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読書メモ「古代氏族の研究⑯出雲氏・土師氏「原出雲王国の盛衰」宝賀寿男 ①出雲氏

2024年05月31日 09時06分21秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑯出雲氏・土師氏「原出雲王国の盛衰」 宝賀寿男 2020年

①出雲氏

出雲関係の神々は「出雲神族」とよばれることが多い。国造を世襲した天孫族の出雲氏は海神族の出雲族(出雲神族)とは異なる出雲神族は、出雲の大国主命(大穴持命)一族だが、同じ海神族でも、建御名方命(諏訪神)、事代主神は出雲にいたわけではない。

出雲国造家は、大国主命の子孫ではなく天孫族だが、須佐之男命、五十猛命、少彦名命、天目一箇命とは男系が違う。天穂日命(あめのほひのみこと)を出雲国造家が祖神の名としたのは上古からではなく8世紀ごろだった。

出雲国造家の祖の天目一箇命(天夷鳥命、天御蔭命)が出雲大神の実態である。出雲国造家を出雲氏、これとは別系の大国主命の後裔を三輪氏族(海神族)とする。

崇神天皇のとき、天穂日命の11世孫の宇賀都久怒(鵜濡淳、うかつくぬ)を出雲国造に定めた。国造家は当初は出雲東部の意宇郡にあって熊野大社(熊野坐神社)を奉祀していた。

出雲国造の祖系 出雲国造の起源と初期段階。

出雲国造の祖については、記紀では天照大神の息子という天穂日命とする。天照大神から大己貴神(おおなむち)が統治する葦原中国に派遣され高天原への降伏を促したが、かえって大己貴に服従したとされる。天若日子も派遣されたが、大己貴の女婿になった。

葦原中国は出雲ではなく、タイ系(中国古代の越族)が朝鮮半島から渡来して本拠とした博多平野の板付遺跡・須玖岡本遺跡周辺の那珂川流域である。時期は2世紀代後半。大和朝廷の出雲平定は4世紀前半頃。

いわゆる国譲り2世紀前葉ごろの北九州の筑紫沿岸部を舞台に起きた。それに続く高天原(筑後御井郡あたり)からの天孫降臨は、筑前地方の沿岸部・日向(福岡市西部から糸島市の地域)の地でなされた。

この時に、天孫の降臨を受け入れたのは博多平野の那珂川流域の葦原中国であり、その族長が大己貴命である。出迎えた猿田彦こと穂高見命はその嫡孫。山陰道の出雲にあった大穴持命は、その後代であり、大己貴命の孫にあたる。出雲西部の出雲・神門郡地方の平野部を本拠とした。

崇神前代の出雲国の動向。

出雲の上古史は、井上光貞氏の所説で妥当。「出雲」の起源の地。出雲西部。出雲市斐川町大穴持命の本拠。原出雲王国味鉏高彦根(あじすきたかひこね)命。筑紫の大己貴命の子で母は宗像三女神のタキリ姫。アジスキ神関連の遺跡が神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡。葦原中国から出雲へ。

大穴持命によるプレ出雲国の平定には意宇の少彦名神兄弟一族が協力し、お互いの通婚関係も生じた。この国は200年ほど続き、大和とは孤立した国だった。

出雲開発の遠祖神たる味鉏高彦根命は、北九州での国譲りを契機にして、そこから東遷して出雲にやってきたのであろう。味鉏高彦根命・大穴持命により開拓された出雲の地に遅れてやってきたのが、高天原から派遣されて葦原中国に取り込まれた、いわば裏切り者たる天若日子(天若彦、天津彦根命)と筑紫の大己貴命の娘・高照姫の間に生まれた出雲国造家の始祖である天夷鳥命の一族であり、従兄弟の大穴持命に対し様々な協力もして、その主導のもと出雲統治に尽くしたとみられる。そして、海岸部の出雲郡あたりから鉄資源を求めて斐伊川上流部に入り込み、山間部の飯石郡などを経て、飯梨川下流域の意宇郡東部の安来地区にいったんは落ち着いた。その後、出雲の西部と東部が緩やかに統合状態であったときに、崇神王権の出雲侵攻が東部・西部の二方面で開始されたのであろう

出雲振根と飯入根の関係。

飯入根は意宇郡東部の飯梨川流域の豪族で、のちの出雲国造家。能義の北東に印部や意宇郡大庭の西方に忌部・玉造の地があり、出雲忌部や玉作部がいて、その祖を櫛明玉命(天目一箇命の父神)としていた。

天穂日命から4代の津狡(つがる)命のときが、神武東征のときにあたる。国造家11代の出雲振根のときが崇神朝にあたり、初めて出雲と大和王権の接触があった。

上古出雲の二大勢力。

西部の杵築の勢力(大穴持命奉斎の勢力)と東部の意宇の勢力(のちの出雲国造家につながる熊野大神奉斎の勢力)が並立し争った。意宇の勢力のほうが崇神朝ごろに大和朝廷の後援を得て、西部勢力を圧倒して出雲全域を押さえ、杵築大社も掌握した。のちの出雲臣氏。

神火相続式など国造世襲の儀式は意宇郡大庭(松江市)の神魂(かもす)神社で挙行された。神魂神社の祭神は国造家の氏神か奉斎神とみられるが実体は不明である。熊野大社は平安前期まで杵築大社よりも上位で出雲一宮の称を鎌倉期まで保持した。

大和王権は出雲へ出兵して平定し鵜濡淳を国造にたて、支配下においた。出雲国造は意宇平野の出雲国府あたり(現在の松江市大庭)にいて、近隣の熊野大社などを祭祀していた。平安前期以降に、出雲国造は杵築(出雲市)に移った。

畿内王権の出雲平定。

「書紀」によると、崇神朝後期に、吉備津彦と阿倍氏の祖武淳河別が出雲を攻撃した。出雲では対処にさいし、首長の出雲振根と弟の飯入根・鵜濡淳親子が対立した。振根は弟の飯入根を殺したので、大和王権が介入して鵜濡淳を出雲の首長にしたとする。

実際には、並立していた西の出雲郡勢力による東の意宇郡勢力飯入根殺害事件を契機として、大和王権が西部の出雲郡を主対象に討伐をして出雲全域を平定した。これにより、親大和で東側の意宇郡勢力が出雲第一の勢力となって、出雲全域の国造に任じられた。出雲東部が出雲国造の本拠地となり、大庭の地に国造家が居住した。祭祀も同族の物部氏が奉斎した熊野神を祖神として、熊野大社を奉斎した

意宇郡勢力の本拠は4世紀半ばには、安来市の大成古墳近くにあった。江戸末期まで国造家の邸宅があった。この辺には出雲国庁・意宇郡衙が置かれた。

大和王権の侵攻は南の吉備・美作方面からで、大和王権はまず吉備を押さえてから出雲に侵攻した。吉備氏が侵攻の軍事主体で、久米部族、伯耆国造族、石見・因幡の国造族も関与した。久米部族は大和から吉備津彦に随従してきた山祇族の「犬」にあたる。雉は天若日子・少彦名神後裔の伯耆国造族猿は天孫族の物部氏族や鏡作氏族である。

伯耆(伯岐、波久岐)国造族は倭文神を奉斎。天孫族の倭文連、山城鴨県主・三野前国造の一族

三嶋神は少彦名神。

国造家遠祖一族の出雲到来古事記では天夷鳥命の子・櫛八玉命が始祖という。天夷鳥命(武日照命)のときに到来。

出雲郡建部郷に宇夜都弁(うやつべ)命が天降りした伝承。神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡。少彦名神。鳥取連・鳥取部の祖、鴨族の祖。

物部氏と出雲の関係。物部氏の遠祖は神武以前の出雲で大きな活動をした祖神の天目一箇命は別名を経津主(ふつぬし)神。九州北部の筑後国御井郡から山陰沿岸部を経て出雲に来た。

 

野城(のぎ)大神大津子命(天津彦根命)か、その子神の天夷鳥命であろう。丹波一宮の出雲大神宮が祭神を一に天津彦根命・天夷鳥命とする。天夷鳥命とは鍛冶氏族の祖神・天目一箇命のことであり、近江の三上祝・蒲生稲置や山代国造、凡河内国造、茨城国造、額田部連、大庭造などの諸氏の祖である。出雲国の鑪(たたら)地帯では鍛冶神の金屋子神が広く崇敬された。

出雲国造が熊野大社で行う火鑚(ひきり)神事は、近江の三上神社紀伊の伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)武蔵の金鑚神社(かなさなじんじゃ)でも天孫族系鍛冶部族が奉斎した。

 

出雲宮向宿祢は允恭天皇(5世紀前葉)に出雲臣の姓氏を賜った。

出雲国造一族の有力諸氏。勝部臣。支流が大原郡朝山郷の朝山氏。秋鹿郡の佐陀神社神主。日置部臣。日御碕神社の神主家小野氏。財部臣。杵築大社別火職。向氏。富氏。物部臣。神魂神社神主の秋上氏。額田部臣。松江市岡田山1号墳。銀象嵌文字鉄剣。若倭部臣。出雲郡主帳。

医官輩出の出雲氏。国造出雲臣果安の弟峯麻呂の子孫で摂津居住の一族から出た。奈良時代末・平安時代初期。侍医出雲臣嶋成、出雲連広貞の親子。広貞は桓武天皇を治療。子の峯嗣も医官、典薬頭、菅原朝臣を賜姓。

畿内山城国の出雲氏支族。平安京以前から愛宕郡出雲郷などに居住。賀茂氏(鴨県主)とともに開拓。

近江の出雲氏支族。蒲生郡の式内社、馬見岡綿向神社(日野町)は出雲氏奉斎の古社。この地の出雲氏は三上祝・蒲生県主の同族。

中世以降の出雲氏族の動向。

鎌倉期の出雲国造・杵築大社の神主職・惣検校職の争い。平安末期に国造出雲宗孝は杵築大社惣検校職を子の出雲宿祢孝房に譲った。源頼朝は1186年に惣検校職を外戚の中原資忠に与えて、中原氏と出雲国造家と対立。

鎌倉初期の出雲の在庁官人。出雲国古来の御家人のなかで最大の勢力は出雲国造同族の勝部宿祢一族で、惣領の朝山(浅山)氏は、神門郡朝山郷を領した。中世では朝山・仁多・万田・多祢氏などを名乗った。南北朝期では、朝山景連が足利尊氏に属して備後国守護となり、守護所を神辺(福山市)に置き、神辺城を築いた。その後、出雲に戻り代々奉公衆。戦国期は尼子氏に属す。永禄5(1562)年朝山貞綱が戦死して断絶。一族は佐陀神社神主家に。京に出た一族は九条家諸太夫。

 

佐陀神社の祭祀。神奈火山(朝日山)の麓(松江市鹿島町佐陀本郷)から銅剣・銅鐸出土。近江の三上祝関係とみられる大岩山銅鐸と符合する。佐太の大神の実態は物部氏祖の饒速日命。

日御碕神社小野氏と一族神西氏の動向。日置部臣。神西氏は尼子氏に属す。

 

海神族。杵築地域ののちの神門臣氏。大国主命の後裔は、出雲西部に存続し、のちの神門臣氏となった。四隅突出型墳丘墓制の発生時期と担い手。邪馬台国時代。風土記に神門臣伊香曽然。崇神朝ごろの祖か。神門臣氏のなかにも大和朝廷に従った者があって、のちに神門・健部両氏に分かれて存続した。神門臣とその分流支族。嶋津国造と二方国造。平安中期まで宮廷の官人。志摩国の嶋津国造。伊雑宮。シャグジン信仰。但馬国の二方国造。兵庫県北西部。

 


日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表

2024年05月30日 09時28分56秒 | 歴史

日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表

Yahoo news 2021/11/13(土) 毎日新聞

 

日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。

 

日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。

 

 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。

 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。

 

 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。

 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。

 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。

 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。

 

 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】

 

韓国語の起源は9000年前、中国北東部・遼河の農耕民

Yahoo news 2021/11/13(土) 朝鮮日報日本語版  李永完(イ・ヨンワン)科学専門記者

 

韓国語がチュルク語・モンゴル語・日本語と共に9000年前の新石器時代、中国東北部で暮らしていた農耕民から始まったことが明らかになった。これまでは、それよりはるか後に中央アジア遊牧民が全世界に移住して同様の体系を持つ言語が広がったと言われていた。

ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロベーツ博士研究陣は「言語学と考古学、遺伝学の研究結果を総合分析した結果、ヨーロッパから東アジアに至るトランスユーラシア語族が新石器時代に中国・遼河一帯でキビを栽培していた農耕民たちの移住の結果であることを確認した」と11日、国際学術誌「ネイチャー」で発表した。

■母音調和・文章構造が似ているトランスユーラシア語

 今回の研究にはドイツと韓国・米国・中国・日本・ロシアなど10カ国の国語学者、考古学者、遺伝生物学者41人が参加し、韓国外国語大学のイ・ソンハ教授とアン・ギュドン博士、東亜大学のキム・ジェヒョン教授、ソウル大学のマシュー・コンテ研究員ら韓国国内の研究陣も論文に共著者として記載されている。

 トランスユーラシア語族アルタイ語族とも呼ばれ、西方のチュルク語、中央アジアのモンゴル語、シベリアのツングース語、東アジアの韓国語と日本語からなる。汁などが煮え立つ時の擬声語・擬態語である「ポグルポグル(ぐつぐつ)、プグルプグル(ぐらぐら)」のように前の音節の母音と後ろの音節の母音が同じ種類同士になる「母音調和」がある点や、「私はご飯を食べる」のように主語、目的語、述語の順に文が成り立っている点、「きれいな花」のように修飾語が前にくる点も共通の特徴だ。

 トランスユーラシア語族はユーラシア大陸を横断する膨大な言語集団であるにもかかわらず、起源や広まった過程が不明確で、学界で論争の対象となっていた。ロベーツ博士の研究陣は古代の農業と畜産に関連する語彙(ごい)を分析する一方、この地域の新石器・青銅器が出ると見られる遺跡255カ所の考古学研究結果や、韓国と日本で暮らしていた初期農耕民の遺伝子分析結果まで比較した。

 研究陣があらゆる情報を総合分析した結果、約9000年前に中国・遼河地域でキビを栽培していたトランスユーラシア祖先言語の使用者たちが新石器初期から北東アジア地域を横断するように移動したことを確認した、と明らかにした。

■新石器時代の韓国人と日本人の遺伝子が一致

 今回の「農耕民仮説」によると、トランスユーラシア祖先言語は北方と西方ではシベリアと中央アジアの草原地帯に広がり東方では韓国と日本に至った。これは3000-4000年前、東部草原地帯から出た遊牧民が移住し、トランスユーラシア語が広がったという「遊牧民仮説」を覆す結果だ。

 ロベーツ博士は「現在の国境を越える言語と文化の起源を受け入れれば、アイデンティティーを再確立できる」「人類史の科学は言語と文化、人間の歴史が相互作用と混合の拡張の1つであることを示している」と述べた。

 韓国外国語大学のイ・ソンハ教授は「各分野の研究結果を立体的に総合分析し、トランスユーラシア語が牧畜ではなく農業の拡大による結果であることを立証したという点で注目すべき成果だ」「韓国の(慶尚南道統営市)欲知島の遺跡で出土した古代人のデオキシリボ核酸(DNA)分析により、中期新石器時代の韓国人の祖先の遺伝子が日本の先住民である縄文人と95%一致するという事実も初めて確認した」と語った。


「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読から

2024年05月29日 09時37分41秒 | 歴史

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!

2017/12/15  読売新聞 伊藤譲治 編集局配信部兼メディア局記者

 

 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

 

世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目

 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。

福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功

 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地(さんがんじ)貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。

アジア集団の中で最初に分岐した縄文人

 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万~8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

 

分岐した時期は2万~4万年前の間

 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万~4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原和郎(1927~2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。

遺伝的に近かった出雲人と東北人

 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期第3段階(第3波)は前半が弥生時代後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。

弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土

 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。


総研大、縄文人の奥歯からDNAを抽出して核ゲノムの配列を決定

2024年05月28日 09時14分12秒 | 歴史

総研大、縄文人の奥歯からDNAを抽出して核ゲノムの配列を決定

2016/09/01  まいなびニュース 周藤瞳美

 

総合研究大学院大学(総研大)は9月1日、縄文時代の後期~晩期の福島県・三貫地貝塚から出土した縄文人の奥歯からDNAを抽出し、その核ゲノムの一部を解読することに成功したと発表した。

同成果は、総研大遺伝学専攻の大学院生 神澤秀明氏(研究当時、現在は国立科学博物館研究員)、斎藤成也教授らの研究グループによるもので、9月1日付けの科学誌「Journal of Human Genetics」に掲載された。

これまで縄文人のDNAについては、ミトコンドリアDNAの情報しか得られていなかったが、同研究グループは今回、約3000年前まで続いた三貫地貝塚にて発見された縄文時代の人骨の大臼歯からDNAを抽出し、次世代シークエンサーでその塩基配列を決定した。縄文時代という古代のDNAであるため、バクテリアなどの生物が侵食しており、大部分はヒト以外の配列だったが、数%はヒト由来のものであったという。

このヒト由来の古代DNAの塩基配列は、200塩基弱と短く、大部分は40~180塩基の長さにおさまっている。同研究グループは、古代DNA特有の死後の塩基変化などを統計的にチェックすることで、大部分の塩基配列が古代DNAであることを確認している。さらに、現代人のDNAが混入していないかどうかをミトコンドリアDNAの配列を決定して調べ、6%以下の混入が予想された2サンプルの塩基配列を合体した1億1500万塩基について、三貫地縄文人のデータとして解析した。

まず同データを、主成分分析法を用いて現代人のゲノムデータと比較したところ、大きくアフリカ人、西ユーラシア人、東ユーラシア人にわかれるなかで、三貫地縄文人は東ユーラシア人にもっとも近く位置していた。さらに、三貫地縄文人と東ユーラシア人だけで比較したところ、ヤマト人(東京周辺に居住している日本人)が三貫地縄文人と北京周辺の中国人にはさまれた位置にあり、ヤマト人はこれら2集団のあいだの混血であることが示唆された。

また、三貫地縄文人のゲノム塩基配列を、東ユーラシアのさまざまな人類集団の全ゲノムSNPデータと比較したところ、ヤマト人は、縄文人と東アジア北方の集団との中間に位置しており、日本列島3集団および北京の中国人と比較した場合、全体の遺伝的多様性をもっとも大きく示す第1主成分では、三貫地縄文人はアイヌ人ともっと近く、そのあとはオキナワ人、ヤマト人、中国人の順となる一方で、第2主成分でみると、三貫地縄文人はオキナワ人やヤマト人に近くなっていたという。

さらに縄文人は、現代人の祖先がアフリカから東ユーラシアに移り住んだころ、もっとも早く分岐した古い系統であること、そして、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割合は15%程度であることも明らかになっている。

 

同研究グループは、ほかの縄文時代の遺跡の出土人骨からもDNAを抽出し、すでに多くの核ゲノムDNA配列を得ており、これらのデータをもとにして、縄文人の日本列島における多様性と他の集団との系統について、さらなる詳細な研究を進めていきたいとしている。


ゲノム解析による東南アジアと日本列島における人類集団の起源 2018年  金沢大学

2024年05月27日 09時31分35秒 | 歴史

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明

2018年(平成30年)7月9日  金沢大学 

 

金沢大学の覺張隆史特任助教(人間社会研究域附属国際文化資源学研究センター),佐藤丈寛助教および田嶋敦教授(医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野)は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨 26 個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約 2 千 500 年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨 1 個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など 80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約 8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約 2 千 500 年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

 

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出土人骨 25 個体と日本の縄文人骨 1 個体の計 26 個体の古人骨から DNA 抽出を実施し,ゲノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました(図 3)。

図 古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート

グループ 1現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスの Pha Faen 遺跡(約 8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアの Gua Cha 遺跡(約 4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。また,このグループ 1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。

 

一方,他のグループ 2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約 500 年前までの古人骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。グループ 2はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。さらにグループ 1 と東アジア集団が分かれた後に,グループ 1 からグループ 2 への混血の痕跡が見つかりました。また,グループ 3現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族と遺伝的に近く,グループ 4現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分かりました。さらに,グループ 5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グループ 6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混血の痕跡なども見られました。

 

このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾などの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分かってきました。

 

従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。本研究成果では,すでに稲作文化を持っていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも 4 回以上はあったことが解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。

本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南アジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になりました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます

 

※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡

愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200体以上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多くの人骨が検出されている。

※3 約2千500年前の縄文晩期の女性人骨

2010年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥生時代の開始は3000年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期のものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。