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釧路市 毛綱毅曠(もづなきこう)の建築 反住器 釧路市立幣舞中学校

2024年07月14日 10時30分37秒 | 北海道

NTT DoCoMo 釧路ビル。北海道釧路市北大通10丁目1−1。1998年竣工。

2022年6月13日(月)。

毛綱毅曠(もづなきこう)の建築はJAFの雑誌を通じて、1980年代後半から90年代前半に知っていた。現代的なビルとは違い、古代神殿のような重厚さが印象的だった。円空と同じく気にはなっていたが、今回の旅行ではわざわざ見学テーマとはしなかったが、釧路市湿原展望台のミニ展示を見て、釧路市内の作品を5軒ほど見学してみた。また「反住器」は北海道立釧路芸術館で設計図を見たが、どういう建築なのか見たくなった。

入手した「くしろガイドマップ2022」に紹介されていたので、和商市場での勝手丼体験を終えたのち釧路駅から近い順に見て回った。

まず、NTT DoCoMo 釧路ビルへ向かい、路上駐車できる場所を探し回って東側の脇道に駐車した。

大通りの同じ側だったので全体が撮影できなかった。反対側に回るのが面倒だったので諦めた。

毛綱毅曠設計「反住器」。釧路市富士見1丁目5。

反住器(はんじゅうき)は、北海道釧路市富士見に所在する建築物。1972年に建築家毛綱毅曠の母親の住まいとして建てられた。

「NHK 釧路が生んだ奇才・毛綱毅曠(もづなきこう)の建築を追う」で紹介されている。

毛綱毅曠の初期の代表作であり、一辺7.4メートル、3.8メートル、1.7メートルの3つのキューブが重なった入れ子構造となっている。これは「反機能」を「入れ子」の概念で表現しようとしたものである。一面が約55平方メートルの立方体の中に重心をずらして2つの立方体が入れ子に組まれ、それぞれ皮膚反応器、肉体応答器、環境暗号器の名称をもつ。

デビュー作、反住器(1972)は毛綱の重要な作品である。ガラスを多用し、入れ子状の箱からできた住宅であり、毛綱の母によって住まわれた住居であるが、住居としての機能性を否定した器であることから「反住器」と命名された。作品としての反住器は同世代の建築家、たとえば相田武文(あいだたけふみ)の涅槃(ねはん)の家と共通したポエジー、つまり文学的なメタファーや形態的な操作を前面に出し、住居としての基本的な要素、すなわち居住性や解放感を否定するという偽悪的な身ぶりを示した。

受賞

日本建築家協会25年賞 (2004年)

DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築 (2006年)

釧路フィッシャーマンズワーフMOO / EGG 釧路市錦町2-4   1989年

幣舞橋から。釧路川沿いにある釧路フィッシャーマンズワーフMOOは1989年の作品で、外観のタンチョウを模した鉄骨や、毛綱建築特有の風水の思想が取り入れられた螺旋構造。

幣舞橋から。釧路センチュリーキャッスルホテル。釧路市大川町2-5 1987年 

釧路センチュリーキャッスルホテル。釧路市大川町2-5 1987年 

船をモチーフにした外観、特徴的な窓。

釧路市立幣舞中学校(旧・釧路市立東中学校)   釧路市春湖台1−3 1986年

毛綱毅曠(本名:毛綱一裕、1941~2001年)は、釧路市生まれの建築家で、日本建築学会賞作品賞など多数受賞している。

神戸大学工学部建築学科卒業(1965)後、同学科助手(1966~1976)を務めながら毛綱モン太名で設計、建築雑誌などに執筆活動を始める。1971年(昭和46)神戸にアトリエを構える。1976年東京に拠点を移し、毛綱毅曠建築事務所設立。1995年(平成7)より多摩美術大学教授。

 1978年、同世代の建築家、六角鬼丈(ろっかくきじょう)、石山修武(いしやまおさむ)(1944― )らと「婆娑羅(ばさら)グループ」を結成した。彼らは建築名称やスケッチに偽悪的な身ぶりを隠さず、その根拠を東洋思想、宇宙観、宗教観に求めた。1970年代後半から1980年代のポスト・モダニズムの建築潮流のなかでひときわ目だったデザイン志向をもったグループである。毛綱による陰陽の間、鏡の間、間(あい)の間(いずれも1980)はみな住宅であるが、宗教的な主空間を中心にもうけ、上記のような思想を表現した。

 毛綱の代表的な作品は石川県能登島ガラス美術館(1991)である。ガラス工芸を興した小さなコミュニティの核となる美術館だが、毛綱はその立地を中国の古代思想「四神相応(しじんそうおう)」の風水で解釈した。つまり東方の流水(青龍)、西方の大道(白虎)、南方の低地(朱雀)、北方の丘陵(玄武)の四神が護る地を建築化したのである。1980年代の毛綱は小さな住宅を中心に独特な宇宙観の実空間化を模索し続けたが、この美術館の手法は大自然を控えた広大な敷地において十全に発揮できたのである。

 1985年に釧路市立博物館(1984)、釧路市湿原展望資料館(1984)で日本建築学会賞を受賞する。多摩美術大学の環境デザイン学科主任教授として教鞭をとるなかで突然の死を迎えたのであるが、さらなる展開を作品に残すことはできなかった。平成13年没。享年59歳。

 そのほかのおもな作品としては、屈斜路コタンアイヌ民俗資料館(1982、北海道弟子屈町)、釧路市立東中学校(1986。現、幣舞中学校)釧路キャッスルホテル(1987)、釧路フィッシャーマンズワーフMOO(1989)、にしわき経緯度地球科学館(1993、兵庫県)、北海道釧路湖陵高校同窓会館(1997)、NTT DoCoMo釧路ビル(1998)、丸亀市立城乾(じょうけん)小学校(1999)、コンサートホールのある病院、ふくしま医院(2000、釧路市、ふくしま医院コンサートホールUrari)、白糠町立茶路(ちゃろ)小中学校(2001、北海道)などがある。

1991年都市景観大賞受賞。1992年イギリス出版賞受賞、日本建築美術工芸賞受賞。1994年 メキシコ・アグアスカリエンテス市建築賞受賞。

設計思想は「東洋古来の風水思想」など様々に語られているが、鳥と魚などの自然や概念をモチーフとした「現代的なアールデコ建築」だと考える。

安藤忠雄や隈研吾の作品よりもデザイン性・色彩性は高いが、吹き抜けが多く、空間が無駄になっているともいえる。彼の作品は、実用性、メンテナンス面で非常に難があるデザインの建築物であることも指摘されている。

釧路市湿原展望台。釧路市北斗。

1984年竣工。日本建築学会賞。湿原のヤチボウズ(谷地坊主)をモチーフにして設計。

釧路市立博物館。釧路市春湖台1-7。

1983年竣工、日本建築学会賞。タンチョウヅルをモチーフに設計。

中三(なかさん)弘前店。弘前市土手町。

1962年開店、1995年毛綱毅曠の設計で増築。

釧路市 和商市場 勝手丼



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