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岩手県花巻市 羅須地人協会跡(雨ニモマケズ詩碑)下ノ畑

2023年11月30日 12時32分20秒 | 岩手県

羅須地人協会跡(雨ニモマケズ詩碑)。花巻市桜町。

2023年6月10日(土)。

花巻城跡を見学後、旧羅須地人協会跡(雨ニモマケズ詩碑)へ向かった。16時過ぎに、同心屋敷前の駐車場に着いた。

同心屋敷。

天正19年(1591)九戸政実の乱のとき、豊臣秀吉軍の武将浅野長吉(長政)の部将として鳥谷崎城の守備にあたった浅野重吉配下の30人は、奥州仕置後も花巻に残り、花巻同心組となって南部氏に仕え、花巻城内二の丸馬場口御門の下馬場(現在の鳥谷崎神社南下辺)に住居を与えられて住んだ。現存する屋敷は江戸時代後期に建てられたもので、藩政時代の曲がり家形式の武家屋敷として価値が高く市の文化財に指定されている。昭和55年3月に保存のため現地に移築された。

 

駐車場から麦秋が美しい畑を眺めながら北上川方向へ歩くと、「雨ニモマケズ」詩碑入口に建つ桜地人館が見えたが、16時で閉館していた。

右側すぐの狭い路地を進むと、崖上の台地に羅須地人協会の跡地がある。

羅須地人協会。

宮沢賢治は、1926年(大正15年)3月花巻農学校を依願退職した。4月には実家を出て、亡くなった妹のトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装して「羅須地人協会」と名付け、農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めた。賢治は、周囲を開墾して畑と花壇を作り、白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜を栽培するとともに、チューリップやヒヤシンスの花を育てた。

1928年(昭和3年)8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺浸潤との診断を受け、実家で病臥生活となる

雨ニモマケズ詩碑。

賢治が農民に化学・土壌等の講義をした「羅須地人協会」跡地に建つ詩碑。碑の文字は、高村光太郎の書によるもの。

賢治の命日である9月21日には、賢治祭が開催され、詩の朗読や野外劇、座談会などが行われる。

石碑の前からは、「下ノ畑」である賢治自耕の地を一望することができる。

北上川ほとりへと降りて行けば、かの有名な「下ノ畑」がある。

宮沢賢治も愛した歴史ある湯治場。大沢温泉湯治屋。

17時ごろに見学を終え、花巻市西方の立ち寄り湯・大沢温泉湯治屋へ向かった。国道横の駐車場など満車に近かった。坂を下ると歴史のある旅館と温泉があった。入浴料700円。

宮沢賢治の父・政次郎は、家業の傍ら、花巻仏教会の中枢会員として毎年仏教講習会を開いた。大沢温泉で夏に開かれた講習会は1898年から始まったとされ、次第に暁烏敏、近角常観、多田鼎などの仏教学者を講師に招くようになり、1916年まで毎年開催された。宮沢賢治は小学校高学年以降、父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加し、18歳の時に浄土真宗の学僧である島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治が後に国粋主義的な法華宗教団「国柱会」に入信する妙法蓮華経信仰のきっかけとなった。

 

このあと、花巻市の道の駅「とうわ」へ向かった。翌日は、北上市と遠野市の見学である。

岩手県花巻市 花巻城・鳥谷ヶ崎(とやがさき)城跡


岩手県花巻市 花巻城・鳥谷ヶ崎(とやがさき)城跡

2023年11月29日 15時41分03秒 | 岩手県

花巻城跡。花巻市城内。

2023年6月10日(土)。

イギリス海岸から西に進み花巻城跡を見学した。本丸跡付近に駐車スペースがなく、道路反対側の花巻小学校の空地に駐車した。

花巻城は、北上川に沿って形成された台地が東方に大きく突き出した地形を利用した平山城である。現在は市街地が広がり、城内には市役所や病院など大規模な施設が建ち、住宅も密集していて、城の形状はほぼ失われている。

比高20mほどの台地にあり、かつては北側を瀬川、北東を北上川が流れ、南には豊沢川と城の三方を河川に囲まれた急崖をなしていた。西側は台地続きのため幅30m以上の巨大な堀で切断し、崖がやや緩やかな南東斜面にまでめぐらしている。

花巻城は、古くは鳥谷ヶ崎(とやがさき)城といい、平安時代後期には安倍氏の鶴脛(つるはぎ)柵があったという。鎌倉時代以降、稗貫(ひえぬき)郡の領主であった稗貫氏が15世紀半ば以降本城とした。稗貫氏は鎌倉時代、源頼朝に稗貫郡を与えられ入部、中世末期まで続いた豪族である。所領は現在の南部を除く花巻市に及び「稗貫五十三郷」といわれる。当初は小瀬川館(あるいは瀬川館)を本拠としたが、室町時代には十八ヶ(さかりが)城(稗貫郡宮野目村)を本城とし、戦国期の享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。

天正18年(1590)最後の当主となった稗貫広忠は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため領地を没収され、当城には浅野長吉が入って家臣の浅野重吉を目代とし、城の改修をしたようである。同年冬、広忠は同じく所領を没収された弟・和賀義忠(わがよしただ)がかつての本拠・二子城を攻めるのに呼応して鳥谷ヶ崎奪還に立ち上がり、一時は成功したと伝えられている(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正19年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧され、同年中に稗貫郡は南部領と決められた。

南部信直は当地を仙台藩に対する警備の一拠点と考え、天正19年重臣である北秀愛(きたひでちか)に8000石を与え、鳥谷ヶ崎に城代として入城させた。この時、秀愛はそれまでの「鳥谷ヶ崎」という名を「花巻」と改め、城下町の整備や城の改修に着手したが、慶長3年(1598)に没した。秀愛の死後は父の北信愛(のぶちか)が城代を継承した。慶長5年(1600年)、南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している隙を狙い、密かに領土拡大を狙った伊達政宗に煽動された和賀忠親が旧領・和賀郡の奪還を目指して一揆を起こした(岩崎一揆)。和賀勢は花巻城や、大瀬川館など周辺諸城を攻め、花巻城の三の丸、二ノ丸を攻略して本丸に迫ったが、援軍を得た北信愛は本丸台所門で撃退した。北信愛は慶長18年(1613年)に死去するまで花巻城および城下町の整備に努めた。

北信愛の死後、藩主・南部利直は次男(庶子)の政直に和賀・稗貫(ひえぬき)の地から2万石を与え花巻城主とし、仙台藩境の警備にあたらせた。政直は花巻城を近世城郭として完成させ、本丸に二層二階の櫓や多くの重層の城門が建てられた。

寛永元年(1624年)、政直は急死した。死因は、酒宴で毒が入った酒を飲んだためである。かねてより、南部家一族は岩崎城代・柏山伊勢守明助が伊達政宗と内通しているのではないかと疑いを持っており、江戸へ向かう藩主・南部利直一行が花巻城に宿泊し酒宴を催したときに毒殺することを画策した。南部利直は、花巻城に柏山を突然呼び出し、伺候した柏山に利直は、御前での盃頂戴の儀式を伝えた。訝しく思いながらも謹んで賜る旨を言上したので、利直はまずは政直に盃を飲むようにいい、政直はわかっていたがこれを口にし、その盃を柏山に回したため二人とも毒死したのである。

政直の死後は嫡子がなく、寛永元年(1624)からは城代を置き、以後明治維新まで存続した。

花巻城の縄張。

江戸時代の絵図によると、内郭は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、それぞれを広い水堀で区画し、各郭の周囲には土塁や柵をめぐらしている。本丸に天守はなく、二の丸には郡代屋敷や馬場、御蔵が、三の丸は上級家臣団の屋敷になっていた。城の裏口にあたる搦手門(からめてもん)は「円城寺門」と呼ばれ、和賀氏の本拠・二子城大手門だったものを移築したもので、鳥谷ヶ崎神社に現存している。また二の丸にあった「時鐘」は市役所前に移築されている。さらに二の丸周辺は鳥谷ヶ崎公園として整備され、平成7年に白壁の西御門が復元されている

本丸と二ノ丸の間の馬出跡。

宮沢賢治と花巻城。

復元・西御門。外側。

本丸跡。本丸には、城代以下が執務する詰所と、藩主が訪れた時に利用する本丸御殿があった。ほとんどの絵図に御殿は描かれていないが、御殿の様子は限られた給人らが知るところであった。御殿絵図が伝わっており、御居間(松の間)、菊の間、桐の間のほか、湯殿や料理の間といった生活スペースと城代席などの執務空間とに分かれていた。

南西隅に天守相当の櫓台、東の突端には菱櫓があった。正門は西御門で、南辺中央に台所門があった。

本丸跡から北方向への眺望。

 

花巻市博物館研究紀要  第15号 2020年3月

花巻城本丸御殿の建築空間(1) 八戸市博物館 中村隼人 (抄)

大名となった南部氏が盛岡藩政初期段階に形成した地方支配の体制は、在地性の強い中世段階の旧領主層(有力国人層)を由来とする上級家臣を「城主」に任じ、引き続き知行地を運営させる方式と、譜代の有力家臣層を「城代」に任じ、藩内の要衝へと異動させ、地域運営をさせる方式が主で、三戸南部氏が派遣した「代官」によって地域運営をさせる方式は少なかった。

南部利直の治世になると、在地性の強い旧領主層の多くが処罰を受け、断絶ないしは没落させられた。また、南部重信の治世になると譜代有力家臣らの特権性も縮小させられるなど、藩主への集権を進める方針がとられた。

寛永年間段階(1624〜 1644)になると一部の例外を除き、領内のほぼ全ての地域は盛岡から派遣される代官によって運営されるようになった。

享保二十年頃(1735)になると、十郡三十三通二十五代官区による運営が実体化した。この段階になると鍋倉城を治所として遠野通を運営した八戸氏と、花巻城を治所として同地方の運営を総括した花巻城代の二例を除き、領内全ての代官区は代官によって運営されるようになった。

盛岡藩屈指の穀倉地帯である和賀稗貫の両郡は、北上川舟運と領内南半の陸運を統べる結節点でもあり、藩経済の安定と発展を考えるうえでも、重要視されていた。また、南接する仙台藩との折衝地域でもあり、軍事的にも要地として認識されていた。両郡の運営を総括する治所には稗貫氏の本城である鳥谷崎城跡地が選ばれた。

鳥谷崎城が立地した河岸段丘端部は、北上川を睨む好地にあたり、経済・交通・軍事の全てにおいて、利便性が高かった。なお、鳥谷崎城段階の城館主体部については、花巻城の三之丸にあったとする説や、二之丸東端にあったとする説がある。また、花巻城本丸には中世段階には瑞興寺という寺院があり、近世初頭に現在位置の花巻市坂本町に移されたとも伝えられる。

花巻城とその城下の開発は、北氏城代期 (1591 〜 1613)、南部氏城主期 (1614 〜 1624)、藩士城代期 (1625 〜 1873)の三段階に分類することができる。

北秀愛は文禄年間(1593 〜 1596)に城下四日町を開町するなど、花巻城内外の整備を進めようとしたが、慶長3年(1598)に没した。同年以降は秀愛の父である北信愛が城代を継ぎ、慶長14年(1609)頃から城内外の本格的な改修を行った。本丸・馬出・二之丸・三之丸という後世にも続く縄張り整備を行ったほか、城内の主要施設である本丸御殿・御役屋・門などの作事を行った。花巻城の整備の多くは、この段階に実施されたものだと考えられている。

慶長18年(1613)の北信愛の死去を受け、盛岡藩主南部利直は、第二子南部政直を花巻城主に任じた。政直は家老の北湯口主膳や石井善太夫らとともに花巻城内外の開発を進めようとしたが、寛永元年(1624)、25歳の若さで早世した。

南部政直の死後、花巻城の運営は同城家老であった北湯口と石井に引き継がれた。以降花巻城と和賀稗貫二郡の運営は盛岡から派遣される花巻城代二名が総括する体制へと移行した。花巻城代は花巻郡代とも呼ばれるなど、他の通を管轄した代官とは明確に異なる存在として、重要視されていた。

花巻城代は地方行政官中最大の重要人事として認識されており、二百石から五百石程度の高知の藩士が起用された。永年勤続を基本にしており、長期間同職を務める藩士も多くいた。近世後期段階の花巻は人口五千人を数え、盛岡に次ぐ藩内第二の都市として発展した

 

花巻城は、北上川と豊沢川によって形成された東西方向に長い河岸段丘の東端に位置する。段丘基部に南北方向の堀を掘削することにより段丘端部を独立させ、これを城内とした。段丘端部のうち、北・東・南の三面は急峻な段丘崖が巡る要害である。段丘平坦面が連続する城域西端は南北方向に掘られた濁御堀によって分断させられた。城館規模はおよそ東西700m×南北500mで、下位の段丘面との比高差は約12mである。

城内には北から本丸・二之丸・三ノ丸という三つの曲輪が存在した。また本丸の西側には土橋によって連結された馬出が存在した。この三つの曲輪と馬出は、それぞれを水堀と土塁によって区画した。

花巻城築城当初は本丸北側崖下直下に北上川が流れ、天然堀の役割を果たしていた。しかし度重なる河川氾濫と洪水被害により、花巻城北側の町場が甚大な被害を受けることも多かった。このため17世紀中期頃から三度にわたる治水工事が行われ、現在位置への流路改変が行われた。

本丸。本丸は東西180m×南北70m程度の規模を持つ曲輪で、曲輪中央には本丸御殿と呼ばれる建物が建てられていた。西接する馬出から連続する曲輪西端中央の西御門を正門とした。

このほかにも南接する二ノ丸から連続する曲輪南端中央に土橋があり、御台所前御門(中ノ口御門)を構えた。曲輪東端には菱御櫓と呼ばれる矢倉が建てられていた。

本丸御殿は、城代及び花巻御給人達が平時の執務を行う建物である。また、これとは別に藩主が、領内巡検や参勤交代を行う際に、宿泊や休憩をする御仮屋として本丸御殿は使用された。

 

このあと、羅須地人協会跡へ向かった。

岩手県花巻市 イギリス海岸 国名勝・イーハトーブの風景地


岩手県花巻市 イギリス海岸 国名勝・イーハトーブの風景地

2023年11月28日 15時05分17秒 | 岩手県

イギリス海岸。国名勝・イーハトーブの風景地。花巻市上小舟渡。

2023年6月10日(土)。

宮沢賢治記念館・花巻市博物館の見学を終え、西の花巻市街地方面へ向かい、まず「イギリス海岸」を見学した。1980年代に宮沢賢治記念館を見学したが、交通の便が悪くて見学できず心残りだった。現在は増水のため見ることができないと分かっていたが、訪問してみた。北上川の川岸近くの道路を進むと、駐車場が2か所あり、南側の駐車場に駐車した。あとから欧米人と日本人のグループが駐車した。

「イギリス海岸」は、北上川と猿ヶ石川の合流点から南の北上川西岸に位置し、イギリスのドーバー海峡に面した白亜の海岸を連想させる泥岩層が露出することにちなみ、宮沢賢治が名付けた。宮沢賢治は小学年高学年のとき妹トシと石集めのために頻繁に遊びに来て、化石を見つけている。

国指定名勝「イーハトーブの風景地」(掛山・七つ森・狼森・釜淵の滝・イギリス海岸・五輪峠・種山ヶ原)の一つである。

現在は、北上川水系のダム整備による河川管理が進んだので、北上川の水位が特に下がった時期だけ泥岩層が露出する

川岸の遊歩道を進む。

泥岩層の露出層が見えたので満足した。

このあと、西に進み花巻城跡を見学した。

岩手県花巻市 花巻市博物館④稗貫氏 永徳四年板碑 岩手軽便鉄道


岩手県花巻市 花巻市博物館④稗貫氏 永徳四年板碑 岩手軽便鉄道

2023年11月27日 13時35分28秒 | 岩手県

花巻市博物館。花巻市高松。

2023年6月10日(土)。

稗貫氏(ひえぬきし)は、陸奥国稗貫郡を支配した豪族である。稗貫氏の始祖は源頼朝に仕え、奥州合戦によって北上川流域の稗貫郡を給されたことに始まるといわれる。

平安時代末、武蔵七党といわれる武士団のうち、最も大きな勢力をもっていたのは、横山党といわれた小野氏で、武蔵国埼玉郡小野保(埼玉県熊谷市中条)を本貫地とした。

小野義勝の代には領地の地名でもある中条(ちゅうじょう)を名乗っている。中条義勝(成尋)は、治承4年(1180年)源頼朝の挙兵のさい頼朝に協力して石橋山の戦いで活躍する。成尋の嫡男・家長は八田知家の猶子となり、中条家長を名乗り、中条氏の祖となった。家長は鎌倉幕府の評定衆に登用され、尾張国守護や三河国高橋庄地頭に補せられるなど、幕府で重用された。

次男義季は奥州刈田郡(宮城県刈田郡)に領地を与えられ移住し、領地の郡名である刈田を名乗った。その長男の義行が和賀氏の始祖となり、奥州和賀郡に領地を与えられ、刈田郡から和賀郡に移住し郡名である和賀を名乗った。

南北朝時代では北朝方として派遣された奥州探題の斯波氏に与したため、興国元年(1340年)に南朝方の南部政長に攻められて、興国2年(1341年)には壊滅的打撃を受けて衰退した。

南北朝時代が終わっても南部氏との抗争はとどまらず、永享7年(1435年)和賀の大乱で和賀氏支族・須々孫氏方に味方し和賀惣領家の飯豊城を落したところ、惣領家方についた南部守行が子・義政に3万近い大軍で参戦させて稗貫郡で大合戦となった。翌永享8年(1436年)2月、南部軍は稗貫領寺林城、台城を落とし、つづいて当時の稗貫氏本城・十八ヶ城(さかりがじょう)を包囲、ついに5月稗貫勢は南部氏配下になることで和議を結んだ。

室町期に奥州探題大崎家の傘下に入り、伊達、葛西、南部、その次位の留守、白河、蘆名、岩城に次ぐ位置で処遇されている。天文24年(1555年)には、時の当主である稗貫輝時は、上洛して将軍の足利義輝に謁見、義輝に黄金10両を献上し、偏諱を授与されている。

戦国期になると、南下政策の三戸南部氏へ対抗して衝突を繰り返した、紫波地方を領する高水寺斯波氏を、和賀氏と結束して支援した。天正14年(1586年)夏、斯波氏の女婿高田康実(九戸政実の弟)が三戸南部氏当主・南部信直に降ったことにより斯波詮真が南部領へ攻め入ったが南部勢に逆襲され、斯波方は岩手郡見前、津志田、中野、飯岡の地(いずれも現在の盛岡市内)を失った。稗貫氏立ち会いの下で一旦は斯波氏と南部氏の和睦がなったが、天正16年(1588年)南部信直は再び斯波氏攻略の軍を起こし、斯波詮真は居城・高水寺城を捨てて逃れ、高水寺斯波氏は滅亡した。

稗貫氏最後の当主である稗貫広忠は和賀義忠の子もしくは実兄である。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により、小田原征伐の際に参陣しなかったことを理由に所領を没収され、領主としての稗貫氏は滅亡した。天正19年(1591年)、広忠は実家の和賀義忠と共に豊臣氏体勢に対して反乱を起こし、和賀義忠の居城だった二子城を奪回し、広忠のかつての居城の鳥谷ヶ崎城を包囲、落城寸前まで奮戦したが、秀吉の命令を受けた奥州鎮定軍に攻められて和賀義忠は戦死し、広忠は逃亡して程なくして死去したと伝わる(和賀・稗貫一揆)。鳥谷ヶ崎城一帯は南部氏のものとされ、南部信直が派遣した北秀愛により、城は花巻城と改名された。

「和賀系図」。鬼柳文書という、鬼柳家(和賀氏の庶流で、後に盛岡藩士)に伝えられた古文書(東北大学所蔵。『北上市史 第2巻』などに所収)の中にある。

 「和賀系図」は現在の裁判にあたる相論に使われたものと考えられている。仁治4年(1243)2月29日に死去した、行蓮(和賀義行)が、子供たちに譲り渡した土地について記され、鎌倉時代前期の和賀氏の所領と、その分割方法を知ることができる貴重なものである。

系図の最初に記されている「中条法橋盛尋」は、中条義勝といい、治承4年(1180)の源頼朝の初戦であった石橋山の合戦で活躍し、文治5年(1189)平泉の藤原泰衡の追討や、翌年の平泉の残党大河兼任の鎮圧に嫡子家長とともに出陣し活躍した。そのような功績により、鎌倉幕府では重く用いられ、法橋となり、幕府の建物や寺院の普請奉行としても活躍した。

 その次の義行の父「苅田平右衛門入道俗名義季西念」については、詳しいことはわかっていない。鎌倉幕府の侍所別当の和田義盛の養子となり鎌倉に出仕するとともに、苅田郡(現宮城県白石市、苅田郡)の領主にもなった人物である。

永徳四年の碑。中根子駒形神社境内。

板碑は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。

この板碑は流紋岩をほとんど加工することなく利用して造られ、立方体の形をした石の四方に梵字(種子)が、正面には「永徳四年(1384年) 大才 三月八日」と刻まれている。梵字は正面が「サ(聖観音)」、左側が「キリク(阿弥陀如来)」、右側が「ハイ(薬師如来)」、背面が「ハク(釈迦如来)」と刻まれている。過去の調査によると、背面には「ハク」のほかに「バン(大日如来)」が刻まれ、正面の年号には「大才」の左側に干支の「甲子」きのえね)」という文字が見えていた。

板碑の多くは「十三仏信仰」により立てられている。これは唐代に中国で確立した十王信仰がもとになっている。

十王信仰は、仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で晩唐の時期に生七斎と七七斎という二つの仏教儀礼として成立した。全ての衆生は、初七日から七七日(四十九日)までの毎七日及び百か日、一周忌、三回忌に、順次閻魔大王など十王の裁きを受け、十王は死者の罪の多寡に鑑み、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司るなどの職掌を持つため、畏怖の対象となった。

生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰もあり、それを「預修」または「逆修」と呼んでいた。

日本では、平安時代末期に仏教由来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透した。鎌倉時代には十王をそれぞれ故人の救済・弁護をおこなう十仏と対応させるようになった。

南北朝時代には十三仏信仰が生まれる。十三仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地仏のことである。

この板碑の梵字を十三仏にあてはめると、「サ(聖観音)」が百か日、「キリク(阿弥陀如来)」が三回忌、「ハイ(薬師如来)」が七七日、「ハク(釈迦如来)」が二七日、「バン(大日如来)」が十三回忌に相当する。

花巻市内に残る南北朝時代の板碑の年号は、全て北朝側の年号になっており、板碑が立てられた地域が北朝側の支配下にあったことを示している。

 

花巻城、久慈城、高水寺城についての展示は該当記事に使用。

岩手軽便(けいべん)鉄道。

岩手軽便鉄道は、花巻駅と太平洋側の釜石駅を結ぶローカル線である現在の釜石線のうち、内陸側の花巻駅~仙人峠駅間を運行していた762mm軌間の軽便鉄道である。釜石線は、前身の岩手軽便鉄道が宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』のモデルといわれることから「銀河ドリームライン」の愛称で親しまれている。

1913(大正2)年10 月に花巻~土沢(つちざわ)間を開業させ、翌年4月に晴山(はるやま)駅まで延伸。東側からも建設が行われ、遠野~仙人峠間が同じ4月に開業した。同年12月に晴山~岩根橋(いわねばし)間と鱒沢(ますざわ)~遠野間、1915 (大正4)年7月に柏木平(かしわぎだいら)~鱒沢間、11月に岩根橋〜柏木平間が開業して全通し、花巻から仙人峠までが結ばれた。

岩手軽便鉄道は、さらに陸中大橋、釜石への延伸を計画していた。仙人峠駅から直線距離で4kmほどのところにある大橋までは釜石から既に1911年(明治44年)11月3日に釜石鉱山鉄道が開通していた。これにより、中間の徒歩連絡をはさみながらも花巻から釜石までの鉄道連絡ができるようになった。しかし標高560mの仙人峠駅と標高254mの大橋駅の間の標高差は大きく、さらに間に標高887mの仙人峠があることから、この間を直接鉄道で結ぶことができず、断念した。

1936(昭和11)年8月に国有化され釜石線となった。釜石側は、釜石東線(とうせん)として1944(昭和19)年10月に釜石~陸中大橋間が開業し、同時に旧・岩手軽便鉄道の釜石線は釜石西線(さいせん)となった。

また、西線の軌間を762㎜から東線と同じ1067㎜へ改軌する工事に着手。戦後の1950(昭和25)年10月に陸中大橋~足ヶ瀬(あしがせ)間が延伸開業し全通、今にいう釜石線が完成した。

 

岩手県花巻市 花巻市博物館③熊堂古墳群 蝦夷(えみし)の末期古墳


岩手県花巻市 花巻市博物館③熊堂古墳群 蝦夷(えみし)の末期古墳

2023年11月26日 11時45分38秒 | 岩手県

花巻市博物館。花巻市高松。

2023年6月10日(土)。

熊堂古墳群。

花巻市上根子にある熊堂古墳群は、東北地方北部の群集墳末期古墳群)を代表する遺跡であり、東北の古代史の解明に欠かせない重要な遺跡の一つである。その出土品について大正時代の学術誌にも取り上げられてきた。特にも和同開珎、銙帯(かたい)、金具、蕨手刀の他大量の玉類や装身具等の出土品は、蝦夷(えみし)と律令国家との交流を知る重要な資料とされ、この地が北の文化と近畿地方を中心とする中央の文化の交流の接点となる重要な地域であることが想定されている。

熊堂古墳群は、豊沢川によって開析された中位河岸段丘(二枚橋段丘)の標高約96mの南側縁辺部に立地する。熊野神社を中心にかつては数十基が存在したといわれ、四十八塚と通称された。現在は花巻―鉛線の新井製作所中庭、熊野神社、一本杉を中心に約15基が確認されており、時期は7世紀末―8世紀と考えられる。

発掘調査は昭和61年(1986)から毎年続けられ、11基の調査が行われた。形状はいずれも円墳で、規模の最大は周湟外径約15m・内径12m、主体部長軸約3m・短軸約2m。

 

内黒土器。熊堂古墳群出土。

黒色土器は土師器の内面あるいは内外面を箆でみがき炭素粒を吸着させ黒色とした土器である。炭素の吸着の仕方によって二種に分けられる。一つは内面のみに炭素を吸着させた内黒土器であり、他方は内外両面にいぶし焼きによって炭素を吸着させたものである。

内黒土器東日本の6世紀代の鬼高式土器にすでにみられ、それが西日本に伝えられた。その時期は平城宮出土品からみて8世紀の後半代であり、その後10世紀代に内黒から内外両面の黒色土器に変化し、さらに11世紀に瓦器に転化したといわれる。内黒から両面黒色への変化は土師器窯の出現によって可能となったとみられている。

黒色土器出現の背景には須恵器生産の衰退があったことも指摘されている。黒色土器の器形は須恵器を模倣した椀が最も多く、次いで皿、鉢などがある。

水鳥戯画線刻文土器。平安時代後期。庫裏(くり)遺跡出土。

庫理遺跡は、花巻市宮野目田力地内にある平安時代後期ごろの遺跡です。

須恵器長頸瓶は、遺跡内で発見された竪穴住居内から一括して出土しました。多くが祭祀用とされる須恵器長頸瓶では珍しい出土例です。

さらに別の竪穴住居のカマド煙道(煙を出すための穴)から出土した土器破片には、水鳥や小動物(魚?)、不思議な文様が線刻されています。このような文様が残る古代の土器の例としては全国的にも珍しいといわれています。岩手県内での類例が見られず、また、その他の部分の破片が発見されなかったため、この土器の全体像はいまだにわかっていません。

岩手県花巻市 花巻市博物館②縄文の組合せ仮面 遮光器土偶