いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

福島県喜多方市 熊野神社長床 山都そば

2024年07月14日 14時47分45秒 | 福島県

熊野神社長床。福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野。

2024年5月30日(木)。

会津坂下町の亀ヶ森古墳・鎮守森古墳を見学後、熊野神社長床(ながとこ)へ向かった。

新宮熊野神社は、本宮・新宮・那智の熊野三山を祀っている。国の重要文化財に指定されている熊野神社長床(ながとこ)と呼ばれている拝殿があることで有名である。現在は、長床のほか、熊野三社本殿、文殊堂、観音堂が残されている。また、長床前にある大イチョウは高さ30m・根本周り8.1mで樹齢は600年といわれ、喜多方市天然記念物に指定されている。

新宮熊野神社は、平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。

最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたというが、12世紀末に越後の城長茂の押領により一時衰退した。その後、源頼朝によって200町歩の領田を与えられて再び勢力を取り戻した。奥州合戦後に会津を与えられた佐原義連の孫・時連は神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、これ以後約200年間会津盆地北西部(現在の喜多方市一帯)を支配することとなった。新宮氏は神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると、後ろ盾を失ったことから神社は衰退していき、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれた影響もあって社殿は荒れ果てたものになっていたという。

慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時に50石を支給されたが、慶長16年(1611年)の会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった。その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて多くの仏像や文化財が失われてしまったが、神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。

重文・熊野神社長床。

長床とは修験道(山伏)で用いる言葉で用途は拝殿とほぼ同じである。寄棟造、茅葺、正面9間、側面4間。建立年代は不明であるが、形式・技法から平安時代末期から鎌倉時代初期には拝殿として建立されたと思われる。その後、慶長16年(1611年)に大地震で倒壊し、同19年(1614年)に旧材を用いて再建されたが、かつてのものよりも一回り小さいものとなってしまった。1971年~74年にかけて解体修理復元工事が行われて、かつての姿に復元された。

長床の平面は、間口27m・奥行12mの長方形で、直径1尺5寸(45.4cm)の円柱44本が10尺(3.03m)の間隔で10列×5列に並び、柱間はすべて吹き抜けで壁がない。柱上には平三斗(ひらみつと)の組物が置かれ、中備(なかぞなえ)には間斗束(けんとづか)が用いられているなど純然たる和様建築である。

奥の上段にある熊野神社。

のちほど見学した喜多方「蔵の里」に熊野神社長床関係の展示があった。

山都そば伝承館。飯豊とそばの里センター。喜多方市山都町沢田。

日本百名山の飯豊山には1990年代末に登頂した。帰路に泊まった飯豊山荘の小屋主の母と息子は興味深かった。帰りのバスが来る前に、一人の客が蕎麦を注文して、母親が作って出した抹茶色の蕎麦が羨ましかった。そこで、熊野神社長床を見学後、山都町で蕎麦を食べてから、喜多方へ向かうことにした。

旅行雑誌で蕎麦店を検討したが、予約や定休日が面倒なので、ショーケース的な店を選んだ。11時30分頃到着。

伝承そば 900円。

 

このあと、喜多方「蔵の里」へ向かった。

福島県会津坂下町 福島県最大の古墳・亀ヶ森古墳と鎮守森古墳


釧路市 毛綱毅曠(もづなきこう)の建築 反住器 釧路市立幣舞中学校

2024年07月14日 10時30分37秒 | 北海道

NTT DoCoMo 釧路ビル。北海道釧路市北大通10丁目1−1。1998年竣工。

2022年6月13日(月)。

毛綱毅曠(もづなきこう)の建築はJAFの雑誌を通じて、1980年代後半から90年代前半に知っていた。現代的なビルとは違い、古代神殿のような重厚さが印象的だった。円空と同じく気にはなっていたが、今回の旅行ではわざわざ見学テーマとはしなかったが、釧路市湿原展望台のミニ展示を見て、釧路市内の作品を5軒ほど見学してみた。また「反住器」は北海道立釧路芸術館で設計図を見たが、どういう建築なのか見たくなった。

入手した「くしろガイドマップ2022」に紹介されていたので、和商市場での勝手丼体験を終えたのち釧路駅から近い順に見て回った。

まず、NTT DoCoMo 釧路ビルへ向かい、路上駐車できる場所を探し回って東側の脇道に駐車した。

大通りの同じ側だったので全体が撮影できなかった。反対側に回るのが面倒だったので諦めた。

毛綱毅曠設計「反住器」。釧路市富士見1丁目5。

反住器(はんじゅうき)は、北海道釧路市富士見に所在する建築物。1972年に建築家毛綱毅曠の母親の住まいとして建てられた。

「NHK 釧路が生んだ奇才・毛綱毅曠(もづなきこう)の建築を追う」で紹介されている。

毛綱毅曠の初期の代表作であり、一辺7.4メートル、3.8メートル、1.7メートルの3つのキューブが重なった入れ子構造となっている。これは「反機能」を「入れ子」の概念で表現しようとしたものである。一面が約55平方メートルの立方体の中に重心をずらして2つの立方体が入れ子に組まれ、それぞれ皮膚反応器、肉体応答器、環境暗号器の名称をもつ。

デビュー作、反住器(1972)は毛綱の重要な作品である。ガラスを多用し、入れ子状の箱からできた住宅であり、毛綱の母によって住まわれた住居であるが、住居としての機能性を否定した器であることから「反住器」と命名された。作品としての反住器は同世代の建築家、たとえば相田武文(あいだたけふみ)の涅槃(ねはん)の家と共通したポエジー、つまり文学的なメタファーや形態的な操作を前面に出し、住居としての基本的な要素、すなわち居住性や解放感を否定するという偽悪的な身ぶりを示した。

受賞

日本建築家協会25年賞 (2004年)

DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築 (2006年)

釧路フィッシャーマンズワーフMOO / EGG 釧路市錦町2-4   1989年

幣舞橋から。釧路川沿いにある釧路フィッシャーマンズワーフMOOは1989年の作品で、外観のタンチョウを模した鉄骨や、毛綱建築特有の風水の思想が取り入れられた螺旋構造。

幣舞橋から。釧路センチュリーキャッスルホテル。釧路市大川町2-5 1987年 

釧路センチュリーキャッスルホテル。釧路市大川町2-5 1987年 

船をモチーフにした外観、特徴的な窓。

釧路市立幣舞中学校(旧・釧路市立東中学校)   釧路市春湖台1−3 1986年

毛綱毅曠(本名:毛綱一裕、1941~2001年)は、釧路市生まれの建築家で、日本建築学会賞作品賞など多数受賞している。

神戸大学工学部建築学科卒業(1965)後、同学科助手(1966~1976)を務めながら毛綱モン太名で設計、建築雑誌などに執筆活動を始める。1971年(昭和46)神戸にアトリエを構える。1976年東京に拠点を移し、毛綱毅曠建築事務所設立。1995年(平成7)より多摩美術大学教授。

 1978年、同世代の建築家、六角鬼丈(ろっかくきじょう)、石山修武(いしやまおさむ)(1944― )らと「婆娑羅(ばさら)グループ」を結成した。彼らは建築名称やスケッチに偽悪的な身ぶりを隠さず、その根拠を東洋思想、宇宙観、宗教観に求めた。1970年代後半から1980年代のポスト・モダニズムの建築潮流のなかでひときわ目だったデザイン志向をもったグループである。毛綱による陰陽の間、鏡の間、間(あい)の間(いずれも1980)はみな住宅であるが、宗教的な主空間を中心にもうけ、上記のような思想を表現した。

 毛綱の代表的な作品は石川県能登島ガラス美術館(1991)である。ガラス工芸を興した小さなコミュニティの核となる美術館だが、毛綱はその立地を中国の古代思想「四神相応(しじんそうおう)」の風水で解釈した。つまり東方の流水(青龍)、西方の大道(白虎)、南方の低地(朱雀)、北方の丘陵(玄武)の四神が護る地を建築化したのである。1980年代の毛綱は小さな住宅を中心に独特な宇宙観の実空間化を模索し続けたが、この美術館の手法は大自然を控えた広大な敷地において十全に発揮できたのである。

 1985年に釧路市立博物館(1984)、釧路市湿原展望資料館(1984)で日本建築学会賞を受賞する。多摩美術大学の環境デザイン学科主任教授として教鞭をとるなかで突然の死を迎えたのであるが、さらなる展開を作品に残すことはできなかった。平成13年没。享年59歳。

 そのほかのおもな作品としては、屈斜路コタンアイヌ民俗資料館(1982、北海道弟子屈町)、釧路市立東中学校(1986。現、幣舞中学校)釧路キャッスルホテル(1987)、釧路フィッシャーマンズワーフMOO(1989)、にしわき経緯度地球科学館(1993、兵庫県)、北海道釧路湖陵高校同窓会館(1997)、NTT DoCoMo釧路ビル(1998)、丸亀市立城乾(じょうけん)小学校(1999)、コンサートホールのある病院、ふくしま医院(2000、釧路市、ふくしま医院コンサートホールUrari)、白糠町立茶路(ちゃろ)小中学校(2001、北海道)などがある。

1991年都市景観大賞受賞。1992年イギリス出版賞受賞、日本建築美術工芸賞受賞。1994年 メキシコ・アグアスカリエンテス市建築賞受賞。

設計思想は「東洋古来の風水思想」など様々に語られているが、鳥と魚などの自然や概念をモチーフとした「現代的なアールデコ建築」だと考える。

安藤忠雄や隈研吾の作品よりもデザイン性・色彩性は高いが、吹き抜けが多く、空間が無駄になっているともいえる。彼の作品は、実用性、メンテナンス面で非常に難があるデザインの建築物であることも指摘されている。

釧路市湿原展望台。釧路市北斗。

1984年竣工。日本建築学会賞。湿原のヤチボウズ(谷地坊主)をモチーフにして設計。

釧路市立博物館。釧路市春湖台1-7。

1983年竣工、日本建築学会賞。タンチョウヅルをモチーフに設計。

中三(なかさん)弘前店。弘前市土手町。

1962年開店、1995年毛綱毅曠の設計で増築。

釧路市 和商市場 勝手丼


自民党都議 石丸伸二氏の選対本部長務めた党関係者に「絶句した」「けじめをつけるべき」

2024年07月14日 06時44分34秒 | 社会

元アナの自民党都議 石丸伸二氏の選対本部長務めた党関係者に「絶句した」「けじめをつけるべき」

Yahoo news  2024/7/13(土) デイリースポーツ

 

川松真一朗氏

 

 元テレビ朝日アナウンサーで自民党の東京都議を務める川松真一朗氏が、13日放送のTOKYO MX「田村淳の訊きたい放題!」に出演。7日に投開票が行われた東京都知事選に関し、自民党の関係者が石丸伸二候補の選対本部長を務めたことに「絶句した」と明かし、選対本部長の小田全宏氏には「けじめをつけるべき」と指摘した。

 

 番組では、自民党都連の「TOKYO自民党政経塾」で塾長代行を務める小田氏が石丸氏の選対本部長を務め、政治評論家・田村重信氏も応援に回ったことを報じた。これに川松氏は「初めて聞いたとき、絶句してですね。何が起こっているのかと」と当時の衝撃を振り返った。

 

 さらに「自民党として、都知事選に対しては、公認とか推薦とか支持っていう候補者はいない」としつつ、「誰を応援してもファジーな状態。とはいえ、小田さんのような肩書きの方が先頭に立って石丸さんを応援するってことは、『僕の知らないとこで自民党ってみんな石丸さん応援してるの?』っていう、何が起きてるのかわからないぐらい混乱をしました」とも語った。

 

 一方で「小田さんは先頭に立ってましたけど、自民党の議員が石丸さんの選対に入ってやってたっていう話は何もないので、ご自身たちが演説の場でも話してますが、全く組織は関係なくて、個人として石丸さん応援したいと思ったから応援してるって話はしてましたね」と一定の理解も。それでも「自民党都連の執行部の会議の中でも話したんですけど、やっぱり小田さんに関しては何かしらのけじめをつけるべきじゃないかと思うんですよね」と主張した。

都知事選 石丸氏 選対本部長は萩生田光一議員主宰TOKYO自民党政経塾の小田全宏塾長代行