〔「待合室」に、2007年9月13日(第228回)、2007年9月20日(第229回)、2007年9月27日(第230回)、2007年12月6日(第241回)、2008年1月7日(第246回)、および2008年1月15日(第247回)掲載。2008年10月27日、統合および一部修正の上で、別室13として再掲載。2010年10月17日、別室12へ移行。2010年11月28日掲載終了。〕
(以下は、第246回として2008年1月7日に掲載したもので、一部を修正しました。)
この辺りを歩いていると、何故か、遠くへ行った、あるいは遠くからやって来たという感じがしません。近所を歩いているかのような、あるいは東京の何処かを歩いているかのような感覚に包まれます。
街道筋など、歴史を感じさせる街は、歩いているだけでも楽しいものです。とくに九州は、古代からの歴史の重みなどを感じさせる場所が多いのですが、そのような点で、私が大分市に住んでいた頃から大分県内でとくに好んでいた場所が、宇佐市の宇佐神宮、そして日田市の豆田界隈です。
「天領まちの駅」という施設です。よく、国道に「道の駅」という施設がありますが、それと似ており、休憩所あるいは土産物屋というところでしょうか。
駅というので思い出したのですが、実は、この豆田のあたりには軽便鉄道が通っていました。筑後軌道といい、久留米市からこの豆田あたりまでの路線でした。50キロメートルを超えますから、軽便鉄道としてはかなり長い距離であると言えます。久留米市付近では小さな電車も走っていたそうですが、現在の朝倉市や日田市では蒸気機関車が走っていたようです。残念ながら、昭和初期に、久大本線の開業と引き換えに廃止されています。
現在でも日田市の三隅川、夜明付近には橋梁の痕跡があるそうですが、この豆田には軽便鉄道の駅の痕跡は見当たりません。
ここはお寺だったでしょうか。ちょうど、修繕か改築の作業をしているところでした。片手に案内用の地図を持って歩いている訳ではないので、よくわかりません。首からデジタルカメラをぶら下げて、デイバッグを背負いながら歩いているのです。
豆田町を北のほうに歩いていきます。北端のほうに川が流れています。花月川です。その川に近づくと、このように、このあたりでもとくに風情のある建物があります。橋に向かうために上り勾配になっていて、そこに、南北に長い壁と屋根が見えます。大きさからして、個人の建物ではなく、昔からの商売屋さんの建物だと思われるのですが、何の建物なのでしょうか。
造り酒屋の建物でした。クンチョウ酒造です。ここには酒蔵資料館もあります(ちなみに、この時は入っていません)。ここからでも、酒樽が見えます。
現在の社名はカタカナで書くのが正式であるようですが、主要な製品である薫長は、同じ読み方ですが漢字で記します。大分県には、日本酒(清酒)の酒蔵があまり存在していないと記憶していますが、ここはその酒蔵の一つです。
但し、日本酒については、あまり詳しいことを知りません。実は、私は日本人なのに日本酒、とくに清酒が苦手であり、ほとんど飲まない、というより飲めないのです(屠蘇も飲めません)。大分市に住んでいた頃には、それこそ焼酎はよく飲んでいましたし、宮崎県と鹿児島県を車で走り回った時には車のトランクが焼酎だらけになり、当時の自宅に帰ってから処理が大変だったほどでしたが、日本酒は全くダメでして、そのために全く味も何もわかりません。従って、残念ながら薫長を飲んだこともありません。日本酒を好むのであれば、酒蔵資料館に入って試飲くらいはしたいと思うのでしょう。ただ、私は、昼間から酒を飲むようなことはしませんが。
江戸時代中期から後期に建てられた酒蔵資料館です。おそらく、徐々に建て増したか、再建をしたか、ということなのでしょう。その後も、現在まで補修などを何度も重ねているはずです。
昨年買った電子辞書で調べてみると、元禄は東山天皇の時の年号で、1688年9月30日から1704年3月13日まで、安永は後桃園天皇および光格天皇の時の年号で1772年11月16日から1781年4月2日まで、文政は仁孝天皇の時の年号で、1818年4月22日から1830年12月10日まで、安政は孝明天皇の時の年号で、1854年11月27日から1860年3月18日まで、とのことです。
(私は1968年生まれなので、当然、日本史で歴代の天皇と在位期間、元号などを暗記するというような教育を受けていないのですが、必要な場合もあるものです。)
よく考えてみると、九州では日本酒の銘柄が少ないはずです。記憶に誤りがなければ、宮崎県と鹿児島県には日本酒を醸造しているところはないはずです。気温の関係だという話を聞いたことがあります。大分県や熊本県は、日本酒醸造の南限ということになるのでしょう。
入口の南側に、酒林または杉玉の由来に関する案内板があります。下のほうは草に隠されていて読みにくいのですが、御覧下さい。
その杉玉が上の写真に登場する球です。酒屋の看板として掲げられているとのことですが、私はあまり見たことがありません。おそらく、造り酒屋などに目を留めるようなことがなかったからでしょう。それに、京都で某有名日本酒醸造メーカーのそばを通ったことがあるのですが、それは酒蔵というよりは大規模な工場で、どこかの製鉄所か化学工場かというような施設でした。
花月川に橋があります。ここで豆田は終わりとなり、橋を渡ると別の町となります。大分交通系のバスが、この橋を超え、現在は中津市の一部となっている山国町の守実温泉まで走って行きます。以前は、さらに耶馬渓を経由して中津駅前までのバスが通っていましたが、現在も走っているのでしょうか。
少々読みにくい字体ですが、一新橋という名前の橋です。
私は、この日、福岡の天神バスセンターから特急バスに乗って田川後藤寺に出て、田川後藤寺から日田彦山線のキハ125形単行に乗って日田に出てきたのでした。途中、宝珠山駅を通ります。この駅を単行が発車した途端に、福岡県を出て大分県に入ります。およそ2年9ヶ月ぶりの大分県、そしておよそ4年ぶりの日田市です。
それから何時間か経ち、花月川のほとりに立っています。奥に見える山々の近くを通って、大分県に入ってきたのです。久大本線は左側のほうを走っているはずです。大分市に住んでいた頃には、大分自動車道を使ってここまでやってきたことも何度かあります。大分自動車道は右側のほうを通り、山を超えて萩尾から杷木、甘木、鳥栖のほうへ抜けます。
日田市は大分県内にありますが、大分市に出るよりも福岡市に出るほうが楽です。近いですし、日田バスセンターからですと福岡県方面に走るバスばかりが出ています。列車も同様で、由布院・大分方面よりも久留米・博多方面に向かう列車の本数のほうが多いのです。
先ほどのクンチョウ酒造の北側に、公園のようになっている一角があります。こじんまりとしていますが、庭園のようで、なかなか趣向が凝らされているとも言えます。歩き疲れたら、こんな場所で一服するのもよいでしょう。私が歩いている時には、人がほとんどいなかったのですが、これは平日の昼間であるからでしょう。
この公園の中に、コミュニティバスの停留所であることを示す標識と時刻表があります。本数は極めて少ないですし、日田駅からであれば、バスを待っているより歩いたほうが速いでしょう。これではコミュニティバスの意味があまりないのですが、全国的に見てもそれが現実のようです。
コミュニティバスと言えば、私は渋谷区と東松山市のバスに乗ったことがあります。渋谷区のコミュニティバス(ハチ公バス)は、比較的本数が多いほうですが、それでも1時間に2本くらいであり、一方向にしか行かない路線なので、100円と安いとはいえ使いにくいものです(おまけにバス共通カードもパスモも使えません)。東松山市のほうは、2006年6月7日、東松山市きらめき市民大学での講義を行うために利用したのですが、1日にわずか5本ほどで、おまけに定刻になってもバスが来ないのです。道路が渋滞していないことは明らかで、運転士同士の私語という、非常に許し難い愚かな理由によって遅延したのです。これでは使い物にならないので、翌年の講義の際には私が愛車を運転して行きました。
日田市のコミュニティバスも、少なくとも観光客にはわかりにくい存在です。地元の人々にさえわかればよいのでしょうが、果たして、どれだけの人が利用しているのでしょうか。友田地区にも路線があるようですが、やはり本数は少ないようです。通勤や通学には使えないでしょう。何かの本で読んだのですが、新潟交通電車線廃止後の月潟村あたりのコミュニティバスは1日3本しかないという話です。老人が病院に行くために利用するとしても、この本数では使えないのではないでしょうか。
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