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読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 

2024年07月02日 16時09分55秒 | 歴史

読書メモ「石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群」佐久間 正明著 2023.02 

新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」161

石製模造品から読み解く東国首長たちの動向。福島県郡山盆地の南端、阿武隈川東岸の丘陵に築造された古墳群には、滑石などのやわらかい石で刀子や斧、剣、鏡などをかたどった祭祀遺物“石製模造品”が副葬されていた。東北地方の要衝の地に、数世代にわたって活躍した小首長たちの葬送と祭祀の世界にせまる。

正直(しょうじき)古墳群は、 正直 B 遺跡と複合する古墳群で、往時は 41 基以上の古墳が8つの支群に分かれて存在していたと考えられる。正直 B 遺跡からは竪穴式住居跡などが発見され、集落とこれに伴う古墳の対応関係が明らかな遺跡として珍しく、貴重な遺跡である。また、谷田川を挟んだ対岸に位置している大安場古墳群との関係性など、郡山市の古墳時代を解明する上でも重要な遺跡である。

 古墳群は、前方後方墳1基、方墳数基と円墳で構成され、築造時期は古墳時代前期~中期(約 1650 年前~約 1550 年前)とされる。古墳群の中でも大型の古墳からは、「石製模造品」が多数出土しているほか、27 号墳の石棺からは人骨3体分が出土しており、うち1体の人骨からの復顔が行われ、大安場史跡公園ガイダンス施設に展示されている。」

 

第1章 真っ赤に塗られた石棺。

1.正直27号墳。

2.開かれた南箱式石棺。

南箱式石棺出土の石製模造品、刀子形・斧形・剣形・有孔円板(鏡を原型)。

通常、古墳出土の石製模造品は、刀子形・斧形・鎌形を基本セットとする。祭祀遺構では剣形・有孔円板・勾玉が基本セット。

3. 未開封の北箱式石棺。 東1人+西2人の3人。

4.葬られたのは誰か?

石製模造品の組成からみると、南箱式石棺は「刀子形・斧形・剣形・有孔円板」だが、北箱式石棺の東西両埋葬施設はいずれも「剣形・有孔円板」で刀子形・斧形はない。正直古墳群では、首長墓の副葬品は刀子形を含むと考えられる。南箱式石棺の被葬者を首長的な階層と仮定した場合、北箱式石棺の被葬者は身分的に下位の人物である。

5.正直27号墳の年代を推理する。石製模造品は、祭祀遺物で、「ヤマト王権の東国支配強化の手段」「東日本への埋葬イデオロギーの移植」などといわれた。4世紀後半ごろ畿内中央部に出現し、5世紀に盛行する。南箱式石棺の石製模造品は、組成の面では新しいが、剣形は古い形態であった。刀子形・斧形の形態的特徴が類似するものは、5世紀前半の群馬県藤岡市白石稲荷山古墳や高崎市剣崎天神山古墳のものであることから、5世紀前半の年代が導かれる。

第2章 多彩な正直古墳群。

 

1.最大の円墳21号墳と前方後方墳35号墳。

21号墳は壺型埴輪の形態から4世紀末から5世紀初頭の築造とみられる。35号墳は底部穿孔壺により大安場1号墳と同時期の4世紀中~後葉の築造で、正直古墳群で最初に築造された古墳であることが分かった。

2.さまざまな中期古墳。

3.継続して副葬された石製模造品。

4.正直古墳群の推移。支群Hは、5世紀後半、大阪府藤井寺市の市野山古墳や岡ミサンザイ古墳、前橋市舞台1号墳や高崎市の保渡田八幡塚古墳が築造されたころで、新しい。

 

各支群の首長墓からみた推移では、古墳群の築造契機となったのは4世紀中~後葉の前方後方墳の支群Aの35号墳で、つづく支群Fの21号墳は円墳だが、規模が大きく、4世紀末から5世紀初頭と考えられる。支群Bの27号墳は5世紀前半、支群Cの23号墳と支群Dの30号墳は5世紀後半の築造であろう。

時期の異なる首長墓にも刀子形を代表とする農工具形石製模造品が伴い、石製模造品を用いた葬送儀礼が継続していたと分かる。27号墳の築造を発端とする石製模造品の導入期には定型的であった刀子形石製模造品が、地域独自の形態に変化していくことも明らかになった。

第3章 正直古墳群と同時代の遺跡。

1.清水内遺跡。郡山市の西方、南川北岸の古墳時代中期の集落。川の中の祭壇。5世紀第2四半期の方形区画と河川屈曲部における祭祀空間。水辺の祭祀。

2.清水内遺跡に住んだ人びと。5世紀前半の鉄鍛冶遺構。同時期に、白河市の三森遺跡、多賀城市の山王遺跡。渡来系遺物の算盤玉形紡錘車

3.清水内遺跡の展開と正直古墳群。5世紀第1四半期に低地開発のため鉄鍛冶集団が集落を形成し、水辺の祭祀が行われた。5世紀第2四半期に新たな祭祀用具として石製模造品が導入された。

第4章 大安場一号墳と建鉾山(たてほこやま)祭祀遺跡。

1.大安場一号墳。前方後方墳の大安場1号墳は、正直古墳群から北東約1,5kmにある。全長は約83mで東北地方全体で最大規模である。埋葬施設から腕輪形石製品1点、大刀、剣、槍などの武器類、直刃鎌、短冊形鉄斧などの農工具類が出土した。

底部が穿孔された二重口縁と口縁部に棒状浮文のついた2種類の壺形土器が出土。築造年代は正直35号墳とほぼ同じ古墳時代前期後半(4世紀後半頃)と推定される。

2.建鉾山祭祀遺跡。栃木・茨城両県境に近い白河市表郷にあり、ヤマトタケルが山頂に鉾を建てて祀ったという伝説が残る。円錘形の山容で、奈良県の三輪山とともに山の祭祀を代表する。頂上の建鉾石といわれる岩や山腹に点在する巨岩群が磐座(いわくら)とされた。

1938年ごろから調査が行われ、刀子形・斧形・鎌形・剣形・有孔円板・鏡形・勾玉・臼玉などの石製模造品や土器が多数出土し、鉄鉾、青銅鏡も出土した。

石製模造品が隆盛する5世紀において、建鉾山祭祀遺跡の出土量は多く、全国屈指の祭祀遺跡である。建鉾山の東約500mにある5世紀の三森(みもり)遺跡からは、祭祀執行者である首長の居館である大型周溝と祭祀の空間である石製模造品が出土した長方形周溝および柵囲遺構が発見された。鍛冶遺構や韓式土器も多数出土した。

建鉾山祭祀遺跡の出現は、5世紀前葉と考えられる。特徴的な刀子形石製模造品は群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳や前橋市の上細井稲荷山古墳に類例があり、群馬県西部に系譜がある。建鉾山で石製模造品を使用する祭祀を導入したのは群馬県の首長層と想定され、三輪山に似た神奈備形の山容が選ばれたのだろう。

祭祀遺跡および集落出土石製模造品の分布は、関東地方および近畿地方中央部に集中する。建鉾山は那珂川・久慈川上流域と阿武隈川上流域を結ぶ地点にあり、栃木県・茨城県から東北地方へ向かう最初の地点にあたる。同じような遺跡に長野・岐阜県境の神坂峠祭祀遺跡、長野・群馬県経の入山峠祭祀遺跡、宮城・山形県境の八幡山祭祀遺跡があり、これらの遺跡からは共通して刀子形石製模造品が出土する。建鉾山祭祀遺跡は、5世紀に近畿地方中央部から群馬県・東北地方へと至るルートが重要視される歴史的背景のなかで成立したと捉えられる。

第5章 正直古墳群の意義。

1.下位首長層の墳墓。東北地方南部では5世紀前葉に中規模以上の前方後円(方)墳の空白期があり、5世紀中葉になって再び前方後円墳が築造された。古墳時代の地域社会の基本的な単位は農業生産で共同作業をおこなうさいの単位で、その代表者を下位首長層とよび、小規模墳に埋葬されたとする。正直古墳群に埋葬されたのは、その首長層である。それらのいくつかをまとめる代表者である上位首長層の墳墓が大安場1号墳であった。しかし、正直古墳群の主体となる古墳時代中期には、付近に大型古墳の存在は確認されず、上位首長層の姿はみられない

最初の大型円墳である21号墳や27号墳などの比較的大型の円墳について、都出比呂志は、400年前後に大型円墳と帆立貝形古墳が急増することから、この時期に政治的変動があったとする。和田晴吾は、豊富な副葬品をもつこともある中期の小型円墳や埴輪をもつ小型低方墳の築造は、古墳時代中期の政権や上位首長層が一部の有力な家長層を重要視したことが要因とする。

5世紀後半の支群Hは、古墳間の階層差が少なく、新来の文物や技術が導入される状況のなか、階層差が少ない有力家長層が多数出現し埋葬されたと考えられる。

2. 石製模造品と葬送儀礼。

正直古墳群の出土遺物の特徴は、石製模造品を使用した葬送儀礼が継続しておこなわれた点である。石製模造品の出土した古墳の分布は、東日本では群馬県西部・千葉県の東京湾沿岸と霞ヶ浦南岸に集中する。近畿地方中央部の集中も明確である。葬送儀礼における石製模造品は、刀子形・斧形・鎌形といった農工具のセットが基本となる。西日本では、刀子形などの農工具を含まず、剣形や有孔円板のみが出土するという特色がある。

古墳群内で継続して農工具形の石製模造品が出土する事例は、奈良県の佐紀盾列古墳群・馬見古墳群・大阪府の古市古墳群が知られる。関東地方では千葉県の多古台古墳群・群馬県の剣崎天神山・剣崎長瀞西古墳・東京都の野毛古墳群が知られる。

上位首長層との関係。福島県内では5世紀前半に、群馬県西部の影響を受けた石製模造品が多数存在し、5世紀中葉から後半には、阿武隈川流域と栃木県で形態的に共通する農工具形石製模造品がみられる

5世紀前半に、群馬県太田市に東日本最大の前方後円墳太田天神山古墳(全長210m)が築造される。若狭徹は、背景に上毛野地域の東部と西部の両勢力による王の共立と、北関東・南東北のネットワークの成立があったとする。この時期に南東北の首長層への影響力を北関東(とくに群馬県西部)の首長が有し、南東北に大型古墳がみられないことへの示唆となる。

5世紀中葉以降になると、関係に変化がみられ、藤澤が「天王壇古墳系列」とする円筒埴輪が、福島県国見町の塚野目1号墳、本宮市の天王壇古墳など阿武隈川流域から栃木県南部の古墳で確認され、これらの地域では共通する形態の石製模造品が出現し、5世紀後半には群馬県の首長層の影響が弱まったとみられる。

3.正直古墳群の重要性。亀田修一は東日本における渡来系文物の分布から「伊那谷・群馬西部・阿武隈川流域・仙台湾」というルートを示している。右島和夫も渡来系集団が主導する馬匹生産の開始はヤマト王権が政治的意図をもって進めたもので、近畿地方中央部から伊那谷・上毛野という古東山道ルートが成立したとする。

正直古墳群は東北地方における大型古墳の空白期とされる5世紀前葉も含め、4世紀中~後葉から5世紀末まで継続して古墳が築かれた当該地方では稀有な事例である。郡山南東部の遺跡群の出現は、さらに北への影響力拡大をはかるヤマト政権、より直接的には上毛野の首長層の政策的な意図を反映したものであり、その拠点としての役割を担っていたこの地域の重要性が理解される。

福島県郡山市 大安場1号墳 復元された東北最大の前方後方墳


読書メモ「古代氏族の研究⑯出雲氏・土師氏「原出雲王国の盛衰」宝賀寿男②土師氏(大江氏、菅原氏)

2024年06月01日 10時01分54秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑯ 出雲氏・土師氏 「原出雲王国の盛衰」 宝賀寿男 2020年

②土師氏(大江氏、菅原氏、三上祝氏、凡河内氏、武蔵国造など東国諸国造)

土師氏や畿内の有力同族諸氏。

土師氏垂仁朝の野見宿祢を祖とする出雲国造家の有力支族であり、中央で活動した。本貫地は河内国志紀郡土師郷の道明寺一帯たつの市の権現山51号墳4世紀半ばの前方後方墳。最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪(特殊器台型埴輪)出土。

道明寺一帯。三ツ塚古墳。3基の方墳。実態は仲哀天皇陵である4世紀末の仲姫陵の南にある陪塚とされるが、土師氏の墳墓とみられる。道明寺は土師氏の氏寺。

桓武天皇の母方の祖母・土師真妹(まも)は山城国乙訓郡大枝郷の出身。娘の高野新笠が桓武天皇の母。一族は桓武天皇から姓氏を賜与されて、真妹の実家は大枝氏を、他の一族は菅原氏・秋篠氏を与えられる。

土師氏同族の分布と活動。野見宿祢の6世孫、大保度連の子・八島連の頃に4家に分かれる。①河内国志紀郡土師郷。②大和国添下郡菅原郷。奈良市西部。③大和国添下郡秋篠郷。氏寺は秋篠寺。④和泉国大鳥郡土師郷。堺市。大枝朝臣

⑤周防国佐波郡。土師宿祢。八島連の弟の子が推古朝に佐波に遷り、後裔は周防の在庁官人。周防二宮の出雲神社を奉斎。防府天満宮。武光氏。

菅原氏および大江氏の活動。菅原道真の曽孫菅原輔正が正三位参議。鎌倉初期に菅原為長が正二位参議。後裔に高辻家・五条家・唐橋家・東坊城家・清岡家・桑原家の堂上家

秋篠安人。従三位参議。

地方の管原姓武家諸氏柳生氏。同族に中坊氏。美作菅氏・前田氏・久松氏は系譜仮冒。

大枝氏。土師連富杼(ほど)は白村江の戦いで捕虜となるが帰国。子に祖麻呂、真妹(和史・高野朝臣乙継の妻)。縁戚の土師宿祢諸上・菅麻呂らに大枝朝臣を賜る。のち大江朝臣。大江音人。参議。大江匡房。従二位参議。大江広元。広元の兄・匡範の後裔は堂上家の北小路家。

大江姓の中世武家諸氏。毛利氏。長井氏。左沢氏の後裔に美濃の郷氏。明治に郷純造。

防府の武光氏の一族は武蔵国多摩郡津戸に住み、津戸・黒須・伏見氏など。忍氏。

武蔵には土師部がおり、浅草神社・浅草寺開創は土師真中知(まつち)

畿内・東国に展開した初期分岐の支族。

天津彦根命の子の天御蔭命(天御影命)の後裔で、畿内と周辺に物部氏の祖神・饒速日命とともに来た一族では、近江の三上祝凡河内国造が有名で、さらに茨城国造など多くの国造家を東国に展開した。

三上祝とその同族諸国造。天御影命(天夷鳥命・天目一箇命)の子の意富伊我都(おおいかつ)命の後は、その諸子の世代が畿内方面に移遷して大発展し、三上祝や凡河内国造、山代国造を出した。意富伊我都命の子のうち、彦伊賀都命は近江の三上祝・蒲生稲置や額田部連の祖、阿多根命は山代国造の祖、彦己蘇根(こそね)命は凡河内国造の祖とされる。

風土記の山代日子命は天夷鳥命(天目一箇命)か意富伊我都命とみられる。意宇郡山代郷に鎮座した山代神社は式内社であった。

天御影命の後裔氏族のなかでは、嫡流が三上祝氏で、近江国野洲郡三上に住み、御上神社の神職であった。大岩山銅鐸出土地や大岩山古墳群が近くにある。一族の息長水依比売は彦坐王の妃となって丹波道主命を生んだ。支族は蒲生稲置・菅田首、茨城国造・桑名首・額田部連、野洲郡の安国造など。蒲生稲置は竹田神社(日野町)、菅田首は菅田神社(近江八幡市)、桑名首は多度大社を奉斎した。蒲生氏郷の蒲生氏は後裔。

速都鳥命は長門国造に定められ、子孫は長門一宮の住吉神社を奉斎。長門国造一族から河内の桜井田部連。応神天皇の妃で隼総別皇子の母を出した。

山代国造。山城国南部の綴喜郡が本拠。摂津国武庫郡(西宮市)の広田神社。後裔は鷹羽氏。山代宿祢氏の支族に御栗栖の大道寺氏。小田原北条氏の重臣。

桑名首氏。多度神社。桑名神社。

凡河内国造と座魔五神。河内国大県郡あたりが本拠か。のちに西摂津の兎原郡(神戸市灘区)に遷る。御影は先祖の名。摂津国西成郡の坐魔神社。大阪市中央区久太郎町。摂津一宮。祭神は座魔五神。天孫族の祖神。河内の一族の娘が崇神天皇に反乱を起こした武埴安彦命を生む。摂津の三島郡に勢力があった。摂津国造。平安中期の歌人、凡河内躬恒。後裔と称したのが播磨国広峯神社祀官家の広峯氏。南北朝期に尾張の恒川氏。

東国への分岐。茨城国造と同族諸国造。筑簞(つくばこ)命の後裔。崇神期に常陸へ派遣。茨城国造と筑波国造。嫡宗は茨城国造。相模の師長国造。額田部連。上総の須恵国造・馬来田国造。

武蔵国造と東国の諸国造族。

武蔵等東国諸国造の分岐。天穂日命の後裔。兄多毛比(たもひ)命氷川神社。相武国造。大山阿夫利神社。奈良時代の僧・良弁。相模一宮の寒川神社。伊勢津彦。下総千葉郡の寒川神社。千葉国造。伊甚国造。安房夷隅郡。

2世紀後葉の神武東遷により、東方へ退転した諏訪建御名方命一族少彦名神後裔一族、伊勢津彦一族。素賀国造(のち遠江国造)。三遠式土器、アラハバキ神信仰。

少彦名神を祭神とする神社が関東南部に多く分布。伊豆国造。三嶋大社。知々夫国造。信濃の阿智祝。大國魂神社。

武蔵国造族と氷川神社等の奉祀。出雲の斐伊川から氷川。男躰社の祭神は須佐之男命。本来は波比岐(はひき)神(アラハバキ神、五十猛神)。

アラハバキ神と荒神様。東北地方を中心に信仰された。関東では大宮氷川神社が分布の中心。荒脛巾などの表記。三河一宮の砥鹿神社。巨石の磐座。韓地の安羅。

武蔵国造の歴史。上・下海上国造。安閑天皇元年(534)、武蔵国造の乱。笠原直使主。奈良時代、大部(おおとも)直不破麻呂。子の弟総は武蔵国造。子孫は郡司を世襲。天慶の乱のときの武蔵武芝。本来の本宗家は无邪志直。一族は奥羽にも広がり丈部。武蔵国造本宗家の墳墓は、亀甲山古墳、芝丸山古墳。埼玉古墳群は知々夫国造。

武蔵七党と古代国造家。畠山・河越・渋谷・千葉・上総介は知々夫国造後裔。相模の三浦・大庭・梶原・長尾は武蔵国造同族の相武国造の後裔。桓武平氏は常陸の大掾氏、越後の城氏。

武蔵国造と縁の深いのは野予党と村山党。武蔵国造一族の物部直の後裔が源頼義配下の物部長頼。

 


読書メモ「古代氏族の研究⑯出雲氏・土師氏「原出雲王国の盛衰」宝賀寿男 ①出雲氏

2024年05月31日 09時06分21秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑯出雲氏・土師氏「原出雲王国の盛衰」 宝賀寿男 2020年

①出雲氏

出雲関係の神々は「出雲神族」とよばれることが多い。国造を世襲した天孫族の出雲氏は海神族の出雲族(出雲神族)とは異なる出雲神族は、出雲の大国主命(大穴持命)一族だが、同じ海神族でも、建御名方命(諏訪神)、事代主神は出雲にいたわけではない。

出雲国造家は、大国主命の子孫ではなく天孫族だが、須佐之男命、五十猛命、少彦名命、天目一箇命とは男系が違う。天穂日命(あめのほひのみこと)を出雲国造家が祖神の名としたのは上古からではなく8世紀ごろだった。

出雲国造家の祖の天目一箇命(天夷鳥命、天御蔭命)が出雲大神の実態である。出雲国造家を出雲氏、これとは別系の大国主命の後裔を三輪氏族(海神族)とする。

崇神天皇のとき、天穂日命の11世孫の宇賀都久怒(鵜濡淳、うかつくぬ)を出雲国造に定めた。国造家は当初は出雲東部の意宇郡にあって熊野大社(熊野坐神社)を奉祀していた。

出雲国造の祖系 出雲国造の起源と初期段階。

出雲国造の祖については、記紀では天照大神の息子という天穂日命とする。天照大神から大己貴神(おおなむち)が統治する葦原中国に派遣され高天原への降伏を促したが、かえって大己貴に服従したとされる。天若日子も派遣されたが、大己貴の女婿になった。

葦原中国は出雲ではなく、タイ系(中国古代の越族)が朝鮮半島から渡来して本拠とした博多平野の板付遺跡・須玖岡本遺跡周辺の那珂川流域である。時期は2世紀代後半。大和朝廷の出雲平定は4世紀前半頃。

いわゆる国譲り2世紀前葉ごろの北九州の筑紫沿岸部を舞台に起きた。それに続く高天原(筑後御井郡あたり)からの天孫降臨は、筑前地方の沿岸部・日向(福岡市西部から糸島市の地域)の地でなされた。

この時に、天孫の降臨を受け入れたのは博多平野の那珂川流域の葦原中国であり、その族長が大己貴命である。出迎えた猿田彦こと穂高見命はその嫡孫。山陰道の出雲にあった大穴持命は、その後代であり、大己貴命の孫にあたる。出雲西部の出雲・神門郡地方の平野部を本拠とした。

崇神前代の出雲国の動向。

出雲の上古史は、井上光貞氏の所説で妥当。「出雲」の起源の地。出雲西部。出雲市斐川町大穴持命の本拠。原出雲王国味鉏高彦根(あじすきたかひこね)命。筑紫の大己貴命の子で母は宗像三女神のタキリ姫。アジスキ神関連の遺跡が神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡。葦原中国から出雲へ。

大穴持命によるプレ出雲国の平定には意宇の少彦名神兄弟一族が協力し、お互いの通婚関係も生じた。この国は200年ほど続き、大和とは孤立した国だった。

出雲開発の遠祖神たる味鉏高彦根命は、北九州での国譲りを契機にして、そこから東遷して出雲にやってきたのであろう。味鉏高彦根命・大穴持命により開拓された出雲の地に遅れてやってきたのが、高天原から派遣されて葦原中国に取り込まれた、いわば裏切り者たる天若日子(天若彦、天津彦根命)と筑紫の大己貴命の娘・高照姫の間に生まれた出雲国造家の始祖である天夷鳥命の一族であり、従兄弟の大穴持命に対し様々な協力もして、その主導のもと出雲統治に尽くしたとみられる。そして、海岸部の出雲郡あたりから鉄資源を求めて斐伊川上流部に入り込み、山間部の飯石郡などを経て、飯梨川下流域の意宇郡東部の安来地区にいったんは落ち着いた。その後、出雲の西部と東部が緩やかに統合状態であったときに、崇神王権の出雲侵攻が東部・西部の二方面で開始されたのであろう

出雲振根と飯入根の関係。

飯入根は意宇郡東部の飯梨川流域の豪族で、のちの出雲国造家。能義の北東に印部や意宇郡大庭の西方に忌部・玉造の地があり、出雲忌部や玉作部がいて、その祖を櫛明玉命(天目一箇命の父神)としていた。

天穂日命から4代の津狡(つがる)命のときが、神武東征のときにあたる。国造家11代の出雲振根のときが崇神朝にあたり、初めて出雲と大和王権の接触があった。

上古出雲の二大勢力。

西部の杵築の勢力(大穴持命奉斎の勢力)と東部の意宇の勢力(のちの出雲国造家につながる熊野大神奉斎の勢力)が並立し争った。意宇の勢力のほうが崇神朝ごろに大和朝廷の後援を得て、西部勢力を圧倒して出雲全域を押さえ、杵築大社も掌握した。のちの出雲臣氏。

神火相続式など国造世襲の儀式は意宇郡大庭(松江市)の神魂(かもす)神社で挙行された。神魂神社の祭神は国造家の氏神か奉斎神とみられるが実体は不明である。熊野大社は平安前期まで杵築大社よりも上位で出雲一宮の称を鎌倉期まで保持した。

大和王権は出雲へ出兵して平定し鵜濡淳を国造にたて、支配下においた。出雲国造は意宇平野の出雲国府あたり(現在の松江市大庭)にいて、近隣の熊野大社などを祭祀していた。平安前期以降に、出雲国造は杵築(出雲市)に移った。

畿内王権の出雲平定。

「書紀」によると、崇神朝後期に、吉備津彦と阿倍氏の祖武淳河別が出雲を攻撃した。出雲では対処にさいし、首長の出雲振根と弟の飯入根・鵜濡淳親子が対立した。振根は弟の飯入根を殺したので、大和王権が介入して鵜濡淳を出雲の首長にしたとする。

実際には、並立していた西の出雲郡勢力による東の意宇郡勢力飯入根殺害事件を契機として、大和王権が西部の出雲郡を主対象に討伐をして出雲全域を平定した。これにより、親大和で東側の意宇郡勢力が出雲第一の勢力となって、出雲全域の国造に任じられた。出雲東部が出雲国造の本拠地となり、大庭の地に国造家が居住した。祭祀も同族の物部氏が奉斎した熊野神を祖神として、熊野大社を奉斎した

意宇郡勢力の本拠は4世紀半ばには、安来市の大成古墳近くにあった。江戸末期まで国造家の邸宅があった。この辺には出雲国庁・意宇郡衙が置かれた。

大和王権の侵攻は南の吉備・美作方面からで、大和王権はまず吉備を押さえてから出雲に侵攻した。吉備氏が侵攻の軍事主体で、久米部族、伯耆国造族、石見・因幡の国造族も関与した。久米部族は大和から吉備津彦に随従してきた山祇族の「犬」にあたる。雉は天若日子・少彦名神後裔の伯耆国造族猿は天孫族の物部氏族や鏡作氏族である。

伯耆(伯岐、波久岐)国造族は倭文神を奉斎。天孫族の倭文連、山城鴨県主・三野前国造の一族

三嶋神は少彦名神。

国造家遠祖一族の出雲到来古事記では天夷鳥命の子・櫛八玉命が始祖という。天夷鳥命(武日照命)のときに到来。

出雲郡建部郷に宇夜都弁(うやつべ)命が天降りした伝承。神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡。少彦名神。鳥取連・鳥取部の祖、鴨族の祖。

物部氏と出雲の関係。物部氏の遠祖は神武以前の出雲で大きな活動をした祖神の天目一箇命は別名を経津主(ふつぬし)神。九州北部の筑後国御井郡から山陰沿岸部を経て出雲に来た。

 

野城(のぎ)大神大津子命(天津彦根命)か、その子神の天夷鳥命であろう。丹波一宮の出雲大神宮が祭神を一に天津彦根命・天夷鳥命とする。天夷鳥命とは鍛冶氏族の祖神・天目一箇命のことであり、近江の三上祝・蒲生稲置や山代国造、凡河内国造、茨城国造、額田部連、大庭造などの諸氏の祖である。出雲国の鑪(たたら)地帯では鍛冶神の金屋子神が広く崇敬された。

出雲国造が熊野大社で行う火鑚(ひきり)神事は、近江の三上神社紀伊の伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)武蔵の金鑚神社(かなさなじんじゃ)でも天孫族系鍛冶部族が奉斎した。

 

出雲宮向宿祢は允恭天皇(5世紀前葉)に出雲臣の姓氏を賜った。

出雲国造一族の有力諸氏。勝部臣。支流が大原郡朝山郷の朝山氏。秋鹿郡の佐陀神社神主。日置部臣。日御碕神社の神主家小野氏。財部臣。杵築大社別火職。向氏。富氏。物部臣。神魂神社神主の秋上氏。額田部臣。松江市岡田山1号墳。銀象嵌文字鉄剣。若倭部臣。出雲郡主帳。

医官輩出の出雲氏。国造出雲臣果安の弟峯麻呂の子孫で摂津居住の一族から出た。奈良時代末・平安時代初期。侍医出雲臣嶋成、出雲連広貞の親子。広貞は桓武天皇を治療。子の峯嗣も医官、典薬頭、菅原朝臣を賜姓。

畿内山城国の出雲氏支族。平安京以前から愛宕郡出雲郷などに居住。賀茂氏(鴨県主)とともに開拓。

近江の出雲氏支族。蒲生郡の式内社、馬見岡綿向神社(日野町)は出雲氏奉斎の古社。この地の出雲氏は三上祝・蒲生県主の同族。

中世以降の出雲氏族の動向。

鎌倉期の出雲国造・杵築大社の神主職・惣検校職の争い。平安末期に国造出雲宗孝は杵築大社惣検校職を子の出雲宿祢孝房に譲った。源頼朝は1186年に惣検校職を外戚の中原資忠に与えて、中原氏と出雲国造家と対立。

鎌倉初期の出雲の在庁官人。出雲国古来の御家人のなかで最大の勢力は出雲国造同族の勝部宿祢一族で、惣領の朝山(浅山)氏は、神門郡朝山郷を領した。中世では朝山・仁多・万田・多祢氏などを名乗った。南北朝期では、朝山景連が足利尊氏に属して備後国守護となり、守護所を神辺(福山市)に置き、神辺城を築いた。その後、出雲に戻り代々奉公衆。戦国期は尼子氏に属す。永禄5(1562)年朝山貞綱が戦死して断絶。一族は佐陀神社神主家に。京に出た一族は九条家諸太夫。

 

佐陀神社の祭祀。神奈火山(朝日山)の麓(松江市鹿島町佐陀本郷)から銅剣・銅鐸出土。近江の三上祝関係とみられる大岩山銅鐸と符合する。佐太の大神の実態は物部氏祖の饒速日命。

日御碕神社小野氏と一族神西氏の動向。日置部臣。神西氏は尼子氏に属す。

 

海神族。杵築地域ののちの神門臣氏。大国主命の後裔は、出雲西部に存続し、のちの神門臣氏となった。四隅突出型墳丘墓制の発生時期と担い手。邪馬台国時代。風土記に神門臣伊香曽然。崇神朝ごろの祖か。神門臣氏のなかにも大和朝廷に従った者があって、のちに神門・健部両氏に分かれて存続した。神門臣とその分流支族。嶋津国造と二方国造。平安中期まで宮廷の官人。志摩国の嶋津国造。伊雑宮。シャグジン信仰。但馬国の二方国造。兵庫県北西部。

 


日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表

2024年05月30日 09時28分56秒 | 歴史

日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表

Yahoo news 2021/11/13(土) 毎日新聞

 

日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。

 

日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。

 

 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。

 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。

 

 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。

 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。

 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。

 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。

 

 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】

 

韓国語の起源は9000年前、中国北東部・遼河の農耕民

Yahoo news 2021/11/13(土) 朝鮮日報日本語版  李永完(イ・ヨンワン)科学専門記者

 

韓国語がチュルク語・モンゴル語・日本語と共に9000年前の新石器時代、中国東北部で暮らしていた農耕民から始まったことが明らかになった。これまでは、それよりはるか後に中央アジア遊牧民が全世界に移住して同様の体系を持つ言語が広がったと言われていた。

ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロベーツ博士研究陣は「言語学と考古学、遺伝学の研究結果を総合分析した結果、ヨーロッパから東アジアに至るトランスユーラシア語族が新石器時代に中国・遼河一帯でキビを栽培していた農耕民たちの移住の結果であることを確認した」と11日、国際学術誌「ネイチャー」で発表した。

■母音調和・文章構造が似ているトランスユーラシア語

 今回の研究にはドイツと韓国・米国・中国・日本・ロシアなど10カ国の国語学者、考古学者、遺伝生物学者41人が参加し、韓国外国語大学のイ・ソンハ教授とアン・ギュドン博士、東亜大学のキム・ジェヒョン教授、ソウル大学のマシュー・コンテ研究員ら韓国国内の研究陣も論文に共著者として記載されている。

 トランスユーラシア語族アルタイ語族とも呼ばれ、西方のチュルク語、中央アジアのモンゴル語、シベリアのツングース語、東アジアの韓国語と日本語からなる。汁などが煮え立つ時の擬声語・擬態語である「ポグルポグル(ぐつぐつ)、プグルプグル(ぐらぐら)」のように前の音節の母音と後ろの音節の母音が同じ種類同士になる「母音調和」がある点や、「私はご飯を食べる」のように主語、目的語、述語の順に文が成り立っている点、「きれいな花」のように修飾語が前にくる点も共通の特徴だ。

 トランスユーラシア語族はユーラシア大陸を横断する膨大な言語集団であるにもかかわらず、起源や広まった過程が不明確で、学界で論争の対象となっていた。ロベーツ博士の研究陣は古代の農業と畜産に関連する語彙(ごい)を分析する一方、この地域の新石器・青銅器が出ると見られる遺跡255カ所の考古学研究結果や、韓国と日本で暮らしていた初期農耕民の遺伝子分析結果まで比較した。

 研究陣があらゆる情報を総合分析した結果、約9000年前に中国・遼河地域でキビを栽培していたトランスユーラシア祖先言語の使用者たちが新石器初期から北東アジア地域を横断するように移動したことを確認した、と明らかにした。

■新石器時代の韓国人と日本人の遺伝子が一致

 今回の「農耕民仮説」によると、トランスユーラシア祖先言語は北方と西方ではシベリアと中央アジアの草原地帯に広がり東方では韓国と日本に至った。これは3000-4000年前、東部草原地帯から出た遊牧民が移住し、トランスユーラシア語が広がったという「遊牧民仮説」を覆す結果だ。

 ロベーツ博士は「現在の国境を越える言語と文化の起源を受け入れれば、アイデンティティーを再確立できる」「人類史の科学は言語と文化、人間の歴史が相互作用と混合の拡張の1つであることを示している」と述べた。

 韓国外国語大学のイ・ソンハ教授は「各分野の研究結果を立体的に総合分析し、トランスユーラシア語が牧畜ではなく農業の拡大による結果であることを立証したという点で注目すべき成果だ」「韓国の(慶尚南道統営市)欲知島の遺跡で出土した古代人のデオキシリボ核酸(DNA)分析により、中期新石器時代の韓国人の祖先の遺伝子が日本の先住民である縄文人と95%一致するという事実も初めて確認した」と語った。


「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読から

2024年05月29日 09時37分41秒 | 歴史

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!

2017/12/15  読売新聞 伊藤譲治 編集局配信部兼メディア局記者

 

 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

 

世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目

 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。

福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功

 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地(さんがんじ)貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。

アジア集団の中で最初に分岐した縄文人

 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万~8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

 

分岐した時期は2万~4万年前の間

 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万~4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原和郎(1927~2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。

遺伝的に近かった出雲人と東北人

 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期第3段階(第3波)は前半が弥生時代後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。

弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土

 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。