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ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

東急大井町線途中下車(10) 荏原町駅 その1

2015年08月29日 23時52分08秒 | まち歩き

 今回も東急大井町線途中下車です。第10弾となる今回は、第9弾で取り上げた北千束駅(OM07)から各駅停車大井町行きに乗り、品川区に入って旗の台駅を過ぎて次の駅です。

 荏原町駅(OM05)です。急行は止まりません。1927(昭和2)年7月6日、大井町~大岡山の開業と同時に開業しました。所在地は品川区中延五丁目となっています。

 現在の品川区は1947(昭和22)年に成立しており、それ以前は品川区と荏原区に分かれていました。あまり厳密ではないのですが、荏原区は現在の品川区の西部と考えてよく、目黒線の武蔵小山駅および西小山駅、池上線の戸越銀座駅から旗の台駅まで、および大井町線の下神明駅から旗の台駅まで、ということになります。荏原町という駅名は、当時の自治体である荏原郡荏原町に由来するようです(荏原町が東京市に編入されて荏原区となります)。

 2番線、つまり大井町方面のホームにある改札口です。この改札口は新しく、設置されてから10年ほどしか経っていません。それまでは1番線ホームにしか改札口がなかったのです。

 大井町線、池上線および東急多摩川線の各駅のうち、地上にあり、かつ対向式ホームの駅に共通する点は、ホームのそれぞれに改札口があること、および跨線橋がないことです。例えば、戸越公園駅、尾山台駅、戸越銀座駅、久が原駅、下丸子駅、武蔵新田駅を例としてあげておけばよいでしょう。

 もっとも、通常、原則に対しては例外があるものです。まず、池上駅の場合、1番線にしか改札口がなく、かつ、東急で唯一、構内踏切が存在します。次に自由が丘駅の場合、跨線橋があります。旗の台駅も同様です(かつては構内踏切がありました。また、大井町線の場合は東側が高架、西側が地上で、大井町線のホームの下に連絡通路が設けられていました)。そしてこの荏原町です。跨線橋があり、そのためもあったのか、長らく改札口が1箇所しかなかったのでした。

 大井町線の地上駅によくある案内です。下り電車に乗るためにはそばの踏切を渡って下さい、ということです。ただ、荏原町駅には跨線橋がありますので、2番線の改札口から入って1番線に向かうことは可能です(この点が、戸越公園駅、尾山台駅などとは異なります)。

 2番線の改札口の前にある細い道路ですが、ここを進むと文教大学付属小学校、さらに昭和大学病院へ行くことができます。だいぶ前のことになりますが、私が中学生であった時に、荏原町駅で降りて昭和大学病院まで歩いたことがあります。昔は旗ヶ岡駅への近道であったかもしれません。

 踏切のそばに法蓮寺があります。日蓮宗八幡山の寺院で、公式サイトに寄れば、総本山が身延山久遠寺、直接の本山が池上本門寺であるとのことです。鎌倉時代に開山されたとのことで、10月にはお会式が行われます。

 その北隣が旗岡八幡神社です。公式サイトに寄れば、長元元年と言いますから西暦で1028年、平忠常が内乱を起こします。これを平定すべく、源頼信が討伐に向かいますが、途中のこの地に宿営し、八幡大神を奉齋したといいます。池上線にあった旗ヶ岡駅、および現在の旗の台駅の名称の由来もこの神社にあります。かつては中延八幡宮ともいいました。

 なお、品川区の中延六丁目には源氏前小学校があります。かつて源氏前という地名があったようで、やはり旗岡八幡神社に由来するようです。八幡様は源氏の守護神であるからでしょう。

 東急沿線に限ったことではありませんが、身近な所にも歴史は眠っているものです。とくに品川区には多いような気がします。今回は参拝などをしておりませんが、機会を改めて伺いたいと思っています。また、旗岡八幡神社にも訪れていません。これではいけないのですが、今回の目的ではなかったのでした。

 法蓮寺の入口に、江戸幕府第11代将軍徳川家斉にまつわる話の案内板が設置されていました。品川区教育委員会によるものです。家斉と、この寺の住職が角力(相撲)をとりました。時の将軍を相手にするのですから、住職も手加減をしそうなものですが、全く手加減をすることなく、家斉を負かせてしまいました。すると、将軍は叱責などすることなく、賞めたという話があるそうです。

 「目黒の秋刀魚」という有名な落語がありますが、その目黒には鷹番という地名があります。目黒区や品川区では鷹狩りがよく行われていたようです。

 今回は、品川区にある各駅の様子を見たいと考えていました。かつて、この荏原町駅には貨物ホームもあり、大井町からこの駅までの電車も設定されていたそうで、それなりの需要があったのでしょう。街の規模も小さくないはずです。また、大井町線の駅には、付近にバス停がないという所が少なくない上に、駅前にバスが乗り入れるという所もほとんどないのですが、荏原町駅の1番線ホーム改札口の前にはバスが乗り入れていたといいます。踏切を渡り、南へ向かいます。

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東急大井町線途中下車(9) 北千束駅

2015年08月28日 18時49分03秒 | まち歩き

 昨年(2014年)の8月19日から9月7日まで、「川崎高津公法研究室」の「待合室」(既に終了)において「東急大井町線途中下車」の第8弾として緑が丘駅を取り上げました(このブログには昨年の12月10日0時39分33秒付で再掲載しております)。

 それから約1年、ようやく第9弾として、北千束駅を取り上げることとなります。2011年8月6日に第1弾として二子玉川駅を取り上げてから4年が経過していますが、今年中に完結する目処が付きました。

 大井町線は、営業上は品川区の大井町駅から川崎市高津区の溝の口駅までの路線ですが、正式には大井町駅から世田谷区の二子玉川駅までの路線です。品川区、大田区、目黒区、世田谷区を通る訳ですが、大田区にある駅は大岡山とここ北千束のみであり、北千束駅の所在地は大田区北千束二丁目です(ちなみに、大岡山駅の所在地は北千束三丁目です)。

 御覧の通り、かなり小さな駅舎です。私が所有している本には1961(昭和36)年の写真が掲載されており、その頃はホームの真下に駅があったようです。現在の姿になったのが何時なのかわかりませんが、狭い空間に駅の機能を持たせたことがわかります。もっとも、この駅は大井町線で最も乗降客が少なく、急行も通過します。東京急行電鉄が発表している2014年度の一日平均輸送人員は6821人です。同線で1万人を下回る駅は、ここの他に下神明(7434人)と緑が丘(9212人)のみとなっています。

 改札口です。一箇所しかありません。青い改札機はICカード、磁気式乗車券の両方に対応しており、ピンク色の改札機はICカード専用です。

 大井町線の大井町~大岡山は、1927(昭和2)年7月、目黒蒲田電鉄により開通しました。しかし、この北千束駅が開業したのは1928(昭和3)年10月10日のことでした。遅れた理由はよくわかりませんが、耕地整理組合の事業との関係があるのかもしれません。島式ホームという基本構造は現在まで変わりません。

 また、この辺りは目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道との熾烈な、しかし圧倒的に目黒蒲田電鉄に有利な競争が展開された地域でもあります。そのことは、この駅の歴史にもよく現れています。短い間に二度も名称が変わっているのです。

 まず、開業当時の駅名は池月でした。池月とは源頼朝の愛馬の名前であり、洗足池のほとりに銅像が建てられています。頼朝は千束でこの馬と出会い、名を与えたのでした。その後、寿永3年と言いますから1184年のこと、宇治川の合戦ではこの池月が大活躍したとのことです(騎乗したのは頼朝ではなく、佐々木四郎高綱でした)。

 駅名からして、洗足池に関係があることがおわかりかと思います。池上線を建設した池上電気鉄道は、1927年8月に洗足池駅を開業させています。目黒蒲田電鉄は、自社が建設した目蒲線(目黒~蒲田。現在の目黒線と東急多摩川線)とほぼ並行する池上線に対抗する形で、大井町線における洗足池の最寄り駅として池月駅を開業させたのでしょう。

 しかし、池月駅は陸羽東線にもあります。現在の宮城県大崎市にある駅です。そちらは1914(大正3)年に開業しています。例外も多いとは言え、なるべく既存の駅と重複しないように名称を付けるという要請もあったのでしょう、大井町線の池月駅は1930(昭和5)年5月21日に洗足公園と改称します。これにより、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道への対抗意識をさらに強めたこととなります。五島慶太の意思もあり、1934(昭和9)年10月1日、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道を吸収合併します。その後、1936(昭和11)年1月1日、洗足公園駅は現在の北千束に名を改めます。この辺りは元々が千束といいますので、妥当な改称と言えるでしょう。

 ちなみに、池月→洗足公園→北千束と名を変えたこの駅の隣の駅は、二子玉川側が大岡山であり、これは現在も変わりませんが、大井町側は旗の台ではなく、東洗足という駅でした。東急の前身の一つである田園都市会社が最初に分譲したという洗足住宅地の東側にあることから名付けられましたが、池上線とは乗り換えることができず、旗ヶ岡駅からも離れていました。この点にも目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道との激しい競合がうかがわれたのですが、合併後もこの状態が続きました。東洗足と旗ヶ岡が統合して現在の旗の台駅が開業したのは、1951(昭和26)年3月1日のことです。

 1968年から2004年1月30日までの間に営業していた東急線の駅なら全て利用したことがある私ですが、やはり頻度の違いはあります。大井町線で最もよく利用する駅が二子玉川であり、次が自由が丘か大岡山、それから尾山台と旗の台です。北千束駅を利用したのは、今回(2015年8月28日)が二度目でして、実のところ、あまり歩いたこともないのでよくわかりません。

 駅前の道路が赤松商店会となっており、何軒かの店があります。もっとも、品川区内の駅とは異なり、商店街と言えるほどの規模にはなっていません。住宅地の中に商店があるという感じであり、緑が丘駅前よりも規模が小さいのです。

 「それにしても赤松とは何だろう」と思いました。その地域にあった名木が由来という地名もありますし、商店街もあります(二子新地駅前の松栄会が良い例です)。しかし、この辺りで赤松という地名を耳にも目にもしたことがありません。常磐松のように住居表示のために消滅した地名なのかとも思いました。近くには赤松小学校があります。

 駅前の道路を北のほうへ歩くと環状7号線に出ます。従って、目黒線洗足駅にも行けるということになりますが、今回は向かいません。大岡山駅のほうへ歩くと、御覧のように桁下2.6メートルしかない高架橋に出ます。この先、大井町線の電車は坂を下り、大岡山駅の手前で地下に入ります。

ほぼ同じ地点から北千束駅のホームを撮影しました。

この辺りは大田区でも旧大森区に属し、住宅地として開発されました。この先、大岡山駅方面に向かう道路を見ればよくわかるように、坂の多い場所です。

 赤松小学校の南側を通ります。歩いているのは8月28日の午前中で、まだ夏休み中です。ちなみに、川崎市立の小学校では既に二学期が始まっています。

 東京でもこの辺りでは低層住宅が多く、木造二階建ての家屋をよく見かけます。私にとっては、幼少時代から見慣れた風景ですが、川崎市でのほうが見られなくなっているような気もします。2011年3月11日の14時46分に10階建ての建物の10階にいた経験から、私は高層住宅に住みたいと思いません。このくらいの高さがちょうど良いと考えています。

駅前の道に戻りました。南のほうへ真っ直ぐ進むと中原街道へ出ますが、途中で右折すると洗足池に近いようです。但し、今回は洗足池を目標としておりませんので、向かいません。

この道路を奥のほうへ進めば、洗足池や中原街道に出られます。バスが通っていてもおかしくなさそうですが、この道路を走る路線バスはありません。

 赤松小学校の東側を歩くと、御覧のような標識(?)があります。大井町線のガードがあるためですが、高さが2.6メートルしかないのです。ガードの北側には、高さを示す標識があります。トラックなどに有用でしょう。

 さて、この赤松小学校ですが、歴史は古く、同小学校のサイトによれば、1878(明治11)年に馬込小学校分校として開校し、1879(明治12)年に赤松小学校として独立します。当初からこの地にあったのかどうか、サイトの記述からではわかりにくいのですが、少なくとも1919(大正8)年からはこの地にあったようです。

 北千束駅そばのガードです。かなりの勾配になっています。開業当初はこのようになっていなかったらしいのですが、後に道路を掘り下げ、立体交差としたようです。実際に、この駅の周辺はかなり起伏がありますし、駅の東側には踏切があります。北千束駅は、大岡山側は高架、旗の台側は地上となっているのです。

 この道幅では大型トラックが通るとも思えないのですが、貨物自動車など、背の高い車は注意を要します。

 駅の南側の道路からホームを見ます。道路の勾配がおわかりでしょうか。奥へ向かうに従って登っていくのです。このような場所でも自転車が活躍しているようです。ちなみに、ホームの手前側が1番線(自由が丘、二子玉川、溝の口方面)で、奥が2番線(旗の台、大井町方面)です。

 

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2015年7月26日、長津田車両工場

2015年08月23日 22時03分04秒 | 写真

 時折、私は、こどもの国線の恩田駅の近くにある長津田車両工場へ行きます。勿論、中に入ることはできませんから、道路から撮影するだけですが、秩父鉄道へ譲渡される前の8090系を見たり、廃車になってからかなりの時間が経過したデヤ7200+デヤ7290を見たりしています。これまで、このブログでも写真を掲載しました。

 2015年7月26日、再び長津田車両工場へ行き、写真を撮ってきました。今回はこれらを掲載します。

 恩田駅から長津田駅へ戻るように住宅地を歩くと、留置車両がよく見える場所があります。そこでカメラを構えると、すぐそばに1000系デハ1250形の1257号が留置されていました。日比谷線直通用として運用されていた編成(1007F)に組み込まれていた車両ですが、既に日比谷線への直通運転は終了しておりますから、休車状態なのでしょう。どこかへ譲渡されるのでしょうか。それとも、解体されるのでしょうか。

 7700系、5050系4000番台、1000系と並んでいますが、注目していただきたいのは手前にある7700系デハ7700形の7702号です。側面の車番プレートと社紋プレートが外されています。初代7000系をVVVF制御に改造した車両ですから、登場より50年近くが経過しているものもあります。ステンレス車のため、車体にそれほどの劣化がないようですから、もしかしたら7702号はどこかの私鉄へ譲渡されるのかもしれません。

 5050系4000番台は定期検査のために長津田車両工場へ入ったのでしょう。5050系の10両編成版として、東急東横線および横浜高速鉄道みなとみらい線は勿論、東京メトロ副都心線、さらに東武東上線や西武池袋線・西武有楽町線も走ります。稀にではありますが、東京メトロ有楽町線を走ることもあります。

 今日(2015年8月23日)付の朝日新聞朝刊38面14版に「東急車両『第二の人生』快走」という記事が掲載されており、そこでも人気の高さが書かれています。東急の場合は、ここ長津田車両工場で譲渡先の鉄道の仕様に改造します。車内の装備なども評価のポイントだそうです。そう言えば、昨年、石川県の北陸鉄道石川線で初代7000系に乗りましたし、乗る機会こそなかったのですが富山県の富山地方鉄道を走る8590系を見ました。また、一昨年の3月に福島交通飯坂線を走る初代7000系にも乗っています。さらに記せば、大分大学時代に熊本電気鉄道菊池線で初代5000系に乗っていますし、伊豆急行で8000系、豊橋鉄道で7200系に乗っています。

 1000系は、これまで、上田電鉄、伊賀鉄道および一畑電車に譲渡されています。18メートル車で、JRなどで一般的な20メートル車より少し小さいので、地方の中小私鉄にとっては手頃な大きさなのかもしれません。

 1000系デハ1250形の1257号とともに、1258号が留置されていました。やはり日比谷線直通用として運用されていた編成(1008F)に組み込まれていた車両です。そう言えば、昨年から池上線および東急多摩川線で運用されている1000系1500番台は、8両編成であった日比谷線直通用の車両を改造して落成した車両です。但し、デハ1250形は改造の対象とされていません。

 そのすぐ奥にも、車番などはわかりませんが1000系のパンタグラフ付き中間車が留置されています。

 最後に。先の朝日新聞の記事ですが、大井川鉄道大井川本線が漏れています。もっとも、大井川鉄道を走る7200系は、元々が東急7200系であるとは言っても、東急から十和田観光鉄道に譲渡された電車が「第三の人生」を歩んでいるので、完全な誤りとも言い切れません。

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おしらせです(2015年8月14日)

2015年08月14日 15時37分45秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 8月14日付で、TKCローライブラリーの「新・判例解説Watch」に、私が担当した「都民住宅経営安定化促進助成制度による利子補給金の一括交付と所得区分」(租税法No. 126。文献番号z18817009-00-131261256。東京地方裁判所平成26年9月30日判決<LEX/DB25521877>)が掲載されました。

 御一読をいただければ幸いです。

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2010年8月1日、出雲大社前駅

2015年08月12日 00時01分00秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第388回(2010年11月10日から15日まで)として掲載した記事の再掲載です。なお、一部を修正しています。〕

 松江しんじ湖温泉駅から一畑電車の北松江線に乗り、川跡駅で大社線に乗り換えます。やはり単線で、北側に山地を見ながら進むと、終点の出雲大社前駅に到着します。名称の通り、有名な出雲大社の最寄り駅です。かつてはJR大社線の大社駅もありましたが、1990年3月31日を最後に営業を終了しています。これは、大社線そのものが赤字ローカル線であり、国鉄からJR西日本に承継された後、1990年に廃止されたためです。なお、出雲大社に近いのは、立派な駅舎を有することで有名であったJR大社線の大社駅ではなく、一畑電車の出雲大社前駅です。

 2番線に3000系が止まっていました。車体には痛みも見られます。それもそのはず、元は南海高野線を走っていたズームカー 、21001系で、昭和30年代に製造されたものなのです。南海時代とは全く異なる塗装を施されており、また、「しんじ湖ラムサール号」と書かれたヘッドマークをつけています。正面から見て左側の窓に「急行 松江温泉」という方向板(サボ)を掲げていますが、客を乗せていません。「松江温泉」は松江しんじ湖温泉駅の旧称です。

 一畑電車の出雲大社前駅の駅舎は、国の登録有形文化財に登録されており、近代化産業遺産の指定も受けています。ここから少し離れたJR大社駅も、駅舎が残されており(観光案内所として利用されています)、重要文化財にも指定されていますが、造りは全く異なります。JR大社駅の駅舎は出雲大社を模したものといわれており、木造です。これに対し、一畑電車の出雲大社前駅の駅舎は西洋建築となっています。

 多くの中小私鉄と同様に、一畑電車もワンマン運転を実施しており、また、多くの駅には駅員がいません(つまり、無人駅です)。出雲大社前駅は、一畑電車でも数が少ない有人駅、つまり、駅員が配置されている駅です。

 駅舎の中に入ると、左側に改札口と窓口があり、自動券売機も置かれています。天井が高いので見上げてみると、天窓のガラスに色が付けられています。教会のステンドグラスをイメージしたものなのでしょうか。左右で同じ色のガラスが使われていますが、配置は非対称です。 この天窓のおかげで駅舎の中は明るいため、ガラスの配置には何らかの意味があるのかもしれません。

 時折、大型家電店やホームセンターへ行きます。照明器具を見ることもあります。上の写真にあるような照明器具を見たような記憶もありますが、よくわかりません。それにしても、この建物の屋根によく合う形をしています。

 松江しんじ湖温泉から一畑電車に乗り、この出雲大社駅にやってきたのは、勿論、出雲大社へ行きたかったからです。駅から5分ほど歩くと、出雲大社の入り口に着きます。意外だったのは、参道の人通りがあまり多くなく、店舗も少なかったことです。訪れたのが2010年8月1日(日曜日)の午後で、たしかに初詣の時期ではないので、当たり前かもしれません。しかし、それにしても閑散としていました。太宰府天満宮を訪れると、季節を問わず参拝客や観光客が多いので、それに慣れてしまっているからかもしれません。

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2010年8月1日、松江市の大橋館と松江しんじ湖温泉駅

2015年08月11日 09時23分23秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第382回(2010年10月1日から8日まで)として掲載した記事の再掲載です。なお、一部を修正しています。〕

 島根県は、日本の都道府県の中では2番目に人口が少なく、その県庁所在都市である松江市は、今回の記事を「待合室」に掲載した2010年10月の時点で最も人口が少ない県庁所在都市です。

 その松江市に、2010年7月31日、初めて入りました。当時、私は大東文化大学法学部の法律学科主任であり、仕事の関係で、当日の午後に米子市の郊外で仕事をしました。その後、伯耆大山駅から山陰本線のディーゼルカーに乗り、米子駅で快速とっとりライナーに乗り換え、松江駅を降りました。

 松江市を訪れたのは、やはり仕事のためですが、夕方に街を歩くことができました。松江駅の北、宍道湖の東端に近い大橋川のほうを歩いたのですが、 今や日本各地に定着して久しい現象がこの県庁所在都市にもありました。天神町商店街は、車の通行量こそ多く、しかもその日が水郷祭の初日であったために人通りは少なくなかったものの、そもそも開いている商店があまり多くなく、開いている店にもほとんどお客はいなかったのです。そればかりか、商店街には空き地も見られます。松江を訪れてからほぼ1か月後、福岡市中央区天神で久繁哲之介『地域再生の罠―なぜ市民と地方は豊かになれないのか?―』(2010年、ちくま新書)を買って読んでいたら、この松江の商店街のことが書かれていたのですが、驚いたのは、ここが中小企業庁 によって「がんばる商店街77」の一つに選ばれているという事実でした。同庁のサイトを見ると、天神町商店街が賑わっているという写真が掲載されていますが、天神市の様子だけが紹介されており、どう考えても世に誤解を与えるものとしか評価しえません。普段の状況を忠実に紹介しなければ、あまり意味がないようにも思えます。

 松江に一泊しました。宿泊していた旅館は大橋川の北側の沿岸にあります。その旅館の南側玄関のそばに「小泉八雲宿舎址」の石碑と紹介文があります。

 ここにはかつて富田旅館があり、小泉八雲は1809(明治23)年8月30日に泊まっています。その後、彼は松江に生活の本拠を置くことになります。当時の尋常中学校および師範学校の英語教師となったからです。しかも、この地で日本人女性、小泉セツと結婚しています。しかし、松江に滞在していたのはわずか1年3か月でした。

 上の紹介文には富田旅館とありますが、現在は大橋館があります。大橋館は1879(明治12)年に創業したということですから、富田旅館が現在の大橋館である、ということなのでしょう。

 仕事の前に、大橋館の周囲を歩きました。上の写真は、堀川めぐり発着場の近く、末次本町の辺りです。私が訪れたのは水郷祭の時期で、前日の夜には花火大会があり、この広場でダンスパフォーマンスが行われていました。今は朝で人通りも少なく、静かです。何となく、日本というより北京あたりにも似ているような気もしなくはないのですが、いかがでしょうか。

 フォルクスワーゲンのタイプ2が美しい形で置かれていたので、思わず撮影しました。ワンボックスカーの元祖と言ってもよいでしょう。エンジンの基本構造タイプ1、つまりビートルと同じですので、空冷エンジンです。

 ワンボックスカーというと、日本では長らく商用車として使用されてきましたし、この形を乗用車として受け入れては来なかったでしょう。ようやく、エスティマなどの登場により、ワンボックスカーも乗用車として認められるようになったといえますが、エスティマ、ラルゴなどのデザインは、やはり実用的な商用車ではなく、乗用車のものです。その意味で、フォルクスワーゲンのタイプ2とは違います。

 仕事が終わり、時間ができました。そこで、出雲大社へ行ってみることとしました。当初はJR山陰本線で出雲市駅に出ることも考えたのですが、本数が少なく、また、松江駅から少し離れた場所で仕事をしたこともあって、一畑電車(一畑電気鉄道は持株会社)北松江線の松江しんじ湖温泉駅に向かいました。名称の通り、すぐ近くに温泉がありますが、松江市役所の最寄り駅ともなっています

 この駅は元々が北松江といい、松江温泉に改称された後、現在の駅名となっています。北松江線はこの駅から電鉄出雲市駅までの路線なのですが、時刻表を見ると松江しんじ湖温泉→電鉄出雲市の列車番号が偶数、電鉄出雲市→松江しんじ湖温泉の列車番号が奇数となっています。つまり、松江しんじ湖温泉→電鉄出雲市が上り電車ということになります。山陰本線であれば松江→出雲市は下りですので、逆になっている訳ですが、これは大正時代に電鉄出雲市側から開通し、昭和に入ってから松江しんじ湖温泉まで開通したという歴史的な事情によるもののようです。

 ともあれ、その上り電車に乗ります。電鉄出雲市行ですから、出雲大社へ行くためには途中の川跡で大社線に乗り換える必要があります。私が学部生であった時代に京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)京王線で走っていた5000系が、改造された上で北松江線を走ります。内装も変えられていますが、京王線を走っていた頃の雰囲気は少々残っています。 そう言えば、山陰本線の伯耆大山~西出雲が電化されるまで、島根県内の国鉄・JR線には電車が走っておらず、当時の一畑電気鉄道の各路線でしか電車を見ることができなかったのでした。

 松江しんじ湖温泉から出雲大社までは1時間ほどかかります。単線で、宍道湖の北側を走りますが、カーブも多く、速くありません。途中の一畑口ではスイッチバックをします。 この北松江線については、何度か廃止の動きがありました。しかし、北松江線が廃止され、路線バスに転換されたとすると、地域はいっそう不便になって衰退するでしょう。そして、路線バスも撤退または縮小に向かうことでしょう。これも、今や日本各地で見られる現象です。

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JR北海道が留萌本線末端区間(留萌⇔増毛)の廃止を正式に発表した

2015年08月10日 23時53分17秒 | 社会・経済

 今日(2015年8月10日)付で、JR北海道が「留萌線(留萌・増毛間)の鉄道事業廃止について」を正式に発表しました。平成28年度(2016年度)中に廃止されることとなりそうです。

 この文書については、皆様にも是非御覧いただきたいところですが、このブログでも少しばかり紹介しておきます。

 留萌本線は、石炭、木材、海産物の輸送ルートとして活用されたのですが、やはり石炭産業が衰退したことが路線の衰退にもつながっていました。当然、人口の減少にもつながるからです。この他、モータリゼイションの進化(深化)が大きいところでしょう。

 輸送密度も、グラフ付で説明されています。これによると、留萌⇔増毛における昭和50年度(1975年度)の輸送密度は1189人でしたが、昭和55年度(1980年度)に855人、昭和60年度(1985年度)に592人、昭和62年度(1987年度)に480人と、減少の一途をたどりました。その後、平成25年度(2013年度)までの数字は掲載されていませんが、平成26年度(2014年度)の輸送密度は39人で、1列車当たりでは僅か3人という割合でした(この区間には、現在、上下合わせて13本の普通列車が運行されています)。

 また、留萌⇔増毛は、とくに災害が多い区間とされており、JR北海道の文書では平成17年(2005年)3月と平成24年(2012年)3月の列車脱線事故があげられています。いずれも、箸別と増毛の間で「斜面から線路に流入した雪や土砂等に乗り上げる列車脱線事故」です。また、事故にはならなかったものの、2015年、つまり今年の2月下旬から4月下旬まで、雪崩や斜面崩壊の恐れがあるということで、留萌⇔増毛が運休となっています。抜本的な対策が必要とされるところですが、それには数十億円(としか書かれていません)が必要となります。

 しかし、平成25年度の営業収入は700万円で、これに対する経費は、JR北海道の表現を借りるならば「25倍近く要していると推計され、差し引きすると年間約1億6千万円以上の赤字となっています」。これでは費用をかけて対策を行う意味が薄れるところです。

 また、JR北海道は、上記の文書で、留萌市および増毛町の人口(住民基本台帳人口による)も示しています。これによると、

 留萌市の人口:34462人〔昭和62年(1987年)3月〕→22957人〔平成27年(2015年)1月〕

 増毛町の人口:7990人〔昭和62年(1987年)3月〕→4893人〔平成27年(2015年)1月〕

となっています。

 JR北海道は、今日、留萌市長および増毛市長に留萌⇔増毛の鉄道事業廃止について説明をしています。何時、廃止届を出すのか(または出したのか)については説明されていません。鉄道事業法第28条の2第1項は「鉄道事業者は、鉄道事業の全部又は一部を廃止しようとするとき(当該廃止が貨物運送に係るものである場合を除く。)は、廃止の日の一年前までに、その旨を国土交通大臣に届け出なければならない」と定めておりますので、仮に来年の10月1日に廃止するとなれば、そろそろ届出を行うことでしょう。届出が行われた後に、「国土交通大臣は、鉄道事業者が前項の届出に係る廃止を行つた場合における公衆の利便の確保に関し、国土交通省令で定めるところにより、関係地方公共団体及び利害関係人の意見を聴取するものとする」(同第2項)とされており、留萌市および増毛町がいかなる意見を出すのかが注目されるところではあります。

 一方、鉄道事業法第28条の2第3項は「国土交通大臣は、前項の規定による意見聴取の結果、第一項の届出に係る廃止の日より前に当該廃止を行つたとしても公衆の利便を阻害するおそれがないと認めるときは、その旨を当該鉄道事業者に通知するものとする」とも定めています。留萌⇔増毛がこの規定に該当するかどうかはわかりませんが、可能性がないとも言えないでしょう(和歌山県の有田鉄道線などの例があります)。

 さらに、今後、JR北海道の路線の廃止が進む可能性もあります。留萌本線の深川⇔留萌の動向も気になるところですし、札沼線の北海道医療大学⇔新十津川、石勝線の支線(新夕張⇔夕張)、そして、現在も大部分の区間で運休状態が続いている日高本線(苫小牧⇔様似)あたりが、さしあたっての関門でしょう。

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長津田駅で5050系5154Fを撮影

2015年08月07日 16時03分41秒 | 写真

 今日、長津田駅まで足を伸ばしてみたら、長津田駅から長津田検車区に伸びる線路上に5050系5154Fが停車しているのを見ることができました。

 5050系は、5000系シリーズの東横線版で、2004年に営業運転を開始しました。8両編成で、当初から東横線とみなとみらい線で運用されており、現在は副都心線、西武池袋線および東武東上線にも乗り入れています。

 また、10両編成も存在しますが、4000番台として区別されています。

おそらく、長津田車両工場での定期点検のため、長津田まで来たのでしょう。この後、5番線に入りました。

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世田谷線の300系301Fを撮影

2015年08月04日 22時16分13秒 | 写真

 三軒茶屋から下高井戸までの東急世田谷線には、現在、300系のみが10編成在籍しています。

 その最初の編成である301Fは、1999(平成11)年に登場しました。当初は初代5000系やデハ150形などと同じく緑一色で、サザエさんのラッピングを施されており、正面の窓の下にはサザエさんの顔が描かれていましたが、2005(平成17)年に、今は宮崎台の電車とバスの博物館で保存されている「ペコちゃん」ことデハ200形の塗装に変えられました。いわゆる玉電色です。

(デハ301-B。2015年8月4日、下高井戸駅(SG10)にて撮影。)

(デハ301-A。2015年8月4日、三軒茶屋駅(SG01)にて撮影。)

(デハ301-B。2015年8月4日、三軒茶屋駅(SG01)にて撮影。)

この編成のみ、東急のコーポレートマークではなく、昔の「T. K. K.」が付けられています。

(デハ301-B。2015年8月4日、三軒茶屋駅(SG01)にて撮影。)

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