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福島県会津若松市 国史跡・会津大塚山古墳

2024年07月07日 14時06分29秒 | 福島県

国史跡・会津大塚山古墳。福島県会津若松市一箕町八幡北滝沢。

2024年5月29日(水)。

磐梯町の国史跡・慧日寺跡を見学後、会津若松市の飯盛山西近くにある会津大塚山古墳へ向かった。墓地の中を上っていくと車道終点に案内板があり、登り口からすぐに古墳があった。

会津大塚山古墳は1920年(大正9年)に考古学者の鳥居龍蔵によって古墳として認められ、その後、1964年(昭和39年)に『会津若松市史』出版事業の一環として東北大学文学部考古学研究室(伊東信雄教授)による後円部の発掘調査が行われた。

この調査によって、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。

右が北。

前方部から後円部。

後円部。

後円部。

後円部から前方部。

会津大塚山古墳は会津盆地東部に立つ大塚山の山頂に位置し、4世紀末の築造とされる墳丘全長114m前方後円墳で、福島県では亀ヶ森古墳(会津坂下町青津)に次いで第2位、東北地方では第4位の規模を誇る。一箕(いっき)古墳群を構成する古墳の1つで、出土品は国の重要文化財に指定されている。

一箕古墳群では本古墳を含み3基の大型前方後円墳が確認されており、他の2基の飯盛山古墳(飯盛山山頂)、堂ヶ作山古墳(堂ヶ作山山頂)は本古墳よりも先の築造とされている。

会津大塚山古墳は、1988年の再測量の結果、全長114m、後円部径70m・高さ約10m、前方部前幅54m、墳丘途中に段をもつ前方部二段後円部三段築成の古墳であることが判明した。

また、古墳東側後円部と前方部に土手状の張り出し部が確認されたが、このような張り出し部は、古墳時代前期の前方後方墳である新潟市福井の山谷古墳など越後・北陸の古墳に特徴的にみられるものであり、畿内だけでなく越後・北陸地方からの影響も考えられている。

1964年(昭和39年)の調査では、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。また環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土している。

南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。北棺からも量は少ないが南棺と同様の副葬品が出土した。

南棺出土 三角縁唐草文帯三神二獣鏡(福島県立博物館展示)

後円部中心から出土した南北2基の割竹形木棺からは多くの遺物が検出されたが、その代表的なものは三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡(現在は否定論者も多い)は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。ちなみに会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。

環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。

南棺から出土した靭(ゆき)と銅鏃

出土品はほかに、南棺からは勾玉・管玉などの玉類、三葉環頭大刀や鉄剣などの刀剣類、鉄鏃や銅鏃などの工具類や砥石など合計279点、北棺からは紡錘車や管玉、刀子など95点が検出されている。

東北地方でこれだけ多くの副葬品が出土した古墳は他になく、副葬品の多くは優品で、畿内から移入されたもの、畿内文化の強い影響を受けたものが多いことから被葬者と大和朝廷との関係が注目される。また、遺物は南・北槨より出土の三角縁神獣鏡をはじめ、変形獣文鏡、捩文鏡、靱、碧玉紡錘車、素環頭大刀など、いずれも古墳時代前期を特色づけるものであり、その内容から見て、東北地方の古墳としては今のところ最古級に属する。

四道将軍の伝説。『古事記』『日本書紀』では、会津に関係する説話として四道将軍伝説が知られる。

「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた

この話はあくまでも伝説であるが、大和朝廷が会津を征服したことが読み取れる。また、崇神天皇が3世紀-4世紀頃に存在した実在の天皇と見られていることや会津大塚山古墳が4世紀末の造営と考えられることから、大和朝廷の会津支配の始まりや会津大塚山古墳の被葬者を知る上でも注目される伝説である。

 

見学後、飯盛山へ向かった。

福島県磐梯町 国史跡・慧日寺跡 慧日寺資料館 徳一 名水百選・龍ヶ沢湧水


釧路市立博物館③アイヌ文化 チャシ トミカラアイノ タサニシ

2024年07月07日 09時39分59秒 | 北海道

釧路市立博物館。釧路市春湖台。

2022年6月12日(日)。

 

チャシはアイヌ語で「柵・柵囲い」の意味を持ち、アイヌ文化期に構築されたものである。築造・使用年代はおよそ16世紀から18世紀にかけてと考えられ、1条または数条の壕(ごう)を持つものが多く、かつては戦闘用の砦として解釈されてきたが、砦としての役割のほか、聖地、資源監視場や談合の場所など、地域や時代ごとにいろいろな機能があったと考えられている。

釧路市内ではモシリヤチャシ跡、鶴ヶ岱チャランケチャシ跡が国史跡に指定されている。発掘調査例では桂恋(かつらこい)フシココタンチャシなどがあり、発掘調査では柵列の跡やウミガメを埋葬した施設も見つかっている。

 

 

釧路市フシココタンチャシは、海に臨む崖の上に所在し、半円状の壕が1条掘り込まれている。壕の幅は約6~11m、深さは2~3mを測る。

長さ27mの壕が半円状に掘り込まれている。壕の両斜面には、逆茂木状のものが在ったと考えられている。壕の内側には、柵列と考えられる柱跡が、1,5m前後で 21 ヶ検出されている。もっとも深いのは1mちかくもある。

アカウミガメ、ガラス玉、船釘、大量のシカの骨、陶磁器片が出土している。注目されたのはアカウミガメで、浅く掘られた土坑に頭部を海に向けた状態で埋葬されていた。カメは「海を所有する神」として崇められている。このことから、このカメは霊送りをされたと考えられており、祭祀をおこなったことが理解できる。18 世記の築造とされている。

(「北海道東部のチャシ」豊原熙司から)

モシリアのチャシに係わるヲニシトムシから続くタサニシの家系図である。この中で、メンカクシ(精一郎)が文献にはよく出てくる。

安政5(1858)年,釧路を訪れた松浦武四郎は,その地の乙名(首長)メンカクシ(和名精一郎)から,いわゆる釧路アイヌの先祖の活動の様子を聞取りしている。

トミカラアイノ,タサニシ,ヘケレニシの三名については,他の文献にも登場し,実在の人物であることが確かである。

二代目トミカラアイノの名は,「松前志」(松前広長,天明元年=1781年)にみることが出来る。すなわち宝暦中東部夷地のクスリノ酋長「トヒカライン」と云へる夷人福山(現松前町)に来て領主へ謁す」とあり、宝暦6(1756)年のことという。

文化6(1809)年の「東行漫筆」(荒井保恵)に,『安永8(1779)年頃のこと,タサニシは釧路アイヌの長で あり,彼自身が将となって桂恋のチャシに軍を集めたという。

「寛政蝦夷乱取調日記」寛政元年(1789)に、「クスリの長人タシャニシ病気・・・」とあり、クナシリ・メナシの戦いの時には釧路の首長であったことがわかる。

文化5(1808)年の「久寿里場所大概書」には,『久寿里乙名ヘケレニシ』とある。

桂恋のチャシについては、「東行漫筆」によると、タシャニシとクナシリのツキノエとの戦場とんあっとみられる。「かつらこいの昼休所を出て直に坂を登る。山道になる。此坂の上右之方海岸に出張たるにチャシあり、これは三十ケ年以前くなしりのツキノエクスリの乙名タシャニシと申ものたかひにあらそいてツキノエのいかたよりたから物をうばひに来るとき急てクスリの夷人タシャニシを大将として弓矢竹槍を持て此チャシに集まりたると云」。

仕掛け弓(罠猟)

 

12時30分ごろから1時間ほど見学し、出るときにチャシ見学について尋ねると学芸員が対応した。モシリヤチャシは事前予約が必要だという。崖が急だという。ハルトリチャランケチャシは、ここからすぐ北近くにあり、駐車場もあるという。春採台でビッグとダイソーに寄る予定もあったので、雨が降ってはいるがハルトリチャランケチャシへ行くことにした。

釧路市立博物館②縄文晩期 幣舞(ぬさまい)式土器 緑ヶ岡式土器 続縄文・擦文時代