国史跡・会津大塚山古墳。福島県会津若松市一箕町八幡北滝沢。
2024年5月29日(水)。
磐梯町の国史跡・慧日寺跡を見学後、会津若松市の飯盛山西近くにある会津大塚山古墳へ向かった。墓地の中を上っていくと車道終点に案内板があり、登り口からすぐに古墳があった。
会津大塚山古墳は1920年(大正9年)に考古学者の鳥居龍蔵によって古墳として認められ、その後、1964年(昭和39年)に『会津若松市史』出版事業の一環として東北大学文学部考古学研究室(伊東信雄教授)による後円部の発掘調査が行われた。
この調査によって、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。
右が北。
前方部から後円部。
後円部。
後円部。
後円部から前方部。
会津大塚山古墳は会津盆地東部に立つ大塚山の山頂に位置し、4世紀末の築造とされる墳丘全長114mの前方後円墳で、福島県では亀ヶ森古墳(会津坂下町青津)に次いで第2位、東北地方では第4位の規模を誇る。一箕(いっき)古墳群を構成する古墳の1つで、出土品は国の重要文化財に指定されている。
一箕古墳群では本古墳を含み3基の大型前方後円墳が確認されており、他の2基の飯盛山古墳(飯盛山山頂)、堂ヶ作山古墳(堂ヶ作山山頂)は本古墳よりも先の築造とされている。
会津大塚山古墳は、1988年の再測量の結果、全長114m、後円部径70m・高さ約10m、前方部前幅54m、墳丘途中に段をもつ前方部二段、後円部三段築成の古墳であることが判明した。
また、古墳東側後円部と前方部に土手状の張り出し部が確認されたが、このような張り出し部は、古墳時代前期の前方後方墳である新潟市福井の山谷古墳など越後・北陸の古墳に特徴的にみられるものであり、畿内だけでなく越後・北陸地方からの影響も考えられている。
1964年(昭和39年)の調査では、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。また環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土している。
南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。北棺からも量は少ないが南棺と同様の副葬品が出土した。
南棺出土 三角縁唐草文帯三神二獣鏡(福島県立博物館展示)
後円部中心から出土した南北2基の割竹形木棺からは多くの遺物が検出されたが、その代表的なものは三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡(現在は否定論者も多い)は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。ちなみに会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。
環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。
南棺から出土した靭(ゆき)と銅鏃。
出土品はほかに、南棺からは勾玉・管玉などの玉類、三葉環頭大刀や鉄剣などの刀剣類、鉄鏃や銅鏃などの工具類や砥石など合計279点、北棺からは紡錘車や管玉、刀子など95点が検出されている。
東北地方でこれだけ多くの副葬品が出土した古墳は他になく、副葬品の多くは優品で、畿内から移入されたもの、畿内文化の強い影響を受けたものが多いことから被葬者と大和朝廷との関係が注目される。また、遺物は南・北槨より出土の三角縁神獣鏡をはじめ、変形獣文鏡、捩文鏡、靱、碧玉紡錘車、素環頭大刀など、いずれも古墳時代前期を特色づけるものであり、その内容から見て、東北地方の古墳としては今のところ最古級に属する。
四道将軍の伝説。『古事記』『日本書紀』では、会津に関係する説話として四道将軍伝説が知られる。
「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」
この話はあくまでも伝説であるが、大和朝廷が会津を征服したことが読み取れる。また、崇神天皇が3世紀-4世紀頃に存在した実在の天皇と見られていることや会津大塚山古墳が4世紀末の造営と考えられることから、大和朝廷の会津支配の始まりや会津大塚山古墳の被葬者を知る上でも注目される伝説である。
見学後、飯盛山へ向かった。