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「パワハラ臭ぷんぷん」石丸伸二氏 ラジオ番組での対応が“高圧的”と批判続出

2024年07月08日 19時16分55秒 | 社会

「パワハラ臭ぷんぷん」石丸伸二氏「本当に熟読されました?」とライターを逆質問…ラジオ番組での対応が“高圧的”と批判続出

Yahoo news 2024/7/8(月) 女性自身

現職である小池百合子氏の圧勝で幕を閉じた東京都知事選。有力候補とみられていた蓮舫氏(56)を上回る得票数を獲得し2位となった石丸伸二氏(41)への注目が集まっているなか、選挙後の“メディア対応”が波紋を呼んでいる。

小池氏と蓮舫の“事実上の一騎打ち”との下馬評が高かった今回の都知事選だが、蓋を開けてみると、石丸氏が蓮舫氏を約40万票も上回るという結果に。広島県安芸高田市で市長を務めた経験はあったが、国政経験もなく、東京での知名度も高くない中での躍進は、日本中に衝撃を与えた。

石丸氏は投開票後の各メディアの選挙特番にも引っ張りだこ。そんななか、物議を醸しているのが、TBSラジオで7日19時58分から22時まで放送された『開票LIVE2024~カオス!東京で何が起きていたのか』での一幕。メディア評論家の荻上チキ氏、ライターの武田砂鉄氏、アクティビストの能條桃子氏、コラムニストのプチ鹿島氏の4名がパーソナリティを務める選挙特番だ。

同番組では、各候補者へのインタビューを行っており、石丸氏は21時すぎにリモート形式で登場。まず荻上氏が「今回の都知事選挙、手応えを感じたと先ほど発信もされていましたが、特にどんな点、手応えを感じた選挙だったのでしょうか?」と質問すると、石丸氏は「うん?どのくだりをされてらっしゃいます?」といきなり逆質問。

その上で、荻上氏が「先ほどぶら下がりの中で、今回の選挙、自分たちは頑張ったと、走りきったというような話をされてたと思うんですが。はい。特にどういったところに力を入れて、どんな手応えをお感じになりましたか」と補足をすると、石丸氏は「手応えの話じゃないですよ、それ。自分たちができることを全部やったという意味です。はい。で、何かの反応では。反応ではなくて、自分たちの実感の話をしました」と返答

荻上氏が「では、どんな点に手ごたえを感じたんでしょうか」と改めて聞くも、石丸氏は半笑い気味で手応えって言うんですかね。それ。なんだろう。自分たちでこれをやろうと決めて、それを実施した、実行したという。それを手応えって言うのかな。でも、手ごたえってもっと反応のことを言うかなっていう気はします。なんか違うニュアンスで聞かれてます?」と再び逆質問するなど噛み合わない様子。

 

続いて、荻上氏から質問のバトンを受け取った武田氏は、石丸氏が今年5月に上梓した著作『覚悟の論理』(ディスカバー・トゥエンティワン社)の内容を引き合いに、こう問うた。

「(同著を)ちょっと熟読させていただいたんですけれど、メンタルが強いですねという風に言われて、なんでメンタルが強いかって言われたかというと、その相手の問題はどうなっても私は知りませんよと割り切れるというところ、と書かれていてですね、ちょっとこう、政治をやられる方からすると、この相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に言われると、ちょっとぎょっとしちゃうなというところも感じたんですけれども。選挙戦でいろんな立場の人とお会いしてお話しすることがあったと思いますけれども、この本に書かれたことっていうのは、特に考えとしては変化はないですかね?」

すると、石丸氏は「どういう点をぎょっとされたんですか。そんなにおかしなこと言ってるつもりがなかったんですけど。どこに違和感を覚えられました?」と逆質問し、武田氏は改めて、「政治ってのはいろんな意見を受け止めて、考えを変えてったり、考えを強化していったりってことの繰り返しだと思いますけれども、相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に 言い切れるっていうところが、自分のメンタルの強さだっていう風に言われると、なかなかそこに対して意見を届けるってことが難しくなっちゃうんじゃないかなっていう風に思ったんですけどね」と説明。

これに対し、石丸氏は「失礼ですが、本当に熟読されました?」と切り返すが、武田氏は「熟読しましたね」と即答し、荻上氏も「めっちゃ付箋貼ってますね」と横からフォローする。

そして、石丸氏は「そういう風な思いでは言っていません。ええ、はい。自分の責任の範囲を定義するという意味において、その話をしてます。で、政治において意見のやり取りをするってのは当たり前ですよね。それを否定はしてないはずで」と意図を説明し、このやり取りは終わった

 

なお、武田が指摘した内容は、『覚悟の論理』に実際にこう記述されている。

よく「市長はメンタルが強いですね」と言われます。そう見えるのはおそらく、もともと性格の特徴に加えて、自分の立場や役割を、相手の立場や役割と切り離して考える習慣があるからです。

どこまでが自分の問題で、どこからが相手の問題か、明確に線を引いている。その結果、極端に言えば、相手の問題は「どうなっても私は知りませんよ」と割り切れる。だからメンタルが強く見えるのでしょう》

 

荻上、武田両氏と石丸氏のやり取りの時間はわずか5分ほどだったが、終始質問に対して逆質問をするなどした対応に“高圧的”と感じた人も多かったようだ。X上ではこのような声が。

 

《チキさん&砂鉄さんの石丸へのインタビュー聞いたけど、過去にモラハラパワハラ受けたことがある人は聞いたら動悸が止まらないと思う。はなから質問に答える気もなく、論破口調で冷笑系。10代20代ほんとに石丸人気なの?》

《砂鉄さんと石丸氏のやり取り怖かった… パワハラ系上司が思い出されて心臓バクバクした

《荻上チキsession、石丸候補いきなりめちゃくちゃ感じ悪い……

《TBSラジオの石丸インタビューすごいな 5分間でもうパワハラ臭ぷんぷんでびっくり こんな人やっぱり政治家にしちゃダメだよ》

 

武田氏も8日に自身のXアカウントで、こう綴っている。

《昨晩のTBSラジオ開票特番での石丸氏。これまで、相手が動揺したり絶句したりする場面を意図的に作り出し、優位に立っていると思わせる構図を作り続けてきたのだろうが、受け止めるほうが動揺したり絶句したりしなければ、一瞬で彼自身の不安定さが明らかになる》

 

“石丸旋風”は果たして吹き荒れるのか――。


会津若松市 飯盛山 会津さざえ堂 白虎隊十九士自刃の地

2024年07月08日 14時13分16秒 | 福島県

飯盛山。会津さざえ堂。福島県会津若松市一箕町(いっきまち)八幡弁天下。

2024年5月29日(水)。

会津大塚山古墳見学後、東近くにある飯盛山へ向かった。「会津さざえ堂」と「白虎隊十九士自刃の地」見学が目的である。石段下交差点西近くの会津若松市営の無料駐車場に駐車して、石段へ向かうと、有料のエレベーターがあったが、高いので利用せず、石段の中ほどから迂回して緩やかな坂道を登ると、右の石段上にさざえ堂が見えた

建物内部の階段が上り下り別になる三匝堂(さんそうどう)の形式は、どこかで体験しているが、ここだったかは記憶がない。1990年代末に日本百名山の磐梯山を登頂したあとに、会津若松城を見学したが、飯盛山を横に見て通過してしまった記憶がある。1980年代からJAFの雑誌で知っていた。

さざえ堂近くにある受付で料金を払って入場した。

重文・旧正宗寺三匝堂(会津さざえ堂)。

会津さざえ堂寛政8年(1796)飯盛山に建立された高さ16.5m、六角三層の仏堂である。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」という。当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)という寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物である。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていた。

栄螺堂(さざえどう)は、江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた特異な建築様式の仏堂で、堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」「さざえ堂」などと呼ばれる。

上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという珍しい建築様式を採用していることが特徴である。  

頂上。上り下り折り返し地点。

反対側。

会津さざえ堂から進むと、広場に出て、白虎隊十九士自刃の地への坂道を下っていく。

 

「白虎隊十九士自刃の地」。人物像の視線の先に会津若松城がある。

江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊が結成され、抗戦した。そのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて敗走し、撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを確認し入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃した地である。

白虎隊十九士自刃の地から見る鶴ヶ城(会津若松城)。

 

このあと、会津若松城三の丸跡にある福島県立博物館へ向かった。

福島県会津若松市 国史跡・会津大塚山古墳


釧路市 ハルトルチャランケチャシ跡 モシリヤチャシ跡

2024年07月08日 10時17分34秒 | 北海道

国史跡・ハルトルチャランケチャシ跡。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

釧路市立博物館を12時30分ごろから1時間ほど見学し、出るときにチャシ見学についてマップやガイドなどがないかと受付で尋ねると学芸員が対応した。モシリヤチャシ見学はやはり事前予約が必要だという。駐車場は公には言えないが城山会館前にあるという。

ハルトリチャランケチャシは、ここから近く西側に駐車場もあるという。春採台でザ・ビッグとダイソーに寄る予定もあったので、雨が降ってはいるがハルトリチャランケチャシへまず行くことにした。

ハルトルチャランケチャシは、鶴ヶ岱(つるがだい)チャランケチャシともいい、チャランケ(話し合い・談合)を行うチャシ(砦)を意味するアイヌ語から由来する。ちなみに、チャランケはのちに和人が名づけたもので、アイヌ固有の呼称ではない。2つの堀跡が残るチャシ跡は東西30m、南北18mほどの規模で、300年以上前の江戸時代のものと推定されている。この付近はアイヌ民族がトーコロカムイ(湖の神様)の遊ぶ聖地として大切にしてきたところで、1916年(大正5)に、その場所からチャシ跡が発見された。

ハルトルチャランケチャシ跡の南岸から春採(はるとり)湖対岸の釧路市立博物館方向。

ハルトルチャランケチャシ跡。2つの堀跡。

史跡・モシリヤチャシ。釧路市城山町。東側の城山会館前付近から。

言い伝えによれば、1751年(宝暦1)に、この一帯で勢力をふるったトミカラアヤノという名前のアイヌが築造したものという。釧路市立博物館には、トミカラアヤノの一族の系図などが展示されている。

「モシリヤ」とはアイヌ語で「島のある川」の意である。

チャシ(砦)は長径約170m、短径約70mの北東側三段、南西側二段の楕円形の丘で「お供え山」という鏡餅のような外観をしている。

内郭(本砦)と外郭(副砦)に分かれており、内郭の周囲には空堀がめぐらされ、その堀をつくった際に出た土砂を利用して土塁がつくられた。竪穴、貝塚も残っている。1935年(昭和10)に同市内のチャランケチャシ、春採台地竪穴群などとともに「モシリヤ砦跡」として国指定の史跡に指定された。

モシリヤチャシ跡は急な斜面があり危険なことから、見学を希望される場合には事前に釧路市埋蔵文化財調査センター(電話:0154-43-0739)にご相談ください。

モシリヤチャシ跡。北東隅。

モシリヤチャシ跡。北西隅の駐車場横にフェンスが切れて登り口があることに気付いた。

モシリヤチャシ跡。中腹。

モシリヤチャシ跡。中腹。雨のため足場が悪いので頂上へ行くのは諦めた。

モシリアのチャシに係わるヲニシトムシから続くタサニシの家系図(釧路市立博物館)である。この中で、メンカクシ(精一郎)が文献にはよく出てくる。

安政5(1858)年,釧路を訪れた松浦武四郎は,その地の乙名(首長)メンカクシ(和名精一郎)から,いわゆる釧路アイヌの先祖の活動の様子を聞取りしている。

トミカラアイノ,タサニシ,ヘケレニシの三名については,他の文献にも登場し,実在の人物であることが確かである。

二代目トミカラアイノの名は,「松前志」(松前広長,天明元年=1781年)にみることが出来る。すなわち宝暦中東部夷地のクスリノ酋長「トヒカライン」と云へる夷人福山(現松前町)に来て領主へ謁す」とあり、宝暦6(1756)年のことという。

文化6(1809)年の「東行漫筆」(荒井保恵)に,『安永8(1779)年頃のこと,タサニシは釧路アイヌの長で あり,彼自身が将となって桂恋のチャシに軍を集めたという。

「寛政蝦夷乱取調日記」寛政元年(1789)に、「クスリの長人タシャニシ病気・・・」とあり、クナシリ・メナシの戦いの時には釧路の首長であったことがわかる。

 

北海道地理No.54(1980年1月)

チャシ分布に対するチャシ地名からの接近 小林和夫 関係分抜粋

釧路アイヌの戦についての松浦武四郎の記録は次のようなものである。

『何処よりかは知らず,一人の男夷雲にのり来り此の場所へ下り、自らヲニシトムシといひて,此辺りに住ける女の子を妻とし,当所へ城郭を築き,此近隣の土人を随ひけるに,其二人の中に男子二人を産み,其兄はトミカラアイノといひ,其会所元より八丁程南なるハルトルといへるへ城を構へ,弟トミチアイノ,此の川筋十余里上のシラリウトルといへるへ城を築き之に住し,其辺りよりニシベツ辺り迄を境とし居りけるが,其を聞

て東西の夷人共其処へ下り来て,此辺りの酋長と称して城棚を構へ居る事不法なりとネモロ,アツケシ,シヤリ,トコロ,トカチの土人四方八方より申合て此処へ攻来りし』ということであった。

ヲニシトムシは,『聯籠域ひるむ色なきまゝ,其寄せ手攻めあぐみけん,少しく攻め手緩みし時,ヲニシトムシ此辺りの浜へ少し其地勢を考,此処にてはよろしからずと急て居館を川口より十丁斗上なる今のチヤシコツへ引移し,川を堀通し,其前なる谷地を要害になし,いかなる勢にて攻来るとも何事かあらんと是に籠りありけるが,又々四方より攻来り,又々数月の対陣に及びけるに,此度前よりは又々要害堅固になりしかば,猶更 ひるまざるに,攻手今は詮方なしと皆其旗下に屈し過ける』という。

トミカラアイノは,『ハルトルの城を築き居住せしが,根室・厚岸・十勝三方より攻来り落城に及び,後サル シナイに城を築き居し時,また攻来りしが,前の谷地を堀となして防,勝利を得,城を子に譲り,ニシベツの 方に行住せしと』いうことである。

トミチアイノは,『シラリウトルの上に城を築き,舎利・根室の兵と戦,勝しと』いうことである。

またトミカラアイノの長子タサニシは,『サルシナイのにて諸方の敵を防ぎし』ということで,次子ヘケレニシは,『今のヌサウシの城に居しと』ということである。

『ヌサウシの城』は「幣舞のチャシ』,『ハルトルの城』は「春採湖畔のチャシ」,或るいは「ウライケチャシ」,『サルシナイの城』は「モシリヤのチャシ」,『シラリウトルの城』は「シラルトロチャシコツ」と呼ばれているチャシ跡であるという。

(シラルトロチャシは釧路湿原北東端シラルトロ湖北岸・標茶町コッタロ原野にある。)

宝暦6(1756)年6月,トミカラアイノが『クスリ酋長』として福山を訪れ,松前藩主に謁見しているが,これは『目見』である。この目見は,アイヌがいう「ウイマム」であり, 酋長代替りの挨拶と考えられる』。初代ヲニシトムシの死によって,トミカラアイノが『クスリの酋長』に就任した,その挨拶であった。

釧路アイヌの戦が,主としてヲニシトムシ,トミカラアイノ,トミチアイノの父子二代が,互に協力し連携して遂行したものとみられることからすれば,ヲニシトムシの死は,戦は既にその時期一応の終熄をみていたということになる。

この宝暦期頃には,松前藩の支配力はこの奥蝦夷地へも滲透し終えていた。

「東行漫筆」によれば,安永8(1779)年頃には,既にタサニシは釧路アイヌの『乙名』,すなわち酋長となっていて,釧路東岸の桂恋(かつらこい)のチャシに軍を集結し,釧路アイヌの『たから物』を掠奪に来るという国後アイヌのツキノエに備えている。

タサニシ一族は、釧路川筋や西別川上流の虹別(標茶町)と密接な関係をもっていた。虹別は、摩周湖から根室へ流れ出る西別川の上流に位置している。西別川は「ヌーシベツ」と呼ばれるほどサケの遡上で有名な川で、鮭の豊漁の川であり、クマやワシ猟に向いた土地であった。

トミカラアイノが,サルシナイのチャシをタサニシに譲り,その後移り住んだニシベツは,根室アイヌの領有する西別川の上流であり、根室アイヌが領有権を主張したので最終的には釧路アイヌが買い取ったという。

 

モシリヤチャシを見学後、山下りんの聖画を鑑賞するため北海道立釧路芸術館へ向かった。

釧路市立博物館③アイヌ文化 チャシ トミカラアイノ タサニシ