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多難リニアの行方は? 静岡で着工遅れ、岐阜の水源に悪影響 安倍晋三と葛西敬之

2024年07月01日 20時16分37秒 | 社会

静岡で着工遅れ、岐阜の水源に悪影響…多難リニアの行方は? 

2024年7月1日 中日新聞

 

 リニア中央新幹線は、静岡県内での着工が計画より大幅に遅れていたが、知事選後に工事開始に向けた協議が進み始めた。しかし、工事が進む岐阜県瑞浪市で水源に悪影響が出るなど、多難な様相だ。開業予定が大幅に遅れ、取り巻く社会状況も変化しつつあるリニアの行方を考える。

 

リニア中央新幹線 東京-大阪間438キロを超電導磁気浮上方式の走行で67分で結ぶ計画。うち東京-名古屋間286キロの所要時間は40分で、この区間の建設費だけで約7兆円と見込まれる。JR東海は「東海道新幹線の将来の経年劣化と南海トラフ巨大地震など大規模災害への備え」と意義を説明。当初は東京-名古屋間の開業を2027年としていたが、同社は静岡県の同意が得られない状況が続いたとして27年開業の断念を表明。開業は早くとも34年とみられる。

 

リスク管理の共有が重要 静岡市長・難波喬司さん

難波喬司さん

 なぜ静岡は、そんなに過剰な環境影響評価をしているのか? 言いがかりをつけているだけではないのか? リニア事業に対する静岡県や静岡市の態度に対して、そういう疑問や批判があります。

 リニアのトンネル掘削工事が進む岐阜県瑞浪市で井戸やため池などの水位低下が起きて問題となっていますが、まさにこのような事態が起きることを恐れ、こういう事態が起こることを防ぐための仕組みづくりを、私たちは進めてきました。

 JR東海と議論と交渉を重ねてつくった枠組みでは、施工前に影響の予測・分析・評価を共有しておきます。工事は、施工計画と環境保全措置の実施計画に基づいて行われ、モニタリングの実施計画に基づいて湧水量などさまざまな項目を綿密に観測する。観測結果を評価し、状況に順応して適切な行動を選択していく。たとえばトンネル工事で予想外の湧水が生じた場合などは、すぐ工事を止めて対策を考える。場合によっては施工計画自体を見直す。これらの観測・評価・行動はすべて公表していきます。

 ですから、瑞浪で起きたような事態であれば、予測外の湧水が起きた時点で情報が共有され、早期に対処できたはずです。事態を悪化させないためには「早期検知、初動全力」が何より大切です。

 そもそもJR東海は、工事の水への影響を甘く見ていたと思います。静岡では南アルプスを貫くトンネルが大井川などにどう影響するかが大きな問題でしたが、JRが影響予測に使っていた解析手法は精度が低いものでした。

 それを県や専門家から繰り返し指摘されても、自分たちのやり方が正しいと言い張っていた。県が求めた資料も、何度催促してもなかなか提供しませんでした。

 想定外のことが起こりうることや解析結果には不確実性があることへの意識が希薄で、ゼロリスクなど科学的・技術的にありえないのに、それを口にするようなこともあって、工学者らを驚かせました

 そういうことが重なって、リスク管理・回避のための仕組みづくりに何年間も費やさざるを得なかった。そういう静岡での経験が、どれだけ他自治体での工事にいかされているのか。瑞浪の例を見ると、いささか不安です。

 工事が各地で進めば、私たちが続けてきたことへの理解や共感が広がり、深まっていくのではないかと思っています。 (聞き手・星浩)

なんば・たかし 1956年、岡山県生まれ。名古屋大大学院工学研究科修了。工学博士。1981年に旧運輸省入省。国土交通省技術総括審議官を経て、2014年に静岡県副知事、23年に静岡市長に。

 

不誠実な住民説明に疑問 ジャーナリスト・樫田秀樹さん

樫田秀樹さん

 私自身はリニア建設に賛成でも反対でもない立場で事実のみを伝える姿勢で取材を続けてきましたが、JR東海の住民への対応は非常に問題があると考えています。東京都品川区や長野県大鹿村など各地の住民説明会を取材しましたが、住民の質問は、同時に三つと決められている。質問数を限定するのはまだ仕方ないにしても、再質問ができないというルールでは事業への理解はなかなか深まりません。

 住民の手が挙がっていても延長は30分程度。反対の声が圧倒的だった説明会の後でも、JRは「住民の理解を得ました」と言います説明会に住民が来るのは、この事業に関心があるからで理解が進んでいるという解釈です。説明会イコール理解が進んだとするJRの姿勢はあってはならないと思っています。

 今年になってやっとJRは開業は2034年以降になると認めましたが、27年開業は無理だということはとうの昔に分かっていたことで、リニア駅建設に伴う住民の立ち退きについても、もっと時間をかけて話し合うことができたはずです。長野県飯田市の駅開発で実際立ち退いた方々に話を聴こうとしても、「27年にできると信じて出て行ったのに、後悔が強すぎて今は話したくない」という住民が多くて取材に苦労しています。

 JRから説明がないというだけで、開業遅れを自ら調べようとしない周辺自治体の責任も大きいです。例えば、神奈川県に建設される車両基地は、JRの資料に工期が11年と明記されています。仮に今年着工できても完成は35年、電気調整試験と走行試験に必要な期間を2年とすると、開業は37年になります。JRは工期の短縮を図ると言っていますが、これまで同社の説明をうのみにして住民の立場で動かなかった自治体の罪は重い。「静岡県が着工許可を出さない」という開業遅れに対するJRの主張を無批判に伝えてきたメディアにも責任があると思います。

 ウクライナ戦争による資材の高騰などで、3兆円の財政投融資があっても、JR東海に品川-名古屋間と名古屋-大阪間の工事を同時に進める体力はないでしょう。むしろ、自社の経済基盤が強固になるまで、名古屋-大阪間の工事は遅れても仕方ないと考えているのではないかと推察します。これから完成に何十年もかかるであろう鉄道事業の意義を突き詰めて考えるときだと思います。 (聞き手・中山敬三)

かしだ・ひでき 1959年、北海道生まれ。『“悪夢の超特急”リニア中央新幹線』で日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞受賞。他の著書に『リニア新幹線が不可能な7つの理由』ほか。

 

スピードは至上価値なのか 政治学者・原武史さん

原武史さん

 リニアの背景にはナショナリズムが見え隠れします。リニア開業が宿願だったJR東海の故葛西敬之(よしゆき)名誉会長の仮想敵国は中国でした。世界最速鉄道の座を奪われたくないという思いがあった。

 戦前の満州を走った「あじあ号」。日本の技術の粋を集め、最高時速は130キロ。当時、世界最速レベルの超特急列車でした。その満鉄で理事だった十河信二(そごうしんじ)が国鉄総裁となり1964年に東海道新幹線ができる。国鉄の民営化後、JR東海は新幹線をひたすらスピードアップさせた。

 ところが21世紀に入ると中国が高速鉄道網を整え、北京-上海間のスピードで新幹線の東京-博多間を上回る。そうなると、中国に勝つにはリニアしかないと。葛西氏の中には、満鉄以来の栄光の歴史があって、鉄道において常に世界をリードしてきた誇りを失いたくないという自負があった。そうした成功物語に呪縛されたとも言えます。

 葛西氏は明治の元勲、山県有朋(やまがたありとも)を尊敬し、日本という国家を第一に考えた。山県のようにこの国をけん引し、正しく導こうとしたのでしょう。故安倍晋三元首相が葛西氏を「国士」と呼んだのも、そういう意味からでした。

 葛西氏は、鉄道のもっている諸価値をスピードに一元化した。山県にとっての民衆が客体にすぎなかったように、葛西氏にとっての乗客もまたどこかからどこかまで速く移動する列車の客体にすぎなかったのではないか。

 しかし世界的に見ると、鉄道は別の価値がいま注目されている。例えば、環境への負荷が少ない。飛行機よりもCO2の排出が少ないので、欧州では夜行列車がどんどん復活している。スピードではなく、移動する時間そのものの価値が見直されているわけです。バリアフリー化した路面電車もまた高齢者や障害者の目線に立った乗り物として注目されていますよね。

 スピードを追求した新幹線でも、とりわけ外国人はただ運ばれるのではなく、富士山に向かってシャッターを切ろうとする。リニアではそれすらも不可能になります。

 葛西氏は政府とまさに一体となってリニア建設にまい進し、政府もまた3兆円もの財政投融資で支援してきた。しかし時代が変化し、鉄道も含めて別の価値基準が人々の広い了解事項になってくれば、ナショナリズムの遺物と言うべきリニアにいつまで巨額の金をつぎ込むのかという話にならないとも限らないと思います。 (聞き手・辻渕智之)

はら・たけし 1962年、東京都生まれ。明治学院大名誉教授、放送大客員教授。専攻は日本政治思想史。著書に『大正天皇』『昭和天皇』『最終列車』『歴史のダイヤグラム』『戦後政治と温泉』など。

 


福島県三春町 続日本100名城・三春城跡

2024年07月01日 17時08分15秒 | 福島県

続日本100名城・三春城跡。福島県三春町大町。

2024年5月28日(火)。

郡山市日和田町の歌枕・安積山を見学後、三春町の三春町歴史民俗資料館三春城跡へ向かった。資料館は三春町役場の裏山にあり、車道の状況が不明なので町役場の駐車場に駐車して登っていったが、車道と駐車場があることが分かった。三春町といえば、「三春の滝桜」が有名で、1980年代後半に開花時期を狙って鉄道とバスを利用して見学した。資料館では、三春人形、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が初めて仕えた松下之綱の孫の三春藩主松下長綱、登山家田部井淳子、河野広中などの展示があるが、写真撮影は禁止だった。雨の中、方角が分からなくなってしまったので、三春城跡への行き方とリーフレットを貰って三春城跡へ向かった。三春城跡は町役場から反対側の山にあり、駐車場には2分ほどで着いた。

貞享三年三春城修理絵図 1686年(三春町歴史民俗資料館蔵)

嘉永六年三春城下絵図 1853年 (三春町歴史民俗資料館蔵)

三春城は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、三春藩の藩庁となった江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、城跡近くには、町役場など公共機関が集まっている。

三春城は、永正元年(1504)に戦国大名の田村義顕が築城して、守山城(現在の郡山市田村町)から本拠を移したとされるが、14世紀の遺物・遺構が発見されることから南北朝時代には城館が機能していたと推定される。戦国時代の田村地方を治めた田村氏は、それ以前に守山を拠点として田村荘を治めた「田村庄司」と区別するために、「三春田村氏」とも呼ばれている。この二つの系統の田村氏の関係は、よくわかっていない。

義顕は三春に移ると早い段階で隠居したため、その治世について詳しい事蹟は伝わっていないが、田村地方全体を統治する基礎を築いた重要な人物である。

義顕の隠居後は、義顕とその正室である岩城常隆の娘との嫡子である隆顕が家督した。隆顕は、芦名氏や伊達氏といった強大な大名との間で、巧妙な戦略により、田村地方の支配を確実なものにするとともに、安積・岩瀬郡など各地へ積極的に攻め込んだ。

隆顕が隠居すると、正室・伊達植宗の娘との嫡男・清顕が家督した。清顕は、南から新たに現れた佐竹氏を含めて乱立する戦国大名たちの間で、勇猛果敢に戦場を馳せることで、その版図を拡げた。清顕は、正室に相馬顕胤の娘を迎えたが、男子に恵まれなかったため、一人娘の愛姫を伊達輝宗の嫡子・政宗に嫁がせた。そして、愛姫と政宗の間に男子が生まれれば、それに田村家を継承させるつもりであった。しかし、武力により領地拡大を図る田村氏は、佐竹を中心に安定した社会を築きつつある周囲の大名から疎まれ、孤立した状態の中で天正14年(1586年)清顕が急死した。

天正16年(1588)8月、伊達政宗が三春に入城した。これは、この年の閏5月に清顕夫人の甥である相馬義胤の三春城入城を拒絶し、その後、佐竹・芦名連合軍との郡山合戦に伊達家と共に勝利したことで、田村家中が伊達家に大きく傾いた結果である。

政宗の三春入城を前に、その片腕として活躍した片倉小十郎が三春に入った。そして、8月3日、相馬家出身の清顕夫人を船引城へ退出させ、替わって清顕の甥の孫七郎が三春城に入った。翌4日の晩には、田村梅雪斎(田村隆顕の弟)など相馬派の家臣たちが、城下の屋敷を引き払って、梅雪斎の居城である小野城へ撤退した。

5日、政宗は宮森城(二本松市岩代町)から馬で三春に入った。途中まで小十郎が迎えに行き、田村月斎(田村義顕の弟で伊達派の長老)親子や橋本刑部ら田村家重臣たちが、城下の入り口で出迎えた。

そして、政宗が三春城に入ると、田村家の主要な家臣一同に謁見し、その後、東館に出かけた。この東館は、現在の田村大元神社裏の山と考えられ、そこには、小宰相と呼ばれた田村隆顕夫人で、伊達植宗の娘(政宗の大叔母)が暮らしていた。政宗と小宰相は、この時が初対面であったが、田村家中で唯一の近親者で気が合ったのか、政宗は42日間の滞在中に15回も東館を訪れている。

政宗は三春城滞在中に、田村孫七郎に自分の名の一字を与えて宗顕とし、宗顕を三春城主とする傀儡政権を打ち立てた。さらに、相馬派の家臣を一掃し、先の相馬勢との戦いで相馬方が籠った石沢城(田村市船引町)を破却し、三春城の要害の点検なども行っている。

こうした政宗による一連の田村仕置きの結果、田村地方は実質的に伊達領となり、この前後の外交交渉により、県中地域をほぼ勢力下とし、南奥羽制覇の基礎を固めた。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより、田村宗顕は改易された。伊達政宗は、豊臣秀吉の奥羽仕置きで、戦争により獲得した会津をはじめとする占領地を失うが、改易された田村家の旧領を一旦は確保することに成功する。

 

奥羽仕置きの翌年、宮城県から岩手県を中心に起こった葛西氏や大崎氏の旧臣や、九戸氏らの反乱を鎮圧した豊臣政権は、再度仕置きを行って東北地方の大名領地を再編成した。その結果、旧田村領は会津に入った蒲生氏郷の領地となり、その領内でも最大級の領域である田村地方を治める三春城は、本城である若松城を支える重要な支城となった。

その後、氏郷が急死したため、嫡男の秀行が家督するが、宇津宮に移され、替わって越後から上杉景勝が会津に入った。この上杉氏の時代は、守山を支城としたため、三春は使われなかった。関ヶ原の戦いを経て徳川氏の時代になると、上杉氏は領地を削られ米沢に移り、徳川家康の婿にあたる蒲生秀行が会津に戻された。田村地方の城代となった蒲生郷成は、最初守山城に入るが、数年後三春へ戻った。終には1627年に蒲生家は会津を離れた

近年の発掘調査などで、三春城本丸周囲の大規模な石垣は、蒲生氏の時代に築かれたことがわかり、この時期の三春は廃れるどころか、活発に城下町の建設が進められていたことがわかってきた。蒲生氏は、伊勢松坂や会津若松をはじめ、たくさんの城下町を建設しており、町づくりを得意とする大名であり、三春も蒲生氏によって、戦国時代の城下町から江戸時代の城下町へとつくり直されたと考えられる。

寛永4年(1627)、蒲生氏郷の孫・忠郷が嫡子のいないまま死去したため、伊予松山に減封され、交代で加藤嘉明が会津藩主になった。

加藤嘉明は、豊臣秀吉に取り立てられた武将であるが、徳川家からの信頼も厚く、奥羽の要とされる会津を任せられた。この時、中通りの旧蒲生領が分割され、白河10万石には丹羽長秀、二本松5万石には加藤嘉明の娘婿の松下重綱、三春3万石には嘉明三男の加藤明利が入った。二本松と三春は、会津に従う与力大名の位置付けであるが、江戸にも屋敷を構える独立した大名となった。

しかし、三春藩主としての明利の治世は、1年余りで終わった。二本松藩主となった松下重綱が、入封間もない10月に死去し、嫡子の長綱が二本松城を預かるには幼稚とされたためで、松下長綱は翌年正月に加藤明利と交代で三春藩主になり、寛永21年(1644)に改易されるまで、三春を治めた。

松下重綱の父之綱は、静岡県の頭陀寺城主で、幼い豊臣秀吉が最初に仕えた武将として有名である。今川氏から徳川氏、後には大成した秀吉に仕え、久野城(静岡県袋井市)を与えられた。之綱の没後、嫡男の重綱が家督して、久野から常陸小張(茨城県つくばみらい市)、下野烏山(栃木県烏山市)の城主となり、加藤嘉明の娘を正室に迎えた縁で、二本松へと移った。

この時代の三春城は、山上の本丸に藩主が暮らし、中腹各所の平場に重臣たちの屋敷が立つ、山城の状態であった。しかし、大名の居城となったため、本丸には瓦葺の櫓をはじめ、大型の建物が建築され、城下には多くの家臣が暮らすための武家屋敷や、その生活を支えるための町人が暮らし、ほぼ現在のような町ができあがった。

松下氏の改易で城主がいなかった三春に、正保2年(1645)秋田俊季が5万5千石で移され、明治維新まで11代続いた

秋田氏は、鎌倉時代に津軽十三湊(青森県五所川原市)を拠点に、アイヌや中国と交易し、日の本将軍とも呼ばれた安東(安藤)氏の後裔である。室町時代になると本家は南部氏に追われて北海道へ逃れ、その後、一族の下国家が北海道から出羽檜山(能代市)に拠点を移した。そして、愛季が安東家を統一し、織田信長とも誼を通じて、侍従に任じられた。秋田と苗字を変えた愛季の子実季は、豊臣秀吉の奥羽仕置きで出羽5万石と太閤蔵入地となった旧領の管理を一任された。関ヶ原の合戦では、徳川方として行動したが、家康には認められず、先祖代々暮らした北の大地から離され、常陸宍戸(茨城県笠間市)へ移された。嫡男の秋田俊季は、正保2年(1645)三春に5万5千石で移された。

幕末の戊辰戦争の際、官軍が隣藩の棚倉城を落とすと、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や河野広中らの働きによって秘かに板垣退助らと会談して三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退、官軍に無血降伏した。そのため、三春城は周辺諸藩と違い、逆賊のそしりを受けずに済み落城を免れた。

三春城は明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、その後、兵部省の管轄となる。それに伴い、建物や石垣等が取り壊され、民間に払い下げられた。その際、ほとんどの建造物は失われたが、藩校明徳堂の表門が三春小学校の校門として移築され、現存する。

大正11年(1922年)に山頂部分(本丸)は城山公園として整備され、道路が開削されるなどして地形は大きく変わった。二の丸付近には駐車場が整備されて愛姫生誕の地の碑が立つ。また、山麓の秋田氏時代の居舘跡や武家屋敷があった地域は、役場や合同庁舎、公民館、小学校などとなり、この一帯が現在も三春町の中枢地域の役割を担っている。

田村時代三春城絵図 16世紀後葉 (三春町歴史民俗資料館蔵)

戦国時代の三春城は、山頂部分の本丸に城主居舘を置き、それを中心に郭を配置した典型的な山城であったと思われる。本来の城である本丸を中心とした「主城」の東南には「東館」と呼ばれる曲輪が、谷を挟んだ北西には「月斎館」と通称される曲輪があり、2つの曲輪は「主城」から一定の自立性を保っていた。しかし、後期蒲生氏時代に「主城」と「東館」部分に石垣が設けられた頃には「月斎館」は放棄されており、その後「東館」も放棄されている。

江戸時代初期の松下長綱による改修により、かつての「主城」の一部である本丸西の山麓部分に二の丸、東側の山麓に三の丸が設けられ、それらの周囲の丘陵の中腹地には重臣の屋敷が配置された。

秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓に移し(現在の三春小学校一帯)、名実ともに近世的な平山城へ生まれ変わった。天守は無かったが本丸下段に三層三階の櫓があり威容を誇っていた。

本丸推定復元図。上が本丸上段部の御座間・台所・大広間。

愛姫生誕地の碑。

愛姫は田村清顕の娘で1579年(天正7年)伊達政宗に嫁いだ。二之門横の駐車場にある。

三之門(中之門)跡。

二之門からつづら折りの坂道を登り、本丸への最後の曲折部に設けられた門。二之門と同じように、門の両脇に高さ2.3mほどの石垣に土塀を載せた小型の門である。門内に番所はないが、戦時に兵を配備する武者溜まりとなっている。

本丸表門跡。

本丸南側の出入り口に建てられた二階建ての門で、本丸を囲む土塀に続いて、両脇に高さ1.8mの石垣が築かれていた。間口6間に奥行3間、高さが10.5mと大きな建物は、岩城街道から城下町に入った新町を見下ろす壮麗な建物であった。

大広間跡。

大広間は本丸御殿の中核となる建物で、家臣一同を集めて儀式等で藩主が謁見するため、全体で6間に16間の巨大な建物であった。御上之間、中之間、広間の3室からなり、特に広間は6間に5間の柱のない空間となり、この大空間を覆う屋根の高さは、三階櫓とほぼ同じ12.6mにもなる。

御座之間跡。

御座之間は、御殿での儀式に際して藩主の控え室となる建物である。表から奥へ4室が雁行する平面形で、全体で4間半に13間と、奥行のある建物である。東側に付く縁側は、大広間まで続き、領内の山々が遠望できた。

御座之間跡から台所跡。

本丸御殿での儀式で供する料理を整える台所で、6間に8間半、高さ10.9mの建物。西側の土間には竈が2基据えられ、板の間にも囲炉裏があり、一度の大勢の家臣たちの料理を準備した。

本丸上段から本丸下段。

本丸下段の三階櫓跡方向。

三階櫓跡から見下ろす城下町。

本丸西端の城下を見渡す位置に建てられた三階櫓は、三春城のシンボルであった。1階が4間に7間と長方形の建物で、2階と3階が3間の母屋を利用して望楼を載せた古いタイプの櫓だが、棟の向きが各階で交差するのが特徴的であった。高さは12.7mあり、中には藩主が代々の将軍から戴いた朱印状が納められていた。

 

このあと、復元された前方後方墳・大安場1号墳のある郡山市の大安場史跡公園へ向かった。

福島県二本松市 安達ヶ原の鬼婆伝説の地(黒塚・岩屋)郡山市 安積山


釧路市湿原展望台 釧路湿原展望遊歩道 毛綱毅曠 釧路湿原の成り立ち

2024年07月01日 10時48分18秒 | 北海道

釧路市湿原展望台。釧路市北斗。

2022年6月12日(日)。

前日は帯広競馬場でばんえい競馬を見学して、帯広市北東郊外・本別町の道の駅「ステラほんべつ」で車中泊。12日・13日は釧路見学を予定していた。まず、釧路市西郊外にある釧路湿原西端の釧路湿原展望台と北斗遺跡見学から開始することにした。道東自動車道の無料区間である本別・阿寒IC間を利用すると、かなり時間が短縮でき、8時過ぎには釧路市湿原展望台に着いた。メインの目的は北斗遺跡なのだが、史跡北斗遺跡展示館の開館時刻が10時なので、8時30分に開館する釧路市湿原展望台をまず訪れた。展望台近くの身障者用駐車場に駐車した。数台の駐車があるのは、遊歩道を歩くためだろう。天候は小雨混じりで霧のため視界はほぼなかった。展望台はマストの見学地ではないが、身障者無料もあり入館した。入館料480円は高い。

なお、翌13日早朝に北の鶴居村の温根内木道を歩いて釧路湿原を鑑賞した。

屋上の展望バルコニーから釧路湿原。

3階展望ブースから釧路湿原。

3階展望ブース。

釧路市湿原展望資料館は、湿原のヤチボウズ(谷地坊主)をモチーフにして設計され、1984年(昭和59年)に竣工した。

設計は、毛綱毅曠(もづなきこう、本名:毛綱一裕、1941~2001年)は、釧路市生まれの建築家で、日本建築学会賞作品賞など多数受賞している。

1965年、神戸大学工学部建築学科卒業、1978年毛綱毅曠建築事務所を設立。1985年釧路市立博物館で日本建築学会賞受賞。1991年都市景観大賞受賞。1992年イギリス出版賞受賞、日本建築美術工芸賞受賞。1994年 メキシコ・アグアスカリエンテス市建築賞受賞。1995年多摩美術大学美術学部建築学科教授。

毛綱毅曠の建築はJAFの雑誌を通じて、1980年代後半から90年代前半に知った。現代的なビルとは違い、古代神殿のような重厚さが印象的だった。展望台のミニ展示を見て、のちほど釧路市内の作品を5軒ほど見学してみた。

設計思想は「東洋古来の風水思想」など様々に語られているが、鳥と魚などの自然や概念をモチーフとした「現代的なアールデコ建築」だと考える。安藤忠雄の作品よりもデザイン性・色彩性は高いが、吹き抜けが多く、空間が無駄になっているともいえる。彼の作品は、実用性、メンテナンス面で非常に難があるデザインの建築物であることも指摘されている。

ヤチボウズ。

谷地坊主と表記することもある。谷地とは湿原のことで釧路湿原など北方の湿原で見られる。つぼを逆さにしたような株の形をしている。名前の由来は、その様子がお坊さんの頭に似ていることによる。

カブスゲという植物の株は、冬、地面が凍結すると霜柱のように株ごと盛り上がる。そして翌春、雪解け水などで盛り上がった株の土がえぐられて根元が細くなる。この繰り返しにより、数10年で高さ40-50cmに生長し、大きなかたまりをつくる。

東釧路Ⅲ式土器。

東釧路貝塚で出土した土器は地層の下のほうから、東釧路I式、II式、III式、IV式、V式と名付けられた。

東釧路III式は縄文時代早期の終わり頃、北海道内に広く分布した土器である。鉢型の土器で底が平らでクの字状に張り出す特徴を持っている。

縄文時代に入って縄文の文様がもっとも発達した時で縄や紐を転がしたり、押し付けたりして文様が付けられている。

北筒Ⅱ式土器。

縄文時代中期後半~後期初頭の土器

 約4500年前から、4000年前ころまでの土器のうち初期の土器で、円筒形の縄文土器である。円筒形の器形は、東北北部・道南部の円筒土器文化から引き継がれたものである。北見市常呂遺跡から出土した最古のトコロ6類土器と次の段階のトコロ5類土器・細岡式土器に相当する。

北筒Ⅰ式土器は、のちにモコト式土器と呼称され、北筒式とは異なる型式として認識されている。

擦文土器。深鉢と高坏(たかつき)。

北海道では約1300年前から700年前を擦文時代とよび、現在とほぼ同じ自然環境のもと、動物や魚、木の実などを取って暮らしていた。

釧路川の河口近くから川筋に沿って、集落ができ、今も竪穴住居のあとが残されている。この時代は土器や鉄製品、機織りの技術、かまどをもつ竪穴住居など、本州文化の強い影響を受けている。

擦文土器には深鉢と高坏(たかつき)がある。擦文の名称は土器表面を整えるために木片が用いられ、すった木目あとが残されたことによる。そして、木片で文様が刻まれ、縄文時代から使われてきた、縄目の文様は姿を消している。

15分ほど見学して外に出た。9時頃に湿原展望遊歩道を展望台前から反時計回りに歩き始めた。

湿原展望遊歩道。丹頂広場。

釧路市湿原展望台から、さらに湿原側に派生した丘陵を利用して、展望台を起点とした2.5km、所要約1時間の湿原展望遊歩道が設けられており、遊歩道は時計回りに一周するほうが楽で、あおさぎ広場、サテライト展望台(標高67m)、丹頂広場(標高72m)など、途中の休憩スポットからは、湿原の展望が広がる。いざない広場からサテライト展望台までの右回り(時計回り)コースなら1.1km部分までは高低差が少ない。

遊歩道の大部分は歩きやすい木道で、途中にある数ヶ所の広場には、湿原に関する解説板も設置されている。

サテライト展望台から釧路湿原。展望台前から25分余りで着いた。2か所の展望スペースがある。

 

10時ごろに駐車場に着き、史跡北斗遺跡展示館へ向かった。

帯広競馬場 ばんえい競馬 ピーター・バラカン十勝記念 ふれあい動物園