ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

今年は

2020年06月04日 08時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 2020年は、ベートーヴェン生誕250年であり、マックス・ヴェーバー没後100年です。

 1920年のヴェーバー死去の原因はスペイン風邪による肺炎だということです。ちょうど100年後に新型コロナウイルスが大流行したというのは、ただの偶然なのでしょうか。

 ベートーヴェン生誕ということであれば、私は幼少時からベートーヴェンの交響曲第5番、第6番および第9番、ヴァイオリン協奏曲、ロマンス第2番、ヴァイオリン・ソナタ第5番および第9番などに親しんでおり、その後も様々な作品を聴いてきました。交響曲全曲、ピアノ協奏曲全曲、弦楽四重奏曲全曲、ヴァイオリン・ソナタ全曲、ピアノ・ソナタ全曲、チェロ・ソナタ選曲、などをCDで購入しています。妻も好きなので、CDを買ってあげたりしていますが、私はやはり後期弦楽四重奏曲をしっかりと聴き直したいと思っています。2月22日、サントリーホールでアンネ・ゾフィー・ムターさんなどによる弦楽四重奏曲編成でのコンサートでは第10番が演奏されましたが、変ホ長調であれば第12番を忘れてはならないでしょう。

 そしてマックス・ヴェーバーです。どういう訳かわからないのですが、先月、岩波新書として今野元『マックス・ヴェーバー 主体的人間の悲喜劇』、中公新書として野口雅弘『マックス・ヴェーバー 近代と格闘した思想家』が発売されました。中公新書のほうは途中までしか読み進めていませんが、岩波新書のほうを読み進めて、当時のヨーロッパ知識人の限界が鋭く描かれていると感じました。そして、その限界は現在の社会思想などについても妥当するところがあるのではないかと思われるのです。

 

コメント

行政法の講義を履修している学生に、とっておきの参考書

2020年06月03日 18時11分30秒 | 本と雑誌

 大東文化大学法学部の「行政法1A」および「行政法1B」、社会学部の「行政法」、国学院大学法学部の「行政法1A」および「行政法1B」、中央大学経済学部の「行政法」、そして東洋大学大学院法学研究科の「行政法演習ⅡA」および「行政法演習ⅡB」を履修している学生に。

 次の本を、参考書として追加します。

 石川敏行『新プロゼミ行政法』(実務教育出版) Proseminar des Verwaltungsrechts

 わかりやすいだけでなく、中身の濃い教科書です。石川先生らしいなと思ったのは、最近の行政法の教科書では珍しく、英語やドイツ語の単語(勿論、専門用語などにあてられています)がふんだんに散りばめられていることです。

 私が学部生であった時に『はじめて学ぶプロゼミ行政法』が発売されました。私も買い、長らく読み続けていました。その時には有斐閣アルマシリーズと同じくらいのサイズであったと記憶しています。

 しばらく絶版になっていましたが、サイズも大きくなり、復活しました。読みやすさは前のプロゼミ以上になりましたし、内容も大変に濃くなりました。本のサイズからすれば凝縮されたという印象を持ちます。私も再勉強しようという気になっています。

 

 

コメント

北神急行電鉄北神線が神戸市営地下鉄北神線になった

2020年06月02日 07時00分00秒 | 社会・経済

 このブログでも北神急行電鉄の話題を取り上げました。2018年12月29日0時0分0秒付の「北神急行電鉄が神戸市営に?」および2019年3月30日0時0分0秒付の「北神急行電鉄の市営化で合意」です。

 2020年6月1日、北神急行北神線は神戸市営地下鉄北神線になりました。

 神戸市も、公式サイトに「北神急行線の市営化について」という記事を掲載しており、「神戸市交通局は、令和2年6月1日より北神急行線にかかる資産等を阪急電鉄グループより譲り受け、北神急行線を市営化いたします」と発表しています。

 この件については神戸市、北神急行電鉄、神戸高速鉄道の三者が国土交通大臣に対して申請を行っており、3月4日に認可されました。

 譲渡人は北神急行電鉄、譲受人は神戸市、譲渡金額は198億円(但し税別)、譲渡区間は北神線の7.5キロメートル、譲渡日は今年の6月1日です。ちなみに、譲渡金額は簿価より安いそうです。

 北神急行電鉄は北神線を手放しましたが、北神線の運行業務は神戸電鉄に委託されるようです。なお、北神急行電鉄という会社自体の将来については報じられていなかったのでわかりません。

 

コメント

川崎市立の学校も6月1日から再開

2020年06月01日 13時01分30秒 | 社会・経済

 うちの近くに川崎市立の小学校があります。例年、休暇中でなければ、平日に音楽室から歌声や笛の音などが聞こえてくるので、授業中だとわかります。

 今日(6月1日)は、3月4日から5月31日までの3か月弱も続いた臨時休業から明けた再開日なのですが、静かです。本当に再開したのかと思えるくらいに静かです。

 おそらく、一斉に通常通りの教育活動を再開したのではなく、学級ごとか学年ごとかはわかりませんが、分散登校ということにしたのでしょう。

 川崎市は、5月21日の時点において「市立学校の再開について」を発表しています(http://www.city.kawasaki.jp/880/cmsfiles/contents/0000115/115490/020521saikai.pdf)。その後に新しい情報がないので、この通りに進んでいるものと思われます。

 分散登校は今月12日まで、通常登校は今月15日から7月31日まで、夏休みは8月1日から同月16日までとなっています。ただ、8月3日から同月7日までが「学習補充奨励期間」となっており、補習などが行われる可能性もあるので、実質的な夏休みは8月8日から同月16日までの約1週間程度と考えてよいのでしょう。

 休みが長期にわたったので、児童、生徒の心理状態がいかなるものか、気になります。再開後に様々な、深刻な問題が出てこないことを祈るばかりです。

コメント

解除は早過ぎた? 難しい判断を迫られます

2020年06月01日 00時00分00秒 | 社会・経済

 4月と5月、気分は鬱でした。鬱病とは違うということになるでしょうが、気力も何もでない日、時間が多かったのでした。 

 昨日(5月31日)の夜、たまたまYahoo! Newsをみたら、福岡県のRKB毎日放送が速報を出していました。共同通信社も報じていました。

 北九州市で新型コロナウイルスのクラスターが小学校でも発生したということです。数日前には特別養護老人ホームでも発生していました。

 PCR検査が十分に実施された訳でもないので、第二波と考えるべきなのか、第一波がまだ収まっていないと考えるべきなのか、判断が難しいところでしょう。私は、第二波が到来したのではなく、第一波の続きであると思うのですが、いかがでしょうか。

 首都圏も解除されていますが、到底油断ができません。今月に入ってから、某ドラッグストアで行列を作らなくとも、そして夕方になっても不織布マスクを買えるようになり、しかも値段が下がってきていますので、購入し、備えています。また、最寄りの高津駅から少し離れた所にある某コンビニエンスストアでも、昨日の夕方、僅かではありますが売られているのを見つけました。

 それにしても、近所のドラッグストアやスーパーマーケットなどを見ていると、不織布マスクが売られている店とそうでない店の差が極端です。布マスクしか売られておらず、しかも僅かしか置かれていないので商品棚に大きな空間があるというドラッグストアもあります。

 あれこれと考えながらフタコエールを飲んだりしていますが、オンライン講義もなかなかつらいものです。月曜日と木曜日は3コマをやらなければなりません。

コメント

2009年12月17日、田園都市線溝の口駅

2020年05月31日 00時00分00秒 | 写真

 最初にお断りです。今回は、「待合室」の第349回「溝の口駅で大井町線を(その1)」(2010年2月13日〜19日掲載)、第352回「溝の口駅で大井町線を(その2)」(2010年3月5日〜11日掲載)および第354回「溝の口駅で大井町線を(その3)」(2010年3月18日〜24日掲載)の再掲載です。内容などには一切修正を加えていません。

 

 (1)

 2009年7月11日(土曜日)、大井町線が溝の口まで走るようになりました。正確には田園都市線の複々線区間に乗り入れるということなのですが、大井町線の運転区間は、1979年8月12日、田園都市線~新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)~営団(現在の東京メトロ)半蔵門線直通運転開始とともに田園都市線の大井町~二子玉川園が大井町線に改称されてからおよそ30年ぶりに、1963年10月11日に大井町線大井町~溝ノ口 (当時の表記)が田園都市線に改称されてからであればおよそ46年ぶりに、再び大井町~溝の口となりました。但し、一部の電車は以前から大井町~鷺沼の運転でしたし、土休日には、上りは田園都市線の中央林間から大井町まで、下りは大井町から鷺沼または長津田までの直通急行も走っていました 。

 溝の口駅の南方、梶が谷駅方面にある引き上げ線から3番線に、緑各停の大井町行が入線してきました。8590系の5両編成です。大井町線は、急行が6000系6両編成、各停が8090系、8500系、8590系または9000系の5両編成です。

 大井町線には各駅停車が2種類あり、電車の種別表示機や駅の案内表示に表示される色で識別できます。緑各停は大井町線の一般的な各停で、田園都市線の二子新地駅および高津駅には停車しません。青各停は田園都市線の二子新地駅および高津駅に停車しますが、本数が少なく、走る時間帯が限られます(もっとも、大井町線の各駅から二子新地駅または高津駅に向かうには、二子玉川駅の同一ホームで乗り換えればよいので、不便ではありません)。

 8590系は、元々が東横線の急行用として登場した車両です。電動制御車しかなく、中間車は先に登場した、日本最初の量産型軽量ステンレスカーである8090系をそのまま組み込んでいます。8090系も東横線の急行用として登場したのですが、東横線と横浜高速鉄道みなとみらい21線との相互直通運転が決まると、先頭車に貫通扉がない8090系では問題が生じるため、8090系の先頭車などは大井町線に転属させ、編成を組み替えて先頭車を8590系としたのでした。長らく東横線で活躍しましたが、一部は10両編成となって田園都市線でも走りました。再び東横線に集結したのですが、8000系引退の前に東横線から姿を消し、大幅な編成替えの上で大井町線に転属しました。なお、一部の編成は再び10両編成となって田園都市線を走っています。

 正確なことは覚えていませんが、21世紀になってから、大井町線を走る車両には赤とオレンジのグラデーションという独自の色彩の帯が巻かれ、「大井町線」と書かれたステッカーを正面および側面に貼るようになりました。東急と言えば、ステンレスカーは長らく無塗装でして、帯も巻いていなかったのですが、8500系が正面に赤帯を巻き、1980年代に8090系を筆頭に正面にも側面にも赤帯を巻くようになりました。現在、5000系シリーズが路線毎に異なる色の帯を側面上部に巻いており(田園都市線がライトグリーン、東横線がピンク、目黒線が濃いブルー)、池上線と多摩川線を走る7000系は濃い緑の大胆なデザインとなっています。

 

 (2)

 再び溝の口駅の3番線です。大井町線の上り、大井町行の電車が発車します。同じホームの反対側にある4番線には田園都市線の上り、東京メトロ半蔵門線・東武伊勢崎線・東武日光線直通電車が発着します(行先は色々なのですが、多いのは清澄白河行、押上行、久喜行、南栗橋行です)。私が大学院生として田園都市線を利用していた頃、4番線 には朝のラッシュ時に各駅停車が発着していました。

 溝の口駅の南方、梶が谷駅方面にある引き上げ線から3番線に、急行の大井町行が入線してきました。6000系の6両編成です。6000系は大井町線の急行専用車です。各停には使用されません。このような専用車は東急ではほとんど存在しません。8090系や8590系も東横線の急行用として登場したことになっていますが、各停にも使用されていました。

 ちなみに、東急には1980年代まで、東急初の両開き扉車でドラムブレーキなどを採用し、VVVFの営業試験車ともなった6000系が走っていましたので、現在の6000系は2代目となります。初代の6000系は独特の甲高いモーター音を発していましたので、御記憶の方も多いでしょう。 東急線からの引退の後、一部が弘南鉄道大鰐線を走っていましたが、今はどうでしょうか。

 この6000系は、池上線・多摩川線用の7000系より少し遅れて登場しました。6000系、7000系のどちらも、デザインは5000系が基本となっています。また、7000系は3両編成で18メートルの3扉車で緑を基調としたデザインですが、6000系は20メートルの4扉車で赤とオレンジを基調にしています。

 大井町線と言えばドアカットです。戸越公園では大井町側の2両の扉が開きません。九品仏では二子玉川側の1両の扉が開きません。ホームが短いためです(踏切の上に停車したりするので驚く方もおられるようです)。そのため、大井町線を走る8090系、8500系、8590系および9000系にはドアカットのための自動装置が設けられています。しかし、この6000系には設けられていません。急行は戸越公園にも九品仏にも停まりませんので、ドアカットは不要なのです。ちなみに、急行運転を開始するために自由が丘駅のホームが延長され、それに伴って自由が丘の電留線(元々は検車区でした)が廃止されています。

 今では大井町線の2駅だけしかありませんが、東急にはドアカット実施駅が他にもありました。東横線の代官山が有名でしたが、1980年代には解消されました。また、菊名でもドアカットが行われていました(急行停車駅ではここだけでしょう)。また、目蒲線が目黒線と東急多摩川線とに分割される前、4両編成だった時期に鵜の木駅でドアカットが行われましたが、現在は3両編成に戻ったためにドアカットは行われていません。

 田園都市線の主力として長らく活躍してきた8500系です。8000系が引退してから東急では (旧7000系からの改造車である7700系、および7200系からの改造車である7600系を除いて)最古参の営業用車両となってしまいましたが、10年ほどの間に400両が製造されたので、様々な形態があります。1975年にデビューし、翌年にローレル賞を受賞しています。デビュー時から長らく東横線でも活躍していましたが、私の大学院生時代には田園都市線に集結していました。但し、一部は5両編成として大井町線で運用されています。

 デビュー当時から黒地の自動方向幕および種別表示幕を備えていましたが、大部分はLED式の表示機に交換されています。

 新玉川線(現在の田園都市線渋谷~二子玉川)用として登場した8500系は、当初は4両編成でした。1977年の新玉川線開業時には6両編成であったはずです。その後、田園都市線・新玉川線は8両、次いで10両となりました(但し、中間には8000系が組み込まれていたこともあります)。半蔵門線直通運転用として製造されたため、当初からCS-ATCを備えており、新玉川線ではCS-ATCが使われていました。また、半蔵門線開業時は当時の帝都高速度交通営団が半蔵門線用の車両を所有しておらず、この8500系のみが半蔵門線を走っていました。現在は東武伊勢崎線の押上~久喜、日光線の東武動物公園~南栗橋でも走ります。

 1990年代に2000系がデビューしたものの、3編成しか製造されなかったこともあって(2000系は輸送力増強のためのものです)、8500系は主力の座を維持しましたが、新5000系がデビューしてからは少なくなっています。既に一部は伊豆急行、長野電鉄、秩父鉄道 、そしてインドネシアに譲渡されています。しかし、私が小学校に入学したばかりの頃に登場し、大学院生時代には通学のためによく乗っただけに、東急の車両の中でもとくに愛着を感じる車両です。

 溝の口駅の南側、梶が谷側に電留線があります。かつては上のポイントの辺りまで下りホームがありました。今、電留線に6000系が停まっています。奥にトンネルが見えます。そのトンネルを抜けると梶が谷駅で、以前から電留線があり、大井町~梶が谷という電車も走っていました。現在は大井町線用の電留線があります。ちなみに、上の写真では見えませんが、右側のほうに高津区役所があります。

 ここから先は1966年に延長された区間です。それまで、田園都市線は大井町~溝の口(当時は溝ノ口)でした。

 大井町線と田園都市線の歴史はかなり複雑でして、年表で整理する必要があるくらいですが、元々、二子玉川~溝の口は玉川電気鉄道の路線であり、1943年に工場勤務者の輸送を増強するために改軌して大井町線に編入したのです。1963年には大井町線が田園都市線に改称されます。1966年に溝の口~長津田が開業してから田園都市線は延長を続けますが、1977年に新玉川線が開業し、1978年に半蔵門線との直通運転を開始し、1979年には田園都市線・新玉川線・半蔵門線の直通運転が開始されると同時に大井町~二子玉川が大井町線に改称されます。これにより、新玉川線と田園都市線は実質的に同一の路線となりました。1984年には中央林間まで全通します。そして、2000年8月、新玉川線は田園都市線に編入されます。

 田園都市線の下り線を東京メトロ08系が走ります。半蔵門線用の車両で、東京メトロ8000系(帝都高速度交通営団では最初のワンハンドルマスコン採用車両)の後継車両と言えます。半蔵門線のラインカラーである紫の帯を巻いていますので、すぐに識別できます。

 現在、田園都市線には東急、東京メトロ、東武の車両が走っています。東急は8500系、8590系、2000系および5000系で、5000系には6扉車が組み込まれています(その関係で一部が改番され、8両編成 3本が東横線を走っています)。また、8590系と2000系、および8500系の一部は東武線に乗り入れることができません。東京メトロは8000系および08系です。東武は30000系と50050系ですが、30000系を見かけることは少なくなりました(原則として東武線内のみの運用に限定されるようになったのです)。また、長津田車両工場への回送の関係で、世田谷線を除く東急全線の車両を見かけることも少なくありません。

 

 (3)

 私の本務校である大東文化大学の板橋校舎は高島平一丁目にあります。都営地下鉄三田線西台駅が最寄りとなるので、通勤には東急目黒線を利用します。その関係もあって、国学院大学渋谷校舎に向かう時は東横線を利用します。

  しかし、時折、田園都市線や大井町線を利用することがあります。半蔵門線の半蔵門~三越前が開業して溝の口から神保町まで乗り換えをせずに行けるようになってから、田園都市線の利用頻度が高くなり、院生時代は田園都市線で通学していました。また、大井町線は 、2000年8月の目蒲線分割までは東急の鉄道線全線に、分割後は東急多摩川線を除く鉄道線全線(世田谷線は軌道線です)に乗り換えられるために利便性が高いのです。2009年7月11日から溝の口まで運転されているため、利便性がさらに高まりました。各停が5両、急行が6両と短い編成ですが、東横線、田園都市線とともに車掌が乗務していることから、乗客が多いことがうかがわれます〔目黒線、池上線、多摩川線、こどもの国線(正式には横浜高速鉄道)はワンマン運転です〕。

 田園都市線の主力を長らく務めてきた8500系のうち、最後期に製造された2編成は5両編成であり、大井町線で運用されています。そのうちの1編成が上の写真の車両です。8500系は1975年から10年ほどにわたって製造されているため、製造年によってかなりの違いがあります。最も大きな違いは軽量車体か否かという点でしょう。なお、前面下部の排障器(スカート)は、半蔵門線の水天宮前~押上の開業、および東武線との直通運転開始に際して取り付けられたものです。

 緑各停の8090系が2番線に到着しました。元々は東横線用ですが、みなとみらい線との直通運転が決まったことにより、前面非貫通の形態では地下線の走行に問題があるとして大井町線に転用され、今では大井町線の主力になっています。日本で最初の量産軽量ステンレスカーで、現在のところは東急最後の前面非貫通型でもあります。前期型は前照燈が帯の下にあるのに対し、中後期型は前照燈が帯の位置にあります。また、前面の窓も改造されています。

 前面非貫通といえば、JRの通勤型では当たり前のような存在ですが、東急では少なく、世田谷線用の車両を除くと、旧3000系の一部、1954(昭和29)年に登場した旧5000系、1958(昭和33)年に登場した5200系、そして8090系しかありません。

 なお、2010年3月、東急から秩父鉄道に譲渡された8090系3両が7500系として登場するという話です。

 こちらは緑各停の8590系です。もっとも、8590系は先頭車だけで、中間車は8090系です。こちらは貫通扉が付けられています。8090系、8590系の種別表示および行先表示には幕式とLED式の両方がありますが、大井町線の場合は幕式のほうが見易いと思います。LED式の場合、とくに 「各停」の表示が少々わかりにくいのです。

 先ほどの緑各停が発車した後、急行の6000系が入線しました。大井町線の急行は、途中、東急の他線との乗換駅(旗の台、大岡山、自由が丘、二子玉川)しか停まりません。また、急行は上りも下りも旗の台で各停に接続します。時間帯によっては、上りのみですが上野毛での追い抜きもあります。

 1番線に田園都市線下りの8500系が停車しています。現在、東急で側面に帯を巻いていないのは8500系のみです(但し、一部の編成は巻いています)。

 行先表示を見ていると、何秒か毎に日本語、ローマ字表記が入れ替わります。これは目黒線用の3000系からです。現在ではJRなどでも当たり前のようになっていますが、東急3000系はその早い例でした。

 

 〔補記〕この記事を最初に書いた時には、大井町線の戸越公園駅と九品仏駅においてドアカットが行われていましたが、現在は九品仏駅のみです。

コメント

2010年6月8日、六本木交差点

2020年05月30日 01時15分00秒 | まち歩き

 久しぶりに六本木のサテンドールに行って、ジャズのライヴでも楽しみたいと思っています。そこで、今回は、「待合室」の第376回「六本木交差点」(2010年8月3日〜20日掲載)の再掲載です。撮影は2010年6月4日です。なお、文章を一部修正しましたが、内容に変更はありません。従って、現在の六本木の街とは違う所も多いことに御注意ください。

 

 六本木と聞いて、思い浮かべるものは何か。

 「くだらない」と言われるかもしれませんが、このような問いを立てるとすると、今ならテレビ朝日、六本木ヒルズ、国立新西洋美術館などというところでしょうか(ミッドタウンは赤坂九丁目にあります)。

 私にとって、一つは六本木六丁目にあったWAVEです。1983年に開店したレコード店で、1999年12月25日の閉店まで、音楽家を初めとして多くの文化人に支持されました。今でも閉店が惜しまれるところです。私は、2010年7月号を最後に休刊となったスイングジャーナルの広告を、高校1年生の時に初めて見て興味を持ち、1984年8月31日に初めて訪れました。それ以降、1990年秋から1991年秋までのほぼ1年間を除き、私が大分大学に就職するまで、少なくとも毎月1回は六本木WAVEに行き、LPやCDを探していました。大分大学に就職してからも、帰省する度に行きました。私が大分市内のCDショップに行くようになったのは、六本木WAVEが閉店してしばらく経ってからのことです。

 今でも、六本木WAVEほど、私にジャズ、クラシック、ロックなど、音楽鑑賞の面白さ、LPやCDを探すことの面白さを最上の形で教えてくれた店はないと思っています。それだけに、閉店にはショックを受けました。六本木WAVEが閉店してから、タワーレコード、HMVなどに行くのですが、やはり何かが違います。六本木WAVEに初めて行った日、私は、購入するかしないかに関係なく、4階の南側にあったジャズのコーナーにあるLPやCDの棚を全て見回しました。3時間以上、店内にいたはずです。配置などに強いメッセージのようなものを感じました。あれこれと頭の中に浮かびすぎて上手く表現できませんが、10代の後半であった私にとって、六本木WAVEは、建物の外装、内装、流れている音楽、店の構造など、色彩や服装、音楽など、趣味の要素で強い影響を受けました。

 そして、街の雰囲気にも影響を受けました。1980年代後半の六本木は、現在と違い、口頭でも文章でも表現しにくいけれど東京でも他に例を見ないほど独特の雰囲気に包まれており、あたかも六本木が異国の街であるかのような空気を持っていました。六本木WAVEは、そのような六本木を感じさせてくれる最後のものであったとも言えます。そのためなのかどうか、私は、10年以上、六本木の街を歩いたことがなかったのです。今年の4月に結婚し、5月に妻と六本木ヒルズに初めて行き、10年ぶりに街を歩いた時も、六本木の街がつまらなくなっていることを強く感じました。妻も同様のことを思ったらしく、何度も私に「都町とあんまり変わらない」と言っていました。

 六本木という地名で私が思い浮かべるもののもう一つが、ジャズです。私が本格的にジャズを聴き始めたのは中学校1年生の時で、渡辺香津美さんの「トチカ」と「トーク・ユー・オール・タイト」を聴いたのがきっかけでした。そして、1981年の晩秋に「ドガタナ」を聴いて、それまで好きだったイエロー・マジック・オーケストラなどのテクノポップから離れたのでした。ほどなく、六本木ピットインの名前を知ります(この辺りは曖昧で、イエロー・マジック・オーケストラを聴き始めたのが1979年、小学校5年生の時なので、その年に六本木ピットインを知ったのかもしれません)。1982年、中学校2年生の時、新宿の厚生年金会館でのコンサートに行きました。私がエルヴィン・ジョーンズのライヴを六本木ピットインで聞いたのは高校2年生の時で、1985年7月31日であったと記憶しています。その後、大学生になってから、ピットイン、サテンドールなどに何度か行きました。しかし、大学院生になってジャズから離れ、ライヴに行くことはなくなりました。

 上の写真は六本木交差点です。首都高速3号渋谷線が通っており、その橋に「ROPPONGI」と書かれています。手前から奥へ伸びるのが外苑東通りで、六本木ピットインは奥のほう、飯倉交差点の近くにありました。また、左右に伸びるのが六本木通りで、右のほうへ進むと 六本木ヒルズ(その入口の所に六本木WAVEがありました)、西麻布、渋谷駅、左のほうへ進むと溜池、霞が関です。六本木通りを溜池方面に進むとすぐ、坂を下る前に俳優座劇場があります。その裏にサテンドールがあって、私は大学生時代に何度か行きました。現在は移転しています。

 この交差点を渡ると俳優座劇場がありますが、首都高速道路の向こう側に古本屋の誠志堂があります。ジャズ評論家の草分け的存在で、最近になってまた作品集が出されている故植草甚一氏もよく通われた古本屋でした。また、私たちが立っている場所の後に、現在はノジマの支店があるのですが、そこがかつては新刊書を売っているほうの誠志堂の本店でした。現在も誠志堂のビルなのですが、書店のほうは既に閉店しています。私は、この本店よりも東日ビルの地下にあった支店のほうによく行きましたが、そちらも既になくなっているようです。

 大分大学に勤めてしばらくしてから、再びジャズを聴き始めるようになりました。そして、21世紀になってから、また渡辺香津美さんのアルバムを集めるようになりました。ギター・ルネッサンスのシリーズを聴いていると、50代に入ってからの香津美さんの凄さを実感します。17歳で「インフィニット」というアルバムでデビューしてから、日本でトップのギタリストとしての地位を築き上げていますが、ヒルトップスタジオを立ち上げ、イーストワークスから発売されているアルバムを聴いて、1981年までの日本コロムビア時代、その後に僅か数年しかなかったトリオレコード時代(「MOBO」という2枚組大傑作が発売されました)以来、今が円熟期であり、しかも発展を続けているということなのです。これからも、どのような音楽活動が展開されるのか、楽しみです。

 或る日、たまたま自宅でインターネットをやり、6月4日、六本木のサテンドールに渡辺香津美さんが出演することを知りました。私は、すぐに予約を入れました。妻は香津美さんの演奏を聴くのが初めてでしたが、私は、今はない東急文化会館地下の映画館、パンテオンで、中学生時代に生演奏を聴いていますので、それ以来、実に20何年ぶりということになったのでした。渋谷で仕事をしたので、妻と渋谷で待ち合わせ、バスに乗って六本木へやってきました。

 後のほうに東京ミッドタウンが見えます。六本木駅から近い場所にありますが、実は赤坂九丁目にあります。私が六本木によく行っていた頃には防衛庁がありました。目指すサテンドールはこのミッドタウンより手前の場所にあります。

 それにしても、六本木にはカラオケ屋や普通の飲み屋や飲食店が増えました。1980年代後半と1990年代の六本木と比べても、まるで違う街のようになっています。私は、今、自分が六本木、渋谷、新橋、新宿、池袋のいずれの街を歩いているのか、わからなくなりかけていました。

 サテンドールに入り、19時30分から23時頃まで、セカンドステージまで通しで渡辺香津美さんの生演奏を堪能しました。ベースの井野信義さんとのデュオが基本で、最初の曲は1981年、私が中学生の時に発売されたアルバム「ドガタナ」に収録されている「プリーズ・ドント・バンドル・ミー」でした。香津美さんの声が、1980年代、FM東京のラジオ番組の時とほとんど変わっていなかったことにも驚かされました。ステージには、この10年くらいはトレードマークのようにもなっているエイブ・リヴェラなど3本のギターが置かれていました。最初から、ジャズ、ロックなどが消化されたスピード感のある演奏が繰り広げられました。

 途中、ゲストという形で、香津美さんの師匠、中牟礼貞則さんも入ったトリオとなりました(井野さんが抜けた曲もあります)。中牟礼さんの演奏を初めて聴いたのですが、切れ味鋭い、昔ながらのジャズ・ギターという感じでした。ギブソンのフルアコというのも大きいかもしれません。しかし、実際のお歳よりも若々しいという印象も強く受けました。1933年生まれということなので、今年は喜寿、77歳ですが、私には10歳くらいは若く見えました。

 ソニー・ロリンズの名曲「オレオ」、コルトレーンの名曲「インプレッションズ」なども演奏され、最後は香津美さんがよく取り上げている「星影のステラ」で、香津美さん、井野さん、中牟礼さんのトリオで演奏されました。このメンバーでの「星影のステラ」がCDにならないかと思ったくらいです。

 サテンドールを出たら、雨が降っていました。その中を、妻とともに千代田線の乃木坂駅まで歩きました。上の写真は、ミッドタウン付近の交差点から六本木ヒルズを撮影してみたものです。

 〔以上は、あくまでも2010年における記述内容であることを、重ねて記しておきます。〕

コメント

あの事件から1年

2020年05月29日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 2019年5月28日の朝、多摩区登戸新町で発生した通り魔事件には驚きました。

 ちょうど、その日に中央大学経済学部での講義があるためにうちを出ようとした時、上空を何台ものヘリコプターが飛んでいたので、溝口で大きな事件があったのかと思ったのです。国道409号や南武沿線道路を何台かの救急車が通りました。

 テレビをつけたら速報が流れており、登戸新町の様子が映っていました。現場の様子は南武線の電車からも見えました。僅かな時間ですが、大変な事件が起こってしまったということがわかります。

 2人の命が奪われ、多くの子どもたちが傷つきました。

 被疑者も自殺してしまったので、結局、動機も何もわからないのでした。それだけに、何処に怒りをぶつければよいのか……。

 あれから早いもので1年が経ちました。

 

コメント

どういう配り方か

2020年05月28日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 うちには未だに届いていませんが、私の実家には18日にアベノマスク2枚が届いていました。4月頃に写真で見たよりも大きいようには感じられましたが、不織布マスクに比べれば小さいことは一目瞭然です。不良品続出騒ぎがあったので、最近配布されているものは少し大きくなったのでしょうか。

 うちも実家も川崎市の同一区内にありますが、どういう配り方をしているのでしょうか。町丁毎なのか、高齢者世帯優先なのか。マスクは郵便で送られていることが明らかですが、宛名も住所も書かれていません(実家で確認しました)。そのため、町丁毎でないと郵送作業が混乱しそうです。

 特別定額給付金の申請書もまだ届いていません(川崎市は5月下旬に送付を開始するという趣旨をホームページで発表しています)。

コメント

こんなシールが売られていた

2020年05月27日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 二子玉川駅の売店で、こんなものが売られていました。

 東急で最初のカルダン駆動車、初代5000系の正面が描かれたシールです。

 「東急旧5000系ステッカー」が商品名です。

 うちにあるメインのパソコンに貼りました。

コメント