郡とカムチャツカ半島南端に居住していたアイヌ民族の一派である。北海道アイヌや樺太アイヌとは異なる文化・伝統を有することで知られていたが、日露両国間で締結された千島・樺太交換条約締結後の移住によって人口が激減し、現在では千島アイヌの文化は断絶してしまっている。

欧米ではクリルアイヌ、あるいは単にクリル人とも呼称される。

「千島アイヌ」あるいは「クリルアイヌ」の名前で知られているものの、厳密に言うと北方領土(エトロフ島・クナシリ島等)のアイヌは北海道本島のアイヌと同系統とされ、通常「千島アイヌ」は、シムシル島からカムチャツカ半島南端にルーツを持つアイヌを指していることが多い。

 

ウルップ–シムシル島間の北得撫水道を境にしてアイヌ民族の文化伝統が異なる事は古くから知られていた。

北海道アイヌの間ではエトロフ島・シコタン島といった北方四島のアイヌは道東一帯のアイヌと同じグループに分類されており、それ以北のグループがチュプカウンクル(アイヌ語:cupka-un-kur)と呼ばれていたという。

なお、カムチャツカ半島南部(ロパートカ岬一帯)にはアイヌ語地名がいくつか残っており、カムチャツカ半島南部も千島アイヌの居住圏であったと見られている。

千島アイヌの成立は北海道アイヌ・樺太アイヌと比較して遅く、15世紀以後のことと考えられている。これはアイヌ民族以前に千島列島に居住していたオホーツク文化人を漸次同化・征服していったためである。

千島アイヌの産出するラッコ皮は他の地域では得られない稀少品であり、古くから交易によって和人社会にもたらされていた。

 

一方、千島アイヌは道東アイヌの漁場であったウルップ島で沈黙交易をおこない、直接和人と交易を行わなかったこともあって、江戸時代末期に至るまで千島アイヌに関して和人社会ではほとんど知られていなかった。16-17世紀頃の日本では千島方面を漠然と「クルミセ」あるいは「ラッコ島」と呼ぶのみで、千島に関する知識は主に北海道アイヌを介した伝聞に拠っていた。

17世紀末、カムチャッカ半島にまで進出していたロシア人は、18世紀初頭から千島列島に足を踏み入れるようになった。1711年、アンツィフェーロフ率いるコサックは始めて千島列島に進出し、これ以後千島アイヌはロシア人から毛皮税を取り立てられるようになった。

19世紀に入ると、蝦夷地を箱館奉行の管轄する幕府直轄領とした日本と南下政策をすすめるロシアの間で、千島方面における国境画定が問題化してきた。両国の国境確定は明治維新を経た後、1875年の千島・樺太交換条約によって一応の決着を見た。この結果、千島アイヌは3年以内に日露どちらかの国籍を選択することを迫られた。

当時国力の乏しかった日本政府は、長大な千島列島の末端への生活物資の補給が大変困難であり、また千島アイヌもロシア化されており国防上の懸念もあることから、根室県の役人が占守島の全住民を説得し色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)。

しかし、生活環境の変化は大きく慣れない生活と風土のため、千島アイヌの人口は激減してしまった。更に、第二次世界大戦でソ連が千島列島や北方領土を占領すると、ソ連によって追放された千島アイヌ及びその血縁者は日本各地に移住したため、千島アイヌ文化の伝統は途絶えてしまった。

千島アイヌの竪穴住居

千島アイヌ文化が北海道アイヌ文化と異なる点としてよく挙げられるのが、竪穴住居での生活である。竪穴住居を作る際には、まず長方形の穴を掘った後に柱を立て、板で囲い、急勾配の屋根をつくる。その後、煙出し用の穴を残して干し草・土・泥炭などで蔽い、窓や入り口を整えて完成させた。窓ガラス代わりに海獣の膀胱を広げたものを窓に貼っていたため、室内はとても暗かったという。

衣服

近藤重蔵の記録によると、千島アイヌには羽毛、犬の皮、草を編んだものなどを材料とした衣服が存在したという。千島アイヌの衣服は18世紀以後かなりロシア化し、ロシア製のシャツや帽子、用いるようになったという。

生活用具

北海道アイヌ・樺太アイヌには見られない千島アイヌ独自の特徴として、遅くとも19世紀前半まで土器作りの文化を保持していたことが挙げられる。しかし、このような文化はロシア人の進出とともに少しずつ廃れてゆき、ロシア製の用具を用いるようになっていった。

千島アイヌを代表する物質文化として、「テンキ」と呼ばれるバスケットが存在する。これはテンキ草(ハマニンニク)を材料に巻き上げ技法(コイリング技法)を用いて作成したもので、アメリカ北西海岸のネイティブアメリカンとも共通する文化である。

また、北海道アイヌには人形や仮面を作る文化がない一方、千島アイヌは木製仮面を有していたことが知られているが、これもまたアラスカ・アリューシャン・カムチャッカの北方民族の影響を受けた文化であると考えられている。

沈黙交易

千島アイヌはウルップ島までおもむき、道東アイヌと沈黙交易をおこなった。当時のウルップ島は道東アイヌの漁場となっていた。

言語

千島アイヌ語についての資料は断片的なものしか残されておらず、その実態には未だ謎が多い。

しかし、クラシェニンニコフは「クナシリ[島]住民の言語は第2島ポロムシル島(幌筵島)で話される言語とほとんど何らの相違もない」というクリル人(アイヌ)の発言を記録しており、国後島を含むアイヌ語南千島方言と類似した言語であった可能性がある。

 

アリューシャン列島は、北太平洋のアラスカ半島からカムチャツカ半島の間にある弧状列島で、長さ約2000キロメートルにわたる。東からフォックス、アンドレアノフ、ラット、ニア、コマンドルスキーの5諸島に分かれ、大小約150の島々からなる。おもな島は、東からユーニマク、ウナラスカ、ウムナク、アトカ、グレート・シトキン、エイダク、タナガ、アムチトカ、キスカ、アッツ、ベーリングなどの各島がある。

大部分はアメリカ合衆国のアラスカ州に属するが、西部のコマンドルスキー諸島はロシア連邦領である。中心地はウナラスカ島のダッチ・ハーバーで、ここにはアメリカ海軍と空軍の基地がある。列島西部には、第二次世界大戦で日本軍が占領し、その後、守備隊が全滅したアッツ島と、無事撤退したキスカ島がある。

アリュートとは、アリューシャン列島に居住する人々のことで、18世紀初頭には約2万5000人と推定されていたが、18世紀からのロシア人などのヨーロッパ人の侵入で人口は激減し、1970年には約2000人前後になった。言語はエスキモー語に近い。体格もエスキモーに似ているが、頭がより短頭でかつ長命であるといわれる。考古学的には、エスキモーとともにアジアからアラスカに渡り、約9000年前にアリューシャン列島に広まったと考えられている。

主生業はカヤックkayakもしくはバイダルbaydarとよばれる皮製のボートを使った海獣狩猟で、アザラシ、トド、ラッコなどをとった。銃が普及する前は、石製の尖頭(せんとう)器をつけた銛(もり)を投槍(とうそう)器で投げ込んでいた。

半地下式の住居に、親族で結ばれた数家族が共同で住み、各住居に首長が1人ずついた。出自は双系的で妻は他の集落から迎えた。祭りには近隣の集落から人が集まり、舞踏、歌合戦、格闘技などの競技が行われた。

 

2019 年度 地域の文化財普及啓発フォーラム 北海道の古代集落遺跡

北千島・カムチャツカのアイヌ遺跡 高瀬克範 (北海道大学大学院文学研究院准教授)

1 カムチャツカへ進出したアイヌ―千島アイヌ―

カムチャツカにアイヌがいるの? そう思われる方もいるかも知れません。千島列島北部にアイヌ(千島アイヌ)が住んでいたことは、近世や近代の記録に書いてあります。しかし、カムチャツカ南部には先住民イテリメンが居住しているためアイヌの分布域ではない、これが一般的な理解だと思います。これは、おもに 19 世紀の情報を整理した結果ですが、それ以前はよりダイナミックな歴史が展開していたことが近年の考古学研究から明らかになっています。

それによると、千島アイヌは 15 世紀半ばに出現しました。そして、この段階から 17 世紀までは、北千島だけでなく、カムチャツカ南部にも広く居住していました。遺跡数や遺物の量からみて、千島ではなく、むしろカムチャツカのほうが拠点であったと考えられます。ところが18 世紀初頭にカムチャツカにおける居住範囲が急激に狭まり、19 世紀までにカムチャツカからは完全に撤退しました。おそらく、中千島が積極的に利用されるようになったのも、カムチャツカの利用を縮小させた 18 世紀からでしょう。

2 千島アイヌの竪穴住居

千島アイヌの詳しい来歴は、まだ解明されていません。15 世紀半ば以前からアイヌ語を使用していた集団、つまり北海道アイヌや樺太アイヌの一部が、千島列島を北上しつつ移住したことで千島アイヌとなったことは確かですが、残念ながらその故地はまだ特定されていません。

しかし、千島アイヌがその出現期から一貫して利用していた竪穴住居は、故郷を特定するために重要な役割を果たします。なぜなら、千島アイヌが出現する直前段階である 14〜15 世紀に竪穴住居が利用されていた地域こそが、その故郷の候補地となり得るからです。じつは、北海道本島では、すでに 12〜13 世紀までには竪穴住居は利用されなくなっていましたので、北海道本島からの移住は考えにくいのです。

いっぽう、サハリンでは 20 世紀まで竪穴住居が冬期の家として使われていました。今後、きちんとした検証が必要ですが、かりに竪穴住居の伝統が長期的に続いていたのであれば、樺太アイヌが移住することで千島アイヌになった可能性も考えられます。このほか、南千島でいつまで竪穴住居が使われていたのかを確認することも重要です。もし、国後島、択捉島(あるいは得撫島も含めてよいかもしれません)で 14〜15 世紀まで竪穴住居が使われ続けていたとすれば、そこから移住した集団が千島アイヌになった可能性も現実味を帯びてくるからです。

このように、竪穴住居は、千島アイヌ最大の謎であるその故郷の解明のための「鍵」であるのですが、サハリン・南千島ではその実情はまだ明確になっていません。しかし、実際に千島アイヌが居住したカムチャツカ南部や北千島では、一足早く竪穴住居の様子が解明されてきています。

この地域では、方形・長方形の竪穴の一辺に出入口が付属し、竪穴の角や出入口に近い位置に炉が設けられます。出入口は時期が新しくなると長くなり、その途中に設けられる「小部屋」も複雑化します。そして、19 世紀以降の民族誌にみられるような、複数の竪穴が通路で連結された住居へと推移していくのです。

3 北千島・カムチャツカからみた北海道の竪穴群

千島アイヌの遺跡では、どの程度の数の竪穴住居がみられるのでしょうか。19 世紀に北千島の拠点であった占守島の別飛地区では、オホーツク文化の竪穴も含めて 260 基程度の凹みが地表面で確認されています。

中千島の拠点であった羅処和島のラショワ I 遺跡では、続縄文・オホーツク文化の遺構も含みますが、現状では約 110 基の凹みが確認されます。

カムチャツカ南部では、約 3000〜1800 年ほど前のタリヤ文化の小規模な竪穴も見られますが、形態と規模からみて竪穴のほとんどが千島アイヌによってのこされたものと考えられます。

ナルィチェヴォ遺跡群で 148 基、リストヴェンニッチナヤ遺跡群で約 50 基が確認され、ひとつの遺跡で遺構数がもっとも多いのはトリ・セストリ I 遺跡の 97 基です。代表的な遺跡群のひとつであるクリル湖畔では後世の撹乱がひどいために信頼できる竪穴数を示すことはできませんが、おそらく最大でも 200 基は超えないでしょう。

このように考えると、数百〜数千基の竪穴住居からなる北海道の竪穴群は、周辺地域と比べても規模が非常に大きいことがわかります。また、遺跡の形成期間が長いことも影響して、その形態、面積、附属施設、深さの多様性が高いことも特徴です。これらが北千島・カムチャツカから眺めた北海道の竪穴群の特徴といえそうです。

根室市歴史と自然の資料館④擦文時代 西月ヶ岡遺跡