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読書メモ「古代氏族の研究⑰ 毛野氏「東国の雄族諸武家の源流」 宝賀寿男 2021年

2024年07月16日 23時39分00秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑰ 毛野氏「東国の雄族諸武家の源流」 宝賀寿男 2021年

まとめと補論。

海神族。和珥氏、三輪氏、吉備氏、尾張氏、毛野氏。安曇氏、倭国造氏。

毛野氏は、三輪氏族を含む海神族の東国分岐。毛野氏族は畿内およびその周辺にも針間鴨国造などの支族を有している。磯城県主の一族で大王家と姻族であった孝安天皇の流れを汲んでおり、準王族の扱いであった。

毛野氏族は、大阪湾岸の茅渟地方に起源をもち、上古の血沼之別の流れとみられる。磯城県主の支流で彦坐王と同祖とみられる多芸志比古命に出て、その孫が豊城入彦命能登国造の祖・大入杵命吉備氏族の祖・彦狭島命にもあたるか)、その子が八綱田命で、御諸別命と同人か。八綱田命の兄弟が能美津彦命、その子が能登国造となった彦忍島命(大矢命)か。彦狭島命は、吉備下道系の祖である稚武吉備津彦命と同一人であり、毛野氏は吉備氏の分流である。

毛野氏族の分布は、起源地の茅渟地方を出て、摂津・河内に入り、近江から北陸道(特に越前・能登)、信濃をへて毛野地方に至る経路をとって、畿内から東国へと続いた。

東国では両毛に限らず、日立西部や信濃、下総にも分布した。毛野では鈴鏡・鈴杏葉など鈴をつけた祭祀具が用いられ、鈴文化圏は両毛を中心とし、常陸西部・武蔵北部にも及んだ。

毛野氏族は東国第一の大族であり、上毛野君をその宗族とする。大和王権の命をうけ東北の蝦夷を討伐し東国経営に当たった。朝鮮半島にも出兵した事情で、渡来系の色彩をもつ毛野一族(田辺史など)も多い。

上野国では、上毛野氏本宗だけが強大であったわけではなく、東部と西部という形で2大系統があった。古墳時代前期(4世紀代)ではむしろ西部のほうが勢力が大きかった。東部は御諸別命の系統西部勢力は弟夏花命の系統であり、後裔は物部君・朝倉君、石上部君氏とみられ、後裔一族は中世まで勢力を保持したものもある。

毛野氏族からは、天武~文武朝には、上毛野三千下毛野朝臣古麻呂を出し、奈良朝前期にも大野朝臣東人などの有力官人を出した。いずれの家もほどなく衰えて、奈良朝後期からは旧姓田辺史であった渡来系の上毛野氏が外記局などの官人として見える。平安前期頃からは上毛野氏や下毛野氏の者が世襲的に近衛府の下級官人・舎人として見え、なかには近世まで続く家もあった。

東国では、10世紀中葉の天慶の乱の頃から、毛野一族の活動はほとんど見えなくなる。中世まで関東の大勢力となった藤原秀郷の後裔や藤原道兼の後裔と称する宇都宮・八田一族は、実際には毛野氏の族裔とみられる。

畿内系統車持公。韓矢田部造、珍努県主、軽部、葛原連、茨木造。商長宿祢。渡来系の諸氏。田辺史、垂水史、桑原公。毛野同族。大入来命の後裔氏族。能登国造

磯部の再考。毛野という氏族名が発生する前は、磯部(石部)を氏族名として名乗ったのではないか。毛野氏の根源地を上野国山田郡(群馬県太田市域)だけでなく、下野国足利郡・梁田郡まで広げる考えもある。磯部(石部)の地名が畿内から近江・北陸道から両毛のルート上に分布する。伊賀の名張に磯部氏が祝職の宇奈根神社があり、群馬県など各地にウナネ神社が分布する。

毛野氏族は海神族系の磯城県主支流に出て、当初は磯部(石部)といい、次に短期間だが毛野を号し、さらに上毛野・下毛野など地名や職掌に基づき各枝流の名乗りをした。その同族分布は、大和から伊賀、近江、越前、能登、越中、越後、信濃を経て、上野東南部など両毛地方に至り、さらに東国では常総各地などに広がった。本拠毛野地域の山田・新田・梁田郡では、水神の瀬織津姫神(保食神)を奉じ、毛野川(鬼怒川)流域を水路変更も合わせて農地開発につとめ、食野すなわち「毛野」の県を興した。その初祖の墳墓とみられるのが藤本観音山古墳であり、この県が両毛を抑える毛野国に発展した。

 

6世紀前半の安閑朝における武蔵国造家の内紛にさいしては、大和朝廷と対立。毛野氏一族は上毛野君を宗族とする。上毛野君は上野国新田郡・勢多郡(群馬県太田市・前橋市)あたりを本拠。最有力の支族が下毛野君。記紀では崇神天皇の皇子・豊城入彦命を始祖とする皇別の豪族とする。

一族の勢力圏では、大己貴神や大物主神という三輪氏族系の祖神を祭祀する。天武朝に同族諸氏の下毛野君・車持君・佐味君・大野君・池田君とともに朝臣姓。奈良時代の参議に、下毛野朝臣古麻呂、大野朝臣東人。

書紀での初見は、崇神天皇がその皇子・豊城入彦命をして東国を治めようとしたという記事。上毛野君祖の荒田別が神功皇后時に新羅征討の将軍となり、学者の王仁を迎えに百済へ派遣された。仁徳期に上毛野君祖の田道が蝦夷追討中に伊峙(いし)水門(石巻)で敗死したという。6世紀前半の安閑朝における武蔵国造家の内紛にさいして、上毛野君小熊が反朝廷的動き、7世紀前半舒明期に上毛野君形名が蝦夷征伐。

天智2(663)年、上毛野君稚子が新羅征討に派遣。天武10(681)年、帝紀記定の史局に下毛野君三千が参加。天平元(729)年長屋王の変に上毛野朝臣宿奈麻呂が連座し、没落傾向。渡来系の田辺史の流れが奈良時代後期に上毛野君を賜姓し、上毛野氏の中核になる。

平安前期の「新選姓氏録」では、毛野氏同族が38氏あり、地方豪族では尾張氏につぐ。

下毛野氏は、仁徳朝に奈良別が下毛野国造に定められた。中心域は都賀郡・河内郡あたり(栃木県小山市から宇都宮市あたり)。奈良時代、大宝律令に関与した参議古麻呂や虫麻呂が活動。10世紀以降は近衛府の舎人・院・摂関家の随身、家人。山城国調子荘を本領として、江戸末期まで近衛府の下級官人。

崇神朝、318~332年。倭建東征(景行朝なかば)4世紀中頃。神功皇后韓地出兵、372年。応神天皇による新王朝、391年。

前期古墳。大和からの大豪族の移住。前橋天神山古墳、4世紀中頃。三輪山付近の古墳と類似。太田市の朝子塚古墳、4世紀後半。芝根7号墳(川井稲荷山古墳、群馬県玉村町)、纏向型墳形。

前方後方墳。前橋八幡山古墳。4世紀半ば。東国最大。毛野最古級。元島名将軍塚古墳(高崎市)。藤本観音山古墳(栃木県足利市)。

柄鏡式墳形の桜井茶臼山古墳の被葬者は崇神皇后の阿倍氏・御間城姫。

下野の前方後方墳。三上山南塚2号墳(下野市)、山王寺大桝塚古墳(栃木市)、駒形大塚古墳(那珂川町)、那須八幡塚(那珂川町)。

土器。石田川式土器。4世紀中頃以前。大和政権の東国への扶植。東海地方のS字甕に類似。南関東の五領式土器に対応。

鈴付きの祭祀具。鈴鏡・環鈴・鈴杏葉・銅釧。5世紀後半から6世紀代。海神族系が関与

鐸(さなぎ)類。鉄鐸。毛野氏が祭祀した二荒山神社の神体である日光男体山の山頂から200口以上という大量の鉄鐸が出土。諏訪大社上社。三輪氏や物部氏に関係する神武侵攻以前の大和原国家の祭祀具。

赤城神社。海神族の祭祀。祭神は大己貴命または豊城入彦命。二荒山神社。二荒山神の現(うつの)宮。貫前神社。富岡市。上野国一ノ宮。毛野一族の物部公(天孫族系は物部連)が祭祀。

毛野氏の山岳信仰。

毛野氏族の居住地。和泉国の珍努(ちぬ)。三輪一族。大田田根子。宗族の磯城県主の断絶に伴い、大和三輪にうつり三輪君の祖。毛野一族の珍(ちぬ)県主。磯城県主一族の父努(ちぬ)別(タギシヒコ(当芸志比古))の後裔。

毛野地方と大和国の地名。下野国都賀郡(栃木県栃木市)の式内社大前(おおさき)神社の鎮座地は磯城宮。祭神は大己貴命。近隣に山王寺大桝塚古墳。

海神族の有力者として、彦坐王(後裔は丹波氏族・日下部氏族)、吉備氏一族

上野国では東部の上毛野氏本宗と西部の物部君。物部君の祖は夏花命。鹿我別はその子孫。族裔に磐城の相馬地方におかれた浮田国造や北方の陸奥に吉弥侯部として分布。毛野本宗の彦狭島命は吉備下道氏の祖の彦狭島命と同一人。

子持勾玉。三輪神社関連遺跡に多く出土。

毛野の初祖の活動世代は4世紀中頃、垂仁・景行朝頃三輪氏族の御諸別命を長として大和から毛野に遷住。5世紀前半、応神朝、吉備の造山古墳、太田天神山古墳は相似形。被葬者は竹葉瀬か。古墳時代中期の毛野氏一族。応神・仁徳期。竹葉瀬、田道の世代。藤本観音山古墳。御諸別命が被葬者か。足利市南部から太田市東南部が毛野の発祥中心地か。足利市県町。下野豪族の県氏。

下毛野君初祖・奈良別。もとは畿内で応神天皇皇子(仁徳天皇異母弟)の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に近侍し、遺骸を携えて下野に遷ったと伝える。車持君末流、下野南部に足利市家人の倉持氏、小山氏家人の久楽持氏。大桝塚古墳が奈良別の父(竹葉瀬)、奈良別は笹塚古墳(宇都宮市)の被葬者か。

竹葉瀬の弟・田道。浮田国造の領域たる陸奥国行方郡において下毛野国造一族下毛野公氏の存在吉弥侯氏。下毛野古麻呂の曽祖父の加気君の弟、梶山は安閑朝に御子代となり君子代部を定め、三宅を下毛野国河内郡に造った。孫の乙峯が陸奥国行方郡に居した。

下毛野国造の関係古墳。5世紀中葉、笹塚古墳。山王寺大桝塚古墳。6世紀。吾妻古墳。栃木市。下野型古墳。

下毛野国造の一族壬生君、大野君という有力支族。壬生君。上野国甘楽郡郡領。熊倉氏、佐野氏、高尾氏。都賀郡の本宗から天台座主円仁、族裔は宇都宮氏の家臣壬生氏。大野君果安。大野朝臣東人。鎮守府将軍・参議。陸奥按察使、多賀柵を築く。藤原広嗣の乱で軍功。子孫は平安中期まで官人として続く。真鷹、鷹取。

田辺史。上毛野君竹葉瀬の韓地・百済での子孫という。止美氏は田道の百済での子孫という。

オケ・ヲケ伝承と播磨への逃亡伝承。5世紀後半、雄略から顕宗・仁賢期。毛野氏族の初期分岐支族の針間鴨国造の娘・根日女への妻問い。

武蔵国造家の内紛。安閑天皇元年(534年ごろ)、武蔵国造家の笠原直使主と同族小杵(おき)が争う。小杵は上毛野君小熊に援助を求めた。

佐野三家(みやけ)の設置時期、山ノ上碑と金井沢碑。高崎市。天武天皇10年(681年)。毛野一族。西の物部君系統。

毛野氏族の来た道。能登国造。彦狭島命。大和・伊賀・近江・越前・能登・越中・越後・信濃・上野の道筋。近江国蒲生郡に石部神社が。磯部大明神。磯城県主の祖・櫛日方命。加賀国一宮は石部神社。越前などの佐味の分布。越前国丹生郡の佐味氏。

越・信濃の毛野氏族と関係神社の分布。信濃国水内郡の善光寺。若麻績東人。毛野氏族。伊気(いけ)氏、更級郡の頤氣(いけ)神社。高井郡井上郷の井上氏。磯部氏。

武蔵国児玉郡の金佐奈神社。

毛野氏の系統は、上野国の西部と東部に当初から分かれた。毛野本宗家は上野国南東部の太田地方を中心に在った。西部の系統は、貫前神社を奉斎した物部君や朝倉君が主体で景行天皇西征に随行した夏花命が始祖であった。両毛の若田部氏と日光山開山の勝道上人。

高志の池君。新潟県上越市の居多神社。大国主命を祀る。神主家は毛野一族の商長首を称する花ヶ前氏。高志の池君は能登国造と同族。

茅淳の毛野氏族諸氏。韓矢田部造、車持朝臣。和泉グループ。神功皇后朝の現古(うつしこ)命を祖とし、その曾孫が雄略朝の射狭(いさ)君。車持の氏の名は乗輿を進めたことに因る。車持部の伴造。藤原鎌足の妻に車持与志古娘(よしこのいらつめ)。藤原不比等の母。

和泉の毛野氏族の長珍(ちぬ、茅淳)県主。現在の和泉市府中町が本拠。泉井上神社の神主家田所氏は末裔。豊島郡垂水邑(吹田市)の垂水神社を奉斎した垂水君氏。大津造氏。我孫(あびこ)公。食膳奉仕。我孫子荘。泉大津市。

車持氏の分布の軌跡。葛原(久須波良)部の前身、藤原部。分布は近畿・北陸道・関東。軽部、韓矢田部。東国の車持氏と関連地名。群馬郡群馬郷。「クルマ」。後裔に鎌倉期足利氏家臣の倉持氏。佐野市の赤見駒場郷が本拠。常陸国真壁郡倉持(筑西市)が発祥か。筑波山神社の鎌倉期以降の別当は宇都宮氏同族の小田一族。名跡を継ぎ筑波氏を名乗る。百済へ使節として派遣された者。「書紀」継体2年3月条の割注「百済本紀に云わく、久羅麻致支弥(くらまちきみ)、日本より来ると、」。車持君と解されている。

韓矢田部氏の分布。

毛野氏と吉備氏の先祖準王族の彦坐王の同族から出た近縁の氏族。彦坐王の出自は、磯城県主の同族で、血沼之別・多遅麻之竹別・葦井之稲置の祖という多芸志比古命の子孫と推される。多遅麻之竹別が丹波の竹野別を意味し、同族の血沼之別の流れが珍努県主などの毛野氏族とみられる。毛野本宗の祖の彦狭島命は、吉備下道氏の祖で崇神朝に活動した彦狭島命と同一人とみられる。

奈良・平安時代の毛野一族。奈良時代の上毛野氏の氏人と一族。朝倉君。仁和2(886)年、上毛野朝臣氏永が免官、の記事が六国史で最後の記事。支流に檜前部君氏。佐井郡に残った子孫は佐井氏を名乗る。

奈良時代の下毛野氏の氏人。下毛野朝臣古麻呂。参議・兵部卿・式部卿。和銅2(709)年没。石代、虫麻呂、帯足。稲麻呂。

羊大夫の伝承。天武天皇朝。多胡郡の郡司。多胡碑。和銅4年(711年)多胡郡を「羊」に与える。子孫に小幡氏、長野氏、粟生氏。三河国額田郷の粟生一族。

奈良時代の石上部公一族。後期古墳の保渡田古墳群。上毛野坂本朝臣に改姓。池田朝臣と同じく豊城入彦命十世孫の佐太公の後裔という。池田朝臣真枚(まひら)。延暦6(787)年鎮守副将軍。同8年、胆沢(巣伏)の戦いでアテルイに敗れ、解官

佐味朝臣。宿那麻呂。虫麻呂。

平安時代の在地の毛野一族後裔。宇都宮氏や伊達氏も末流か。藤原秀郷。

平安時代の上毛野一族官人の動向。上毛野朝臣永世。貞観格。近衛府官人・随身の下毛野氏一族。下毛野敦行。今昔物語集。左近将監。子の重行。下毛野公忠、藤原道長の随身。長岡京市域に調子荘領有。調子家。鷹飼職世襲。

円仁とその一族。天台座主、794~864。下毛野一族の壬生公氏。甘楽郡熊倉の熊倉氏。

田辺史一族と上毛野君賜姓藤原不比等は山科の田辺史大隅の家で養育された。同族に池原公。

中世以降の毛野氏族裔。中央及び大宰府官人の毛野一族。

秀郷流藤原氏の系譜の淵源。両毛の奉斎神。春日神・鹿島神がほとんど見られず、大己貴命が多い。下毛野一族の奉斎神社と重なるものが多い。秀郷も出自の実態は下毛野一族の後裔か。嫡流は下野の藤姓足利氏と小山氏とされる。藤姓足利氏の本宗は平家に味方して滅んだが、佐野氏ら一族は残った。小山氏の後裔は、長沼、結城、下河辺などの大族。

両毛の毛野氏の続裔。壬生公が本姓。壬生氏。熊倉氏。

大族宇都宮氏の初期段階。下毛野氏ないし中原氏の流れを汲む。初期分岐が常陸守護の小田氏。初代の宗円は不明。

伊達氏の前身たる伊佐氏。真壁郡下館(現・筑西市域)が領地。本来は八田氏と同族。古代の新治郡の伊讃郷に起こった車持君の流れか。

下野の紀清両党の系譜―益子氏と芳賀氏。祭神から海神族三輪支流。

陸羽の吉弥侯部姓班目氏の系譜。吉弥侯部姓の分布と変遷。本来は君子、君子部。毛野氏の部民ないし一族。夏花命の子・巫別(鹿我別)君が浮田国造に、国造一族に吉弥侯部が出た。

吉弥侯部姓の起源。倭建東征軍の両翼を担った吉備氏・大伴氏が、各々、君子部・丸子部につながる。中臣氏祭祀の鹿島御子神社は、石巻など陸奥に分布する。田道は石巻で討死。

浮田国造の領域と一族。浮田国造の祭祀と馬の飼養。子眉嶺(こびみね)神社。本来の祭神は、豊受比売(保食うけもち神)。相善宮。蒼前社・駒形神社の総本山。浮田国造関係の墳墓。桜井古墳群。桜井古墳。前方後方墳は倭建命東征や景行天皇の東国巡狩に随行した者に多く見られる。尾張国造祖の建稲種の東之宮古墳。物部連一族で駿河国造遠祖の大売布の静岡市高尾山古墳。巫別の墳墓か。宮城県名取市の雷神山古墳は上毛野君の祖・田道命の墳墓か。

陸奥国新田郡の吉弥侯部一族。班目は斑毛(ぶちげ)の馬に由来。出羽仙北の清原氏の系譜。俘囚の某一族が系譜仮冒により清原氏と称す。吉彦秀武と同族の吉弥侯部か。奥羽土着者。吉彦秀武一族とその後裔。吉彦秀武は、俘囚長吉弥侯部小金の八世孫。子に荒川武久。その孫は山口秀行。その三男の宗武は足利義康の家人になる。その六世孫の行実は畠山国清に仕え、越中国川中庄を領した。


新型コロナ患者9週連続で増加 真夏の流行「5類移行後 最大の波」倉持仁

2024年07月16日 14時07分46秒 | 社会

「5類移行後 最大の波」新型コロナ患者9週連続で増加 真夏の流行にどう対処?

Yahoo news  2024/7/15(月) TBS NEWS DIG Powered by JNN

新型コロナウイルスの患者数が9週連続で増加。東京都内のクリニックでは、連休中も発熱外来を訪れる患者があとをたたず、対応に追われていました。

 

街の人

「夏休みに海外に行こうとしていた。その前に感染したら行けなくなるので、“第11波”ではマスクをしようかなと思います」

「(社会人)1年目で、飲み会を多くセッティングしてくれる。そういうのがなくなると、コミュニケーションが少なくなるのかなと」

 

真夏に訪れた、新型コロナウイルスの感染拡大。

 

インターパーク倉持内科日本橋 倉持仁代表理事

5類移行後、最大の波が来ようとしている

 

街の人

会社でもコロナの人が何人かいて、休んでいる人がいる。ちょっとずつ、じわじわきているのかな」

「周りも増えているので、かなり増えるんじゃないかなと」

 

1医療機関あたりの新型コロナウイルスの患者数は減少傾向にありましたが、5月からは増加。9週連続で前の週を上回る事態になっています。

 

林芳正官房長官

「今後、夏の間に一定の感染拡大が生じる可能性がある」

 

さらなる感染拡大が危惧される中、都内のクリニックでは…

 

インターパーク倉持内科日本橋 倉持仁代表理事

土曜日から急に患者が増えています。特にコロナの患者が増えています

 

発熱外来を訪れる患者が急増。きのうは普段よりも100人ほど多かったといいます。

 

インターパーク倉持内科日本橋 倉持仁代表理事

きのうは40代の方が待っている間に倒れてしまった。車いすで運び込んで、顔面真っ白、検査をしたらコロナと分かった

 

こちらは、のどの痛みやせき、微熱などを訴え来院した70代の男性。

70代の男性

「うちの倉庫と自宅を行ったり来たりしているだけ」

 

インターパーク倉持内科日本橋 倉持仁代表理事

「それでもうつる。私もそうでした」

 

新型コロナの抗原検査を行うと、結果は陰性でした。ただ…

 

インターパーク倉持内科日本橋 倉持仁代表理事

この検査はちょっと感度が低い。状態がまた悪くなる時は来ていただいて」

 

真夏に訪れた新型コロナの流行。

 

インターパーク倉持内科日本橋 倉持仁代表理事

「学校で流行して夏休みに入った時に家庭内でどんどん広がることは懸念されます。流行の状況に応じて、ちゃんと検査を受けて、正しい診断を受けることが大事

 

日本のコロナ対策 倉持仁院長に聞く 皆保険制度崩壊 早期治療ないがしろ

金子勝@masaru_kaneko Oct 13, 2023

【コロナの教訓とは】倉持仁医師は民間医療機関で先頭で新型コロナウィルスに立ち向かってきた。早期発見早期治療の原則をないがしろにし、結果として国民皆保険制度を崩壊させた医療の進歩についていけない厚労省技官たちの犯罪性をきちんと総括すべきだ。

 

日本のコロナ対策 倉持仁院長に聞く(上) 皆保険制度「崩壊させた」 早期治療 ないがしろに

2023年10月12日 東京新聞

「コロナでは医療を受けられずに亡くなった人が大勢いた」と語る倉持院長

 「一番問題なのは国民皆保険制度を崩壊させたこと」。地方のクリニックで、3万7千人の新型コロナウイルス感染症の患者を診療してきたインターパーク倉持呼吸器内科(宇都宮市)。院長の倉持仁医師(51)は政府の新型コロナウイルス対策をそう批判する。皆保険崩壊とは、肝心なときに診てもらえない患者が続出したことを指す。その真意を聞いた。 (杉谷剛)

 -日本の新型コロナウイルス感染症対策の問題点を、どう考えますか。

 コロナという新しい感染症に、昔からの体制や制度のみで対応しようとしたことです。重症患者だけを診ればいいという、本来の臨床医療から外れた対策であり、コロナ病床を作らずに、場当たり的な一般病床の転換作戦を変えなかった。

 第1波や第2波の反省をせず、第3波以降、医療にかかれない患者があふれ、自宅で亡くなった方が多数いた。それにもかかわらず、緩んだとか、国民にお願いとか、「あなたたち、何を言っているんだ」という思いだった。医学的に意見を述べるべき専門家も政治的事情に巻き込まれ、妥協の産物を専門家の意見として出してしまった

 -新型コロナの治療の基本をどう考えますか。

 当たり前ですが、早期検査・早期治療が大切です。当初、「PCR検査は不正確で不十分」などと、今となっては明らかなデマが、専門家といわれる人々の常識や医学的根拠になっていました。

 コロナは早期に治療をすれば治る病気です。感染症治療は、ウイルスが体内で増殖し、いろいろな臓器障害が出る前に治療して進行を防ぐのが原則。それなのに、そんな「医療の当たり前」をないがしろにして、自宅療養やホテル療養が当たり前になった。熱と酸素飽和度だけを測って放置されているのは、医療上はあり得ないです。

 パンデミック(世界的大流行)への備えを怠り、対応できないからといって、軽症者には医療は不要などという愚かな政策を場当たり的に行うのでは、健康被害は防げない。

 特にデルタ株による第5波では、医療機関にたどりつけずに亡くなる人が続出した。重症化リスクは年齢や基礎疾患だけで、形式的に判断できるものではない。最初の診断をしっかり行い、そこで重症化する患者を見逃さないことが重要なんです。

バスを利用した新型コロナ接触者外来とインフル検査所=宇都宮市のインターパーク倉持呼吸器内科で

 -著書などで、コロナで国民皆保険は崩壊したと指摘しています。

 第6波のオミクロン株の流行後は感染者が爆増し、受診ができない状況が当たり前になりました。政府や自治体では苦肉の策として、症状のある人が自分で抗原検査をして、症状が軽ければ自宅で治るのを待ち、元気になったら活動を再開するという「発熱外来自己検査体制」になった。とんでもないことです。

 軽症なら自宅にいればいいというのは、他の病気も含めて発見に遅れをきたし、治療の遅れは重症化の原因となるコロナが深刻なのは後遺症がひどいことです。オミクロン株以降、医療から見捨てられた感染者が増えていることが、後遺症を悪化させているのではと心配です。

 もともと国民皆保険制度は、保険料をきちんと払えばだれでも希望時に、速やかに受診できる制度のはずです。しかし、コロナは初期段階から、医療へのフリーアクセスや皆保険制度からはずれていました。医療者側も「軽症は対応していない」とか「重症は対応できない」となっていました。

 -コロナ2年目以降もコロナ患者を診ない医療機関が多く、医療逼迫(ひっぱく)や崩壊の要因にもなりました。

 厚労省はコロナ1年目の2020年3月、感染が疑われる患者の診療拒否は医師法上は認められないとしながら、「診療が困難である場合は、少なくとも帰国者・接触者外来や診療可能な医療機関への受診を勧奨すること」という玉虫色の通知を出し、コロナ疑いの患者は診なくてもよいという流れができました。

 たとえ診療しても、かかりつけ患者に限定している医療機関も多かった。当初はマスクや防護服が不足していたが、その後は足りているし、換気や一般外来との区分けなどの感染対策も分かってきたのだから、本来はインフルエンザのように、一般外来で患者を診るようにすべきです。 (続きは10月19日に掲載)

日本のコロナ対策 倉持仁院長に聞く(下) 検査・診療 受ける権利を保障せよ

2023年10月19日

 《前回は、政府の新型コロナウイルス感染症対策や、コロナ患者の診療拒否の問題点を指摘した》

 

「検査や診療を受ける権利を保障せよ」と訴える倉持院長

 -日本医師会のコロナ対応に問題点はなかったでしょうか。

 医師会にはコロナ診療を広く担うべき民間のクリニックをまとめる責任がありますが、当初からコロナ患者の受け入れに消極的でした。医師会は本来、患者サイドからの意見を積極的に発するべきでしたが、結果として風見鶏的な動きに終始してしまった感じです。存在意義が問われる面もあるかと思います。

 -なぜ、診療拒否が多かったのでしょうか。

 医師側は「自分はコロナが分からないから、責任を持って患者を診られない」という感覚が強いのでしょう。コストをかけて院内をつくり直すこともできず、今かかっている患者だけを診ればよいと思っていたのでしょう。新型コロナが一般的な感染症になってきた現状もあり、今後は変わらざるを得ないと思います。

 国も感染対策が間に合わないなら診療しなくてもいいという診療拒否を認めたり、患者が多いから受診するな、軽症なら病院にくるな、という医療制限をすべきではありません。罰則も含めて原則診療を義務化することが必要でしょう。永続的な診療報酬や、公的な場所を使った臨時の医療供給体制、簡単に安く検査ができることなども必要です。

 -政府の「診療の手引き」の問題点は。

 わかりやすい手引きがあれば医療現場では助かる面もあるのですが、基本的に海外の論文を基に「これがエビデンス(根拠)だ」として作ったものだと思います。国なり関係する組織なりが力を集結して、データを集めて検証し、対策を取るという仕組みになっていない。オミクロン株になっても診療の手引きの重症度分類は変わりませんでした。それまでの基準で、軽症と判断されたら、体調が急変して亡くなる方を見逃してしまう。手引きは現場感覚とずれていました。

 -第5波の最中、旧ツイッター(X)で「ここに至ってなお保身のみ執着するならば厚労省 医師会 存在意義ない」などと激しい批判をした真意を聞かせてください。

 医師も厚生労働省も国民の健康と生命を守るために、ずっとやってきたという自負があると思います。それが本来の目的を忘れ、できないことの言い訳に終始しているように感じたので、強い発言をしました。良い方向へ変えていく努力と工夫が必要ですが、正しい現状認識ができていない状態を継続することは、とてもリスクがあります。

 まず国が守るべき医療の最低ラインを法律で定めるべきです。感染したら検査を受けて医師の診療を受ける権利を保障する。そこから逆算して医療提供体制をつくればよいのです。 (聞き手・杉谷剛)

くらもち・じん> 1972年宇都宮市生まれ。東京医科歯科大医学部卒。同大大学院、同大医学部付属病院を経て2015年にインターパーク倉持呼吸器内科院長。東京医科歯科大客員教授。コロナ問題の専門家としてテレビ出演多数。22年から佐藤佳・東京大医科学研究所教授らと共同で、科学雑誌「Nature」「Cell」「The Lancet」などにコロナの研究論文を複数発表。著書に「倉持仁のコロナ戦記」「日常を取り戻すために必要なこと コロナ戦記2」など。

 


福島県喜多方市 三津谷集落の煉瓦蔵・若菜正男家

2024年07月16日 12時32分03秒 | 福島県

三津谷集落の煉瓦蔵・若菜正男家。三階蔵・蔵座敷。福島県喜多方市岩月町宮津勝耕作。

2024年5月30日(木)。

小田付の重伝建地区を見学後、北へ向かい、三津谷集落の煉瓦蔵・若菜家を目指した。ナビには入っていないので、近くで尋ねようと思い、道標のある近代化産業遺産「三津谷の登り窯」に着いた。豪壮な登り窯だが、誰もいなかった。ナビや山川出版社「歴史散歩」などを参照して、道を戻り、三津谷集落に入ると、駐車スペースがあり駐車した。若菜家はどこにあるのかと思っていると、トラクターに乗って出かけるところの男性が「何か用か」と声を掛けてきたので、若菜家を見学しに来た、と答えると、自分の家だとトラクターから降りてきた。

よく見ると、家の入口に案内板があった。

中に入り、母屋で200円を支払った。

しおりを渡されて、10分ほど簡単な説明を受けた。煉瓦は昔のままだが、屋根瓦は割れやすいので、名古屋方面の瓦に交換したという。名古屋に瓦工場はないので確認すると、三河高浜の瓦らしい。あとは、自由に見学していいと言って出て行った。

4棟の煉瓦蔵を所有する若菜家は、喜多方三津谷で代々農業を営んでいる。明治時代に三津谷で登り窯が創業され、その窯で使用する薪を若菜家で提供していた。その謝礼としてレンガを譲り受け、現在に残る煉瓦蔵が計画的に建造された。

三津谷の煉瓦蔵群を設計建築したのは、東京で修行をし当時の最先端の技術を学んだ、喜多方市出身の煉瓦師・田中又一で、三津谷の登り窯で焼かれた美しい総煉瓦造りの蔵は、それぞれ細かいデザインが違い、田中又一の設計技術の高さを物語っている。

喜多方にはおよそ100 棟の煉瓦蔵が、登り窯で煉瓦を焼いた樋口市郎と、東京に出て煉瓦積みの修行をつんだ田中又ーの二人三脚により生み出されている。

明治37年に建てられた若喜商店の煉瓦蔵が第一号だといわれており、二階の窓の外側にしつらえられたバルコニ一風の装飾が明治の香りを感じさせる。

三津谷は、全戸がレンガ蔵を持っている集落で、5世帯の農家に7棟の飴色の煉瓦蔵があり異国情緒を漂わせている。

特に国登録有形文化財で産業遺産に選定されている若菜正男家の家財道具蔵、作業蔵、味噌蔵、そして蔵座敷と四棟が中庭を囲む風景は圧巻で、異国情緒を感じさせるアーチ形の入り口や窓は、長崎五島列島のカトリック教会を見ている錯覚におちいる。

三階蔵(大正5年建造)は、当時では珍しい三階構造の蔵で、42,500個もの煉瓦が使用されている。

玄関のポーチとの取り合わせは教会建築のように見えてくる。

アーチ窓縁飾りの石の上部には、家紋と「若」「菜」が刻み込まれている。

蔵座敷(大正6年建造)は、三階蔵に接続して建てられ、喜多方式木骨煉瓦造りというどっしりとした構造をもつ。座敷は、欅を使用し漆塗りを施した贅をつくした意匠になっている。来客時の宿や会合や茶室として使用されていた。

味噌蔵(大正10年建造)の、右入口は、当時、燃料であった炭を貯蔵していた炭蔵として使用していた。左入口は、今も味噌蔵として、自家生産の米を使用し、こうじ、大豆、塩のみで、自家仕込み手作り味噌を作っている。代々この地で農家を営む若菜家では、自然が豊かな風土を源に、現在も米、大豆、ブドウ、菜種を栽培加工販売している。

農作業蔵(明治43年建造)は、当時、主にわらを加工したり、脱穀や精米などの農作業をする蔵として使用していた。蔵では、作業するだけではなく、穀物の貯蔵や干し草などを貯蔵していた。2階には、52畳の座敷があるという。

農作業蔵内部。

農作業蔵から三階蔵方向。

三階蔵から農作業蔵方向

若菜家を出て、北へ歩くと三階蔵と蔵座敷の背面が見えた。

北へさらに進んで、振り返ると教会らしさが増していた。

そこにある民家はラーメン屋になっていた。

 

国道に戻り、道の駅「きたかた」に立ち寄ったが山間部なので、道の駅「湯川」で車中泊することにした。

福島県喜多方市 蔵の里 重伝建・小田付地区


釧路湿原 塘路湖 細岡展望台 釧路湿原駅

2024年07月16日 09時48分22秒 | 北海道

釧路湿原・塘路湖。塘路湖エコミュージアムセンター付近から。標茶町塘路原野

2022年6月13日(月)。

釧路市立幣舞中学校の見学を終え、13時すぎに釧路湿原東部の見学に向かった。博物館系は月曜日休館になるので昨日のうちに済ませておいた。昨日は午後から土砂降りになったが、本日は曇天である。昨日は釧路湿原西部の釧路市湿原展望台、今朝は温根内木道で湿原散策を見学したが、釧路湿原東部といえばブラタモリでも紹介された細岡展望台が一番有名だろう。昨夜、入手した環境省のリーフレットの地図などで検討した。塘路湖エコミュージアムセンターシラルトロ自然情報館、コッタロ展望台、サルボ展望台などがある。

細岡展望台へは国道から分岐した道路でアクセスするが、通常は北の達古武湖(たっこぶこ)沿いを通るが、南の鉄道沿いからアクセスする道路もあるようだったので良ければ利用しようと考えていた。

国道391号線を北進すると、確かに細岡展望台へ南からアクセスする道標があったが通過した。さらに北進すると通常のアクセス道への道標が見えたが、どこかで尋ねてみようと通過して、塘路湖に差し掛かるあたりで商店や民家が多くなった。塘路湖エコミュージアムセンターがあったので、情報を入手しようと思い、入館した。職員から、どこから来たと尋ねられたので、名古屋からだと答えると、愛知県の岡崎出身だという。北海道の道路事情の感想を話したのち、細岡展望台へのアクセス道を尋ねると、南からの道は悪路なので無理だという。

センターを出て、塘路湖畔へ向かうと、引き揚げられたカヌーが3隻置いてあった。樹間から塘路湖を眺めてみたが寒々とした風景だった。

せっかく北に来たので、職員が悲惨な状況になっているというシラルトロ自然情報館へ向かった。

シラルトロ自然情報館。標茶町字コッタロ原野。

国道からシラルトロ湖北辺を西に回り込んで情報館周辺に近づくと、工事が行われており観光地という雰囲気はなかった。無人の情報館の中に入ったが、展示は少なかった。

シラルトロ湖。シラルトロ自然情報館付近から

西へ向かう遊歩道もあるが、クマが出そうなので行かなかった。細岡展望台へ向かうために、往路を南へ戻った。

シラルトロ湖。国道沿いの展望スペースから。北方向。橋がいい。

シラルトロ湖。国道沿いの展望スペースから。南方向。

細岡展望台周辺案内図。展望台駐車場。釧路町達古武。

達古武湖沿いの道路を通り、2回ほど釧網本線の踏切を横切ると15時ごろ駐車場に着いた。

すぐ手前に釧路湿原駅への道路があると、近くの観光客が言っていた。

細岡展望台への歩道は終始登り路である。すぐ上に細岡ビジターズラウンジがあり、駐車車両もいた。そこから林道へ出て登っていくと、展望台へ入っていく道標があり、100mほど先に展望台があった。観光客は多い。

細岡展望台。

細岡展望台から眺められる風景。

細岡展望台から眺めた釧路湿原と釧路川。南西方向。

細岡展望台から眺めた釧路湿原と釧路川。西方向。

釧網本線釧路湿原駅。釧路町字トリトウシ原野。

駐車場へ戻り、釧路湿原駅へ行くことにした。道路をそのまま進むと、踏切の先に民宿があったが駅はなかったので戻った。よく見ると南方向への脇道に案内道標があったので200mほど進むと駐車スペースがあった。そこから歩くとすぐに駅が見えてきた。

釧網本線釧路湿原駅。

釧路駅管理の無人駅である。なお、1988年7月の開業当初は職員が配置されていた。駅舎は周囲の景観に配慮し、カラマツを使用したログハウスで、屋根は翼を広げたたんちょうをイメージしている。開業当時は駅舎内に売店が設けられていた。

釧網本線釧路湿原駅。

時刻表を見ると、停車本数は少なかった。ノロッコ号の運転カレンダーを見て停車時刻を確かめて来るということもできたろうが、考えていなかった。

15時45分ごろ、翌日の根室地方見学のため東に向かった。