読書メモ「古代氏族の研究⑯出雲氏・土師氏「原出雲王国の盛衰」 宝賀寿男 2020年
①出雲氏
出雲関係の神々は「出雲神族」とよばれることが多い。国造を世襲した天孫族の出雲氏は海神族の出雲族(出雲神族)とは異なる。出雲神族は、出雲の大国主命(大穴持命)一族だが、同じ海神族でも、建御名方命(諏訪神)、事代主神は出雲にいたわけではない。
出雲国造家は、大国主命の子孫ではなく天孫族だが、須佐之男命、五十猛命、少彦名命、天目一箇命とは男系が違う。天穂日命(あめのほひのみこと)を出雲国造家が祖神の名としたのは上古からではなく8世紀ごろだった。
出雲国造家の祖の天目一箇命(天夷鳥命、天御蔭命)が出雲大神の実態である。出雲国造家を出雲氏、これとは別系の大国主命の後裔を三輪氏族(海神族)とする。
崇神天皇のとき、天穂日命の11世孫の宇賀都久怒(鵜濡淳、うかつくぬ)を出雲国造に定めた。国造家は当初は出雲東部の意宇郡にあって熊野大社(熊野坐神社)を奉祀していた。
出雲国造の祖系 出雲国造の起源と初期段階。
出雲国造の祖については、記紀では天照大神の息子という天穂日命とする。天照大神から大己貴神(おおなむち)が統治する葦原中国に派遣され高天原への降伏を促したが、かえって大己貴に服従したとされる。天若日子も派遣されたが、大己貴の女婿になった。
葦原中国は出雲ではなく、タイ系(中国古代の越族)が朝鮮半島から渡来して本拠とした博多平野の板付遺跡・須玖岡本遺跡周辺の那珂川流域である。時期は2世紀代後半。大和朝廷の出雲平定は4世紀前半頃。
いわゆる国譲りは2世紀前葉ごろの北九州の筑紫沿岸部を舞台に起きた。それに続く高天原(筑後御井郡あたり)からの天孫降臨は、筑前地方の沿岸部・日向(福岡市西部から糸島市の地域)の地でなされた。
この時に、天孫の降臨を受け入れたのは博多平野の那珂川流域の葦原中国であり、その族長が大己貴命である。出迎えた猿田彦こと穂高見命はその嫡孫。山陰道の出雲にあった大穴持命は、その後代であり、大己貴命の孫にあたる。出雲西部の出雲・神門郡地方の平野部を本拠とした。
崇神前代の出雲国の動向。
出雲の上古史は、井上光貞氏の所説で妥当。「出雲」の起源の地。出雲西部。出雲市斐川町。大穴持命の本拠。原出雲王国。味鉏高彦根(あじすきたかひこね)命。筑紫の大己貴命の子で母は宗像三女神のタキリ姫。アジスキ神関連の遺跡が神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡。葦原中国から出雲へ。
大穴持命によるプレ出雲国の平定には意宇の少彦名神兄弟一族が協力し、お互いの通婚関係も生じた。この国は200年ほど続き、大和とは孤立した国だった。
出雲開発の遠祖神たる味鉏高彦根命は、北九州での国譲りを契機にして、そこから東遷して出雲にやってきたのであろう。味鉏高彦根命・大穴持命により開拓された出雲の地に遅れてやってきたのが、高天原から派遣されて葦原中国に取り込まれた、いわば裏切り者たる天若日子(天若彦、天津彦根命)と筑紫の大己貴命の娘・高照姫の間に生まれた出雲国造家の始祖である天夷鳥命の一族であり、従兄弟の大穴持命に対し様々な協力もして、その主導のもと出雲統治に尽くしたとみられる。そして、海岸部の出雲郡あたりから鉄資源を求めて斐伊川上流部に入り込み、山間部の飯石郡などを経て、飯梨川下流域の意宇郡東部の安来地区にいったんは落ち着いた。その後、出雲の西部と東部が緩やかに統合状態であったときに、崇神王権の出雲侵攻が東部・西部の二方面で開始されたのであろう
出雲振根と飯入根の関係。
飯入根は意宇郡東部の飯梨川流域の豪族で、のちの出雲国造家。能義の北東に印部や意宇郡大庭の西方に忌部・玉造の地があり、出雲忌部や玉作部がいて、その祖を櫛明玉命(天目一箇命の父神)としていた。
天穂日命から4代の津狡(つがる)命のときが、神武東征のときにあたる。国造家11代の出雲振根のときが崇神朝にあたり、初めて出雲と大和王権の接触があった。
上古出雲の二大勢力。
西部の杵築の勢力(大穴持命奉斎の勢力)と東部の意宇の勢力(のちの出雲国造家につながる熊野大神奉斎の勢力)が並立し争った。意宇の勢力のほうが崇神朝ごろに大和朝廷の後援を得て、西部勢力を圧倒して出雲全域を押さえ、杵築大社も掌握した。のちの出雲臣氏。
神火相続式など国造世襲の儀式は意宇郡大庭(松江市)の神魂(かもす)神社で挙行された。神魂神社の祭神は国造家の氏神か奉斎神とみられるが実体は不明である。熊野大社は平安前期まで杵築大社よりも上位で出雲一宮の称を鎌倉期まで保持した。
大和王権は出雲へ出兵して平定し鵜濡淳を国造にたて、支配下においた。出雲国造は意宇平野の出雲国府あたり(現在の松江市大庭)にいて、近隣の熊野大社などを祭祀していた。平安前期以降に、出雲国造は杵築(出雲市)に移った。
畿内王権の出雲平定。
「書紀」によると、崇神朝後期に、吉備津彦と阿倍氏の祖武淳河別が出雲を攻撃した。出雲では対処にさいし、首長の出雲振根と弟の飯入根・鵜濡淳親子が対立した。振根は弟の飯入根を殺したので、大和王権が介入して鵜濡淳を出雲の首長にしたとする。
実際には、並立していた西の出雲郡勢力による東の意宇郡勢力飯入根殺害事件を契機として、大和王権が西部の出雲郡を主対象に討伐をして出雲全域を平定した。これにより、親大和で東側の意宇郡勢力が出雲第一の勢力となって、出雲全域の国造に任じられた。出雲東部が出雲国造の本拠地となり、大庭の地に国造家が居住した。祭祀も同族の物部氏が奉斎した熊野神を祖神として、熊野大社を奉斎した。
意宇郡勢力の本拠は4世紀半ばには、安来市の大成古墳近くにあった。江戸末期まで国造家の邸宅があった。この辺には出雲国庁・意宇郡衙が置かれた。
大和王権の侵攻は南の吉備・美作方面からで、大和王権はまず吉備を押さえてから出雲に侵攻した。吉備氏が侵攻の軍事主体で、久米部族、伯耆国造族、石見・因幡の国造族も関与した。久米部族は大和から吉備津彦に随従してきた山祇族の「犬」にあたる。雉は天若日子・少彦名神後裔の伯耆国造族、猿は天孫族の物部氏族や鏡作氏族である。
伯耆(伯岐、波久岐)国造族は倭文神を奉斎。天孫族の倭文連、山城鴨県主・三野前国造の一族。
三嶋神は少彦名神。
国造家遠祖一族の出雲到来。古事記では天夷鳥命の子・櫛八玉命が始祖という。天夷鳥命(武日照命)のときに到来。
出雲郡建部郷に宇夜都弁(うやつべ)命が天降りした伝承。神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡。少彦名神。鳥取連・鳥取部の祖、鴨族の祖。
物部氏と出雲の関係。物部氏の遠祖は神武以前の出雲で大きな活動をした。祖神の天目一箇命は別名を経津主(ふつぬし)神。九州北部の筑後国御井郡から山陰沿岸部を経て出雲に来た。
野城(のぎ)大神は大津子命(天津彦根命)か、その子神の天夷鳥命であろう。丹波一宮の出雲大神宮が祭神を一に天津彦根命・天夷鳥命とする。天夷鳥命とは鍛冶氏族の祖神・天目一箇命のことであり、近江の三上祝・蒲生稲置や山代国造、凡河内国造、茨城国造、額田部連、大庭造などの諸氏の祖である。出雲国の鑪(たたら)地帯では鍛冶神の金屋子神が広く崇敬された。
出雲国造が熊野大社で行う火鑚(ひきり)神事は、近江の三上神社、紀伊の伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)、武蔵の金鑚神社(かなさなじんじゃ)でも天孫族系鍛冶部族が奉斎した。
出雲宮向宿祢は允恭天皇(5世紀前葉)に出雲臣の姓氏を賜った。
出雲国造一族の有力諸氏。勝部臣。支流が大原郡朝山郷の朝山氏。秋鹿郡の佐陀神社神主。日置部臣。日御碕神社の神主家小野氏。財部臣。杵築大社別火職。向氏。富氏。物部臣。神魂神社神主の秋上氏。額田部臣。松江市岡田山1号墳。銀象嵌文字鉄剣。若倭部臣。出雲郡主帳。
医官輩出の出雲氏。国造出雲臣果安の弟峯麻呂の子孫で摂津居住の一族から出た。奈良時代末・平安時代初期。侍医出雲臣嶋成、出雲連広貞の親子。広貞は桓武天皇を治療。子の峯嗣も医官、典薬頭、菅原朝臣を賜姓。
畿内山城国の出雲氏支族。平安京以前から愛宕郡出雲郷などに居住。賀茂氏(鴨県主)とともに開拓。
近江の出雲氏支族。蒲生郡の式内社、馬見岡綿向神社(日野町)は出雲氏奉斎の古社。この地の出雲氏は三上祝・蒲生県主の同族。
中世以降の出雲氏族の動向。
鎌倉期の出雲国造・杵築大社の神主職・惣検校職の争い。平安末期に国造出雲宗孝は杵築大社惣検校職を子の出雲宿祢孝房に譲った。源頼朝は1186年に惣検校職を外戚の中原資忠に与えて、中原氏と出雲国造家と対立。
鎌倉初期の出雲の在庁官人。出雲国古来の御家人のなかで最大の勢力は出雲国造同族の勝部宿祢一族で、惣領の朝山(浅山)氏は、神門郡朝山郷を領した。中世では朝山・仁多・万田・多祢氏などを名乗った。南北朝期では、朝山景連が足利尊氏に属して備後国守護となり、守護所を神辺(福山市)に置き、神辺城を築いた。その後、出雲に戻り代々奉公衆。戦国期は尼子氏に属す。永禄5(1562)年朝山貞綱が戦死して断絶。一族は佐陀神社神主家に。京に出た一族は九条家諸太夫。
佐陀神社の祭祀。神奈火山(朝日山)の麓(松江市鹿島町佐陀本郷)から銅剣・銅鐸出土。近江の三上祝関係とみられる大岩山銅鐸と符合する。佐太の大神の実態は物部氏祖の饒速日命。
日御碕神社小野氏と一族神西氏の動向。日置部臣。神西氏は尼子氏に属す。
海神族。杵築地域ののちの神門臣氏。大国主命の後裔は、出雲西部に存続し、のちの神門臣氏となった。四隅突出型墳丘墓制の発生時期と担い手。邪馬台国時代。風土記に神門臣伊香曽然。崇神朝ごろの祖か。神門臣氏のなかにも大和朝廷に従った者があって、のちに神門・健部両氏に分かれて存続した。神門臣とその分流支族。嶋津国造と二方国造。平安中期まで宮廷の官人。志摩国の嶋津国造。伊雑宮。シャグジン信仰。但馬国の二方国造。兵庫県北西部。