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新潟県糸魚川市 糸魚川静岡構造線断層見学公園 フォッサマグナパーク

2024年03月30日 10時45分46秒 | 新潟県

フォッサマグナパーク。糸魚川静岡構造線断層見学公園。新潟県糸魚川市根小屋。

2023年10月5日(木)。

フォッサマグナミュージアム見学後、ブラタモリで紹介された現地2か所の見学に向かった。

糸魚川-静岡構造線は、フォッサマグナの西端で、その長さは約250kmに及び、日本列島を地質上、東西に二分する第一級の断層であり、山梨県早川町、山梨県北杜市などで見学することもできるが、糸魚川のフォッサマグナパークでは遊歩道や解説板が整備され、最も気軽に見学できるという。

国の天然記念物に指定されている断層露頭へは、国道148号沿いの駐車場から約500m、徒歩10分程度である。

対岸南側の県道沿いにある「渡辺酒造」は、ブラタモリでタモリが東日本と西日本の井戸水の飲み比べをしていた酒蔵で、糸魚川静岡構造線の断層上にある。国道沿いの駐車場に戻って、県道に入ると、右側にある。

南の県道側から。新しい断層により東西方向に糸静構造線はずれた。

渡辺酒造。糸魚川静岡構造線が通る。

 

渡辺酒造の見学を終えると13時頃になり、9月23日から13日間にわたった新潟県への車中泊旅行を終了。国道を南進し、塩尻から国道19号に入り、夕方には名古屋の自宅に帰宅した。

新潟県糸魚川市 フォッサマグナミュージアム ブラタモリ ヒスイ 糸魚川-静岡構造線 


新潟県糸魚川市 フォッサマグナミュージアム ブラタモリ ヒスイ 糸魚川-静岡構造線 

2024年03月29日 10時06分52秒 | 新潟県

フォッサマグナミュージアム。新潟県糸魚川市一ノ宮。

2023年10月5日(木)。

名勝・親不知子不知の見学を終え、糸魚川市街地方向へ引き返して、青海神社と寺地遺跡、その後、市街地南の丘の上にある国史跡・長者ヶ原遺跡(遺跡公園)、長者ヶ原考古館とフォッサマグナミュージアムを見学、最後に、南の根知にあるフォッサマグナパーク(糸魚川-静岡構造線 断層見学公園)を見学して新潟県の旅を終えた。

フォッサマグナミュージアムは高校生団体など入場者が多く、混雑していた。

第1展示室 魅惑のヒスイ

糸魚川の川や海で発見された美しいヒスイ原石が展示されています。

第2展示室 糸魚川の大陸時代

ヒスイの歴史や化学、古生代の変成岩や石灰岩を紹介しています。4.6トンの美しい小滝川産ヒスイの上には何やら物体が浮遊しています。

第3展示室 誕生 日本列島

フォッサマグナは、日本列島が誕生した時の大地の裂け目です。まだ、大陸であった恐竜時代の後に、日本列島は、アジア大陸から引き裂かれ、少しずつ今の形に変化してきました。ドイツ人地質学者、ナウマン博士が発見したフォッサマグナは、日本列島の誕生の秘密を解き明かしてくれます。

200インチの壁・床一体型の巨大スクリーンに展開される日本列島の誕生や、フォッサマグナと日本海の形成の映像は必ず見てほしい展示です。

フォッサマグナと日本列島

フォッサマグナは「大きな溝」

日本列島の真ん中には、大地をつくる地層を知ると見えてくる「大きな溝」があります。ドイツ人地質学者のナウマン博士がこの「大きな溝」を発見し、フォッサマグナと名づけました。フォッサマグナとは、ラテン語で「大きな溝」を意味します。ナウマン博士のフォッサマグナの東端がはっきりしないことから、現在は、左の範囲をフォッサマグナとしています(範囲についてはいくつかの説があります)。

大地の裂け目。

古い地層でできたU字溝のような溝の大部分は、かつての海底にたまった新しい地層によって埋め立てられました。これらが隆起した後、焼山や富士山を含む、南北方向の火山列ができました。フォッサマグナは、日本列島がアジア大陸から離れる時にできた大地の裂け目と考えられています。

糸魚川-静岡構造線

糸魚川-静岡構造線は、日本列島を地質学的な東北日本と西南日本に分ける断層であり、フォッサマグナの西側の境界断層でもあります。また、この断層は、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界とも考えられていますが、両プレートの境界については、いくつかの説があります。

ナウマン博士のフォッサマグナ ― 大地の大きな溝

フォッサマグナ(Fossa Magna)はラテン語で、「大きな溝」という意味です。

古い時代の岩石(おもに中生代・古生代、「薄い茶色」)でできた 、ほぼ南北方向の溝の中に、新しい時代の岩石(新生代、「緑色」)がつまっています。

この溝は、上空から見下ろしてわかるような、地形的な溝ではなく、山々をつくっている地層や岩石を知ってはじめてわかる「地質学的な溝」です。この「地質学的な溝」を、ナウマン博士は「フォッサマグナ」と呼びました。

ナウマン博士は、フォッサマグナの西縁を糸魚川 -静岡構造線、東縁を直江津-平塚線と考えました。

このようにフォッサマグナは、三次元の地質構造(二次元の広がりを呼ぶ場合もある。フォッサマグナ地域など)をさすものです。したがって、糸魚川-静岡構造線は、その西縁の境界面(断層面)ですから、「フォッサマグナ」と「糸魚川-静岡構造線」は同じ意味ではないことに注意してほしいと思います。

また、フォッサマグナのもう一つの地質学的な特徴は、フォッサマグナの真ん中に南北方向の火山列があることです。北から代表的な火山をあげると、新潟焼山・妙高山・黒姫山・飯綱山・八ヶ岳・富士山・箱根・天城山などです。

フォッサマグナの地下には、フォッサマグナの部分が落ち込んだ時にできた南北方向の断層があって、それを通ってマグマが上昇し、南北方向の火山列ができたと考えられています。

現在のフォッサマグナの範囲 溝の深さは、6000メートル以上

ナウマン博士がフォッサマグナを命名(1886年)してから、120年以上もたちましたから、日本列島の地質調査も大きく進展しました。この結果、ナウマン博士が予想したようなフォッサマグナの東縁を示す明瞭な境界(直江津-平塚線)は見つかりませんでした。

そこで、明瞭な地質学的な溝をさがすとすれば、図のように、西縁は糸魚川-静岡構造線、東縁は新発田-小出構造線と柏崎-千葉構造線にはさまれた地域となります。

現在、この地域をフォッサマグナと呼ぶことが一般的なようです(しかし、このフォッサマグナを認めない立場もあります)。この範囲フォッサマグナとすると、フォッサマグナの中に古い時代の岩石でできた関東山地が残って奇妙です。

しかし、関東山地を、フォッサマグナが落ち込んでできた時の落ち残りだと考えると、現在のフォッサマグナの範囲を受け入れることができそうです。

さて、フォッサマグナの溝の深さはどれくらいあるのでしょうか。黄丸印は、深さ6000m級のボーリング調査が実施された位置です。

しかし、それらのボーリングは、新しい地層の下にあるはずの古い時代の岩石に到達することができませんでした。

したがって、深さは6000m以上ということになります。また、北アルプス(古い時代の岩石)は標高約3000mあり、越後山地(古い時代の岩石)は約2000mありますから、それらの標高を足すと8000m~9000m以上の深さがあることになります。

ちょうど、ヒマラヤ山脈がすっぽり埋まってしまう、隠された溝があるのです。

 

糸魚川-静岡構造線の断層は、山梨県早川町、山梨県北杜市などで見学することができますが、フォッサマグナパークでは遊歩道や解説板が整備され、もっとも気軽に見学できます。

ということで、ブラタモリでも紹介されたフォッサマグナパークへ向かった。

新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館②


新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館②

2024年03月28日 10時42分17秒 | 新潟県

国史跡・長者ヶ原遺跡、長者ヶ原考古館。新潟県糸魚川市一ノ宮。

2023年10月5日(木)。

国史跡・長者ヶ原遺跡(遺跡公園)、長者ヶ原考古館は糸魚川市街地南の丘の上にある。

長者ケ原考古館では竪穴住居の一部復元模型や縄文土器、石器、ヒスイの玉などが展示されている。

常設展示室 「埋もれる大集落 長者ケ原 ~ヒスイの故郷~」

長者ケ原遺跡からの出土品をはじめ、当時を再現したジオラマや遺跡に関連する資料を展示。

長者ケ原1500年ものがたり/集落のくらし/祈り/生活を支えた道具。玉と斧/翡翠の広がり/体験コーナー(土器と石器の仕分け、土器パズル、縄文ファッション)。

長者ケ原遺跡は糸魚川市の中央を流れる姫川の東側、海岸から約2.5km、標高90m前後の高台に位置する縄文時代中期(5000~3500年前)に営まれた北陸最大級の集落跡で、姫川から流れ出たさまざまな石を加工し、蛇紋岩の石斧とヒスイの玉類の製作と流通の拠点として栄えた。

本遺跡を特色づける遺物としては、大珠をはじめとする硬玉製の玉類・硬玉原石・硬玉加工具があげられる。

姫川の上流、小滝川に硬玉原産地があり、長者ケ原の集落では、この溪谷から採取した原石を加工したものと考えられる。加工の際には硬く割れにくい性質を持つヒスイをハンマーとして使って、木の伐採や土掘りなどに用いた石斧を主に作り、各地に供給していた。

石斧作りの技法はヒスイの加工にも応用され、縄文時代中期になると本格的に大珠(たいしゅ・長さが5cmを超える大きな玉)が作られた。

遺物は縄文時代中期を主体とした土器、土偶人面・獣面把手などの土製品、石鏃、打製石斧、磨製石斧、石匙、石皿等の石器類及び岩偶などである。

長野県中・南部や関東地方から持ち込まれた土器。

 

このあと、至近距離にあるフォッサマグナミュージアムを見学した

新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館①


新潟県糸魚川市 ヒスイ生産交易拠点 国史跡・長者ヶ原遺跡 長者ヶ原考古館①

2024年03月27日 15時05分58秒 | 新潟県

国史跡・長者ヶ原遺跡。入口。新潟県糸魚川市一ノ宮。

2023年10月5日(木)。 

名勝・親不知子不知の見学を終え、糸魚川市街地方向へ引き返して、青海神社寺地遺跡、その後、市街地南の丘の上にある国史跡・長者ヶ原遺跡(遺跡公園)、長者ヶ原考古館フォッサマグナミュージアムを見学した。遺跡公園西入口のテニスコート横に9時前に着いた。考古館は9時開館なので、先に遺跡公園から見学した。全国的にクマが出没していたので熊鈴を持参した。

長者ケ原遺跡公園は、国史跡・長者ケ原遺跡を保存・公開するために整備され、発掘調査の結果を元に一部の竪穴住居などが復元されており、当時のようすをうかがい知ることができる。

考古館では竪穴住居の一部復元模型や縄文土器、石器、ヒスイの玉などを展示している。

長者ケ原遺跡は糸魚川市の中央を流れる姫川の東側、海岸から約2.5km、標高90m前後の高台に位置する縄文時代中期(5000~3500年前)に営まれた北陸最大級の集落跡で、姫川から流れ出たさまざまな石を加工し、蛇紋岩の石斧とヒスイの玉類の製作と流通の拠点として栄えた。

姫川の上流、小滝川には硬玉原産地があり、長者ケ原の集落では、この溪谷から採取した原石を加工したものと考えられる。加工の際には硬く割れにくい性質を持つヒスイをハンマーとして使って、木の伐採や土掘りなどに用いた石斧を主に作り、各地に供給していた。

石斧作りの技法はヒスイの加工にも応用され、縄文時代中期になると本格的に大珠(たいしゅ・長さが5cmを超える大きな玉)が作られた。

この時期の代表的な遺物であるヒスイ製大珠は、北陸地方を中心とし、中部、関東・東北地方などに広く分布するが、本遺跡はその製作遺跡の1つであり、学術的価値が高い。

遺物は縄文時代中期を主体とした土器、土偶や人面・獣面把手などの土製品、石鏃、打製石斧、磨製石斧、石匙、石皿等の石器類及び岩偶などである。

長者ヶ原式土器」の名称は本遺跡出土の土器を標式として命名されたものである。

本遺跡を特色づける遺物としては、大珠をはじめとする硬玉製の玉類・硬玉原石・硬玉加工具があげられる。

19・21号住居跡。

大きい円の上に小さい円が重なったようになっており、大きい円が19号、小さい円が21号住居の跡を示している。

21号跡より深いところに19号跡があるので、19号跡にあった住居を壊した上から新しく21号住居を建てたことが分かる。

20号住居(竪穴住居)。

地面を円形に掘り下げ、水平に床を固め、中央には石で囲った炉を設け、壁際には穴(柱穴と思われる)が掘られている。

これまでの調査範囲は集落跡の10%にすぎないが、このような形の住居跡が24棟も発見されている。

新潟県糸魚川市 国史跡・寺地遺跡 縄文の巨木祭祀 ヒスイ工房 


新潟県糸魚川市 国史跡・寺地遺跡 縄文の巨木祭祀 ヒスイ工房 

2024年03月26日 14時47分34秒 | 新潟県

青海(おうみ)神社。新潟県糸魚川市青海。

2023年10月5日(木)。

名勝・親不知子不知の見学を終え、糸魚川市街地方向へ引き返して、青海神社寺地遺跡、その後、フォッサマグナミュージアム長者ヶ原考古館を見学した。

青海神社は神武東征のさいに水先案内をした国津神の椎根津彦(しいねつひこ)を祀る式内社で、頸城国造家の根拠地であったと伝えられている。

椎根津彦の後裔は、頸城氏(くびきうじ、姓は直)、青海氏(おうみうじ、姓は首)がおり、倭国造と同族である。

頸城国造の支配領域は当時久比岐国と呼ばれた地域、後の越後国頸城郡西部、現在の糸魚川市に相当する。

系図学者の宝賀寿男は、大和川や青海川、青海町、青海神社など国造に関係した地名が糸魚川市に多く見られる一方、上越市や妙高市にはこれら地名が見られない。また深江の地名が頸城郡内にも存在したと見られ、郡内に高志深江国造の後裔氏族が居住していたことなどから、久比岐国造の本拠は糸魚川市に比定する方が妥当であると主張している。

国史跡・寺地(てらじ)遺跡。糸魚川市大字寺地字寺地。

繩文時代中期から晩期にわたる遺跡で、新潟県の西端、親不知にほど近い青海地区を流れる田海(とうみ)川左岸の低丘陵とそれに接する沖積地に営まれた。遺跡公園として公開されている。

縄文時代中期前半から晩期に至る硬玉及び蛇紋岩製石斧の工房跡と、晩期の極めて特異な配石遺構からなる寺地遺跡の内容は、繩文時代における硬玉生産の実態と、この地域における特殊な祭祀の形態をうかがわせるものとして、貴重である。

発掘調査の結果、竪穴式住居跡7軒が見つかり、ヒスイ玉などが出土した。特に竪穴式住居跡からは、多くのヒスイのかけらや未製品が出土しており、ヒスイの加工場として使われたと考えられている。

玉造工房跡とみられる竪穴住居跡と、巨大な四本柱を持ち、立石が囲んだ中に偏平な礫を敷きつめた信仰に関わる配石遺構、多量の土器・石器と植物性遺物及び叩石・石鋸・砥石・硬玉原石・硬玉製勾玉・丸玉・小玉など硬玉の玉作りに関する遺物が豊富に発見されている。

以上のことから本遺跡は硬玉の加工生産が行われた場であることが明らかになり、また配石遺構は繩文時代晩期の祭祀地として全国的に類例がない貴重な遺構として高く評価されている。

縄文時代の巨木柱の周囲から石棒や御物石器、焼人骨などが出土し、様々な祭祀が行われていたと考えられる。

また、数多く出土している中屋式土器(3200〜2900年前頃)は北陸地方との強い結びつきを示し、遮光器土偶の存在は東北地方との交流を物語る。

このほか、県内2例目となる縄文時代の丸木舟も見つかっている。

全形の検出されたI号竪穴(中期前半)は、径5mの円形の竪穴で、壁面に沿って幅50~70㎝のテラスを設け、中央南西寄りの部分に方形の石囲炉、北東部のテラス上に埋甕の施設をもつ。注目すべきは、この石囲炉の南に接して扁平な大形砥石が埋設され、またテラスの南壁に接する位置に、内部に細砂の堆積の認められる径60cm、深さ5cm程の浅い円形のピットがあり、それに接して径30cmの扁平な河原石と、この河原石に乗せた砂岩質の砥石が検出されたことである。

竪穴内部からは、中期前半の土器とともに、姫川あるいは青海川の河床で採取したとみられる多数の硬玉礫、硬玉の完成品・未成品、蛇紋岩製の石斧及びその未成品と、石鏃・石槍・叩石・石錘などの石器、蝋石製大珠などが検出されており、このI号竪穴において、硬玉を主とする玉類の生産が行われたことが明らかである。

また、VI号竪穴(中期中葉)においては、I号竪穴と同様の工作用とみられる浅い円形のピット、砥石、硬玉礫などとともに、多数の蛇紋岩製石斧の未成品と剥片が検出されており、硬玉の生産と同時に、硬玉の母岩である蛇紋岩を利用した石斧の生産の行われたことがうかがえる。こうした各竪穴の出土品の内容は、他のIII・V号竪穴(中期)やIV号竪穴(後期末)、II号竪穴(後期-晩期)についても全く同様であり、この遺跡が中期の前半から晩期までの長期間を通じて、硬玉を主とした玉類と蛇紋岩の石斧を生産した、生産の遺跡であることが判明したのである。

竪穴群の東方の低地部分で検出された配石遺構は、東西12m、南北16mの拡がりを持ち、柱状あるいは扁平な河原石の立石でつくられた区画と、その内部及び外周を埋める扁平な河原石の敷石からなっている。

配石遺構の主要部は、西北部の長径5m、短径3mの楕円形の環状配石と、その東方にある中央敷石部分に径60cmの巨大な木柱4本をもつ、一辺4mの方形配石、方形配石の南方に拡がる三重の弧状配石と、中央部に位置する径2mの炉状配石の4種の配石で構成されている。

環状配石内部から、大形の甕形土器に納めた小形の壺形土器1(晩期)と朱漆塗の櫛・骨片が、また炉状配石の内部からは、土器片・砥石片・石斧・硬玉とともに、一部獣骨を含む多量の人骨片(10体分以上)が出土している。

4本の木柱をもつ方形配石では、三隅に石棒を立てており、配石内部から、独鈷石と朱漆塗の櫛数個が出土した。

新潟県糸魚川市 国名勝・親不知 子不知「おくのほそ道の風景地 親しらず」