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「自治体はいいカモ」交付金に群がるコンサル 「デジタル農村」めざした3千人の村の現実

2024年07月20日 19時12分23秒 | 社会

「自治体はいいカモ」交付金に群がるコンサル 「デジタル農村」めざした3千人の村の現実

Yahoo news  2024/7/20(土)  AERA dot.

 

 国から地方自治体への交付金が、コンサルタントに狙われている。中には悪質なコンサルタントに踊らされている自治体もあるという。背景には何があるのか。AERA 2024年7月22日号より。

【図を見る】地方創生マネーはどこに流れている?

 

*  *  *

 今、新たな「地方創生バブル」が生まれている。狙われているのは、デジタル田園都市国家構想という交付金だ。

 この地方創生マネーを使って、人口約3千人の村が、デジタル農村を作ろうとしている。だが、実質的に主導しているのは民間企業だ。

 

 北海道・十勝にある更別(さらべつ)村は、デジタルで地域の課題解決を目指す「スーパービレッジ構想」を進めている。村議会の議事録や公開資料を読む限り、22年から今年春までの予算は約14億円。うち、投じられた交付金は約10.5億円にのぼる。

 村はこんな未来を予想した。スマホから注文すれば、店で買ったものをロボットが配送。自動運転車両が役場と温泉、診療所を往復。病院の予約もできる。ウェアラブル端末で測定したバイタル、睡眠などの情報を健康アプリに記録する

 昨年4月、視察した河野太郎デジタル大臣は記者会見でこう期待を込めた。「まずは十勝を中心に、将来的には全国的に横展開を進めていきたい」

 

 ただ、現実は厳しかった。

 配送ロボットは雪が積もると道路を走れなくなった。自動運転車両は不具合が続き、一時運休に。貸し出し用のスマホとして、中古スマホ800台を購入したが、貸し出されたのは昨年9月の村議会答弁によると80台強。元村民の30代女性は言う。

村の実態に合っていません。高齢者はデジタルを使いこなせないし、デジタルの需要がある若者人口はとても少ないのです。それよりも、地域を支える若者の雇用の場を作ることに力を入れてほしいです」

 

 村議会では「村民の要望や意見が反映されていないという声は少なくありません」という訴えもあった。

 この事業を実際に動かしているのは村と企業が昨年作った「ソーシャルナレッジバンク合同会社」という会社だ。事業予算のほとんどがこの会社に渡っている。村と地元企業4社、そして東京の企業4社の計9者でつくる。この会社の代表社員は、「長大」という東京の建設コンサルタントだ。

 

だが、村議会も事業の詳細がわからない。今年3月も村議から批判が出た。

事業の受注者である株式会社長大が事業の発注者であるソーシャルナレッジバンク社の代表社員でもあるという利益相反の構造がある」

 

■職員の価値観が背景「自治体はいいカモ」

 不正が起こったとしても、民間企業だから使途がわかりにくい東京五輪のときもそうだった組織委員会は民間団体ということで情報公開の対象ではないとされた。奈良女子大学の中山徹名誉教授(自治体政策学)は言う。

企業主導で始まると、企業の経営上の秘密ということになり、事業についての情報がなかなか出てこなくなります。情報公開が必要です」

 

 更別村は、デジタル田園都市国家構想交付金、地方創生臨時交付金(コロナ交付金)を使っている。今年度までの事業費14億円の4分の3が国の交付金だ。

補助率が大きく、金額が大きいと、企業がまだ開発できていないのに、自治体の事業に採択されることがあります。大阪府の空飛ぶクルマもそうですが、自治体が企業の開発費まで負担してしまっています」(中山名誉教授)

 

自治体はいいカモになりやすい」と話すのは、ある自治体のDX担当者だ。結果は二の次で、予算を使ったことが一つの成果。こう考える職員の価値観が、結果を出さなくていい悪質なコンサルを招くという。

「コンサルに振り回されて何年も無駄にしたら、その分だけ住民サービスの向上や業務の効率化が遅れます役人が優秀なコンサルかどうか目利きしなければなりません」(担当者)

 

 交付金に寄ってくるコンサルに踊らされないために、何ができるのか。まちビジネス事業家の木下斉さんは言う。

役所で癒着や横領の問題があると、競争入札にすべきだといわれます。癒着の温床にならないように、ジョブローテーションで異動もさせています。ですが、癒着や横領は裁判すればいい話。専門職員を養成し、その職員が外注すれば、コンサルや業者と対等に話せて内容を確認できます」

(編集部・井上有紀子)


福島県会津坂下町 恵隆寺・立木観音(会津ころり三観音) 重文・五十嵐家住宅 

2024年07月20日 15時52分27秒 | 福島県

重文・立木観音堂。恵隆寺(えりゅうじ)。福島県会津坂下町塔寺字松原。

2024年5月31日(金)。

柳津虚空蔵堂と「やないづ縄文館」の見学を終え、会津若松市方面へ向かい、会津ころり三観音の一つ

である「立木観音」に立ち寄った。旧街道から門前道に入ると広い駐車場があった。

奥から境内に入ろうとしたら、仁王門から入れという案内板があったので、駐車場入口へ戻って、仁王門から参道を進み、300円の拝観料を受付で支払って、ほかの数人の客と観音堂に入ると、テープの解説を聴かされた。

会津ころり三観音のうちで初めて、本尊を拝むことができた。幕で隠されている十一面千手観音は巨大で、脇侍群も数が多く壮観だった。抱きつき柱に抱きつくこともできた。当然堂内は撮影禁止である。

恵隆寺は、真言宗豊山派の寺院。山号は金塔山。本尊は十一面千手観音菩薩通称は立木観音。会津ころり三観音の一つで、会津三十三観音第31番札所である。

伝承によれば、欽明天皇元年(540年)に梁の僧・青岩高寺山(寺の北西、会津坂下町と喜多方市の境にある山)に庵を結び、その後、舒明天皇6年(634年)に僧・恵隆が恵隆寺と名付けたという。また、大同3年(808年)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したものという。いずれの伝承もにわかに史実とは認めがたいものであり、当寺の創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえない。しかし、会津で現存している寺院の中では最も古いとされている。伝説の寺、高寺が栄えた頃、この地には高寺への本道があり、大門があったという、現在も「大門」の字(あざな)が残っている。そして、村内に金をちりばめた壮麗な塔があったので、小金塔村と言っていた。

後、徳一が再建しているが、現在地に移ったのは、建久元年(1190)という。一時は周辺地域を支配するほどの一大伽藍を有し、36坊もの堂宇を擁していたが、現在は仁王門、本堂、観音堂(立木観音堂)のみが残されている。

重文・観音堂。

立木観音堂とも称され、鎌倉時代後期(1275-1332)の建立といわれている。その後、慶長16年(1611年)の会津地震で倒壊するが、元和3年(1617年)に修理・再建された。桁行5間、梁間4間、向拝一間の寄棟造で屋根は茅葺きである。木割雄大な和様建築で、剛健な風致があり鎌倉時代建築の特色を具えている貴重な建造物と評価が高い。

正面中央に一間の向拝を附加して、低い雨石葛石をまわしただけの地盤上に建てられ、四周には廻縁をめぐらし、主屋は全て円柱、縁長押、腰抜・内法長押、頭貫をわたしてある。柱頭に三斗を組み、斗拱間には揆束を飾り、軒は二重の繁すい、軒先を隅に軽く反らせて、屋根棟には地方特有の茅葺棟飾りを作っており、すべて和様の構架手法と細部形式を型通りに踏んでいる。

内部は巨大な円柱や豪壮な板壁などがあり、本尊の重文・十一面千手観音菩薩と脇侍の二十八部衆像、風神・雷神の像が完全に揃うのも見どころである。

木造千手観音立像。

42臂の千手観音像。一木造で総高8.5m、像高7.4mの大きさで、一木造としては日本最大級の仏像で、鎌倉時代の作といわれる。根が付いたケヤキ(カツラとも)の立木に直接彫り込んだ一木造りで、床下にはいまなおケヤキの根が張っていると言われ、長年「立木観音」と呼ばれて親しまれてきた。

千手観音と共に安置されなければならない二十八部衆や雷神・風神は2m弱の大きさで、密教様式を忠実に表現している。

堂内には「だきつきの柱」という大きな柱があり、観音様を見ながら柱に抱きつき願いごとをすると、“ころり”と成就できるとされている。

2000年に再建された境内の小金塔。

 

小金塔の横から駐車場へ戻ると、平地側に移築された重文・五十嵐家住宅が建っている。

重文・五十嵐家住宅。

旧五十嵐家住宅は、会津坂下町中開津の五十嵐氏より寄贈を受けたもので、桁行8間半、梁間3間半、床面積117.19平方メートル。直屋(すごや、曲り家ではない長方形の平面形態)の、江戸時代中期、会津盆地部の中堅層農家(本百姓)の典型的な三間取り広間型の家構えであり、梁束の墨書から享保14年(1729)の建築と分かった。土台がなく、丸石の上に直接柱が立てられている。

平成9年度に移築復原が終了した。

「おめぇ」とよばれる「なかのま」は土間に直接わらやムシロをひいた土座であり、どの部屋にも天井がないなど、古い様式が残っており、当時の庶民の生活をうかがい知ることができる。

 

このあと、昼食時間前到着となる下郷町の大内宿へ向かった。

福島県柳津町 やないづ縄文館②奥会津の縄文時代 石生前(いしゅうまえ)遺跡


根室市歴史と自然の資料館③オホーツク文化期 北のビーナス・牙製婦人像 

2024年07月20日 08時24分47秒 | 北海道

根室市歴史と自然の資料館。根室市花咲港。

2022年6月14日(火)。

オホーツク文化期は、5〜12世紀(北海道では9世紀まで)の間、アムール河口部からサハリン全域、北海道のオホーツク海岸、千島列島に展開した。その過程は土器型式から前期・中期・後期の三つの時期に区分できる。もっとも分布を広げていたのは中期(7世紀頃)である。後期(8〜9世紀頃)になるとオホーツク文化の中でも地域差が目立つ。

5世紀になると、それまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもった人びとが、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸にやってきた。この人びとの文化を「オホーツク文化」とよんでいる。オホーツク文化は日本海沿岸にも広がり、もっとも南では道南の奥尻島にも遺跡が知られている。しかしオホーツク文化の遺跡は、オホーツク海の沿岸部にあり、内陸部からは見つかっていない。この文化の人たちは「海洋の民」ともよばれている。

オホーツク文化の遺跡からは、帯飾り、軟玉、小鐸、鉾などが見つかっている。これらは、アムール川(黒龍江)中下流域の靺鞨文化(4~9世紀)同仁文化(5~10世紀)の遺跡から見つかるものと同じもので、オホーツク文化が、サハリン(樺太)や大陸などと交易や交流をもっていたことが分かる。

オホーツク文化には、同時期の続縄文文化・擦文文化とは大きく異なる三つの特徴がある。

一つめは、北海道からみて外来の文化となる点である。オホーツク文化の人々の骨からわかった顔かたちなどの形質を現代の東北アジア地域の人々と比較すると、ナナイ・ウリチなどのアムール下流域の人々に近いことが判明している。また、大陸の靺鞨系文化からもたらされた金属器などの大陸系製品が多く出土する点も、北方との海を越えたつながりを示すものとして注目される。

二つめは、海獣狩猟や漁労を生活の基盤とする高度な海洋適応が認められる点である。オホーツク文化の人びとは、漁労を行い、クジラやアザラシなどの海獣をとり、イヌやブタを飼い、大陸や本州との交易を行っていた。また、人びとは海岸近くに集落をつくった。住居は地面を五角形あるいは六角形に掘りさげた竪穴住居に住み、なかには長さが10mをこす大型のものもある。こうした大型住居には、15人以上もの人が共同で生活していたと考えられている。

オホーツク文化の遺跡は、北海道では全て海岸部に位置し、魚類や海獣類などの海産物を利用していた痕跡が多く残る。漁労や海獣狩猟に使われた銛頭や釣針などの狩猟具・漁労具も質・量共に多く出土しており、高い技術をもっていた。

三つめは、動物を対象とした儀礼の痕跡が目立つ点である。儀礼の存在を示すのは、竪穴住居内に設けられた動物の頭骨を積み上げた祭壇(骨塚)や、動物を表現した骨角器などの製品である。なかでもクマは、儀礼の対象として特別視されていた。

十和田式土器樺太の十和田遺跡を標式遺跡とする土器。外面より内面方向へ “ 突き ”、内側まで穴を貫通させずに、内面に “ 瘤状 ” の高まりをのこす技法は、円形刺突文もしくは突瘤文と呼ばれる。

土器を焼成する前に断面円形の棒状の施文具を使って、おもに土器の口縁部下の位置に、内面より外面方向へ “ 突き ”、外側まで穴を貫通させずに、外面に “ 瘤状 ” の高まりを残す技法である。

刻文系土器。根室市弁天島貝塚竪穴群出土。

貼付文土器。トーサムポロ湖周辺竪穴群出土。8~9世紀頃。土器の装飾に細い粘土紐を貼り付けている。この細長い粘土紐は形状が素麺に似ていることから「ソーメン文」や「貼付文」とよばれている。

トーサムポロ湖周辺竪穴群。根室市温根元のオホーツク海に面したトーサムポロ湖開口部右岸、標高10mの海岸段丘に位置する。オホーツク文化期の6軒の竪穴住居跡と10ヵ所の小貝塚があった。昭和11年(1936)から同15年に北構保男と須見洋によって調査が実施されたが、当時は竪穴住居跡が窪んで地表面から観察できた。しかし現在は埋まったり削られたりしており、地表面からは確認できない。オホーツク文化期の刻文土器とおびただしい骨角器、竪穴周辺の貝塚からは石匙・骨針・骨銛・骨斧・石鏃・管玉、人の頭蓋骨の一部、鳥管骨、鹿角器、ペン型骨銛などが多数出土している。遺跡周辺には擦文時代の墳墓があり、またトーサムポロ湖の周りには約1700軒の竪穴住居跡が肉眼で観察できる。

牙製婦人像。北のビーナス。温根元(おんねもと)竪穴群。

温根元竪穴群。根室市温根元。根室半島北面の温根元漁港の西の海岸段丘、標高10mに位置するオホーツク文化期の遺跡。隣接して根室半島チャシ跡群のヲンネモトチャシ跡がある。昭和41年(1966)と同42年に竪穴2個と貝塚が発掘された。ほかに竪穴と思われる窪み1ヵ所がある。一部は宅地造成・整地などで消滅している。発掘調査ではオホーツク式土器の貼付式浮文が主体で、炭素同位体法による年代測定では2310±90年前。

 

オホーツク文化の集落遺跡 熊木俊朗 東京大学大学院人文社会系研究科教授

1 集落遺跡の分布と立地

オホーツク文化は、5 世紀から 12 世紀まで(北海道では 9 世紀まで)、アムール河口部からサハリン、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に至る地域に拡がっていた文化である。北方起源の文化であり、海での生業を生活の基盤とする点や、動物儀礼の痕跡が多く認められる点など、併行する続縄文文化・擦文文化とは別系統の異質な文化として、北海道の先史時代史の中でも注目されてきた。

北海道におけるオホーツク文化の集落遺跡の分布は、礼文島・利尻島・稚内から根室半島に至るまでのオホーツク海沿岸部にほぼ限られている。オホーツク文化と重なる時期、すなわち7〜9 世紀の擦文文化の集落の分布をみると、上記の地域には進出しておらず、石狩低地帯や石狩川上流、日本海沿岸までの分布範囲となっており(塚本 2003)、両文化の分布域は排他的な関係となっていたことがわかっている。一方、オホーツク文化の終焉後に道東部に進出した擦文文化の竪穴群と、オホーツク文化の竪穴群とで規模を比較すると、遺跡の数や竪穴の総数はともに後者の方が少ない。ただし、例えばオホーツク文化で最大の集落遺跡となる栄浦第二遺跡では一地点に 53 軒の竪穴が残されており、オホーツク文化も個々の集落の規模自体は決して小さくはなかったとみられる。

集落遺跡の立地にも特徴がある。ほぼ全ての遺跡が海岸線から 1km 以内の地点に立地している点は、海が生活の舞台であったことをよく示している。同じ地域の擦文文化の集落遺跡と同様の立地の遺跡、すなわち河口部付近の砂丘上や台地上に位置する集落遺跡もあるが、小さな島や高い崖の上といったような、周囲から孤立し眼下に海を眺望するような地点に位置する例も目立つ。このような特異な立地も、この文化の集落遺跡を特徴づける点の一つといえる。

2 集落遺跡の構成と竪穴住居跡の特徴

オホーツク文化の集落遺跡を構成する主な遺構は、竪穴住居跡、土坑墓、貝塚(動物遺体の集中)である。これら三種の遺構が全て確認されているモヨロ貝塚や目梨泊遺跡などでは、墓は住居跡に近接した場所につくられており、貝塚も住居跡の近接地の竪穴の窪み内部などに形成されている。集落遺跡内にこれら三種の遺構が密接してつくられるという集落の構造も、この文化の特徴といえよう。ただし、特に墓については集落内に存在が確認されていない遺跡も多く、その点は各集落遺跡の性格を読み解く上で興味深い差となっている。

オホーツク文化の竪穴住居跡が特徴的な形態を有することはよく知られている。すなわち、形状は大型で六角形を呈し、床面上には「凹」の字形の粘土の貼床を設け、奥壁部にはクマの頭骨を中心とする動物骨等を積み上げた「骨塚」を有するのが一般的である。常呂川河口遺跡15 号竪穴では、複数の「家族」が一軒の住居跡に同居していたことをうかがわせる遺物の出土状況が確認されたが(武田 1996)、このような「大型住居内での同居」という居住形態の背景には、10 名程度が乗る船で行うクジラ猟など、協業の存在を想定する意見もある(大井 1979)。

ほかに、竪穴住居跡で興味深いのは、建て替えと、家を焼く行為である。オホーツク文化の竪穴住居跡では、同一地点に重複して家を建て替える例が見られる。ただし、遺跡によって建て替えのあり方は異なっており、建て替えられた住居が多い遺跡がある一方で、建て替えがほとんどみられない遺跡もある。建て替えの有無は後述する「拠点的な」性格の集落と関連する可能性があり、その背景が注目される。また、建て替えや廃絶の際に家を焼く行為が多くみられるのも特徴で、その割合は発掘された住居跡の 3 割以上に及ぶ(佐藤 2012)。これらの焼失住居については、アイヌの「家送り」儀礼と関連づける解釈が多くみられる。

3 「拠点的な」性格の集落遺跡とその指標

同じオホーツク文化の集落遺跡でもその内容は一様ではなく、地域間や集落間における様々な差が指摘されてきた。顕著な差としてまず注目されるのは、威信材の偏在である(高畠 2005)。

青銅製装飾品などの大陸系遺物や、蕨手刀・直刀などの本州系武具といった威信材は、道内のオホーツク文化の遺跡では目梨泊遺跡とモヨロ貝塚で突出して多く出土しており、偏在が認められる。この二つの遺跡は、大陸や本州との交易の拠点として機能していたと考えられている。

ほかに「拠点的な」性格と関連づけられる属性としては、住居跡や墓の数といった規模の側面がまずは考えられよう。窪みで残る住居跡数では栄浦第二遺跡(53 軒)、チャシコツ岬上遺跡(31 軒)、知床岬遺跡(28 軒)が多く、発掘された墓の数ではモヨロ貝塚(300 基以上?)、目梨泊遺跡(48 基以上)が突出して多い。

ほかに「極端な偏在」を示すものとして注目されるのは、骨塚に残されたクマ頭骨の数である。この数は、トコロチャシ跡遺跡 7a 号竪穴(110 個体)が突出して多く、実数は不明だが写真でみるとモヨロ貝塚 10 号竪穴の骨塚もほぼ同規模であった可能性が高い。これに続くのが常呂川河口遺跡 15 号竪穴(42 個体)、目梨泊遺跡 5 号竪穴(26個体)、栄浦第二遺跡 23 号竪穴(20 個体)となる。

また、集落内の大半の住居跡が同一地点に重複して建て替えられた例からなる遺跡も、集落の継続性や先住権といった観点から注目されるが、そのような例としては香深井 1 遺跡、目梨泊遺跡、トコロチャシ跡遺跡、モヨロ貝塚、弁天島遺跡がある。以上の属性は、それぞれの意味や背景は異なるものの、集落遺跡の性格を読み解く上での重要な指標の一つになり得ると考えられる。

根室市歴史と自然の資料館②縄文時代 初田牛20遺跡の土偶 縄文土器