先週、経済産業大臣が辞任しましたが、今週は、というより今日、法務大臣が辞任しました。
これはドミノになるでしょうか。
第一次、の再来?
先週、経済産業大臣が辞任しましたが、今週は、というより今日、法務大臣が辞任しました。
これはドミノになるでしょうか。
第一次、の再来?
今日(2019年10月30日)の9時7分付で、朝日新聞社のサイトに「日高線バス転換、守る会が質問状」という記事が掲載されました(https://digital.asahi.com/articles/CMTW1910300100001.html)。
このブログでも取り上げているように、日高本線の存廃問題については沿線7町の町長による協議が繰り返されてきているのですが、非公開で行われているようで、「JR日高線を守る会」という住民団体が、公開質問状を様似町長(日高町村会長)に提出したということです。
内容は、協議の非公開の他、「バス転換で便利で快適になる」という主張の根拠、「運賃や定期代の上昇」(多くのバス転換路線で見られる現象です)、「各町の負担増への対応策」などです。
なお、この公開質問状については、住民団体の代表幹事が29日に新ひだか町で説明しています。
今日の大雨で、千葉県で川が氾濫したり住宅が倒壊したりしています。何と表現すればよいのかわからない気持ちになります。
そんなところに。
某氏曰く、川崎は「品の良い所」ではないそうです。
住民として一言。
大きな御世話です。
こういう言葉は、住民が自虐的に言うから冗談などとして受けるのであって、住民でない人に言われたら「ふざけるな」という言葉を返したくなるでしょう。
ただでさえ、広い範囲で台風19号による被害にあっているところに「この発言かい」と思う人も少なくないでしょう。
昨年(2018年)、"John Coltrane, Both Directions at Once, The Lost Album"が発売されました。購入してから何度となく聴きました。2枚組ですが、とくに1枚目の1曲目(Untitled Original 11383)、3曲目(Untitled Original 11386)、6曲目(Slow Blues)を気に入ったので、通しで聴いたのです。もう16年か17年も前に、大分フォーラスの地下にあったタワーレコードで大分大学教育福祉科学部の学生に声をかけられ、ジャズで最初の一枚を買いたいけどおすすめは何か、という趣旨のことを尋ねられ、少し悩んでコルトレーンの「バラード」(Ballads)をすすめたことなどを思い出しながら。
今年の9月には、"John Coltrane, Blue World"が発売されました。数ヶ月前に広告が出ており、予約注文をして購入しました。1960年代前半、黄金のカルテットによる演奏です。コルトレーンがサックス(今回購入したBlue Worldではテナー・サックスのみ)、マッコイ・タイナー(McCoy Tyner)がピアノ、ジミー・ギャリソン(Jimmy Garrison)がベース、そしてエルヴィン・ジョーンズ(Elvin Jones)がドラムです。聴かない訳にはいかないだろうと思っていました。
今回の"John Coltrane, Blue World"は、1964年6月24日に録音されたものです。あの傑作「至上の愛」(A Love Supreme)と同じ年だと思っていたら、約半年前の録音でした。期待できそうです。
〔「至上の愛」については、アシュリー・カーン(川嶋文丸訳)『ジョン・コルトレーン「至上の愛」の真実 スピリチュアルな音楽の創作過程』(2014年、DU BOOKS)もおすすめします。ちなみに、日本語訳のオリジナルは2006年に音楽之友社から発売されており、私は音楽之友社のほうを購入しました。たしか、発売されて間もなくのことで、青葉台のブックファーストで見つけたのです。〕
"Blue World"はスタジオ録音の作品集ですが、少々変わった経緯がありました。カナダ人の映像作家であるジル・グルー(Gilles Groulx)による映画「袋の中の猫」(Le chat dans le sac)のための録音だったのです。ただ、この映画がアンダーグラウンド系のものであったことなどから、あまり注目されなかったようで、コルトレーン・カルテットがこの映画のために録音したという事実も2007年になってから判明したそうです。また、ジャズと映画と言えばフランスのヌーヴェル・ヴァーグ(Nouvelle Vague)という連想が浮かんできますが、このコルトレーンの録音の場合は映像と無関係であったそうで、その点はルイ・マル(Louis Malle)監督の「死刑台のエレベーター」(Ascenseur pour l'échafaud)などと異なります。
収録されているのは、コルトレーンのファンであればおなじみの曲ばかりでしょう。全てコルトレーンのオリジナルで、CDには次の順で収録されています。
・ナイーマ(ネイマ。Naima) Take 1
・ヴィレッジ・ブルース(Village Blues) Take 2
・ブルー・ワールド(Blue World)
・ヴィレッジ・ブルース(Village Blues) Take 1
・ヴィレッジ・ブルース(Village Blues) Take 3
・ライク・ソニー(Like Sonny)
・トレーニング・イン(Traneing In)
・ナイーマ(ネイマ。Naima) Take 2
最初と最後に、コルトレーンの前妻の名をそのまま曲名にしたバラードがあります。やはり名盤である「ジャイアント・ステップス」(Giant Steps)に初収録されてから、彼は何度も演奏しているのですが、このCDでの演奏もなかなかのものです。短期間のうちに恐ろしくなる程の前進を続けたコルトレーンのことですから、同じ曲でも年によって趣がかなり異なります。
途中に挟まれた曲にブルースが多いのも特徴でしょうか。「トレーニング・イン」は1950年代に録音された同名のアルバムにも収録されており、やはりコルトレーンが多くの録音を残してきた曲ですが、このCDではギャリソンのソロから始められており、卓越した技を聴かせてくれます。もはや伝説と言ってよい日本公演の「マイ・フェイヴァリット・シングス」(My Favorite Things)で、10分を超えるギャリソンの無伴奏ソロは有名ですが、スタジオ録音では、あまり彼のソロがフィーチュアされることもないと記憶しているので(もっとも、全てを聴いた訳ではありません)、珍しいと言えるかもしれません。その後にタイナーのソロが続き、コルトレーンは途中からいきなりのアドリブとなります。
コルトレーンのブルースと言えば、"Live at the Village Vanguard"に収録されている"Chasin' the Trane"という、彼がブルースの枠を超越しているような爆発的なソロを思い出すのですが(学部生時代にはまっていました)、上記の各曲にも、"Chasin' the Trane"ほどではないにせよ、ブルースという型にはまらないようなソロがある、と言えます。だから面白いのでしょう。
ブルースでないのは「ブルー・ワールド」と「ライク・ソニー」で、前者は1962年の「コルトレーン」の冒頭に収録されている「アウト・オブ・ディス・ワールド」(Out of This World)のコード進行を基に作られた曲となっています(しかし、聴いてみると「アウト・オブ・ディス・ワールド」そのものとも思えます)。後者は「コルトレーン・ジャズ」に収録されている曲で、「ソニー」とはテナー・サックスの巨人ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)のことです。
それにしても、コルトレーンが41歳で亡くなったのが1967年7月のことですから、もう半世紀以上が経過している訳です。黄金のカルテットでも、存命者はタイナーのみで、今年の12月に81歳になるそうです。ギャリソンは1976年に43歳で、ジョーンズは2004年に76歳で亡くなりました。
それでも未発表録音などが次々に出てきます。コルトレーンやマイルス・デイヴィスなどであれば、これも当たり前のことなのかもしれません。海賊盤の類も多いし、正規、非正規の別を問わず、コンサートの録音や録画が多く残されているのですから(その中に海賊盤として発売されたレコードもあるのです)。YouTubeにもたくさんの動画がアップされています。
ただ、未発表物、発掘物に「はずれ」が多いのも事実です。何らかの理由によりお蔵入りになった録音もあるのですから当然のことでしょう。私の経験を記しておくと、高校生時代からエリック・ドルフィーの演奏を好んでいたことから、彼の未発表物というLPやCDを何枚か買いました。しかし、正直なところピンと来なかったLPやCDもあります(むしろドルフィーではそのほうが多いかもしれません)。中にはSPかと思われるような音の曲もあり(それでも何故か多重録音だったりします)、何故発表されたのかと首を傾げたくなりました。その意味で、2018年に発売された"Eric Dolphy, Musical Prophet : The Expanded 1963 New York Studio Sessions"は非常に貴重な記録と言えるのです。
そのドルフィーとコルトレーンは親しく、1960年代に何度も共演しています(但し、コルトレーンのレギュラーバンドにドルフィーが参加していた期間は短いのです)。ドルフィーは生涯、安定的な生活を得られず、そのことが額の瘤にも現れているのですが、コルトレーンは違っていました。だから未発表であった録音にも良いものが多かったのでしょう。まだ出るのか、もう出ないのか、それはわかりませんが、期待してしまう訳です。
★★★★★★★★★★
10月20日、二子玉川のiTSCOM STUDIO & HALLでiTSCOM JAZZ STYLE 2019 Autumn Special Liveが行われました。出演は、渡辺香津美さん(ギター)、川村竜さん(ベース)、則竹裕之さん(ドラム)の「渡辺香津美 JAZZ 回帰 Trio」で、我々夫婦は18時からのほうに行ったのでした。真ん中の列の前から3番目という席です。
このコンサートの2曲目がコルトレーンの"Impressions"でした。香津美さんのことですので、このモード・ジャズの権化のような曲でも自由に弾きまくるのだろうと予想していたら、その通りでした。川村さんが顔から汗を流しながらソロを弾いていたのがよくわかりました。この3人なら、ということで聴きに行こうと思っていたので、正解でした。
また、コルトレーンも参加していた"Milestones"を、1970年代後半の伝説ともなっているKYLYNのアレンジ(と香津美さんはアナウンスしていました)で聴くことができました。彼にとっては色々なアプローチができる曲のようで、青葉台のフィリアホール(沖仁さんとのコンサート)でも全く違うアレンジで聴けました。
私にとっては、アンコールでの1曲を除いて全て知っている曲でした。順番に、Havana、Impressions、Four on Six、遠州燕返し、Momo、Unicorn、そしてMilestonesです。
そろそろ、新しいアルバムが出ないかな、と期待しています。
今から6年半程前まで私のゼミに在籍していた卒業生からのメールに、遅れて申し訳なかったのですが返事を出しました。
社会人として仕事に励んでいるようなので、安心しましたし、うれしい気分になりました。
高津区に住んでいるということで、お見舞いという意味であったのでしょう。たしかに、少なくとも関東地方では高津区のいくつかの町丁における被害が大きく報じられました。
このブログにも書いていますが、私が住んでいる街は無事でした。しかし、これはたまたまというか、偶然というか、というところです。
(都合上、第3部の初回から始めさせていただきます。)
第2部においては、国の財政制度として、予算、決算、国債を取り上げてきた。本来は、さらに、会計法の分野を取り上げ、概観および検討をなす必要がある。実際に財政法を運用する際には、会計法における様々な技術や問題を知る必要がある。しかし、限られた講義時間において国および地方の財政法制度を扱うとなると、割愛せざるをえない。
今回から、第3部として地方税財政法制度を概観し、検討する。ここでは、地方税法、地方財政法、地方交付税制度、国庫補助負担金制度、そして地方債制度などを扱うこととなる。
●「地方税財政制度」および「地方税財政法」という用語について
この講義においては、「地方財政制度」ではなく「地方税財政制度」という表現を用いる。また、地方財政法という用語を全く使用しない訳ではないが、実質的な意味における地方財政法については、主に地方税財政法という表現を用いる。後にも説明するが、ここで、地方財政法ではなく、地方税財政法と表記することについて、説明しておく。
一つには、講義の便宜がある。実質的な意味における財政法の中には租税法という分野があり、大学の法学部などにおいては租税法という名称の講義がある。しかし、その場合、国税である所得税、法人税、相続税、消費税などが中心となる。住民税、事業税、固定資産税、地方消費税などが扱われることは少なくないが、主に国税との関係において扱われる。おそらく、地方税、あるいは別の名称による、地方税制のみを扱う講義は存在しないものと思われる。しかし、地方分権型社会というのであれば、地方公共団体の歳入の中心は租税であるべきであろう。
この講義においては、形式的意義における地方財政法のみならず、概略的ではあるが地方税制度を扱う。国の財政法制度については、実質的意義の財政法のうち、租税法を項目に入れていなかった。このために、国については財政制度、地方については税財政制度と記している。
もう一つには、実際の地方財政制度の運用に着目しているという理由をあげることができる。日本の場合、普通地方公共団体間の格差が激しいので一概には言えないが、平均すると、本来的に歳入の中心となる租税収入の割合が低い。
また、地方税の場合、国税よりも多く、租税法学の理論のみでは理解しえない部分が存在する。例えば、国民健康保険税は、実質的に租税ではなく保険料であり、市町村財政では他の租税と異なる扱いを受ける※。それに、地方税制度そのものをみても、法定外普通税・法定外目的税の例が代表的であるように、国・地方関係が重要である。これは地方自治制度そのものの問題でもあり、地方財政制度の根本的な問題の一つでもある。
※この点については、拙稿「地方目的税の法的課題」日税研論集46号(2001年)301頁、同「租税法律主義・地方税条例主義の射程距離(下)―旭川市国民健康保険条例訴訟最高裁大法廷判決の検討を中心に」税務弘報54巻14号(2006年)135頁を参照。
いずれにせよ、国の場合以上に、地方の場合は、租税制度と、その他の財政制度とが密接に関係してくるのである。
■日本国憲法と地方税財政制度についての、私の問題意識
既に、憲法の講義を受けた方、教科書を読まれた方であればおわかりであると思うが、日本国憲法は、国民主権原理を強力に担保し、かつ、充分なものとするために、地方自治制度を規定する。
地方自治制度は、歴史的にみるならば、実力を高め、中央集権化していく国家権力への対抗勢力的な存在でもある※。地方自治の本旨の一側面と言われる団体自治は、中世の自治都市(ハンザ同盟など)を想起すれば理解できるように、国民主権原理とは無縁のものであるし、イタリアなどの都市の自治も、実態は貴族制に近いものであったという。近代国家の原理は、こうしたものを克服して成長しつつ、中央権力、すなわち、国家権力そのものを強化していった。その意味においては、国民国家原理の高まりという風潮における、或る意味での妥協的な産物なのかもしれない。しかし、フランスのトゥクヴィルがアメリカの連邦国家制度を観察して「地方自治は民主主義の学校である」という言葉を残し、イギリスのブライスも同じ言葉を残したように、いかに国民国家原理を高め、民主主義の要素を高めていったとしても、各地域における自治が存在しなければ、国民主権原理を確固としたものとすることはできない。日本で最初の近代憲法である大日本帝国憲法が、第二次世界大戦によって自壊したことの根本的な理由は、地方自治を制度として規定しておらず、中央政府の肥大化や軍部の暴走などを根本から防止するための手立てを取らなかったが故のことである、とも言えるのではないであろうか。
※絶対王政の時代を考えていただきたい。なお、これは、多分に西欧の歴史に基づく記述であり、日本にも同様のことが妥当するか否かについては、さらに検証を必要とするであろう。しかし、江戸時代における諸藩の実態などをみるならば、形は違えども共通する部分は少なくないと思われる。
それでは、地方自治制度を憲法上の制度と位置づけるとして、これを十分に機能させるには何が必要とされるのか。
日本国憲法第92条には「地方自治の本旨」という文言がある。これはあまり明確な概念と言えないのであるが、憲法学説などにおいては、団体自治と住民自治があげられる。これについては異論があるかもしれないが、一応、憲法学説などの通説に従うこととする。
団体自治は、特定の地域という側面に立脚する団体(例えば市町村)が、国家(中央政府)から独立して、その地域に関する事務を行うことである。日本においては、地方自治法第2条第1項に示されるように、地方公共団体には法人格が与えられている。この規定は、まさに団体自治の側面を示すものである。特別地方公共団体の場合については、上記と異なる説明が求められることとなるが、地方自治法の構造からしても、基本的には多くの規定を普通地方公共団体に向けているのであるから、ここでは普通地方公共団体のみを前提としておけばよいであろう。また、特別地方公共団体でも、特別区については、もはや普通地方公共団体と同様に「地方自治の本旨」が妥当すべき存在となっていると考えてよいであろう。
既に、このことから、地方公共団体が存立するためには、一定の財源、一定の財政制度が必要とされることが明らかである。勿論、この場合、「地方自治の本旨」のもう一方である住民自治を忘れてはならない。住民自治は、国民主権原理になぞらえるならば、地方公共団体の権力性と正当性に関わると考えるべきであり、国家から独立して、その地域に関する事務を行う団体が行う事務処理の決定過程などに地域の住民が参加することである。地方公共団体が独自の財産などを有し、それを基にして収益事業などを行うのであれば話は別であるが、基本的に地方公共団体は、その地域の住民によって構成されるために社団法人としての性格を有する。このことからして、地方公共団体の運営に際しては、何らかの形で住民の負担に頼らざるをえない。ここに、国税とは別に地方税が必要とされる理由が存在する。また、地方税以外の財源の必要性などの理由も存在する。
以上を前提としつつ、ここで、日本国憲法と地方税財政制度との関係について、私の問題意識を述べておきたい。
日本国憲法は、第92条ないし第95条以下において地方自治に関する規定を置く。しかし、これらの規定には、地方公共団体(都道府県および市町村)の税財政制度の基本的枠組みに関する内容は含まれていない。むしろ、日本国憲法は、地方公共団体の税財政制度については具体像を示さず、沈黙していると評価してよい。
拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3 地方財政の変貌と法』(2005年、勁草書房)33頁。同「憲法と地方自治―地方税立法権を中心に―」住民と自治541号(2008年)8頁も参照。また、後掲の拙稿(「ヘンゼルの地方財政調整法制度論」および「ドイツの地方税財源確保法制度」)、中里実「地方税条例の効力の地域的限界」地方税51巻11号(2000年)4頁、水野忠恒「法定外地方税における地方団体の課税権とその限界―アメリカ合衆国の州際通商条項におけるNexusを参照して―」地方税52巻5号(2001年)13頁も参照。
勿論、第92条は「地方自治の本旨」を掲げており、第94条は「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有す」ると規定する。このことから、地方公共団体が独自の税財政制度を持つことは許容される、否、要請される。しかし、その制度の基本的な枠組みは「法律でこれを定める」のである。憲法が国の基本法であり、政治制度などの基本を定めるものであることからすれば、具体的にいかなる地方税財政制度を構築するかという問題は、結局のところ、中央政府の権限決定権に委ねざるをえない。
拙稿・前掲書31頁。なお、この記述は、私が、日本租税理論学会第14回大会(2002年11月16日、中央大学駿河台記念館)において行った個別報告「ヘンゼルにおける地方財政調整法理論」、および、日本財政法学会第21回大会(2003年3月15日、中央大学駿河台記念館)において行った報告「地方税財源確保法制度の国際比較―ドイツの場合―」を基にしている。いずれの報告も、修正を加えた上で、両学会の叢書に掲載されている。拙稿「ヘンゼルの地方財政調整法制度論」日本租税理論学会編『相続税制の再検討(租税理論研究叢書13)』(2003年、法律文化社)167頁、同「ドイツの地方税財源確保法制度」日本財政法学会編『地方税財源確保の法制度(財政法叢書20)』(2003年、龍星出版)75頁。
大日本帝国憲法と日本国憲法とを比較すると、大日本帝国憲法には地方自治に関する規定が存在しなかったが故に、地方自治に対して冷淡であったのは当然であろう。地方自治制度の歴史については他の講義を聴かれたいが、地方自治制度、そして地方税財政制度が存在したとは言え、それは、憲法上の制度ではなかったがために、中央集権の便宜に適うべきものであった。大正期に地方分権を求める動きが存在したとは言え、到底、実るようなことはなかった。天皇主権の下において地方分権を進めることは、理念的に相当な困難を伴う、否、根本的な部分において実現不可能であったと思われる。
この点について、例えば、宮本憲一・小林昭・遠藤宏一編『セミナー現代地方自治―「地域共同社会」再生の政治経済学―』(2000年、勁草書房)32頁[宮入興一担当]は「地方自治制度の制定が中央の統治の障害になるとの危惧は、当時、この制度を推進した山県有朋らの官僚も抱いており、これに対処すべくとられた制度が、モッセ(Albert Mosse)らの提言をいれた『機関委任事務』に他ならない」と述べる。
これに対し、日本国憲法は、とくに地方自治に関する一章を設け、地方分権型の国家を目指すという方針を明らかにした。しかし、現実には、1999(平成11)年に制定され、翌年に施行された地方分権一括法(正式名称は「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律」)によって廃止された機関委任事務が、大日本帝国憲法時代から引き継がれ、強化されるなど、中央政府の意向によって、一見すると分権的、しかし実は中央集権的という体制が維持されてきた。そればかりでなく、地方分権という言葉にも、実は曖昧なところがあり、1970 年代以来の革新自治体などの経験を踏まえた市民運動家などの「住民自治」派の立場と、一部の政治家・学者・財界などによる「新自由主義」の立場とによって、地方分権の色合いは微妙に異なっている。そのことが地方分権推進法および地方分権推進委員会による中間報告や諸勧告に現れているため、内容・方向性ともにわかりにくくなっていることは否定できないのである〈詳細は、拙稿「日本における地方分権に向けての小論」大分大学教育学部研究紀要20巻2号(1998年)191頁を参照〉。
ただ、地方分権という場合、単に事務の配分なり移譲なりのみを意味するものではないことは当然であろう。これまでにも、日本の地方公共団体は、国と比較しても多くの事務を担当してきた。その点では中央集権的であるというより、地方分権的である。真の問題は、事務に関する決定権限の問題である。その典型が、かつての機関委任事務である。これは、実際には地方公共団体が担当するにもかかわらず、それが普通公共団体の事務とされず、国から普通地方公共団体の長に委任されたものとして、しかも普通地方公共団体の長を国の機関と位置づけて行わせてきた事務をいう。機関委任事務の存在は、はしなくも事務についての決定権限が普通地方公共団体にではなく、国に存在することを示している※。事実、地方分権一括法施行前の地方自治法は、機関委任事務に対する議会の関与を、基本的には認めていなかった。認めていたとしても、それは非常に限られた範囲のことである。これでは中央集権的であると言わざるをえない。
※このため、普通地方公共団体の長は、事務を委任する国の下部機関として、国、より丁寧に記すならば所掌する省庁の大臣の指揮監督の下に置かれていた。また、委任に際して法律の根拠によらない場合も少なくなく、不透明なものとして批判を受けることも多かった。
地方分権とは、何よりも、一定の事務に関する、少なくとも第一次的な決定権限を、中央政府が独占するのではなく、地方公共団体(政治学や財政学などにいう地方政府)に分け与える、あるいは移譲するということである。事務の配分がなされるのは言うまでもないが、それだけでは地方分権がなされたと言えない〈拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3 地方財政の変貌と法』31頁〉。
そして、事務、それに関する第一次的な決定権限の配分だけでは、地方分権として不十分である。当然ながら、独自の決定に基づいて何らかの事務を行うと言っても、自由に使える資金がなければ話にならない。自らの収入源があり、そこから必要かつ十分な収入を得て、その収入に基づいて支出をなせるのでなければ、独立した存在とは言えないであろう※。時折、学生などに対して私が用いる(妙な)比喩を記すと、子(地方公共団体)がアルバイトなどをして稼ぐお金では、到底、自分の生活に必要な資金を全て賄うことができず、親(国)からのお小遣いなり仕送りなりに頼らなければならないというのでは、その子は自立した生活を送っているとは言えないであろう。
その意味において、地方税法第37条の2および第314条の7に定められる「ふるさと納税制度」は、地方税財政制度の根本的な改善につながりえないだけでなく、 地方自治法第10条第2項に定められる負担分任原則、さらに住民自治の理念からの逸脱がみられるなど、理論的な問題が少なくない。個人住民税の寄付金控除のあり方や問題点に関する議論を喚起したという点に一定の役割が認められるという程度に過ぎないであろう。詳細は、拙稿「個人住民税の寄附金控除制度―『ふるさと寄附金控除』制度と『ふるさと納税』制度についての若干の検討」税務弘報56巻3号(2008年)105頁、同「2015(平成27)年度税制改正の概要と論点〜地方税制の重要課題を中心に〜」自治総研440号(2015年)85頁、同「地方税法等の一部を改正する法律(平成27年3月31日法律第2号)」自治総研446号(2015年)57頁を参照。
最終的な決定権限などは国に、そして国民に留保されるということを前提とした上で記しておくならば、税財源、より一般的に言えば税財政における権限配分がなされ、完全に、とは言えないまでも、相当程度に地方公共団体が自立できるようにならなければ、地方分権は完成しない〈拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3 地方財政の変貌と法』31頁〉。
少々、本題から離れた記述が長くなったかもしれない。しかし、この講義を進めるにあたり、現在、私が抱いている問題意識の一端を示す必要があると考えたが故のことである。
付記:日本財政法学会編の財政法講座全3巻は、いずれも2005年5月に勁草書房から刊行された。また、2008年12月に、これらの韓国語訳が韓国法制研究院より刊行されていることも記しておく。
第1巻:財政法の基本問題
第2巻:財政の適正管理と政策実現
第3巻:地方財政の変貌と法
▲第6版における履歴:第7回として2019年10月22日掲載。
2020年2月23日、第8回に繰り下げ。
▲第5版における履歴:未掲載。
1.租税法律主義の意義
租税法律主義は、民主主義の根幹を成し、自由主義を経済的に担保する原則である。新井隆一博士によれば、租税法律主義は「私有財産制度の基礎に立つ個人の絶対的財産権に対する国の侵害を、個人の社会的・政治的・経済的自由を保障するために、法律に留保しようとする要請に基づいて生じたものである、ということができる。それゆえ、租税法律主義は、罪刑法定主義とともに、法における近世自由主義思想の一表現である、とされているのである」※。しかし、また、或る意味において、現実において非常に難しい問題を孕むこともある※※。
※新井隆一『租税法の基礎理論』〔第3版〕(1997年、日本評論社)56頁。北野弘久(黒川功補訂)『税法学原論』〔第7版〕(2016年、勁草書房)70頁、80頁、85頁、水野忠恒『大系租税法』〔第2版〕(2018年、中央経済社)8頁も参照。
※※租税法律主義に関する論考の例として、小山廣和「租税法律主義」日本財政法学会編『財政法講座1 財政法の基本問題』(2005年、勁草書房)157頁を参照。また、佐藤英明「租税法律主義と租税公平主義」金子宏編『租税法の基本問題』(2007年、有斐閣)55頁も参照。
憲法第84条は、租税法律主義を明定する。また、第30条において国民の納税義務が定められているが、同条にも「法律の定めるところにより」という文言があるように、両規定は表裏一体の関係にあると言いうる。ここで第30条を単に国民の納税義務を定める規定であると捉えるならば「宣言的・確認的意義」に留まり、法的には意味の乏しい規定であるということになってしまう〈新井・前掲書59頁〉。
この規定には、さらに積極的な意味が含まれている。新井博士は、次のように述べる。
「日本国憲法は、その近代憲法的な成果からみて、内容的には、人権宣言の部分と、国の統治機構に関する原則規定の部分から構成されているということができる。このような理解からすれば、この30条の規定が憲法におかれている積極的な意義は、それを、むしろ、国民の権利の面から解釈して、国民は、法律の定めるところによらなければ、納税の義務を負わない、つまり、法律の規定がない限り国民が租税を賦課されるということはない、ということになる。これこそまさに、租税法律主義の原則の内容にほかならないものなのである。すなわち、憲法30条のもう一つの意味というのは、租税法律主義の原則を、国民の権利の側面において把握し、法律(租税法)の規定の不存在を理由とする『不納税の権利』に根拠を与えるものであるということができるのである。」〈新井・前掲書59頁。なお、原文の漢数字の一部を算用数字に改めた。〉
また、租税法律主義は、第83条に定められる財政民主主義の一環でもある、と考えるべきである。このことは、規定の位置関係からも明らかであるし、財政民主主義の内容からしても当然である。財政民主主義と租税法律主義は、規律の程度に違いがあるとしても、質を異にするものではない。
第84条からも明らかであるように、新たな租税を国民に課し、または従来からの租税負担を変更するには、必ず国民、少なくとも国民を代表する機関である国会の承認を必要とする。その理由は、既に述べたように、私人の租税負担が、財産権に対する国からの一方的な侵害を意味するからであり、また、徴収手続に権力的要素が強く、私人の財産権のみならず人格権(名誉権)さらには人身の自由に対する侵害の危険性が高いからである。
そして、日本国憲法が資本主義体制を基本とし、財産権を保障することによって経済活動の自由を保障する以上、法的安定性および予測可能性を確保することが必要である。租税法律主義は、この法的安定性および予測可能性を租税の面において担保するための原則でもある〈水野・前掲書9頁を参照〉。
ここで租税負担の変更とは、増税(税率・税額の上昇)を意味することは当然であるが、減税(税率・税額の下降)をも意味する。減税が全ての国民の利益になるとは限らないからである。租税特別措置法により、各種の租税の減免が行われているが、特定の業種・階層などのみを対象とすることもあり、負担の平等などの観点から問題になることが多い。
なお、憲法第84条にいう「租税」の意義については別に考えなければならない。
2.国税の租税法律主義と地方税の地方税条例主義
地方公共団体は、地方税法の定めるところに従って課税権を有し(地方税法第2条)、地方税の税目や課税対象などを条例により定めなければならない(同第3条第1項)。地方税条例主義がとられている訳である。それでは、地方税条例主義は、憲法上、何処に根拠を求めうるのか。
かつての通説は、憲法第84条にいう「租税」は直接的に地方税を含むものではないが、規定の趣旨が及ぶと考えた。従って、この説によると、地方税条例主義は租税法律主義の例外であるということになる。しかし、地方税を住民に賦課するのであれば、地方税は、当該地方公共団体の住民代表機関である議会が制定する条例に基づかなければならない。そうすると、この考え方によっても租税法律主義と基本的な趣旨は異ならない。そのため、地方公共団体の課税権は憲法第92条および第94条に由来し、憲法第84条もこのことを予定していると考える説が通説化しているようである。
もっとも、この説は大きく二つに分割される。第一に、憲法第84条が地方税についても適用されるという考え方である※。第二に、第84条は地方税に対して適用されないとする考え方である※※。
※例:碓井光明『要説地方税のしくみと法』(2001年、学陽書房)6頁、小林孝輔=芹沢斉編『基本法コンメンタール憲法』〔第四版〕(1997年、日本評論社)351頁[牧野忠則担当]。
※※例:新井隆一『財政における憲法問題』(1965年、中央経済社)33頁、金子宏『租税法』〔第二十三版〕(2019年、弘文堂)101頁を参照。この他、北野弘久「本来的租税条例主義」日本財政法学会編『財政法講座1 財政法の基本問題』183頁、小山廣和「租税法律主義と租税(地方税)条例主義」同書203頁 、小林孝輔=芹沢斉編『基本法コンメンタール憲法』〔第五版〕(2006年、日本評論社)393頁[三木義一担当]、村上順=白藤博行=人見剛編『新基本法コンメンタール地方自治法』(2011年、日本評論社)266頁[前田雅子担当]を参照。
憲法第92条および第94条が抽象的な地方税立法権などの配分を行っていることを考慮するならば、第一の考え方は妥当と言い難い。しかし、抽象的な地方税立法権などの配分により、それらの行使にあたって地方公共団体にも憲法上の制約が及ぶことは当然であり、具体的な地方税立法権などについても同様であることからすれば、第二の考え方も不十分である。地方税条例主義を採用しても地方税について基本理念を定めた条文が欠落することにはならない。むしろ、憲法第92条および憲法第94条によって地方税立法権などが配分されることにより、地方公共団体にも第83条、第84条、第89条などの趣旨は及ぶものと理解しなければならない〈拙稿「地方税立法権」日本財政法学会編『財政法講座3 地方財政の変貌と法』(2005年、勁草書房)34頁、38頁、39頁〉。そうでなければ、何故に地方税立法権などが憲法によって配分されるのかがわからなくなる。
なお、以上に関連して問題となるのが、法定外税の許容範囲である。
3.租税法律主義の具体的な内容、または租税法律主義からの派生原則
租税法律主義の具体的な内容、または租税法律主義からの派生原則としてあげられるものについては、見解が分かれる。もっとも、租税法律主義の派生原則として説明されていないものであっても、説明の便宜などによって別の箇所で扱われるのであって、本来であれば派生原則として理解されるべきものも存在する。ここでは、さしあたって金子宏教授の説〈金子・前掲書81頁〉を基本として、それぞれの原則(主義)の内容、および関係する論点に触れておくこととする。
①課税要件法定主義
罪刑法定主義にならって作られたもので、全ての課税要件、租税の賦課・徴収手続が法律によって規定されなければならないという原則である。
前述のように、地方税の場合は地方税条例主義がとられる。地方税法第2条・第3条を参照。
この原則については問題が多い。まず、法律と行政立法との関係である。法律の根拠がないのに政令や省令によって新たに課税要件に関する定めを置き、または変更することは認められない。政令や省令が法律に違反することも許されない。
もっとも、憲法は、第73条第6号において執行命令および委任命令の存在を認める。その意味においては、課税要件や賦課・徴収手続に関する規定について法律が政令・省令に委任することは許される。しかし、白紙委任のような一般的・包括的な委任は憲法第41条に反する。個別的かつ具体的な委任が求められているのである。
大阪高判昭和43年6月28日行裁例集19巻6号1130頁 、大阪地判平成21年1月30日判タ1298号140頁、大阪高判平成21年10月16日判タ1319号79頁を参照。なお、前掲大阪高判昭和43年6月28日に関する解説・批評として、北村喜宣「政令への委任の限界」金子宏=水野忠恒=中里実編『租税判例百選』〔第3版〕(1992年、有斐閣)8頁などがある。また、前掲大阪高判平成21年10月16日に関する解説・批評として、豊田孝二「使用人賞与の損金算入時期についての法人税法施行令134条の2の定めが租税法律主義に反しないとされた事例」速報判例解説編集委員会編『速報判例解説』(法学セミナー増刊)8号(2011年)265頁などがある。
次に、税務行政において通達の役割は大きく、税務署も税理士も、法律ではなく通達により動いているほどである。また、法律の定める課税要件を通達が実質的に変更していることも多い。旧物品税法の下、パチンコ遊技機が長らく非課税とされていたが通達により課税されたという事件につき、最判昭和33年3月28日民集12巻4号624頁は、通達の内容が旧物品税法に適合していることなどを理由として課税処分を合法としたが、通達によって扱いが変更されたことこそが問題であるなどとして、批判が強い。たとえ従来の扱いが誤っていたとしても長期にわたってその扱いが継続した場合、一片の通達によって扱いが変更されることは、実質的に、通達によって法律の内容が変更されることを意味する場合があり、租税法律主義に反すると考えるべきであろう。
②租税法規不遡及の原則
新しい法律、または既存の法律の改正規定を施行する際に、施行日より前になされた行為への適用を認めることは、法的安定性や予測可能性の観点からすれば好ましくない。とくに、施行前の行為に対して不利益な効果を及ぼすことは、国民の権利・自由の保障の要請に真っ向から反することとなる。刑事法の領域においては、罪刑法定主義の一内容として、行為時には適法であった行為を事後の立法により処罰することは許されないとする刑罰不遡及の原則が存在し、憲法第39条にも明文で定められている。この趣旨を租税法の分野に取り入れたのが租税法規不遡及の原則であり、課税要件法定主義から発展または派生した原則と考えてよい。
しかし、租税法規不遡及の原則は、刑罰不遡及の原則と異なって日本国憲法において明文で定められていないこともあって解釈上の原則とも考えられ、次のように見解が分かれる。
第一説は、独立した派生原則として扱うか否かはともあれ、納税義務者の信頼保護、法的安定性や予見可能性の阻害を防ぐという意味で、憲法第84条および第30条に定められる租税法律主義の内容または派生原則として租税法規不遡及の原則を理解する。
金子・前掲書121頁、北野(黒川補訂)・前掲書77頁、佐藤・前掲書56頁、64頁、田中二郎『租税法』〔第三版〕(1990年、有斐閣)105頁、清永敬次『税法』〔新装版〕(2013年、ミネルヴァ書房)24頁、増田英敏『リーガルマインド租税法』 〔第4版〕(2011年、成文堂)38頁、257頁を参照。なお、水野・前掲書11頁も参照。
また、谷口勢津夫『税法基本講義』〔第6版〕(2018年、弘文堂)31頁は、「法律に基づき民主的正当性を有する以上、法律によらない課税とは異なり、一般的・絶対的に禁止されるとは考えられない」としつつ、「そもそも租税法律主義の目的が納税者に不当な不利益をもたらす課税の阻止にあることを考慮すると、遡及立法のうち納税者に不利益な遡及適用を認めるものは、原則として許容されないという考え方は、成り立つであろう」と述べる。そして、谷口教授は、遡及立法が行われる場合であっても「比例原則(憲13条参照)の下では、遡及立法を定める必要性と、遡及課税によって損なわれる利益、との比較衡量が要請されるべきである」と述べる(同頁)。
もっとも、租税法規不遡及の原則はそれほど厳格なものではないという指摘もある〈三木義一「租税法における不遡及原則と期間税の法理」石島弘=木村弘之亮=玉國文敏=山下清兵衛編『納税者保護と法の支配(山田二郎先生喜寿記念)』(2007年、信山社)274頁。谷口・前掲書31頁も同旨であろう〉。たしかに、憲法に明文で定められている罪刑法定主義に比較すれば、厳格性は薄れるかもしれない。しかし、人身の自由と財産権との間に存在する性質の相違を考慮に入れるとしても、厳格性を緩めることには慎重である必要がある。むしろ、租税法規不遡及の原則が存在する根本的な理由は、租税法規、とくに租税実体法規が課税要件の形で国民の財産権に対する制約ないし侵害を規定するものであることに求められるべきである〈拙稿「租税特別措置法附則27条による同法31条の遡及適用が違憲無効と判断された事例」速報判例解説編集委員会編『速報判例解説』(法学セミナー増刊)3号(2008年)288頁〉。
第二説は、民主主義を理由として租税法規の遡及適用の範囲を広く認める※。この見解によると、仮に租税法規不遡及の原則が憲法上の原則たりうるとしても、民主主義の観点からこの原則は大きな制約を受け、例外の多い原則となる。従って、原則たりえないという結論に至ることもありうる。また、憲法上の原則でないとすると第三説に近い内容となる。
※碓井光明「租税法律の改正と経過措置・遡及禁止」ジュリスト946号(1989年)122頁〔同『要説地方税のしくみと法』(2002年、学陽書房)21頁も参照〕。また、宮原均「税法における遡及立法と憲法」法学新報104巻2・3号(1997年)95頁、高橋祐介「租税法律不遡及の原則についての一考察」総合税制研究11号(2003年)76頁も参照。
いずれにせよ、第二説に対しては、次のような批判が可能であろう。民主主義を理由として租税法規の遡及適用を広く認めるならば、租税法律主義のもう一つの根幹でもある自由主義を損なうことになりかねない。少なくとも、民主主義と自由主義との均衡を崩すことになりかねない。これは、憲法第29条、および第25条の自由権的側面に抵触する。
第三説は、租税法規の不遡及が租税法律主義の内容ではないとする〈図子善信「税務行政における遡及適用の課題」税63巻6号(2008年)5頁、15頁 〉。従って、租税法規不遡及の原則は成立しない。この考え方は、憲法第30条の存在意義を失わせかねず、妥当とは到底言えない。
租税法規不遡及の原則の内容や適用の有無が争われた判決は少なくないが、福岡地判平成20年1月29日判時2003号43頁※および東京地判平成20年2月14日訟務月報56巻2号197頁※※をきっかけにして、再び活発な議論がなされている。いずれも、「長期譲渡所得の金額の計算上生じた損失の金額があるときは、同法その他所得税に関する法令の規定の適用については、当該損失の金額は生じなかつたものとみなす」として、譲渡所得と他の所得との損益通算(所得税法第69条)を認めないとする趣旨 に改められた租税特別措置法第31条が、平成16年3月に公布された法律第14号(租税特別措置法附則)第27条により「個人が平成16年1月1日以後に行う同条第1項に規定する土地等又は建物等の譲渡について適用」されるとして、一種の遡及適用を定めたことが端緒となっている。
※この判決は、控訴審判決である福岡高判平成20年10月21日判時2035号20頁によって破棄された。原告が上告しなかったため、この福岡高等裁判所判決が確定している。しかし、学説においては前掲福岡地判平成20年1月29日を支持する見解が多いようである。
※※控訴審判決として東京高判平成21年3月11日訟務月報56巻2号176頁、上告審判決として最二小判平成23年9月30日集民237号519頁がある。
前掲福岡地判平成20年1月29日の詳細については省略し〈拙稿・前掲速報判例解説3号288頁、および注に掲記された文献を参照〉、ここでは、上記の問題について一応の決着をつけた最一小判平成23年9月22日民集65巻6号2756頁〈一審判決:千葉地判平成20年5月16日民集65巻6号2869頁、控訴審判決:東京高判平成20年12月4日民集65巻5号2891頁〉を取り上げる。
この最高裁判所第一小法廷判決は「所得税の納税義務は暦年の終了時に成立するものであり(国税通則法15条2項1号)、措置法31条の改正等を内容とする改正法が施行された平成16年4月1日の時点においては同年分の所得税の納税義務はいまだ成立していないから、本件損益通算廃止に係る上記改正後の同条の規定を同年1月1日から同年3月31日までの間にされた長期譲渡に適用しても、所得税の納税義務自体が事後的に変更されることにはならない。しかしながら、長期譲渡は既存の租税法規の内容を前提としてされるのが通常と考えられ、また、所得税が1暦年に累積する個々の所得を基礎として課税されるものであることに鑑みると,改正法施行前にされた上記長期譲渡について暦年途中の改正法施行により変更された上記規定を適用することは、これにより、所得税の課税関係における納税者の租税法規上の地位が変更され,課税関係における法的安定に影響が及び得るものというべきである」と述べられる。所得税の課税関係における納税者の租税法規上の地位が変更され、課税関係における法的安定に影響が及び得るものというべきである」と述べる。所得税が暦年課税に服することを過度に強調する嫌いは否めないが、この部分に関しては妥当な判断を下していると見ることが可能であろう。
続いて、最高裁判所第一小法廷は、前掲最大判平成18年3月1日民集60巻2号587頁を参照して「憲法84条は、課税要件及び租税の賦課徴収の手続が法律で明確に定められるべきことを規定するものであるが、これにより課税関係における法的安定が保たれるべき趣旨を含むものと解するのが相当である」、最大判昭和53年7月12日民集32巻5号946頁を参照して「法律で一旦定められた財産権の内容が事後の法律により変更されることによって法的安定に影響が及び得る場合における当該変更の憲法適合性については、当該財産権の性質、その内容を変更する程度及びこれを変更することによって保護される公益の性質などの諸事情を総合的に勘案し、その変更が当該財産権に対する合理的な制約として容認されるべきものであるかどうかによって判断すべきものである」としつつ、「暦年途中の租税法規の変更及びその暦年当初からの適用によって納税者の租税法規上の地位が変更され、課税関係における法的安定に影響が及び得る場合においても、これと同様に解すべきものである」から「暦年途中で施行された改正法による本件損益通算廃止に係る改正後措置法の規定の暦年当初からの適用を定めた本件改正附則が憲法84条の趣旨に反するか否かについては、上記の諸事情を総合的に勘案した上で、このような暦年途中の租税法規の変更及びその暦年当初からの適用による課税関係における法的安定への影響が納税者の租税法規上の地位に対する合理的な制約として容認されるべきものであるかどうかという観点から判断するのが相当と解すべきである」という理解を示す。
やや長きにわたって引用したが、ここに「租税法規不遡及の原則がそれほど厳格でなく、比較的広い例外を認めうるものである」という趣旨の思考が垣間見える、と評価することができるのではないであろうか。
そして、租税特別措置法租税特別措置法第31条が同法附則第27条により一種の遡及適用がなされたことについては、次のように述べられる。
・「上記改正は、長期譲渡所得の金額の計算において所得が生じた場合には分離課税がされる一方で、損失が生じた場合には損益通算がされることによる不均衡を解消し、適正な租税負担の要請に応え得るようにするとともに、長期譲渡所得に係る所得税の税率の引下げ等とあいまって、使用収益に応じた適切な価格による土地取引を促進し、土地市場を活性化させて、我が国の経済に深刻な影響を及ぼしていた長期間にわたる不動産価格の下落(資産デフレ)の進行に歯止めをかけることを立法目的として立案され、これらを一体として早急に実施することが予定されたものであったと解される。また、本件改正附則において本件損益通算廃止に係る改正後措置法の規定を平成16年の暦年当初から適用することとされたのは、その適用の始期を遅らせた場合、損益通算による租税負担の軽減を目的として土地等又は建物等を安価で売却する駆け込み売却が多数行われ、上記立法目的を阻害するおそれがあったため、これを防止する目的によるものであったと解されるところ、平成16年分以降の所得税に係る本件損益通算廃止の方針を決定した与党の平成16年度税制改正大綱の内容が新聞で報道された直後から、資産運用コンサルタント、不動産会社、税理士事務所等によって平成15年中の不動産の売却の勧奨が行われるなどしていたことをも考慮すると、上記のおそれは具体的なものであったというべきである。そうすると、長期間にわたる不動産価格の下落により既に我が国の経済に深刻な影響が生じていた状況の下において、本件改正附則が本件損益通算廃止に係る改正後措置法の規定を暦年当初から適用することとしたことは、具体的な公益上の要請に基づくものであったということができる」。
・「このような要請に基づく法改正により事後的に変更されるのは(中略)納税者の納税義務それ自体ではなく、特定の譲渡に係る損失により暦年終了時に損益通算をして租税負担の軽減を図ることを納税者が期待し得る地位にとどまるものである。納税者にこの地位に基づく上記期待に沿った結果が実際に生ずるか否かは、当該譲渡後の暦年終了時までの所得等のいかんによるものであって、当該譲渡が暦年当初に近い時期のものであるほどその地位は不確定な性格を帯びるものといわざるを得ない」。結局、納税義務者にとっては「損益通算による租税負担の軽減に係る期待に沿った結果を得ることができなくなるものの、それ以上に一旦成立した納税義務を加重されるなどの不利益を受けるものではない」から「納税者の租税法規上の地位に対する合理的な制約として容認されるべきものと解するのが相当である。したがって、本件改正附則が、憲法84条の趣旨に反するものということはできない」。
以上の判断については、様々な批判をなしうるところと考えられる。たとえば、判旨は平成16年度税制改正大綱の内容が新聞で報道された事実を重視しているが、実際のところ、この大綱が取りまとめられたのは平成15年12月17日であり、その翌日に報道されたとは言うものの、日刊紙では日本経済新聞のみであり(しかもごく小さなスペースの記事であったという)、あとは住宅関係の雑誌で取り上げられた程度であるという。これでは、国民のどの範囲までが知りえたかについて疑問が生ずるであろう。いくら業者側が駆け込み売却を煽るとしても、それほど売却需要を見込めたのか。
そればかりか、この判決は、あたかも与党の大綱が法律と同じ程度の存在であるかのように捉えている。これはどのように考えてもおかしい。大綱は、それがいかに実際上の影響力を発揮するとしても、党などの政策方針に過ぎない。しかも、この大綱に示された内容が正式に閣議決定されたのは平成16年1月になってからのことであり、改正法律案が内閣から国会に提出されたのは同年2月のことである。最高裁判所は国会を軽視しており、とくに立法過程、国会での審議、さらに野党の存在を軽視しているのではないか、という疑念すら起こりうる。
別の観点からすれば、遡及立法を行うこと自体、立法権が自らの任務を放棄することをも意味しうる。場合によっては立法権の自殺という事態にもつながりかねない。
また、この判決は「租税法規は、財政・経済・社会政策等の国政全般からの総合的な政策判断及び極めて専門技術的な判断を踏まえた立法府の裁量的判断に基づき定立されるものであり、納税者の上記地位もこのような政策的、技術的な判断を踏まえた裁量的判断に基づき設けられた性格を有する」と述べているが、納税義務者の地位があまりにも軽く見られている点は重大な問題であろう。これでは納税義務者が租税法律関係において何らの権利も自由も持たない、とは言わないまでも、納税義務者の地位は広範な立法裁量の下に置かれ、従属的な地位に甘んじなければならない、ということになり、憲法第30条および同第84条の意味が失われかねない。
結論として、前掲最一小判平成23年9月22日は、実質的に租税法規不遡及の原則を無にしかねないほどに例外の範囲を広く認めるものと考えられ、妥当ではないと解すべきであろう。
③課税要件明確主義
法律(その下における政令・省令の場合も含む)における課税要件および賦課・徴収の手続に関する規定は、なるべく一義的かつ明確でなければならない。このため、租税行政庁に自由裁量を認めることは原則として許されず、不確定概念の使用も慎重でなければならない。もっとも、実際のところ、不確定概念の使用はやむをえない場合もあり、必要な場合すらある。しかし、不確定概念の多用を指摘する声もある。不確定概念と裁量は、一応区別しうるが、実際にはどちらに該当するかが判別困難である場合も存在する。
秋田地判昭和54年4月27日行裁例集30巻4号891頁および仙台高秋田支判昭和57年7月23日行裁例集33巻7号1616頁は、秋田市国民健康保険税条例において課税要件を定めていた規定が一義的明確性を欠くので憲法第84条に違反すると判断した。一方、東京地判平成2年3月26日判時1344号115頁は、消費税法における「事業」、「事業者」、および「対価」について「社会通念に従って解釈すればその通常の意味内容が容易に確定できる」と述べている。
④合法性の原則
租税法は強行法規である。課税要件が充たされているならば、租税行政庁には租税を減免する自由、さらに徴収しない自由はない。不正が生じるおそれがあるし、納税者間の平等を損なうおそれがあるからである。従って、租税行政庁は、法律で定められた通りに税額を徴収しなければならない。納税者との間で和解や契約をなすことはできないのである。但し、実際には類似する現象もあるが、課税要件事実の認定に留まるならば違法ではない。
この原則に対しては制約があると言われる。
第一に、納税者に有利な行政先例法が存在する場合には、租税行政庁はこれに拘束される〈但し、「課税要件法定主義」の箇所を参照〉。
第二に、納税者に有利な解釈・適用が一般になされ、是正措置もとられていない場合には、合理的な理由がないのに特定の納税者を不利益に扱ってはならない〈判例も同旨〉。
第三に、信義誠実の原則(禁反言の原則)が認められるべきである。但し、判例は消極的な態度を示している。
⑤手続的保障原則
租税の賦課・徴収が公権力の行使であることは当然であるが、これが適正な手続で行われなければならず、これに対する争訟は公正な手続によって解決されなければならない。この原則は憲法第31条からも導かれうる。この原則に基づくものとして、青色申告に対する更正処分・青色申告承認取消処分の理由付記、執行機関と審査機関との分離などがある(審査機関として国税不服審判所がある)。日本における租税行政手続は、国税通則法などの法律に基づいているが、行政手続法は適用を除外されており、納税義務者の権利保護について十分な配慮がなされているとは言い難い面が多いこともあって、課題を残している。また、先進諸国において納税者権利憲章が制定されている例が多いが、日本には存在せず、税務当局も非常に消極的である。
▲第3版における履歴:2019年10月21日掲載。
2020年2月23日修正。
▲第2版における履歴:「02 租税法律主義」として、2011年3月16日掲載。
2011年3月21日修正。
2011年3月31日修正。
2012年8月3日修正。
2012年8月5日修正。
2013年3月29日修正。
2013年8月1日修正。
2014年3月3日修正。
中原区等々力に川崎市民ミュージアムがあります。この施設にある9つの収蔵庫が全て被災していました。
昨日、朝日新聞社のサイトで報じられており、今日の朝日新聞朝刊川崎版にも記事が掲載されていました。
まだ全容がわかったとは言い難いのですが、朝刊の記事には中原区上丸子山王町2丁目の様子をおさめた写真がありました。宮前区と麻生区はわかりませんが、多摩川沿いにある5つの区で浸水被害などがあったということになります。実は川崎市も全容を把握できていません。
中原区、高津区および多摩区がとくに被災しているようで、川崎市は市税事務所の職員を派遣するなどして調査を進めています。
今、高津区では霧雨が降っています。
2019年10月12日に、台風19号が接近し、そして上陸しました。その日、NHK総合テレビを見たりしていました。また、YouTubeでITSCOM STUDIO & HALLによる二子橋付近のライブカメラでの映像を何度も見ました。多摩川の水位がここまで上がったかと思うほどに高くなっていました。二子橋(道路のほう)の橋脚がほとんど見えなかったのです。すぐに多摩川水害を思い起こしました(私が通っていた高校は、この水害現場のすぐそばで、被害が生じた場所の反対側です)。世田谷区側に浸水被害が発生したのは、12日の夜でした(ちなみに、13日の朝には田園都市線と大井町線の運転が再開され、二子玉川駅も営業していました)。
13日は、言葉を失う瞬間が続く一日でした。
高津区溝口周辺では、夕方までヘリコプターが飛び続けていました。溝口6丁目ではマンションの1階が浸水し、亡くなられた方もおります。隣町に住んでいるようなものなので(国道246号を挟んで反対側に住んでいます)、驚いた訳です。平瀬川の氾濫によるようで、久地2丁目も浸水の被害があったようです(道路を見るとわかります。泥が溜まっていたことが明らかであったからです)。それにしても、現場付近でタクシーやハイヤーが多かったこと。普段はそのような車が日中に通ることはないような、道幅の狭い道路です。
同じ高津区では、二子橋または東急田園都市線を挟んで反対側にある諏訪2丁目や北見方2丁目でも浸水の被害がありました。国道409号を、一日中、消防車が走っていたので、何となく状況はわかります。高津消防署には救命用ボートが置かれていたので(おそらく日干しかメインテナンスのため)、そのまま二子3丁目から諏訪3丁目・北見方2丁目(東高津小学校のそば)を進み、諏訪2丁目に入ろうとすると、午前中は通行止めでした。午後は通ることができましたが、実質的に歩行者専用道路となっている通りには明らかに浸水によるとわかるように泥が溜まっていました。ゴミも多く出ています。それはそうで、家財道具などが水に浸かったからです。高津区瀬田でも浸水被害があったことは、川崎市主要地方道幸多摩線(のサイクリングコース)を歩いていてもわかりました。
川崎市では、中原区新丸子東3丁目(武蔵小杉駅のそば)や幸区(詳しいことはわかりません)でも浸水被害が発生しました。新丸子東3丁目と言えば、今のようにタワーマンションなどが建つ前は企業のグラウンドなどがあったような場所です。
NHK総合テレビ、NHKのサイト、朝日新聞社のサイト、神奈川新聞社のサイトなどを見て、関東、中部、東北の各地方で甚大な被害が発生しているのを見る度に、言葉を失いました。長野県では千曲川が氾濫して大規模な洪水になっています。
北陸新幹線の車庫も浸水しています。おそらく、モーターなどがダメになっているでしょう。廃車になるのだろうか、と思います。今日(10月14日)は長野〜糸魚川で運転見合わせが続いています。
また、上田電鉄別所線の鉄橋が壊れていました。この路線の存続が気になります。高千穂鉄道が、2005年9月6日の台風14号で甚大な被害を受け、廃止に至ったことを、すぐに思い出したのです。その日、私は、西南学院大学法学部での集中講義のために福岡入りする予定でしたが、欠航であったために翌日にずらしたのです(但し、羽田空港には行きました。6日の便をキャンセルして7日の便にするためです)。
2019年、関東地方は台風15号(9月9日)と台風19号で痛めつけられました。台風15号はとくに千葉県で大きな被害をもたらしましたが(鉄塔が倒れたりしたのも衝撃的でした)、横浜市でもかなりの被害が生じました。それから1か月ほどで19号です。立て続けに、という感じがします。