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福島県 会津坂下町埋蔵文化財センター②縄文土器 陣が峯城跡

2024年07月12日 13時02分36秒 | 福島県

会津坂下町埋蔵文化財センター展示室。福島県会津坂下町青木字青木。

2024年5月30日(木)。

会津盆地を流れる河川は、ここ会津板下町で阿賀川にまとまり日本海側の越後方面へと流れていく。会津盆地で最も早く日本海側より文化が伝わるのが会津板下である

国史跡・陣が峯城跡。

陣が峯城跡は、福島県西部、会津盆地北西部に位置する平安末期、12世紀に営まれた城館跡である。この地は阿賀(野)川が新潟県に抜ける盆地の出入り口にあたり、城跡は盆地を東に一望する比高約20mの台地縁辺、標高約195mに立地する。

地元ではこれを「ジョウノシロ」と呼称しているが、近世にはその名が知られ、会津藩が文化6年(1809)に編纂した『新編会津風土記』に、越後の豪族城長茂が築城した二十八館のうちの一つであること、焼け米が出土すること、地元では長茂の居館が焼き討ちされたと伝えていることなどが記されている。

12世紀の城館遺跡は類例がきわめて乏しいが、陣が峯城跡にみられる立地と二重の堀を巡らす構造は、同じ時期の奥州藤原氏の拠点「平泉館」とされている柳之御所遺跡と共通し、会津地方における有力な政治的拠点である城館と考えられる。

陣が峯城のある一帯は平安時代末期は摂関家領の会津蜷河荘( いながわ・稲河 )であったことが確認されており、永久2年(1114年)に藤原忠実が伝領している。そのような経緯より、城の築城者は蜷河荘の管理に携わっていた人物であると思われる。

この地域は、城氏が勢力基盤をもっていた越後と阿賀野川を通じて直結する地理的条件をもっていた。

このようなことから、忠実の孫にあたる九条兼実の日記『玉葉』に登場する「藍津之城(あいづのしろ)」は陣が峯城である可能性がある。なお、伝承では越後の城助職(長茂)によって建てられたといわれている。城氏は慧日寺衆徒頭・乗丹坊とも強い結びつきがあるなどこの時期の会津に大きな勢力を保持していた。一方、『恵隆寺縁起』によれば陣が峯城は城助職(長茂)と乗丹坊によって攻められたという。

城跡は平面台形状を呈し、段丘崖である東辺をのぞく周囲は二重に堀を巡らす。内部は東西約110m、南北約175mの広さで、東に緩く傾斜するがおおむね平坦である。西辺部のみに高さ約2.5mの土塁が伴う堀は自然の地形を利用したものと推定されるが、二本が平行し堀の間は土塁状をなすことから、人工的に整形したことが窺える。堀の規模は南北辺が西辺より大きく、幅20m、深さ15mほどもある。

郭内の中央やや北よりの地点と東辺部において4棟の掘立柱建物跡、1基の鍛冶炉跡、多量の炭化した遺物のほか、多数の土坑や溝跡が検出された。掘立柱建物跡は重複しており、いずれも桁行五間以上の比較的大型の建物である。

出土品は中国・朝鮮半島産を含む陶磁器類、木製品、金属製品など多様である。陶磁器類では、中国産の白磁の四耳壺4個体のほか水注、碗・皿、青白磁、高麗青磁碗など奢侈品が目立つ。炭化した椀・盤・挽物容器、飯類、穀豆類などや和鏡・錘、多様な鉄鏃などは当時の食生活や遺跡の性格を考える上で重要である。また、炭化木製品や被熱した陶磁器が多く、火災に遭って廃絶したことがうかがえる。これらの遺物から城跡は12世紀前半代に築かれその後半のうちに廃絶したものと思われる。

城氏は、平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族で、越後城氏ともいう。平将門と戦った平貞盛(後裔が平清盛)の弟平繁盛の子の平維茂の系統で、維茂の子で秋田城介の繁茂を祖とする。前九年の役(1062年)の前哨戦で安倍氏と戦った繁茂の子貞茂が城太郎(城介の家の長男の意)と呼ばれ、子孫が城氏を名乗るようになった。越後国北部を領有し、平氏政権が成立した時期にはさらに勢力を伸ばした。

城氏は、国領・荘園を問わず阿賀野川と信濃川を基軸とし、越後国、会津、北信濃に交流・勢力を広げており、そこに関川を通して直江津に至るような交流・馬輸送ルートが存在したと考えられる。

養和元年(1181年)、時の当主である城資永(助長)は平家から信濃国で挙兵した源義仲の追討を命じられたがその直後に急死し、後を継いだ弟の資職(助職)が義仲と横田河原の戦いにおいて対戦するが敗れた。その後、資職は平家によって越後守に任じられたが、城氏の勢力は急速に衰退する。平家が滅亡したあと、城長茂(資職より改名)は梶原景時を頼って源頼朝に仕え、鎌倉幕府の御家人となったが、建仁元年(1201年)、京において叛乱を企てて建仁の乱を起こし、幕府軍に討伐された

 

埋文センター見学後、近くにある亀ヶ森古墳・鎮守森古墳へ向かった。

福島県 会津坂下町埋蔵文化財センター①古墳時代 亀ヶ森古墳 鎮守森古墳


イエス・キリストは白人から黒人に戻る?

2024年07月12日 12時31分36秒 | 歴史

イエス・キリストは白人から黒人に戻る?

Yahoo news 2020/6/29(月)  ニューズウィーク日本版  メーガン・ルース

 

<世界で人種差別に関わる像や記念碑の撤去が広がるなか、ついにイエス・キリストを白人として描く肖像の見直しを英国国教会の大司教が指示した>

イギリスのカンタベリー大司教ジャスティン・ウェルビーは6月26日、英国国教会をはじめ世界中の宗教機関は、「白いキリスト」について「当然」再考すべきだと語った。

制度的な人種差別を終わらせろと抗議する行動が世界中で勢いを増す中、世界の165を超える国にまたがる数百万人もの信者の頂点に立つアングリカン・コミュニオンの大司教が、イエス・キリストを白人として描くことは人種差別的だと反対の声を上げたのだ。

ウェルビーは26日、イギリスBBCラジオ4の番組で、多様な文化的背景を持つさまざまな教会を訪問した経験を語った。その多くで掲げられていたのは、白い肌のキリスト像ではなかったという。

イエス・キリストの姿は、文化、言語、解釈の数と同じだけさまざまな描写がある」と、ウェルビーは述べた。「白人のキリストではなく、黒人や中国人のキリストもいる。アラブ系のキリストの姿もあって、それは最も本物に近い」

宗教機関による描写の再検討に加えて、教会の敷地内に設置されているキリスト像やその他の歴史的人物のあらゆる彫像の必要性を見直す時が来た、とウェルビーは語った。カンタベリー大聖堂やウェストミンスター寺院のような場所に現存する多くの彫像を残すかどうかは自分が決めることではないが、すべてを残す必要があるかどうかは議論の余地がありそうだ、と彼は言う。

<白いキリストは偽善>

「像はそれが設置された背景のなかでとらえる必要がある。取り除くべきものもあるだろう。一部は名前を変える必要がある」と、ウェルビーは語った。「カンタベリー大聖堂の周囲を歩けば、あらゆるところで彫像に出会う」

ウェルビーがこの発言をしたとき、世界各国の指導者は、公共の場所に設置された人種差別主義者の記念碑は本当に死守する価値がるのかどうか、迷っているところだった。

 

アメリカでは、人種差別に対する抗議デモの参加者や都市の指導者の一部が、南北戦争のときの南部連合軍の将軍やクリストファー・コロンブス、奴隷制とつながりのある一部の建国の父などの像や記念碑を破壊・撤去する行動を起こしている

市民活動家のショーン・キングは、白人のイエス・キリスト像は「白人至上主義の一形態」であるとし、ツイッターで撤去を呼びかけた。現在のパレスチナで生まれたイエス・キリストが白人だったはずはなく、黒人だった可能性が高いというのは専門家も認めるところだ。

 

BLM(ブラック・ライブズ・マター=黒人の命は大事)運動ニューヨーク地区責任者のホーク・ニューサムは24日、フォックス・ニュースのインタビューでキングに同調した。「青白い肌のキリストの肖像は、アメリカと世界における偽善と白人至上主義にすぎない」と、ニューサムは言った。「イエスは白人ではなかった。誰でも知っていることだ」

<教会の重要な変化>

イギリスでは、ウェルビーがすでに教会内に根ざした人種差別に対処するための措置を講じている。6月にはツイッターに投稿した動画で、教会が「みずからの歴史的過ちと失敗を認める時がきた」と述べた。

そして英国国教会は24日、「重要な文化的、構造的変化」を導入するためのタスクフォースを立ち上げると発表した。

英国国教会の変化の程度は、来年初めに開かれるタスクフォースの会合で決定される。アメリカや他の国の宗教施設で同様の取り組みが行われるかどうかはまだ分からない。

変化の程度を見極めるには時期尚早だが、BLM運動の共同創設者パトリス・カラーズは、現在の運動の勢いからすれば、見通しは明るいと言う。

「今こそが重大な分岐点だ」と、カラーズは先日、本誌に語った。「全世界が『黒人の命は大事』と言っている」

 

キリスト像の撤去まで求める過激な主張の根拠──黒人差別反対運動

Yahoo news 2020/6/25(木)  ニューズウィーク日本版  キャサリン・ファン

<南軍の将軍や建国の父の彫像が次々に破壊・撤去されるアメリカで、キリスト像こそが白人至上主義のプロパガンダと攻撃される理由>

人種差別に対する抗議デモの広がりに伴い、南北戦争の記念碑などが次々に撤去されているアメリカで、ついにイエス・キリスト像までが槍玉に上がっている。

 

制度的な人種差別の象徴だとして、ツイッターでイエス像の撤去を呼びかけたのは、市民活動家のショーン・キング。脅迫コメントの殺到を受けて、「キリスト教白人至上主義者」の暴力を糾弾している。

「イエス像を撤去したら『おまえを殺す』という脅迫を、この48時間に約500件受けた。驚きはしない。キリスト教白人至上主義者の暴力性は今に始まったことじゃないからだ」──キングは6月24日にそうツイートした。

 

ミネアポリスで黒人のジョージ・フロイドが白人警官に拘束されて死亡した事件をきっかけに、アメリカでは長年にわたる組織的な人種差別に抗議するデモが広がり、各地で南軍の記念碑やコロンブス像などが破壊されたり撤去されたりしている。

キングは22日、「肌の白いヨーロッパ人」としてイエスを描いた彫像や壁画やステンドグラスなどは「白人優位主義の一形態」であり、「抑圧の道具」として創作された「人種差別主義のプロパガンダ」であるとして、破壊すべきだとツイートした。

<「イエスは黒人だった」説>

キングの主張は、現在のパレスチナで生まれたイエスが白人であるはずはなく、むしろ黒人だったはずだ、という説に基づいている。

白い肌のイエスを擁護する人々は、キリスト教という宗教ではなく、白人優位のイデオロギーを信奉しているのだと、キングは断じる。

イエスは金髪碧眼でなければならないと言うなら、その人が信じているのはキリスト教ではなく、白人優位主義だ。この国では何百年間も、宗教としてのキリスト教ではなく、キリスト教の衣をまとった白人優位主義がまかりとおってきた」

キングのツイートは反発と嘲笑の的になったが、こうした過剰反応こそが自分の主張の「正しさを証明している」と、23日にキングはツイッター上で反撃した。

「私は敬虔なキリスト教徒で、正式に叙任された聖職者であり、長年主任牧師を務めてきた。キリスト教世界の内部における白人優位主義に対する私の批判が気に入らず、私を殺したいとまで思うなら、そう思う側に問題がある。一部キリスト教徒の白い肌へのこだわりは、いつの時代にも危険なものだった」

キングは浅黒い肌をしたイエス像をアップしている。英BBCがドキュメンタリー番組のために再現したイエスが生まれた当時のパレスチナの男性の顔だ。彼に言わせると、これは最もイエスの実像に近い描写だ。

 

キングはニューヨークのブルックリンに本拠を置く活動家で、かつては「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大事)」運動のリーダーの1人だったが、主宰する組織の不正会計疑惑で激しい批判を浴びた時期もある。

その組織「ジャスティス・トゥギャザー」は、警察の暴力の被害者と家族を支援する名目で寄付を募っていたが、既に解散。2万7500ドルの寄付金の払い戻しを要求されたが、いまだに応じていないという。


古代アイルランド、エリート層に近親婚の慣習 遺伝子データを分析

2024年07月12日 12時25分17秒 | 歴史

古代アイルランド、エリート層に近親婚の慣習 遺伝子データを分析

Yahoo news 2020/6/20(土)   CNN.co.jp

 

(CNN) 古代アイルランドのエリート層に属する家族の間には、親子やきょうだい同士で婚姻関係を結ぶ近親婚の慣習が存在した――。考古学者や遺伝学者のグループが、新石器時代の複数の墳墓から採取した遺伝子データの分析によってそうした結論を導き出した。

 

研究者らは、アイルランド東部ミース県のニューグレンジにある5000年以上前の羨道墳(せんどうふん)に埋葬された男性にゲノム解析を行い、近親交配の証拠を突き止めた。同国トリニティー・カレッジ・ダブリンのチームが報道向けの発表の中で明らかにした。

 

男性は支配階級に属しており、親やきょうだいに当たる第1度近親者との婚姻を行っていたことが示唆される。こうした慣習は、古代エジプトやインカ帝国の王族とも共通するものだという。

 

トリニティー・カレッジの遺伝学者、ララ・カシディー氏によると、埋葬された男性のゲノムを調べたところ、両親から受け継いだ遺伝情報が極めて似通っていた。分析を重ねた結果、両親が第1度近親者同士だったと確認するに至ったとしている。

 

研究の全容を記した論文は17日、科学誌ネイチャーに掲載された。論文を執筆したトリニティー・カレッジのダン・ブラッドリー教授は、「予想外の発見」であり、新石器時代のアイルランドにこうした慣習が存在したとはだれも思っていなかったと明かした。

 

研究者らによれば、第1度近親者同士の結婚はほぼ全世界で禁忌となっており、社会的に容認されていた記録は神格化された王族といったエリート層の間でのみ確認できる支配階級が自分たちとその他の人々とを区別する目的でこうした慣習を行い、権力の強化や正当化に利用していたとみられる。

 

ニューグレンジに埋葬された男性については、同じミース県の西部にあるカローモアとカローキールの羨道墳に埋葬された人物とも遺伝的な関連があることが分かっているという。

 


釧路湿原 温根内 木道  温根内ビジターセンター

2024年07月12日 09時37分15秒 | 北海道

釧路湿原・温根内ビジターセンター。鶴居村温根内。

2022年6月13日(月)。

道の駅「白糠」で起床。本日は釧路湿原西部の温根内での湿原見学散歩から開始した。自宅で釧路湿原見学を検討していたとき、ポイントが把握できず最低限にするつもりだったが、現地で入手したリーフレット類を検討し、釧路湿原東部の細岡展望台からのポピュラーな自然風景は当然として、実際に湿原内を散歩できるのは温根内だけだと分かった。

温根内ビジターセンターは火曜休館、昨日は大雨だったが本日は曇天なので都合がいい。

温根内ビジターセンター駐車場。9時開館のところ、8時50分ごろ到着。ビジターセンターへは300mほどの下りの道となる。

当然ながら、開花状況をチェックした。

鶴居村営軌道は、大正12年の関東大震災後の救済事業として、内務省北海道庁により鶴居村への入植が行なわれ、交通機関の充実化に向けて殖民軌道(軽便鉄道)が敷設されたもの。

根室本線新富士駅から分岐し、湿原の西端を走り、鶴居を結んでいた(雪裡線:新富士〜中雪裡28.8km、幌呂線:下幌呂〜新幌呂19.3km)。

この鶴居村営軌道は、昭和43年に全線廃止され、温根内〜北斗間の湿原脇の軌道敷は釧路湿原探勝路となっている。

案内図。1周はせずに、バリアフリー木道部分でヨシ・スゲ湿原(低層湿原)を通過し、ミズゴケ湿原(高層湿原)の一部を見学して、往路をそのまま帰ることにした。偶然一緒になったバスツアーも同じ行程だった。

ヒメカイウ。

ヨシ・スゲ湿原(低層湿原)。常に水に浸っているような場所に形成される。

ヤチボウズ。

ミツガシワ。

ミズゴケ湿原(高層湿原)。枯れた植物が堆積した上にミズゴケが生育し、そのマットの上に様々な植物が育つ。

ワタスゲ。

この地点から引き返す。

ヤチボウズ。

ヨシ・スゲ湿原(低層湿原)を通って駐車場へ帰る。

10時ごろ駐車場を出て、釧路市内の和商市場の勝手丼を食べに向かった。

北海道立釧路芸術館 毛綱毅曠設計「反住器」 木島誠悟の絵本原画 岸田劉生