いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

80年代の名曲 ベリンダ・カーライル「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース

2023年09月30日 10時09分07秒 | 音楽

ベリンダ・カーライル Belinda Carlisle   Heaven Is A Place On Earth

「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アースHeaven Is a Place on Earth」は、元ゴーゴーズのボーカルであったベリンダ・カーライルの楽曲で、彼女の2番目のスタジオアルバムHeaven on Earth (1987)に収録されている。作詞・作曲はRick NowelsとEllen Shipleyだが、よく知らない。キム・ワイルドに楽曲を提供していたという。

1987年9月にリリースされ、1987年12月5日にBillboard Hot 100で1位。

 

ゴーゴーズは有名なガールズバンドでボーカルのベリンダ・カーライルも有名で、MVはよく見ていたが、まともな楽曲はなかった。解散して、ソロになり、突然このMVが出現して感動した。楽曲はイントロもサビも出来が良い。

しかし、一番良かったのは映像で、アカデミー女優のダイアン・キートンが製作したことを知った。

子供たちが、ボ-ルを持って足踏みしているシーンが印象的だった。アメリカ人は何かにつけてアメフトが好きなんだなと面白かった。回転しているように見えるのも斬新だった。

ただ、ベリンダの張り上げた声が都はるみになるような個所は聞き苦しい。

 


80年代の名曲 デュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」

2023年09月29日 09時44分25秒 | 音楽

デュラン・デュラン(Duran Duran)は、イギリスのロックバンド。1978年、イングランド中部・バーミンガムにて結成された。1980年代前半のニューロマンティックといわれるムーブメントやMTVブームの火付け役で、革新的なミュージックビデオは1980年代のMTVで繰り返し放送された。

1983年3月、ベストヒットUSAで、「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」が上位に入り、日本でも認知されるようになったと思う。特集により、「プラネット・アース」(1981年)など、それまでの曲も紹介されていった。

当時のメンバーは、ニック・ローズ(Nick Rhodes) – keyboard、サイモン・ル・ボン(Simon Le Bon) – vocal、

ジョン・テイラー(John Taylor) - bass guitar、ロジャー・テイラー(Roger Taylor) – drums、アンディ・テイラー(Andy Taylor) – guitar。

「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」 (Hungry Like The Wolf)(1982年) 英5位・米3位。

世界的に認知されるきっかけになった最初のヒット曲。

「プリーズ・テル・ミー・ナウ」 (Is There Something I Should Know ?) (1983年) 英1位・米4位 。サントリーウィスキー『サントリーQ』CMソング(1983年)。

つかみからサビまで安定して良い曲。

「ニュー・ムーン・オン・マンデイ」 (New Moon On Monday) (1984年 ) 英9位・米10位。

映像が素晴らしい。

「ザ・リフレックス」 (The Reflex) (1984年) 英1位・米1位。 サントリーウィスキー『サントリーQ』CMソング(1984年)。

演奏スタイルが分かる。

「オーディナリー・ワールド」 (Ordinary World)(1993年) 英6位・米3位。 ソニー『MDウォークマン』CMソング(1993年)。

サイモン・ル・ボンのボーカルは力が入り過ぎて聴き飽きて来るが、この曲はバラード風で穏やかに聴ける。


80年代の名曲 アレサ・フランクリン「THINK」映画「ブルース・ブラザース」の劇中歌

2023年09月28日 10時24分45秒 | 音楽

アレサ・フランクリンAretha Franklin「THINK」

映画「ブルース・ブラザース」の劇中歌

2018年8月16日にソウル歌手のアレサ・フランクリンが亡くなった。R.I.P. 1960年代後半から名前は知っていたが、ソウルは特に聴いていた分野ではなかった。楽曲として「リスペクト」(オーティス・レディング作詞・作曲のカバー、1967年)や「ナチュラル・ウーマン」(1967年、キャロル・キング作曲)が有名だが、youtubueで聴いてみると大したことはない。私は映画「ブルース・ブラザース」の劇中歌「THINK」が最高だと(思う。

 

私にとって一番面白かった映画である「ブルース・ブラザース」は1981年3月に日本公開されたが。封切ではなく、その翌年に二番館で安くなったところを、何気なしに見て余りの面白さに驚いた。

劇中音楽はR&B主体で、なかなか良かった。その後、何度も来日公演できたのも当然であった。

舞台はシカゴで、市内高架鉄道、跳ね橋なども出てきた。教会でジョン・ベルーシが神にうたれてバク転をするところ、右翼の車が高架橋から落ちるときに男同士が愛の告白をしたり、シカゴ市内のカーチェイスなどスラップスティックが山盛りで、何も考えずに笑えてきた。

アレサ・フランクリンの劇中歌「THINK」はミュージカル風で、曲調がなかなか良い。見ていても面白い。80年代初頭なので、音楽としてもこなれている。名前だけは知っていたが、その声量や歌い方は歌手として最高といわれることが良く分かる楽曲だった。

 


80年代の名曲 プリテンダーズ「ドント・ゲット・ミー・ロング」

2023年09月27日 10時06分33秒 | 音楽

プリテンダーズPretenders「ドント・ゲット・ミー・ロングDon't Get Me Wrong」(1986年)

1986年当時、MTVでよく聴いた曲で、一度聴くと忘れない曲である。

10年ほど前「とくダネ!」の月替わりテーマ曲になったので、やはり名曲だと思われているのかと思った。

クリッシー・ハインド(ボーカル)の名前は「ドント・ゲット・ミー・ロング」の前から話題になっていたが、この曲のヒットで音楽史上に残ったといえる。プリテンダーズの曲ではこの曲しかいい曲はない。

この曲のキモはドラムが刻む軽快でウキウキさせるリズムだろう。それに合わせたギターも効いている。全編破綻することなく、連続して気持ちよくさせてくれる。サビだけいい曲なんて名曲とはいわない。

軽快なリズムはどこかで聴いたことがあるなと思って、連想してみると、本田美奈子の「Oneway Generation」が浮かびあがった。この曲は1987年2月ごろに登場したようなので、基調のリズムはパクリかもしれない。

本田美奈子は好きなアイドルの一人だ。松田聖子より美人で歌唱力もあると思う。

「Oneway Generation」はザ・ベストテンでよく見ていた。前後のシングル曲はこの曲より有名なものもあるが、残念なことに、提供された楽曲の水準が低い、歌い方も上滑りして失敗作ばかりだ。「Oneway Generation」のような水準の高い曲が続けば、アイドルとしてもっと評価されただろう。

本田美奈子はマドンナ指向があり、マドンナに似た衣装を着て、十字架のペンダントを付けたグラビアを見た。

私がある施設のために企画販売した教会の十字架ペンダントを彼女へ送ろうと思ったのだが、結局送らなかった。

テレビで見なくなったと思ったら、ミス・サイゴンに出演して好評だと芸能ニュースが報じていた。病気になって、「アメイジンググレイス」をテレビで見た時、これが本当の本田美奈子だと思った。

「とくダネ!」の月替わりテーマ曲で、掘り起こしてくれた曲がもう1曲ある。

スタイル・カウンシルThe Style Councilの「シャウト・トゥ・ザ・トップShout To The Top」だ。

LP「アワ・フェイヴァリット・ショップ」1985年に収録されている。この曲も聴いたら忘れられない曲だった。2008年ごろyoutubeでポール・ウェラーやスタイル・カウンシルの曲をいろいろ聴いたが、この曲しかいい曲はなかった。

こんなおしゃれな曲調がよく発想できるものだと感心する。ジャズから来ているのかも知れない。ロンドンにはこのころ、おかしなジャズブームがあった。

 


80年代の名曲 ダリル・ホール&ジョン・オーツ「プライベート・アイズ

2023年09月26日 09時36分47秒 | 音楽

Daryl Hall & John Oates - Private Eyes

ダリル・ホール&ジョン・オーツ「プライベート・アイズ」

2018年7月15日TBS BS 「SONG TO SOUL」。2015.07.09の再放送を視た。

ホール&オーツの代表曲はやはり「プライベート・アイズ」だろう。1981年秋発売。MTV時代初期の名曲。

当時MTVは見られなかったが、ベストヒットUSAは必ず見ていた。「キッス・オン・マイ・リスト」 (80年/1位)でホール&オーツを知ったが、それほどの曲とは思わなかった。1981年に「プライベート・アイズ」がヒットした。ビデオの印象はあまり感心しなかった。その後、「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」もすぐに出て、安定した人気バンドとしての印象は定着した。

Kiss on My Listキッス・オン・マイ・リスト(1981年4月11日付〜4月25日付、3週連続全米No.1)。

Private Eyesプライベート・アイズ(1981年11月7日付〜11月14日付、2週連続全米No.1)。

I Can't Go For Thatアイ・キャント・ゴー・フォー・ザット(1982年1月30日付、全米No.1。)

Maneater:マンイーター(1982年12月18日付〜1983年1月8日付、4週連続全米No.1)。

Out of Touch:アウト・オブ・タッチ(1984年12月8日付〜12月15日付、2週連続全米No.1)。

これらが、名曲だろう。

 

80年代を通じ、ホール&オーツの特集などで聴いているうちに「プライベート・アイズ」だけが、耳に残るようになった。90年ごろ、関連会社の広告代理店の人に名古屋栄の「モンチッチ」というカラオケ店へ誘われたとき、「プライベート・アイズ」が目に留まり、歌ってみた。石原裕次郎ばかり歌うその人からは、何その歌といわれた。もっとも、「プライベート・アイズ」はレンタルもしたことがなく、歌詞は初めて見たのでまともに歌えなかった。しかし、数年後に若くして亡くなったその人と一緒に記憶に残る歌なのである。

 

「SONG TO SOUL」。「プライベート・アイズ」。

キャッチーなリズムとメロディー。ギタリストのG・E・スミスは「収録時に全員がヒットを確信した。」ポップミュージックに必要な要素をすべて持つ曲。MTV時代のポップロックスターの姿を示した。

作曲者はソングライターのウォーレン・パッシュ。カナダ出身のミュージシャン。1980年バンド時代に楽屋にダリルとジャナ・アレンが尋ねてきて、ダリルに二人で曲を作ろうと誘われた。

その後の1年間、抜群のメロディ感覚を持つダリルからキャッチーなフレーズ、聴き手をつかむフックの作り方を教えてもらった。

1981年1月26日、パッシュがロサンゼルス市内をドライブ中に基になる詩とメロディーが浮かぶ。偶然、映画館の看板で映画「プライベート・アイズ」を見て修正を加えた。

しばらくして、NYからLAに遊に来たジャナ・アレンが、何か曲はないかというので、ピアノ伴奏で聴かせると。彼女はレコード制作中で、この曲を使うといった。その後、ジャナから電話があり「私は使わない。」、パッシュは「いまいちだったよね」。「違う。ダリルがホール&オーツ用に使うことになった」。パッシュな仰天して「そんなこと頼んでない。嫌われて二度と一緒に曲は作れない。僕はもう終わりだ」と口走った。

パッシュのピアノ伴奏でジャナが歌うカセット音源が彼女から番組に提供されたが、出来上がりはほとんど同じに聞こえた。

「プライベート・アイズ」の作曲者はダリル・ホール、ウォーレン・パッシュ、サラ・アレン、ジャナ・アレンの4人。ダリルによると、パッシュとジャナが曲の大半を作り、ダリルがコードをアレンジ、ダリルとサラが詩を加えた。

 

NYのエレクトリックク・レディー・スタジオでホール&オーツは収録に取り掛かった。緊張していた新入りドラマーにダリルは優しく接してくれた辛抱強い人という印象を持った。

ダリルが昼に来てピアノを伴奏に曲を紹介した。メロディーもコードも出来ていた。収録は1テイクという短時間で終了した。ギターはロックぽいフレーズを引いた。シンセサイザー担当は「手を叩くような音」は「スネアの2打を拍手音に重ねてパシっとした音にしました。」

パッシュは曲を初めて聴いた時、「僕のせいでホール&オーツのキャリアは終わったと思いました。全部がダメに聞こえました。オリジナルとは全然違って聴こえたんです。アレンジを含めて、それまでの水準以下に思えました。」とパニックになった。「しかし、何度か聞き返すと良い曲と思えてきました」と語る。

 

ダリル・ホールDaryl Hallは1948年生まれ。フィラデルフィア近郊出身、ドイツ系アメリカ人。

少年時代にR&Bやソウルに関わった経験から、アフリカ系やヒスパニックなど人種を問わずにフレンドリーに接しており、幅広い分野の交流関係を持っている。フィラデルフィアサウンド特にテンプテーションズに傾倒。

ジョン・オーツJohn Oatesは1949年生まれ、ニューヨーク出身。父方の祖父はアイルランド系イギリス人移民、祖母はモロッコ系(ムーア人)スペイン人移民。母方の祖父母はイタリア人(シチリア系)移民で、母はイタリア系人。R&Bが好きだが、フォークロック的な色合いも持つ。

 

二人は1967年フィラデルフィアのバンドコンペ会場で最初に出合う。テンプル大学入学後、二人のR&B指向が一致し、バンド活動をはじめる。1972年、Atlanticレーベルからデビュー。1975年RCAに移籍、移籍第1弾アルバム「サラ・スマイル」を発表。シングル「サラ・スマイル」がスマッシュ・ヒット。その後もRich Girlリッチ・ガール(1977年3月26日付〜4月2日付、2週連続全米No.1)がヒット。

1977年からソウルを基本にロック色を強めたが成功しなかった。デビッド・フォスターをプロデデューサーに迎える。1980年「キッス・オン・マイ・リスト」で2度目のブレイク 。

 

エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイEverytime You Go Awayはダリル・ホールの曲で1981年、アルバム・モダン・ヴォイスに収録したが、シングルにしなかった。1985年にイギリスの歌手、ポール・ヤングがカバーし、同年7月27日付のチャートで全米No.1を獲得した名曲。

 

イーグルスの楽曲「ニュー・キッド・イン・タウンNew Kid in Town」(1976年)は、ホール&オーツをモデルにした、と後にグレン・フライが語っている。