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福島県喜多方市 蔵の里 重伝建・小田付地区

2024年07月15日 16時04分01秒 | 福島県

喜多方「蔵の里」。福島県喜多方市押切。

2024年5月30日(木)。

喜多方市山都のそば伝承館で蕎麦を食べたのち、喜多方「蔵の里」へ向かった。喜多方は1980年代半ばに訪れており、喜多方ラーメンを食べて蔵めぐりをした。当時は駅近くに見学できる蔵があったはずだが、事前に調べた結果、駅から離れた「蔵の里」、「重伝建・小田付地区」、「三津谷集落の煉瓦蔵」の3か所を見学することにした。

喜多方「蔵の里」と喜多方プラザの共通駐車場に12時30分頃着いた。なぜか広い駐車場はほぼ満車だった。「蔵の里」とその入口はダイレクトには見えない。角を占める旧冠木家店蔵の駐車場から遠い側に入口があった。客はいなかったが、翌日からのイベントの準備をする職員が数人いた。

旧冠木家店蔵。

もとは呉服商の店蔵で、三方に下屋が取り付いた特徴的な外観を持っている。明治初期の建築と推定されるが、江戸期の店蔵の形式をとどめている。

明治初中期の大規模な呉服店の店蔵を象徴する二重屋根形式の優れた建築的構成を持つ点で、喜多方の住文化の保存継承に重要な意味を持つ。

板戸が上から引き出されるようになっていたり、土間の幅は、店員が働く板の間と帳場に比べきわめて狭く、応対する店員よりも客の数が増えないようにという昔ならではの配慮がうかかがえる。喜多方の土産販売もしている。

喜多方蔵の里は、約4500㎡の敷地内に、中庭を中心として店蔵、味噌蔵、穀物蔵、蔵座敷、郷頭曲り家等を配置している。

喜多方市は、かつて「北方」と呼ばれ、江戸時代には物資の集散地として、また若松城下と米沢を結ぶ街道のまちとして栄えた。喜多方市にはいまも4000棟以上の蔵が広く分布している。これだけ多くの蔵が建てられた主な理由として、「物資の貯えに必要だった」「醸造業や漆器業に最適だった」「明治13年の大火でその耐火性が見直された」「蔵を建てることは男の一生の夢だった」「蔵造りの名工が数多くいた」と言われている。

旧唐橋家味噌醸造蔵。

間口3間半×奥行8間の旧味噌醸造蔵で、内部は木造トラス組の架構をあらわし、2階吹き抜けの大きな空間を形づくっている。

金田実氏の蔵写真展示。

金田実氏は、昭和40年代の後半、どんどん壊されていく運命にある「蔵」に一抹の寂しさを感じて、蔵を撮り続けた。その写真に写された蔵の姿は、見る人に大きな感動を与え、「蔵のまち喜多方」を訪れる人々が増えるきっかけとなった。

旧猪俣家穀物蔵。

かつての宿場町、熊倉にあった蔵で、屋根、窓の配置など均整が取れ、観音開きの扉の意匠も美しい当地方の典型的な穀物蔵である。

内部には、明治の社会慈善家・瓜生岩子の資料を展示している。喜多方に生まれた瓜生岩子は、明治時代の初めに社会慈善家として活躍し、今日の日本社会福祉の礎を築き、その功績により藍綬褒章を受けている。

郷頭屋敷・旧外島家住宅。

江戸初期から幕末まで慶徳町豊岡地区で、郷頭(ごうがしら)を務めた外島家の住宅で、主棟および曲がり棟の創建は明和8年(1771)との記録が残っている。

 

旧東海林家酒造蔵。いったん、外に出て道路を渡り、別館のような2棟を見学をした。

大正12年に建てられたこの蔵の内部は熊野神社長床の建築資料や修養団創設者の蓮沼門三の資料が展示されている。

自由民権運動喜多方事件資料展示。

明治15年11月、弾正ヶ原及び喜多方警察署を舞台として、いわゆる喜多方事件が発生した。会津藩や幕府は朱子学を唯一の学問としていたが、喜多方地方は陽明学系の中江藤樹の学問が伝わっており、「知行合一」を唱え「知ることは行うこと」を説く学問が好まれていた。その土壌の中で自由民権運動が生まれた。

県令三島通庸が推進した会津三方道路建設工事が喜多方事件の原因とされる。

肝煎屋敷 旧手代木家住宅。

江戸後期から明治初期まで、下三宮村の肝煎を務めた手代木家の住宅で、異色ある間取りや鍵型に曲げられた造りなど江戸後期の形態をとどめている。

1時間ほど見学をして、小田付の重伝建地区へ向かった。

喜多方市小田付(おたづき)伝統的建造物群保存地区。

南端にある駐車場に駐車。北近くにある観光案内所「会陽館」は閉館していたので、詳細が分からず案内板に頼って見学し、中ほどにある馬車の駅まで行って引き返した。どこに行っても解説はなく、B級グルメも観光客もいなかった。2018年8月に選定されたばかりで、まだ観光化は遅れている。

小原酒造付近。

新金忠。明治蔵。

小田付は、喜多方市の中心市街地に位置し、天正10年(1582年)に町割が行われ、近村から定期市が移された。近世には酒や味噌、醤油の醸造業も盛んになり、会津北方の交易の中心地として発展してきた。江戸時代末期までに成立した道路、水路、宅地割が良く残されており、その上に店蔵など多様な土蔵等が建ち並ぶ町並みは、在郷町・醸造町としての特徴的な歴史的風致を形成している。

喜多方市は、古くは「北方」と称した。小田付は、喜多方市の中心部を南流する田付川の左岸にあり、東の須蟹沢川との間に南北約900m、東西約 500mの中心市街を形成する。田付川の自然堤防上の南北に長い町並みである。この付近は、田付川が形成する扇状地の扇端にあたり、湧水と地下水に恵まれている。

会津地方は、古代には陸奥国耶麻郡に属した。平安時代に越後の城氏が進出するが、源頼朝の奥州征伐後は相模三浦氏系の佐原氏が地頭職となり、一族の猪苗代氏、北田氏、金上氏、蘆名氏、加納氏、新宮氏が会津各地を分割支配した。14 世紀後半に勢力を伸ばした蘆名氏が永享5年(1433)に新宮氏を滅ぼして会津一円を領し、会津守護を名乗った。蘆名氏はその後、奥州を代表する戦国大名となった。

天正 17 年(1589)に蘆名義広が伊達政宗に敗れると、豊臣秀吉の奥羽仕置により、翌 18 年(1590)に蒲生氏郷が会津に入部した。その後、慶長3年(1598)に上杉景勝、同6年(1601)に蒲生秀行、寛永4年(1627)に加藤嘉明が領した。寛永 20 年(1643)に保科正之が入部、三代正容から松平姓を用いるようになり、会津松平家が近世末まで当地を治めた。

田付川中流の中田付では、中世から定期市が開かれていたが、蘆名氏重臣の佐瀬大和守は、立地が不便であることを理由に市の移転を決定した。天正 10 年(1582)に新たに市の町として開いたのが小田付の始まりとされる。周辺の 93 集落から労働力を徴し、佐瀬の知行地であった近傍の台・南条・古屋敷・小田付の4つの集落を集め、小田付村と名付けたという。小田付は毎月2と7の日に市が立つ六斎市であった。その後、小田付は田付川右岸の小荒井と市日の争論を繰り返しながら、会津地方北部を代表する市町として発展した。この地には、天明元年(1781)に郡役所、同8年(1788)に小田付組と小荒井組を支配する代官所が置かれた。近世の小田付は、喜多方地方の商業、政治の中心地であった。

会津地方では、18 世紀末には常設の店舗を開くものが現れるようになり、小田付においても 19 世紀中頃には定期市は年初、年末のほか数度開かれる程度まで衰退し、常設店が軒を並べるようになった。

明治 14 年(1881)には、耶麻郡役所が塩川村から小田付に移転した。明治 17 年(1884)には、県令三島通庸の計画した会津三方道路のうち、小田付から飯豊山地の大峠を越える米沢街道が開通する

小田付は、余剰米と良質な水を利用した酒造業が盛んである。明暦3年(1657)に酒造株が制度化され、文化4年(1807)には、小田付村の5家が酒造株を持っていた。味噌醤油の醸造業も大規模に行うものがあり、明治 40 年(1907)に小田付の醸造家として5家を記録するが、うち3家は現在も操業を続けている。明治時代には、会津地方でも養蚕が盛んになり、小田付では製糸業が活況を呈した。

以上のように、小田付は近世以来、喜多方地方東部の農村を支える商業の中心であり続けた。

保存地区は、田付川とその東を流れる須蟹沢川に挟まれた南北約 900m、東西約 500mの範囲で、戦後の道路整備により部分的な改変はあるものの、近世初頭の町立てから近代初頭までに成立した道路、水路、宅地割などの地割が良く残されている。また、町並みを形成する建物の多くは、明治時代初期から昭和時代以降の建設で、会津地方の民家建築、とりわけ市町の建物の発展過程を示すものとして評価できる。

喜多方市は、蔵を撮影した写真家が昭和 47 年(1972)から各地で写真展を開催したことをきっかけとして、昭和 50 年(1975)にテレビで喜多方の蔵が紹介され、「蔵のまち」として全国的に有名となった。それによって観光客が激増し、同時に大正末期からの歴史をもつ喜多方ラーメンも全国区となった。

伝統的建造物の特性。

小田付の建物は、寄棟造茅葺の農家住宅を祖型とすると考えられる。道路側から座敷、居間、台所の床上部が並び、最奥が土間となる間取りである。建物は敷地の北側に寄せて建てられ、南側に通路をとって建物南面に玄関を設けるものが多い。

店舗の常設化に伴い、近世末期には、店舗の道路に面して下屋庇を設けて店舗空間を設けるもの【類型Ⅰ】と、独立した店舗棟を設けるもの【類型Ⅱ】が発生した。また、近代以降に現れた長屋形式のもの【類型Ⅲ】がある。

【類型Ⅰ】①主屋は寄棟造茅葺のまま、下屋庇を板葺ないし瓦葺としたもの。②主屋を切妻造の板葺ないし瓦葺としたもの。③主屋の座敷部分を大壁造土蔵塗の別棟とする。・主屋は道路側から店舗、座敷に用いられる。・敷地間口が比較的小さい例であり、板葺屋根は、後に瓦葺や金属板葺に改められる。

【類型Ⅱ】①店舗棟が二階建平入で、真壁造としたもの。②店舗棟が二階建平入で、大壁造土蔵塗としたもの。③店舗棟が妻入で、大壁造土蔵塗としたもの。・居住棟は切妻造の板葺ないし瓦葺(居室部分を茅葺とするものもある)とし、座敷は居住棟の表側に設ける。・店舗棟の二階に座敷を設けるものもある。・敷地間口にゆとりがある例であり、店舗の桁行は4間以上となるが、間口の狭い敷地では妻入の店蔵も存在する。

類型Ⅲ】①二階の建ちが低く、背後に居住部分と水廻りを延ばすもの。②建ちが高い二階を居住部分にあて、背後に平屋で水廻りを設けるもの。

以上のように、小田付には近世以来の住宅と店舗の発展をたどることのできる建物が豊富に残されている。

小田付には、店舗に用いた店蔵、家財蔵、商品蔵、米などを収めた穀蔵、醸造業の大規模な醸造蔵、内部に座敷をしつらえた座敷蔵などの土蔵造の建物がある。建築年代が明らかな建物は少ないが、大善矢部家質蔵(文政9年)、花摘家家財蔵(嘉永元年)など江戸時代後末期に遡るものが確認された。大規模な醸造蔵は大正時代以降のものである。座敷蔵は大善矢部家(明治 31 年)など、19 世紀末以降に普及した。

土蔵の屋根には、置屋根形式の「二重屋」と軒先の蛇腹を漆喰で塗り込めたものがあり、塗り込めの断面形状には、直線状の「切っ立て」と円弧状の「繰り」がある。塗り込めのものも構造は置屋根で、置屋根の軒廻りに木摺下地を組んで漆喰を塗る。瓦の普及以前は板葺で置屋根とするのが普通であった。なお、喜多方地方でいわゆる「喜多方瓦」が生産されるようになるのは、明治 23 年(1890)である。現在は、瓦葺または金属板葺であるが、置屋根に由来する大きな軒の出が小田付の土蔵を特徴づけている。

福島県喜多方市 熊野神社長床 山都そば


釧路市 石川啄木資料室 港文館(こうぶんかん)

2024年07月15日 10時27分59秒 | 北海道

石川啄木資料室。港文館(こうぶんかん)。釧路市大町2丁目。

2022年6月13日(月)

港文館(こうぶんかん)は、歌人石川啄木釧路滞在中に新聞記者として勤めた旧釧路新聞社屋を復元した建物で、港湾休憩所および歌人石川啄木の資料を展示する文学館である。釧路川を挟んでフィッシャマンズワーフMOOの対岸に建っている。

港文館の建物1908年(明治41年)に竣工し1965年(昭和40年)に解体された旧釧路新聞社(現北海道新聞社)の煉瓦造りの社屋を1993年(平成5年)に大町地区港湾休憩所として復元したものである。

明治41年竣工の年に石川啄木が釧路新聞社の記者として勤めていたゆかりから、当時応接室と編集室があった館の2階に「啄木資料室」が設けられ釧路新聞社提供の関連資料が展示されている。

新聞社屋時代、事務室、宿直室、工場があった1階は喫茶室と売店が設けられ、玄関外の脇には石川啄木の銅像が建立された。

「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしく町にあゆみ入りにき」

啄木が釧路の地に足を踏み入れたのは明治41(1908)年1月21日の午後9時30分。旭川から釧路間が開通したわずか4か月後に啄木は終着駅の釧路に降り立った。終着駅という寂しい響きが少なからずあったことであろう。また、当日の最高気温は-9.2度。最低気温は-24.4度と極めて寒い日であった。

さらに、降り立った駅周辺はまだまだ人家も少なく、当時の中心は幣舞橋から南側のエリアであった。これらの要素が複合されて、「さびしき」思いを強くしたものと思われる。

石川啄木(1886年(明治19年)~1912年(明治45年))と北海道。

啄木は1906年(明治39年)4月から母校の渋民尋常小学校の代用教員となったが、3月5日父の一禎が、住職再任を断念して家出したこともあり、故郷岩手県渋民村での生活に見切りを付けて函館への移住を決意した。1907年4月1日に小学校に辞表を出し、4月21日に免職された。函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)へ寄稿して知遇を得ており、苜蓿社の側でも、詩人として名声のある啄木が来ることを歓迎したからでもある。

5月5日に函館に到着し、5月11日から5月末日まで、苜蓿社同人の世話により函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる。6月、苜蓿社同人の口利きで、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となった。7月7日に妻子を呼び寄せたのを機に下宿を出て新居に移る。8月には代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者となるとともに、苜蓿社の宮崎郁雨と交友を持つ。しかし、8月25日の函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失する。

苜蓿社同人が職を探し、札幌の北門新報校正係に採用が決まり、9月16日から勤務した。その矢先、新たに創刊される小樽日報記者への誘いを受けて、到着から2週間に満たない9月27日に小樽に移った。小樽には啄木に先んじて妻子が次姉宅に移っており、再び一家が揃った。まもなく啄木と妻子は借家に転居している。小樽日報では同僚に野口雨情がおり、ともに三面を受け持った雨情には好感を持ち、親交を結ぶ。

啄木は営業成績が上がらない小樽日報の将来を疑問視し、札幌に新しい新聞ができそうだとの誘いを受けて札幌に通ったことが、社内で紛争を生み、暴力をふるわれて12月16日に退社するが、札幌の新聞はできる気配がなかった

1908年(明治41年)1月小樽日報編集長が北海道議会議員で小樽日報社長兼釧路新聞(現在の北海道新聞社)社長である白石義郎に斡旋を依頼し、啄木の才能を買っていた白石の計らいで釧路新聞への就職が決まる。家族を小樽に残して1月19日に釧路に向け出発した。

1908年1月21日釧路に到着すると、事実上の釧路新聞編集長として紙面を任され、筆を振るって読者を増やした。取材のために花柳界に出入りして芸妓の小奴と親交を結んだ

啄木の釧路での生活は借金によって支えられていた。啄木の釧路新聞からの給料25円は決して低いものではなかった。当時の官立大学の初任給は30円、私立大の初任給は25円程度であった。

啄木は、十分な所得を得ながらも、料亭などへの支払いに窮しており、返済した記録は残されておらず、借金及び未払金は全て踏み倒したものと言われている。

しかし、これらは全てが遊興のために費やされたわけではなく、新聞取材、他社への政治工作等を目的としたものが多かった。

啄木は、中央文壇から遠く離れた釧路で記者生活を続けることに焦燥を募らせ、釧路を離れて創作生活に向かうことを決意する。3月20日から病気と称して欠勤し、28日に社長の白石から病気が治らないのかという電報を受けて釧路を去ると決める4月5日に釧路を後にして海路函館に向かった、啄木は4月24日、単身横浜行きの船で旅立ち、約1年間の北海道生活に別れを告げた。

小奴(渡辺ジン)明治23(1890)年3月7日、函館で生誕。尋常小学校2年生まで函館で渡辺庄六、ヨリの長女として生活を共にするが、翌年の9歳のときに十勝大津の坪ツルの養女となる。

その後、帯広の函館屋という置屋に預けられ、高等科4年までの8年間上等教育を受ける。明治39年2月、釧路で再婚した実母を頼って釧路へ。翌明治40年から丸長料理店で「才三」という名でデビュー。その後、厚岸、函館と移り住んだ後に、釧路に戻る船の中でしゃも寅の女将と知り合い、料亭しゃも寅のお抱え芸者となった。17歳のときである。

小奴は「色白で背もすらりとした美人で、芸も上手で気立ても良かった」ことから釧路の芸界ではすぐに人気者となった。啄木が小奴と出会ったのは18歳のとき。啄木と小奴は相思相愛の関係にあり、お互いの家を訪問するも、二人だけで会ったことは啄木が釧路を離れる前の日だけであったとされている。

啄木が釧路を離れた後、小奴(19歳)は大阪炭山鉱業事務所の逸見豊之輔(27歳)に囲われ、芸者を辞めることとなる。その年の12月、逸見と小奴が東京へ行った際、小奴は啄木と密会している。

逸見と小奴の間には明治43年、長女貞子を授かったが、逸見の事業が思わしくなくなった大正2年に離婚している。昭和37年まで釧路で過ごしていたが、京都、富山、東京足立区と転々とした後、最後はと東京都南多摩郡多磨町の老人ホームで老衰のため没。享年76歳であった。

林芙美子と。

笠置しづ子、服部良一、淡谷のり子、渡辺はま子たちと

 

啄木の離釧理由・・・。

■梅川ミサホ、小菅まさえとの関係。

 女性としても興味をもっていなかった梅川ミサホ、小菅まさえから言い寄られてきたこと。深夜の訪問によって、その翌日2月23日(月)に臨時の休みをとることとなる。休みを会社に伝えた時間が午後1時ということもあり、会社からも批判が出た。

■喜望楼女将による小奴との離間。

 啄木が最も気になっていたのが小奴。「紅筆だより」でも小奴は12回も登場している。啄木は、小奴のいるしゃも寅に頻繁に通うようになり、喜望楼にあまり顔を出さなくなったこともあり、喜望楼の女将が啄木と小奴離間を行った。啄木にとっては実に不愉快なことであった。

■北東新報社への画策とそれから生じた人間関係。

 釧路新聞と覇権を争っていた北東新報社を啄木の一人判断で取り潰しのために画策を図った。社長などが不在時の画策が行われた(北東新報社の職員を勧誘して辞めさせ、その影響もあり廃刊になる)。しかし、釧路新聞の首脳陣が望んでいたことでなかったことから、次第に経営陣と確執が生じる。時を同じくして2/23の会社を休んだことが怠業として社長に報告され、出張中の社長から「ビョウキナヲセヌカヘシライシ(不平病は治らないのか。返事を待ちます)」の電報を受け取り、退社を決定づけたとされる。

上記のほか、中央文壇への情景、寒冷な地方生活への嫌悪感(東京病)などが因となり果となって離道を決心させたものと思われる。

 

 

「小奴といひし女の やはらかき 耳たぶなども忘れがたかり」

野口雨情(1882年~1945年)。詩人、童謡・民謡作詞家。「シャボン玉」「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」「青い眼の人形」「赤い靴」など。

 

石川啄木と小奴 野口雨情 初出「週刊朝日」1929(昭和4)年12月8日

 

 石川啄木がなくなつてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の伝記が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない、いはんや石川が存生中の知人は今なほ沢山あるにも拘はらず、その伝記がたまたま誤り伝へられてゐるのを考へると、百年とか二百年とかさきの人々の伝記なぞは随分信をおけない杜撰なものであるとも思へば思はれます。ですから一片の記録によつてその人の一生を速断するといふことは、考へてみれば早計なことではないでせうか。

 私の思ふには石川が最後に上京して朝日新聞在社時代の前後や、晩年の生活環境については石川の恩人であつた金田一京助氏が一番正確に知つてゐるはずで、同氏によつてその時代のことを書かれたものが、正確なものだと考へられるが、北海道時代、ことに釧路時代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふのでそれをここで述べてみよう。

 

 石川の歌集を繙ひもとく人は、その作品の中に小奴といふ女性が歌はれてゐることを気づくであらう。

 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツクを代表して御一行に扈従して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々に釧路へ行つた。(中略)

 そこで我等扈従記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の料理亭、○万楼で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いてくれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。

 時は丁度灯しごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには

『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』

 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢としは二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで私は

『小奴とは君かい。』

と聞いてみた。すると

『ええ、わたしですが何故ですか。』

と不思議さうに私の顔をみる、私は

『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』

といふと小奴は

『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて

『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』

『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』

『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』

『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』

 

 実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は

『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』

と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。

『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』

『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いてゐました。それにしても今石川さんは何処どこにゐらつしやるのでせうか。』

 小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。

『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』

『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。

(中略)

小奴は私に石川のことについて次のやうなことを話して聞かせた。

『石川さんが釧路へ来て間もなく、社(釧路新報社のこと)の遠藤決水さん達と一緒に逢つたのが、初めてで、それから始終石川さんとお逢ひしてゐましたが、初めの中は料理屋の勘定なども無理な工夫をして支払つてゐましたし、私も出来るだけお金の工面もしましたが、たうとう行きづまつて、はてはお座敦に行けばお客達から『石川石川』といつてからかはれお座敷の数もだんだん減つてどうすることも出来ないやうになつてしまつたのです。それに石川さんにはお母さんも奥さんも子供さんまであつて、お金に困りつつ小樽にゐるといふことを遠藤決水さんから聞かせられて、私は第一奥さんにすまないと思ひましたのでそれからは、心にもない不実な仕打をするやうになりました。それとしらない石川さんはその後私を大変恨むやうになりました。そこへまた社の社長(釧路新報の社長白石義郎氏のこと)さんも石川さんに意見をするやうになつたので、それやこれやで石川さんは釧路をたつ気になつたのでせう。

 けれどもたつといつたとこで、一文の金の融通さへも出来ないまでに行きづまつてしまつた石川さんは、丁度その春の解氷期をまつて、岩手県の宮古浜へ材木を積んで行く帆前船に乗つて、大きな声ではいはれませんがこつそりと夜だちしてしまつたのです。

 さあ石川さんが夜だちをしたとなると勘定の滞つてゐる料理ややそばやが皆私の方へ催促をするので私はよくよく困つてしまひました。仕方がないから社の社長の白石さんを尋ねて何とかして下さいませんかと頼みましたが、白石さんはぷんぷん怒つてゐて、てんで取り合つてくれませんでした。尤も石川さんが夜だちをする二日ほど前に

『「これから郷里の岩手へ行つて金をこしらへて来る。」といつてゐましたが、そんなことはあてにならないとは思つてゐましたが、さうでもしてくれればいいがとせめてもの心頼みにもしてゐたのです。けれどもここをたつてからは一度の音信もありませんから、釧路のことも、私のことも、もう忘れてしまつたのだと思はれます。』

と話して小奴は泪をさへうかべてゐました。私は小奴が気の毒になつたので、

『私が東京へ帰つたら、石川に早速話して石川を慕つてゐる君の心をよく伝へるから。』と慰めの言葉を残して旅館に帰つて来た。

(中略)

その後大正十年の春、私が奈良市へ講演に行つて四季亭へ泊つた時、どうした話のはずみだつたか四季亭の女中が、あなたを知つてゐる坂本さんといふ女の方が京都にをりますよと私にいふのである。その女中は何でも京都の生れであつたやうに思はれた。私は坂本といふ婦人はいくら考へても思ひ出せなかつたので女中にだんだん聞いてみると、その坂本といふ婦人こそ、釧路の芸者小奴であつた。小奴の本姓は坂本といふのであつた。

 その女中の話しによると、小奴の坂本はその当時京都のある呉服屋の支配人の妻君になつて京都に住んでゐたのであつた。釧路と京都とはどんな事情で小奴が今京都にゐるかは知らないが、不思議な感がしてならなかつた。

(中略)

石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつたやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚なく発表することは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうとは思はない。

 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。

 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感ずるのである。

 

釧路市街地の見学を終え、釧路湿原東部の見学に向かった。

釧路市 毛綱毅曠(もづなきこう)の建築 反住器 釧路市立幣舞中学校


リニア工事 JR東海 工事ありきの姿勢「詳しい原因調査考えず」

2024年07月15日 06時41分39秒 | 社会

【独自】JR東海「詳しい原因調査考えず」面談記録に工事ありきの姿勢

2024年7月14日 中日新聞

 

JR東海と岐阜県、瑞浪市との面談記録

 

 岐阜県瑞浪市大湫(おおくて)町でリニア中央新幹線のトンネル工事が原因とみられる共同水源などの水位低下が起きた問題で、工事主体のJR東海の担当者が、問題が公になる前の5月14日にあった県や市の幹部との会議で「多大な費用と時間を要するため、詳しい原因調査は考えていない」「工事を止めたからといって水位低下が収まるわけではない」と説明していたことが分かった。本紙の情報公開請求で開示された岐阜県の公文書に記録されていた。

 JR東海が当初、水位低下の原因究明よりトンネル工事を優先していた姿勢が明らかになった。会議の直後に本紙などが水位低下問題を報道。県や市、地元住民らの要請を受けてJRは工事を中断し、地質調査を行う意向を示している。

 開示された文書は5月14日に県庁で開かれたJR東海と岐阜県、瑞浪市の3者会議の「面談記録」や、前日の13日にJR東海などが大湫公民館で開いた住民説明会の「記録票」など。

 面談記録によると、3者会議には、JR東海中央新幹線建設部の担当者や県環境生活部長、瑞浪市みずなみ未来部長らが出席。JR側が報告が遅れたことを謝罪し、「本事案はトンネル工事が原因と考えている」と述べたことなどが記録されている。

 詳しい原因究明を求める県や市側に対し、JR側は「多大な費用と時間を要するため、詳しい原因調査は考えていない。それよりも代替水源の提供を行うのが得策」と説明。さらに「JR東海として、工事を止めたからといって地下水位低下が収まるわけではない。トンネルを完成させ、早く復水できる環境を作る方が最善」との認識を示した。

 JR東海は2月20日、大湫町内に設置した観測用井戸の水位低下を把握。3月10日の地元総会への説明などを経て、5月13日夜に住民説明会を開いたが、開示された記録票には、この場でも工事の中断を求める住民に掘削を続ける意向を示したことが記録されている。住民側からは「今年の耕作はあきらめることにならないか」「現状とJRから与えられる情報に乖離(かいり)が見られ、不安しかない」と不信の声が相次いだ。

 JR東海の広報担当者は今回の公文書を元にした本紙の取材に、「もっと早い段階で公表すべきだった。今後は適切に対応していきたい」とした上で、「水位低下を確認した段階では、住民生活に不便のないように上水道をつなぐ工事をするなど補償を優先した」と説明した。

 (池内琢)


「PFAS漏れ事故は『非公表』で」アメリカの要求に日本は従い、国民に真実を隠した…政府関係者が経緯明かす

2024年07月15日 06時15分14秒 | 社会

「PFAS漏れ事故は『非公表』で」アメリカの要求に日本は従い、国民に真実を隠した…政府関係者が経緯明かす

2024年7月10日 東京新聞

 米軍横田基地(東京都福生市など)で昨年1月に発生した高濃度の有機フッ素化合物(PFAS)を含む汚染水の漏出事故について、日米両政府が非公表とする方針で合意していたことが、政府関係者への取材で分かった。日本政府は、米軍側から事故についての説明を受けた際、情報を外部に出さないよう求められ、これに従っていた。(松島京太)

◆地元自治体「早く情報提供してほしい」

昨年1月に漏出したPFAS汚染水=米軍横田基地

 この事故は東京新聞が米軍の内部文書を入手して昨年11月に報じ、地元自治体が防衛省に事実関係を問い合わせていた。基地が所在する福生市の担当者は「事実関係を確認することができないので、早く情報を提供してほしい」と話している

 政府関係者によると、日本政府は今年3月、日米合同委員会の下に設置されている「環境分科委員会」の会合で、事故の事実関係が記された資料を米軍側から提供された。資料は関係自治体に伝達する方向で調整していた。

◆報道で暴露されたことを問題視

漏出した汚染水の濃度分析結果を示す米軍内部資料。PFOSとPFOAの合計は264万ナノグラムとされ、暫定指針値の約5万3000倍に当たる=由木直子撮影

 ところがその後6月に開かれた分科委の会合で、日米の関係機関は事故を公表しない方針で合意した。米側は事故が報道で表沙汰になった経緯を問題視し、「不正に入手された情報に、公式に情報を出すのは間違っている」と理由を説明、日本政府側は受け入れたという。

 この事故を巡っては、報道を受け、都と基地周辺自治体でつくる連絡協議会が、防衛省に事実関係を照会。防衛省は「米側への確認作業を進めている」などと回答している。

 政府関係者は「基地が汚染源との疑いが強まっており、事故の事実を公表して大ごとになることを避けたいのではないか」と指摘する。

◆防衛省「やりとりは原則非公開」

 米軍基地の環境汚染問題については、日米地位協定の環境補足協定(2015年締結)に基づき、日本政府と米側が、有害物質の漏えいなどの情報を相互に提供することに努めることを規定する。ただ、日本政府が米軍から得た情報を地元自治体に説明する義務は定められていない。

 日米地位協定に詳しい琉球大の山本章子准教授(日米関係史)は「日本政府は事故の公表方針を米軍の判断に委ねている」と批判。その上で、日本側が定期的に米軍基地内の環境調査を行うべきだとし、「環境汚染や漏出事故の情報を地元自治体に伝える仕組みを整備するべきだ」と強調した。

 在日米軍は本紙の取材に対して「軍関係者、その家族、そして周辺住民の健康を守るために尽力している」と答え、公表の事実関係への回答は避けた防衛省の担当者は「日米合同委員会でのやりとりは合意がない限り原則非公開なため答えられない。(漏出事故の交渉については)日米間でさまざまな場で協議をしている」とした。

 2023年1月の漏出事故 2023年1月25、26日に基地内のショッピングモールの物販搬入口で発生。地下水や河川の国内の暫定指針値の5万3000倍にあたる濃度のPFASが含まれた汚染水約760リットルがコンクリートの地面などに漏出。米軍は、基地外へとつながる福生市の排出口をふさぎ、地面上の汚染水は拭き取ったため「基地外への流出はなかった」と防衛省に説明しているという。一方、同基地では2010〜22年にも7件の漏出事故があったことが、明らかになっている。この7件は米側は防衛省に情報提供し、同省が地元自治体に説明。ただ、一部事故について同省は提供を受けてから4年半放置するなどしていたことが2023年7月に判明し、地元から批判を浴びた。

 

PFASを漏出させても報告せず 米軍側の「やりたい放題」を可能にする日米地位協定

2023年6月16日 東京新聞

 

<連載 汚れた水 PFASを追う>⑤

PFAS汚染問題について記者の質問に答える米軍横田基地司令官のアンドリュー・ラダン司令官=米軍横田基地で

 5月20日、米軍横田基地(東京都福生市など)で開かれた日米友好祭での記者会見多摩地域のPFAS(ピーファス)汚染を巡る質問が飛んだ瞬間、横田基地司令官アンドリュー・ラダンの表情から笑顔が消えた。

 「私たちは地域の方々とともに暮らし、安全を最優先に任務を行っている」「日米で合意したすべての環境規制に沿って任務を行っている」

 PFASについて調査、説明する考えはあるか、漏出事故について報告しないのか。記者からの問いに、滑走路で会見に応じていた飛行服姿のラダンは、厳しい表情のまま答えた。直後、広報官が間に入り宣言した。「PFASに関してのご質問は、これでおしまいにさせていただきます」。

◆「汚染物質」の認識があっても日本への通報義務なし

 ラダンの「安全を最優先」という言葉とは裏腹に、米軍は2012年以降、横田基地で発生したPFASを含む泡消火剤の漏出事故について、内部文書でPFASを「環境汚染物質」との認識を指摘しながら、日本側に報告していない。

 ある環境省関係者が内情をこう明かす。「日米地位協定の壁があり、通報するかどうかは、米軍の裁量なんです」

 通報の根拠となるのは、地位協定に基づいて作成される日本環境管理基準(JEGS)だ。この基準は、日本に通報する必要があるケースを「大規模な漏出が発生し、施設の敷地内で封じ込めできない場合、もしくは日本側の飲料水源を脅かす場合」と規定。ところが、実際にこの要件に当てはまるかどうかを判断するのは米軍自身だという。

 米軍が基準に当てはまらないと結論づければ、通報義務は発生せず、日本側が事実関係を知ることさえできない。

 さらに、在日米軍基地で燃料漏出などの環境問題が相次いだことを受け、日米両政府は15年、日本側の関係機関が基地への立ち入り調査を求めることができると明記した環境補足協定を締結。当時外相だった岸田文雄は「地元の信頼を一層高める大きな意義を有する」と胸を張った。

◆元防衛相の都知事も消極的 調査を阻む日米の「主従関係」

 だが、この補足協定でも通報がない限り、自治体は調査の申請ができない。10年まで防衛省環境対策室長だった世一よいち良幸(63)は「結局は、米軍側のやりたい放題だ」と指摘する。

 防衛相の経験もある東京都知事の小池百合子は5月19日の記者会見で、多摩地域のPFAS汚染源の特定のため、横田基地の調査に向けて国に働き掛ける考えはないのかを問われた。「立ち入り調査の要請は、漏出事故発生が前提となっている」と消極的だった。

 環境省によると、ドイツでは12年以降、国内の米軍の5施設で調査を実施。PFASの汚染源と突き止め、現在は一部基地で、米軍負担による浄化作業が進められている。沖縄県の調べでは、イタリアでは、米軍基地がイタリア軍の指令下に置かれて調査も主導でき、日本とは対照的だ。

 日米地位協定に詳しい東京外国語大名誉教授の伊勢崎賢治(65)がこう語る。「主従関係となっている今の地位協定の下では何も変わらない首都で起きたPFAS問題が国民の注目を集めることで、協定改定に向けた突破口になる」 =敬称略、連載終わり

 (この連載は、松島京太、岡本太、昆野夏子、渡辺真由子が担当しました)