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福島県喜多方市 熊野神社長床 山都そば

2024年07月14日 14時47分45秒 | 福島県

熊野神社長床。福島県喜多方市慶徳町新宮字熊野。

2024年5月30日(木)。

会津坂下町の亀ヶ森古墳・鎮守森古墳を見学後、熊野神社長床(ながとこ)へ向かった。

新宮熊野神社は、本宮・新宮・那智の熊野三山を祀っている。国の重要文化財に指定されている熊野神社長床(ながとこ)と呼ばれている拝殿があることで有名である。現在は、長床のほか、熊野三社本殿、文殊堂、観音堂が残されている。また、長床前にある大イチョウは高さ30m・根本周り8.1mで樹齢は600年といわれ、喜多方市天然記念物に指定されている。

新宮熊野神社は、平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。

最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたというが、12世紀末に越後の城長茂の押領により一時衰退した。その後、源頼朝によって200町歩の領田を与えられて再び勢力を取り戻した。奥州合戦後に会津を与えられた佐原義連の孫・時連は神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、これ以後約200年間会津盆地北西部(現在の喜多方市一帯)を支配することとなった。新宮氏は神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると、後ろ盾を失ったことから神社は衰退していき、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれた影響もあって社殿は荒れ果てたものになっていたという。

慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時に50石を支給されたが、慶長16年(1611年)の会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった。その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて多くの仏像や文化財が失われてしまったが、神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。

重文・熊野神社長床。

長床とは修験道(山伏)で用いる言葉で用途は拝殿とほぼ同じである。寄棟造、茅葺、正面9間、側面4間。建立年代は不明であるが、形式・技法から平安時代末期から鎌倉時代初期には拝殿として建立されたと思われる。その後、慶長16年(1611年)に大地震で倒壊し、同19年(1614年)に旧材を用いて再建されたが、かつてのものよりも一回り小さいものとなってしまった。1971年~74年にかけて解体修理復元工事が行われて、かつての姿に復元された。

長床の平面は、間口27m・奥行12mの長方形で、直径1尺5寸(45.4cm)の円柱44本が10尺(3.03m)の間隔で10列×5列に並び、柱間はすべて吹き抜けで壁がない。柱上には平三斗(ひらみつと)の組物が置かれ、中備(なかぞなえ)には間斗束(けんとづか)が用いられているなど純然たる和様建築である。

奥の上段にある熊野神社。

のちほど見学した喜多方「蔵の里」に熊野神社長床関係の展示があった。

山都そば伝承館。飯豊とそばの里センター。喜多方市山都町沢田。

日本百名山の飯豊山には1990年代末に登頂した。帰路に泊まった飯豊山荘の小屋主の母と息子は興味深かった。帰りのバスが来る前に、一人の客が蕎麦を注文して、母親が作って出した抹茶色の蕎麦が羨ましかった。そこで、熊野神社長床を見学後、山都町で蕎麦を食べてから、喜多方へ向かうことにした。

旅行雑誌で蕎麦店を検討したが、予約や定休日が面倒なので、ショーケース的な店を選んだ。11時30分頃到着。

伝承そば 900円。

 

このあと、喜多方「蔵の里」へ向かった。

福島県会津坂下町 福島県最大の古墳・亀ヶ森古墳と鎮守森古墳



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