goo blog サービス終了のお知らせ 

ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

宗谷本線の11駅が廃止される方向に

2020年03月30日 13時02分00秒 | 社会・経済

 この週末、外出自粛が要請される中で新型コロナウイルス感染者が激増しました。また、これによる訃報も相次いでいます。

 私も、この数日間、東京都内に足を運んでいません。そのため、都内の様子などはライヴカメラを見るくらいしか知る方法がないのですが、あの渋谷駅前のハチ公前交差点が閑散としていたのには驚きました。また、溝口周辺でも、週末には臨時休業または営業時間短縮という店も多かったのでした。

 3月、多くの鉄道会社でダイヤ改正が行われましたが、利用者数は大幅に減少しており、JR東日本横浜支社では2019年3月と比較して運輸収入が3割程減少したとのことです〔朝日新聞社2020年3月27日10時30分付「神奈川)JRの運輸収入3割減 横浜支社の3月」(https://www.asahi.com/articles/ASN3V74FWN3VULOB01K.html)によります〕。同支社の運輸収入の落ち込みは2月17日頃からであるようで、2020年2月は2019年2月の97.6%、2020年3月1日〜24日は2019年1月〜24日の69.9%であるとのことでした。

 苦境に立たされるのはどの交通機関でも同じでしょう。とくに、JRグループではJR北海道の情勢が注目されるところです。今日(2020年3月30日)になって知ったのですが、北海道新聞社が3月28日の5時付で「宗谷線13無人駅 来年3月廃止へ」として報じていました(https://www.hokkaido-np.co.jp/article/406809?rct=n_jrhokkaido)。

 宗谷本線といえば、このブログで何回も取り上げているように、JR北海道が自社だけでの維持を困難であるとした10路線13区間のうちの一つで、沿線自治体による財政支援を受けて維持する方針の8線区にも入っています。しかし、音威子府駅から幌延駅までの区間で運行される普通列車はわずか3往復、幌延駅から稚内駅までの区間で運行される普通列車は3.5往復(幌延駅→稚内駅が3本、稚内駅→幌延駅が4本)などという状態であり、特急列車が停車する駅はともあれ、多くの駅では利用客が少ないことが容易に想像されます。

 実際に、JR北海道は宗谷本線の名寄駅から稚内駅までの輸送密度の推移などを公表しており(https://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/region/pdf/8senku/8_04_data.pdf)、この区間の各駅について2014年から2018年の5年間の平均で駅別の一日平均乗車人員数のデータも示しています。次のとおりです〔有人駅には下線を引きました(簡易委託駅は無人駅として扱います)。より詳しい条件についてはすぐ上のリンク先を参照してください〕。

 名寄駅:426.0人

 北星駅:0.0人

 智恵文駅:4.8人

 智北駅:2.4人

 南美深駅:0.4人

 美深駅:79.0人

 初野駅:3.8人

 紋穂内駅:1.6人

 恩根内駅:1.6人

 豊清水駅:0.4人

 天塩川温泉駅:0.4人

 咲来駅:0.2人

 音威子府駅:33.4人

 筬島駅:0.0人

 佐久駅:1.4人

 天塩中川駅:12.4人

 歌内駅:0.2人

 問寒別駅:0.6人

 糠南駅:0.0人

 雄信内駅:0.0人

 安牛駅:0.2人

 南幌延駅:0.0人

 上幌延駅:0.4人

 幌延駅:30.2人

 下沼駅:0.4人

 豊富駅:57.0人

 徳満駅:1.6人

 兜沼駅:2.6人

 勇知駅:3.8人

 抜海駅:1.4人

 南稚内駅:75.2人

 稚内駅:111.8人

 御覧の通りで、有人駅(いずれも特急停車駅)でも決して乗車人数が多いとは言えませんし、無人駅でも以上の各駅より乗車人数が多い駅は、日本全国を見ればたくさんあります〔例としてJR九州が発表している2018年度の駅別乗車人員のデータ(https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/station.html#ctop)を御覧ください〕。また、美深駅、天塩中川駅および豊富駅は特急停車駅ですので、この区間としては比較的乗車人数が多くなっています。

 このような状態であるため、JR北海道は、宗谷本線にある無人駅のうちの29駅について廃止を求めています。これに対し、名寄市などの沿線自治体で結成される宗谷本線活性化推進協議会は、11駅について廃止を受け入れる方針を示しました。これを、宗谷本線の起点である旭川駅から終点の稚内駅までの方向の順に記すと、次のとおりです(なお、南比布駅、北比布駅および下士別駅は旭川駅から名寄駅までの区間にあります)。

 南比布駅(比布町)

 北比布駅(比布町)

 下士別駅(士別市)

 北星駅(名寄市)

 南美深駅(美深町)

 紋穂内駅(美深町)

 恩根内駅(美深町)

 豊清水駅(美深町)

 安牛駅(幌延町)

 上幌延駅(幌延町)

 抜海駅(稚内市)

 また、剣淵町にある東六線駅および北剣淵駅については、同町が町民説明会で決定するという方針を示しました。

 旭川駅から名寄駅までの区間にある各駅の乗車人数について詳細がわからないのですが、廃止容認とされる駅の乗車人数は一日平均で2人以下というところばかりです。しかし、一日平均で1人以下であっても天塩川温泉駅(音威子府村)、咲来駅(音威子府村)、筬島駅(音威子府)、歌内駅(中川町)、問寒別駅(幌延町)、糠南駅(幌延町)、雄信内駅(幌延町)、南幌延駅(幌延町)、下沼駅(幌延町)については廃止が容認されていません。JR北海道が廃止の提案をしなかったとも思えないので、地元自治体の姿勢によるものでしょう。ちなみに、宗谷本線では、1990年代に琴平駅(中川町)、2001年以降に智東駅(名寄市)、下中川駅(中川町)、上雄信内駅(幌延町)、南下沼駅(幌延町)および芦川駅(豊富町)が廃止されており、いずれも利用者僅少または皆無という理由によっています。

 地元の事情ということもありますので、その辺に詳しくない人間が足を踏み入れたりしてはならないのかもしれません。しかし、調査の方法に左右される部分があるとしても、5年間、一日平均で1人以下の乗車人数ということは、まず住民で鉄道を利用する人はいないであろうという推測を容易に導きます(これは、そもそも駅の周辺に住民が存在しないという場合を含みます)。地元自治体が存続を訴えたとしても、住民の意識も同じとは限りません。また、表向きは存続を訴えても、たとえば地元の市町村職員は駅を、路線をどの程度利用しているのでしょうか。九州で実際にあったことであるそうですが、或るローカル線の存続を求める集会が行われたのにもかかわらず、肝心のローカル線を利用してその集会に参加した人はいなかったという、どぎつい冗談なのか笑い話なのかわからないような話もあります。

 JR北海道は、最近、毎年のように無人駅を廃止しており、今月のダイヤ改正においても根室本線の古瀬駅(白糠町)、釧網本線の南弟子屈駅(弟子屈町)を廃止しました。

 このような状況の中で、宗谷本線の駅のみ廃止を免れるということは考えがたいところです。

 さらに記しますと、矛盾するかもしれませんが、宗谷本線自体は、多少とも経済性を度外視しても、国土保全などの観点から必要な鉄道路線とも言えます。維持するためには……、というところもあるでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江鉄道は存続へ

2020年03月26日 01時32分45秒 | 社会・経済

 新型コロナウイルスの状況はますますひどくなっていますが、このブログでは滋賀県の近江鉄道の話題を何度か取り上げていますので、今回はその話です。

 2020年3月25日の18時10分付で西日本新聞社のサイトに「赤字の近江鉄道が存続へ、滋賀」という記事が掲載されていました(https://www.nishinippon.co.jp/item/o/595006/)。元は共同通信社配信のようです。

 2019年11月5日、近江鉄道沿線地域公共交通再生協議会の第1回会合が開かれたことは、2019年11月10日13時10分00秒付の「近江鉄道沿線地域交通再生協議会の第1回会合が開かれた/びわこ京阪奈線構想は名実ともに破綻した」において取り上げました。それから5か月半程が経過し、3月25日に協議会が開かれました。

 今回はまだ具体的な内容などが決まっていないのですが、近江鉄道の全路線を存続させる方針が決められました。「通学や日常生活で利用頻度が高い」と判断されたようです。

 2019年11月1日に、私は近江鉄道の全路線を利用しました。そのことについては「近江鉄道全路線乗車記」の(1)(2)および(3)として記しておりますが、潜在的な鉄道利用可能性は高いと感じました。沿線に工場や住宅地が多いこと、沿線市町の人口、などを考え合わせた上での感想でもあります。2019年4月において、彦根市および東近江市の人口は11万人を超えていますし、近江八幡市の人口も8万人を超えています。また、米原駅、彦根駅および近江八幡駅で東海道本線に乗り換えることができますし、貴生川駅では草津線に乗り換えることができます。東海道本線には新快速が走っていますから京都市や大阪市へは、やや遠いことは否めないながらも通勤・通学が可能な範囲と言えるでしょう。草津線も、朝夕だけですが京都行きの電車がありますし、平日の朝だけですが大阪行きの電車(東海道本線では快速)もあります。京都駅の時刻表を見ると、草津線に直通して柘植駅まで走る電車も夕方に何本かあります。

 他に様々な側面がありますから、詳細に検討する必要はあるのですが、条件次第では好転する、とまでは行かなくとも改善の余地はあると思われます。沿線人口だけで考えてみても、近江鉄道より条件の悪い鉄道路線は他にいくらでもあるでしょう。

 勿論、存続となれば、滋賀県や沿線市町の財政にも関わるだけに、相当の準備と覚悟が必要となります。単純な補助金政策では無意味に終わることが多いだけに、上下分離方式を採るのか、などの検討も必要になります。或る意味で幸いなのは、隣接県に参考例があることでしょう。具体的には福井鉄道、養老鉄道、伊賀鉄道、四日市あすなろう鉄道というところですが、最も参考になるのは福井鉄道かもしれません。勿論、別に隣接県に限定する必要もないので、一畑電気鉄道や岳南鉄道が行った分社化という方法もあります。

 もう一つの鍵は西武グループです。近江鉄道の存続にはどうしても西武グループが関係せざるをえなくなると思うのですが、正直なところ、意思なり動きなりがよく見えてきません。近江鉄道が西武グループから離脱するという選択肢も考えられるのですが(福井鉄道はかつて名鉄グループでした)、どのような方針を立てるのでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当然、延期か中止のどちらかでしょう。

2020年03月24日 20時01分45秒 | 国際・政治

 新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっており(何せ、南極大陸を除く全大陸という話もあります)、毎日のように多くの感染者、そして死者が出ています。誰でも、いつ、どこで感染するかわかりません。しかも、未だに有効な薬もないような状態です。

 このような中で、東京オリンピックおよびパラリンピックを予定通りに行うなど、狂気の沙汰とも言えます。いつ終息するかわからず、むしろ「長期戦」を覚悟しなければならない訳です。

 経済優先主義が人命や健康を軽視しがちであることは、過労死などを思い起こせば明らかなことです。

 たった二週間ほどのお祭り(が2回)のために、感染の機会を拡大させてよいのでしょうか。それとも、オリンピックやパラリンピックは見世物なのでしょうか。そうではないでしょう。

 世界中の多くの選手からも延期か中止が求められるようになっています。現在の情勢では当然のことでしょう。選手も限りある命を有する、人格者としての人間なのであって、機械でもなければ奴隷でもありません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恥を忍んで公開します

2020年03月23日 21時26分15秒 | 受験・学校

 私が東洋大学大学院法学研究科博士前期課程の担当を始めた2012年4月から数年間、大学院の講義・演習ではドイツ語の教科書の講読を行っていました。教科書はHartmut Maurer, Allgemeines Verwaltungsrecht, 18. Auflage, 2011でした。

 そもそも、私自身、大学院生時代には洋書講読を内容とする講義に出席しましたし(むしろこれが当たり前でもありました)、学部生時代にもドイツ語の文献を読む講義に出席していました。しかも、その文献が教科書でなく、Handbuchという名称でありながら百科事典ではないかと思われる程の分厚い本(ドイツではむしろ当たり前のことであったりします)に収められている論文です。

 学部生時代、大学院生時代、そして東洋大学大学院法学研究科博士前期課程での講義・演習の経験から、「法学部生・法学研究科院生のためのドイツ語」というタイトルで教材を作ろうと考えていました。この5、6年程は洋書講読の講義・演習を行っていませんが、もしも「やってみたい」、「チャレンジしてみたい」という学生諸君がいれば、ドイツ語か英語であれば行いたいと思っています。

 それでは、少しばかり作っていた「法学部生・法学研究科院生のためのドイツ語」を、このブログに載せるにあたって加筆を施した上で、恥を忍んで公開します。私はドイツ語学の専門などではないので、不正確な部分など多々あるかと存じます。御海容の程を。

 ※※※※※※※※※※

 1.ドイツ語およびドイツ法を学習するために読んでおくべきもの

 (1)手持ちの入門書

 1冊でよい。むしろ、入門の段階で複数の本を持つことは禁物であって、1冊を徹底的に読みつぶすことが大事である。練習問題があれば、解いてみること。

 入門書を所持していないのであれば、比較的大型の書店(または図書館)に行き、ドイツ語の入門書(郁文堂、白水社、三修社などから出版されている)を立ち読みし、自分にとってわかりやすいと思われるものを1冊選ぶとよい。

 ちなみに、私は、大学入学が決まってすぐの頃に、青木一郎「わかりやすいドイツ語」(郁文堂。現在は絶版のようである)を、たしか神田神保町の書泉グランデで購入した。そして、この本を1年か2年かけて読み、数冊のノートを作っている。ちなみに、私は「わかりやすいドイツ語」を長らく所持していたが、1997年4月から2004年3月まで勤めた大分大学教育福祉科学部を離れる際に、当時の法・政演習室に残しておいた(まさか、捨てられていないでしょうね?)。

 (2)独和辞典

 電子辞書では収録語彙数が限られる、文法などに関する説明が少ない、多くの文例を一目で見ることが難しい、などの問題もあるので、冊子の辞書を1冊持っておくほうがよい。郁文堂か三修社の辞書をすすめておくが、初級文法の学習を一通り終えたら小学館の独和大辞典(縮刷版がある)がよい。

 (3)村上淳一=守矢健一=ハンス・ペーター・マルチュケ『ドイツ法入門』〔改訂第9版〕(2018年、有斐閣)

 現在のドイツ法の概要を知るのであれば必携と言える。また、法律用語、国家機関の名称など、単に日本語とドイツ語の対訳に留まらず、意味、概要を知ることもできる。

 (4)ベルント・ゲッツェ『独和法律用語辞典』〔第2版〕(2010年、成文堂)

 法律用語の場合、通常の独和辞典では不十分な場合が多いので、持っているとよい。用例も豊富である。但し、用語の解説などはほとんどないので、注意を要する。

 (5)山田晟『ドイツ法律用語辞典』〔改訂増補版〕(大学書林)

 大部にして高価、しかも内容がやや古いが、用語の解説なども充実しているので、図書館などで読んでみるとよい。また、同著者による『ドイツ法概論』全三巻(有斐閣)もあるので、図書館などで読んでみるとよい(おそらく絶版)。

 2.初級ドイツ語攻略のために

 (1)私の経験から記せば、初級文法を一通り学べば、ドイツ語の法律学の教科書を読むことはできる。

 (2)元々、ドイツ語と英語は同じ系統の言葉である。どちらもインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属する。そればかりでなく、英語はドイツで生活していたサクソン族がイングランドに移住したことによって生まれたような言葉である(サクソンとは、ドイツのザクセン地方のことである)。ドイツ語が古い構造を比較的よく保っているのに対し、英語はフランス語などの影響を受けて大きく変わってしまった。

 従って、ドイツ語と英語には共通する点も多い。勿論、違いもある。比較しながら学ぶと、英語の復習にもなるから一石二鳥である。このコーナーもそれを狙っている(私自身のためでもある)。

 (3)前述のように、1冊でよいので、じっくりと時間をかけて参考書を選び、徹底的に読みつぶすこと。最初からあれこれの本に手を出してはならない。

 英語の参考書と異なり、ドイツ語などの参考書には堅実な内容のものが多いから、話した、または書いたドイツ語が通じないということはあまりない。

 (4)できるだけ、目も耳も口も使うこと。つまり、ただ読んだりするのではなく、ドイツ語の音をよく聞き、その通りに発音すること。カナなどをあてないこと(最近の語学の参考書では単語にカナをあてて発音を示している物も少なくないが、弊害ばかりが多いと思われる。何故、発音記号を添えないのか?)。

 NHK第二放送の「まいにちドイツ語」を聞いたりするなど、方法はいくつもある。

 (5)手も使うこと。つまり、書くこと。読むだけでは単語を覚えることができない。

 (6)ドイツ語は、英語やフランス語に比べれば動詞の変化なども規則的である傾向が強い。単語の発音にしても同様である。その意味では覚えやすい。

 3.文の構造

 どの言語でも同じであるが、まずは文章の構造を理解する必要がある。ドイツ語の構造は、基本的な部分で英語と同じである。異なる部分も多いが、これは歴史的な理由によるものなので仕方がない。ドイツ語のほうが保守的であり、古い形を残していること、英語は歴史的経緯からフランス語の強い影響を受けて大きく変わったことは知っておいてよい。英語の発音と綴りとの間に極端な不一致が存在するのも、同様の理由による。

 〔1〕動詞の見分け方

 動詞の位置により、主文か副文かを見分けることができる。この見分けは非常に大事であり、主文と副文(さしあたり、英語の従属節に相当すると考えておけばよい)とを取り違えると意味を捉えられない。幸いなことに、英語などと異なり、ドイツ語の場合は主文と副文とで動詞の位置が異なるので、見分けやすい。

 ドイツ語の動詞の位置には、次のような原則がある。

 〈1〉平叙文の場合:動詞は2番目(2つ目のかたまり)に位置する。これを定動詞第二位の原則という。英語とほぼ同様である。

 Ich arbeite bei Siemens. [私はジーメンス社で働いています。]

 この文章は3つのかたまりとして捉えることができる。

    Herr Schmidt kommt aus Hamburg. [シュミット氏はハンブルクの出身です。]

 Herr Schmidtが一つのかたまりで、これが主語となる。

    Ich denke, so bin ich. [我思う、故に我あり。]

 デカルトの有名な言葉(ラテン語:Cogito, ergo sum./フランス語:Je pense, donc je suis.)をドイツ語にしてみたもの。この文章は2つの文章をつなげたもので、最初の文章の動詞はdenke、次の文章の動詞はbinである。この文章に登場するsoは接続詞であるが、副詞的な役割を担う。

  ▲und、oderなどの接続詞は、文のかたまりとしては無視してもよい。そのため、語順に影響を与えない。これに対し、soなど、無視できない接続詞もある。

 〈2〉疑問文には二つのタイプがある。

 (1) ja(英語のyes)かnein(英語のno)で答えられる疑問文は、動詞を最初に持ってくる。イギリス英語と同様であると言える(アメリカ英語であればdo you 〜という形である)。

 Trinken Sie Bier? - Ja, ich trinke Bier. [ビールを飲みますか? ーはい、私はビールを飲みます。]

 Trinken Sie Wein? - Nein, ich trinke nicht Wein, sondern Bier. [ワインを飲みますか? ーいえ、私はワインではなく、ビールを飲みます。]

 (2)wann(英語のwhen)、wie(英語のhow)、warun(英語のwhy)、wer(英語のwho)などの疑問詞が文頭にある疑問文は、動詞が2番目に位置する。

 Wer ist das? [どなたですか?]

 Wann gehen wir ins Theater? [いつ、ぼくたちは映画館に行こうか。]

 〈3〉副文および不定詞句の場合:動詞は最後に位置する。日本語と同じような語順になるので、我々にはわかりやすいかもしれない。

 (1)副文の例  Jeder hat das Recht auf die freie Entfaltung seiner Persönlichkeit, soweit er nicht die Rechte anderer verletzt und nicht gegen die verfassungsmäßige Ordnung oder das Sittengesetz verstößt.(Art. 2 Abs. 1 GG)

 「何人も、他者の権利を侵害せず、かつ、憲法に適合する秩序または道徳律に違反しない限りにおいて、自己の人格を自由に発展させる権利を有する。」

 〔das freie Enthaltung seiner Persönlichkeitを直訳すると「自己の個性の自由な発展への権利」となる。〕

 (2)不定詞句の例  Jeder hat das Recht, seine Meinung in Wort, Schrift und Bild frei zu äußern und zu verbreiten und sich aus allgemein zugänglichen Quellen ungehindert zu unterrichten. (Art. 5 Abs. 1 S. 1 GG)

 「何人も、意見を言葉、文書および図画で自由に表明し、広める自由、および、一般的に、接近可能な源泉より、(国家権力などから)妨害されることなく妨げられずに情報を得る権利を有する。」

 〔2〕名詞と冠詞

 〈1〉ドイツ語の場合、名詞は原則として大文字で書き始める。そのため、見分けることが易しい。

 〈2〉ドイツ語の名詞には文法上の性がある。男性名詞、女性名詞、中性名詞のいずれかに分けられるので、単語を覚える場合には定冠詞付きで覚えるとよい。

 その際、冠詞の有無に注意すること。また、冠詞の種別、格にも注意すること。

 英語の名詞や冠詞には「性別」がないので、ドイツ語に初めて触れる人にとっては難しいかもしれない。しかし、インド・ヨーロッパ語族に属する言語をみると、英語のように文法上の性がない(あるいは放棄した)言葉は、むしろ少数派と言える。例えば、フランス語には男性名詞と女性名詞があるし、オランダ語には通性名詞と中性名詞がある。

 〈3〉単数系か複数形か?

 ドイツ語の名詞の複数形は、英語に比べるとやや複雑である。辞書には、通常、単数1格の形が見出しとして載せられ、ついで単数2格、複数1格が示される。例えば、英語のhouseに相当するHausは、次のように示される。

 Haus (中性名詞)-es / Häuser

 〈4〉冠詞

 冠詞には定冠詞と不定冠詞がある。

 定冠詞:英語のtheと同様に、「この」や「あの」という指示を示す意味合いが強い(元来は指示代名詞であったからである)。

 

男性

女性

中性

複数

1格

der Vater

die Frau

das Haus

die Häuser

2格

des Vaters

der Frau

des Hauses

der Häuser

3格

dem Vater

der Frau

dem Haus(e)

den Häusern

4格

den Vater

die Frau

das Haus

die Häuser

 不定冠詞:英語のa(an)と同様に、「或る一つの」という意味合いがある。なお、不定冠詞には複数形がないので、不特定の物の複数を示す場合は無冠詞となる。

 

男性

女性

中性

1格

ein Vater

eine Frau

ein Haus

2格

eines Vaters

einer Frau

eines Hauses

3格

einem Vater

einer Frau

einem Haus(e)

4格

einen Vater

eine Frau

ein Haus

 〔3〕人称代名詞

 英語などと同様に、ドイツ語にも人称代名詞がある。但し、ドイツ語の場合は、名詞および冠詞と同様に格変化がある。

 

1格

2格

3格

4格

1人称単数

ich

meiner

mir

mich

1人称複数

wir

unser

uns

uns

2人称(親称)単数

du

deiner

dir

dich

2人称(親称)複数

ihr

euer

euch

euch

3人称単数(男性)

er

seiner

ihm

ihn

3人称単数(女性)

sie

ihrer

ihr

sie

3人称単数(中性)

es

seiner

ihm

es

3人称複数

sie

ihrer

ihnen

sie

2人称(敬称)

Sie

Ihrer

Ihnen

Sie

 注意すべき点

 (1)3人称の場合、erは前出の男性名詞を、sieは前出の女性名詞または複数名詞を、esは前出の中性名詞を受ける。従って、er(seiner, ihm, ihn)は「彼」とは限らないし、sie(ihrer, ihr, sie)は「彼女」とは限らない。

 例 Die Würde des Menschen ist unantastbar. Sie zu achten und zu schützen ist Verpflichtung aller staatlichen Gewalt. (Art. 1 Abs. 1 GG)

 「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、保護することは、全ての国家権力の責務である。」

 斜体字のsie(文頭にあるのでSie)は下線部のDie Würde des Menschenを指す(Würdeは女性名詞である)。なお、このsieはzu不定詞句の目的語なので4格である。

 (2)2人称(敬称)は単数形と複数形が同じであり、頭が大文字である以外は3人称複数と同じ形である。これは歴史的な経緯による。

 (3)所有代名詞などと同じ形で紛らわしいものも多いので、注意を要する。

 〔4〕動詞の活用  現在形編

 〈1〉ドイツ語の動詞は、英語の動詞に比べれば、過去形、過去分詞に関して不規則な変化は少ない。sein動詞を除けば、母音が変化するなどの程度である。

 〈2〉ドイツ語の動詞は、主語の人称に応じて語尾が変わる。

 動詞の構造:語幹+語尾

 例  不定形arbeiten  語幹はarbeit  語尾はen

 原則として、不定形の語尾は-enである。但し、発音の関係で-nである場合もある。

 

schwimmen

reden

heißen

tun

wandern

ich

schwimme

Rede

heiße

tue

wand(e)re

du

schwimmst

redest

heißt

tust

wanderst

er, sie, es

schwimmt

redet

heißt

tut

wandert

wir

schwimmen

reden

heißen

tun

wandern

ihr

schwimmt

redet

heißt

tut

wandert

sie

schwimmen

reden

heißen

tun

wandern

 schwimmenに示したのが基本の形。redenなどは、口調のために若干の変化をする。

 〔5〕sein動詞の現在人称変化および過去人称変化

 英語のbe動詞に相当するのがドイツ語のsein動詞であるが、この動詞が最も不規則な変化をする。最もよく使われる動詞であるためであろう。英語もそうであるが、使用頻度の高い動詞ほど不規則な変化をするという傾向がある(実は日本語も同じようなものである)。

 

現在形

過去形

Ich

bin

war

du

bist

warst

er, sie, es

ist

war

wir

sind

waren

ihr

seid

wart

sie, Sie

sind

waren

 過去分詞:gewesen

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疑うべきもの

2020年03月23日 01時27分26秒 | 日記・エッセイ・コラム

 買い占めよりも、売り惜しみ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高津駅(DT09)にて

2020年03月20日 00時00分00秒 | 写真

東急8500系8628Fの準急中央林間行き。2020年3月17日、高津駅(DT09)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011年4月10日、新宿御苑 その5

2020年03月19日 00時00分00秒 | まち歩き

 新宿御苑の桜は確かに美しいものです。しかし、それ以上に目をひいたのは花桃でした。実際、私も妻も、そして多くの人が、花桃の木の周りに集まり、感嘆の声を上げて写真をとっていたのです。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学(図書館)の蔵書

2020年03月18日 00時00分00秒 | 受験・学校

 私が大学院修士課程生であった時に、早稲田大学法学部の或る先生が「大学にとって図書は貴重な財産である」という趣旨の発言をされていました。その通りであると思っています。仕事柄、大学の図書館、図書室をまわりますが、やはり蔵書数が少ないと、大学の質を疑わざるをえないとも言えます。

 一方で、蔵書が増えるとなれば、管理に困ることは明白です。昨年、私自身も研究室にある本の整理をしなければならなくなり、泣く泣く、かなり多くの本や雑誌を処分しました。大学図書館によっては、置く場所がないということで文献を別置扱いとすることもあります(その前に無駄な空間が多い建物をどうにかすれば、置く場所も増えるとは思うのですが、ただの素人考えなのでしょう)。また、雑誌を3年保存として期間が経過したら廃棄する、紀要などの今後の購入を中止する、加除式の新規購入は受け付けない、などという図書館もあります。

 図書の管理は悩ましいもので、私も時々「どうしようかな」と思うことがあり、今日も少しばかり考えていたところに、たまたま、朝日新聞社のサイトに今日(2020年3月17日)の10時15分付で「『大学蔵書を大量廃棄』 梅光学院に作家ら106人抗議」という記事(https://www.asahi.com/articles/ASN3J72STN3JTZNB001.html)が掲載されていたのを見つけました。

 山口県は下関市にある梅光学院大学の図書館が、大学の紀要など、7万冊から8万冊を廃棄したとして、「梅光学院大学図書館を守る会」が学校法人梅光学院に抗議したということです。この会には、村田喜代子さん、高橋源一郎さん、伊藤比呂美さんなど、作家、詩人など106人(厳密な数かどうかはわかりません)が名を連ねているそうです。

 廃棄された蔵書の数はわかりません。記事に書かれている「梅光学院大学図書館を守る会」側の調査、発言内容を見ると「2017年度に重複している蔵書の廃棄が増え始め、これまでに史料価値のある新聞縮刷版や辞書辞典類、図録、江戸後期に刷られた和古書などの廃棄を確認した」とのことです。重複している蔵書の廃棄はやむをえないとも思うのですが、そうでない蔵書が廃棄されたとすると問題があります。

 また、梅光学院大学は財産目録をサイトで公開しているそうで、朝日新聞社記事に「19年3月末現在の図書は約36万冊。7年前より約2万5千冊減っている」と書かれていたので、同大学のサイトを見てみました。たしかに財産目録が公開されており、次のようになっています。

 2011年度(2012年3月31日現在):蔵書は384,539冊

 2012年度(2013年3月31日現在):蔵書は389,035冊

 2013年度(2014年3月31日現在):蔵書は392,141冊

 2014年度(2015年3月31日現在):蔵書は388,843冊

 2015年度(2016年3月31日現在):蔵書は388,328冊

 2016年度(2017年3月31日現在):蔵書は385,421冊

 2017年度(2018年3月31日現在):蔵書は313,881冊

 2018年度(2019年3月31日現在):蔵書は359,551冊

 2011年度から2018年度までを見ると、たしかに24,978冊の減となっています。2013年度までは蔵書数が増えているのですが、2014年度から2017年度までは減少の一途をたどっています。

 ただ、2016年度から2017年度までを見ていただくと71,540冊の減となっており、異常とも言える減り方となっています。おかしいと思って財産目録をもう一度参照しましたが、私が書き誤った訳ではないということがわかったので、財産目録に誤りがあるのか、何か別の理由があるのか、ともあれ減っていた訳です。重複しているものを処分したということだけで説明ができると思えない冊数です。さらに記すならば、2017年度から2018年度にかけて45,670冊も増えているのは、いかなる理由によるものでしょうか。新学部か新学科を設置するということであれば、わからない話でもないのですが、それにしては多いと考えられます。

 あるいは、財産目録には図書とは書かれていても図書館の蔵書とは書かれておらず、内訳のようなものも示されていないので、図書は図書館の蔵書に限定されていないのかもしれません。

 村田喜代子さんは、記者会見において「本は大学だけのものではない。日本の歴史が詰まっている。電子書籍もあるが図書館という根本のところが紙で所蔵しないのは問題だ」という趣旨のことを述べたそうです。また、中原中也記念館長の中原豊さんも「文学、文化軽視が蔓延し、実はどこの大学でも起こっているのではないか。図書館は未来の読者への責任を負っており、無秩序な廃棄はやめるべきだ」という趣旨のことを述べたということです。両者の指摘はいずれも重要ですが、私はとくに中原豊さんの指摘に注意しておきたいと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第1回 行政とは、一体どのようなものか

2020年03月17日 00時00分00秒 | 行政法講義ノート〔第7版〕

 何かがきっかけとなって「これから法律の勉強をしよう」と思う方も少なくないであろう。

 そのきっかけは何でもよい。別に自分が深刻なトラブルに巻き込まれている、というようなことがなくてもよい。ふと、日常生活において疑問が生じた、ということで十分である。そこに行政法のスタートラインがある。日常生活そのものが行政法の学習を始める際の格好の素材である。その点において、行政法は憲法や刑法よりもはるかに身近である。

 もしかしたら、これは誰かが残した言葉なのかもしれないが、「どの分野であれ、学問に手を染めるのであれば、まずは自らの足下を見つめていただきたい」。自らの生活を、改めて見つめていただきたい。

 よく、「つまらない日常生活」とか「退屈な日常生活」などと言われるが、本当にそうであろうか。「つまらない」、「退屈」、「平凡」などと多くの人に思われていることこそ「実は社会が機能していることを意味する」と考えるべきであるし、何故そのように考えられないのかが不思議である。安定した社会を創り出すことがいかに大変な努力を必要とするかについては、目を国際情勢に向ければすぐにわかるし、ましてや維持することには、強大な国家権力、高度な行政技術を必要とする。日常生活が成り立っているのは、実は驚異的なことなのである。詳しくは記さないが、私が以上のことを改めて意識したのは、2011年3月11日の14時46分に発生した東日本大震災を経験してからである。

 日常生活において、上水道、下水道、電気、ガスを使う。生きている限りはごみが出るし、勤務先から給料を受け取る際には所得税などが天引きされている(源泉徴収)。私は、現在、通勤のためなどに東急田園都市線を利用しているから、運賃を払っている。一方で車を持っているから、自動車運転免許証を持っているし、自動車重量税なども払っている。少しばかり例を出したが、これらは全て、行政と関係のある事柄である。いや、日常生活において、我々は、直接的であれ間接的であれ、行政および行政法と無関係ではいられない。水道法(上水道)、下水道法、電気事業法、ガス事業法、廃棄物の処理及び清掃に関する法律、所得税法、国税通則法、鉄道営業法、道路交通法、などである。この他、出生届、婚姻届、離婚届、死亡届、義務教育、マイホーム新築、都市計画、災害対策、競馬、パチンコ、など、例を挙げたらきりがない。勿論、警察や消防などの活動も忘れてはならない。直接的か間接的かを問わないならば、現代社会において、行政と無縁の生活を過ごす日は皆無と言ってよいだろう。

 このことを、阿部泰隆教授は「犬、いや、君も歩けば行政法に当たる」と表現されている。これは、『事例解説行政法』(1987年、日本評論社)に掲載され、『行政の法システム(上)』〔新版〕(1997年、有斐閣)ⅵ頁(初版はしがきの再録)にも掲載されている言葉である。

 ▲ここに、電気、ガス、鉄道料金などが並べられることを奇異に感じる方もおられよう。民間企業が運営してはいるが、電力会社は「公企業」の一種とされ、本来ならば国家自身が経営主体となるべきもの、と考えられていたので、特許として経営権を私人に与え、公法上の特権を与える一方、事業遂行の義務を課し、事業に対して特別の監督を加える、という方法(あるいは考え方。認可制)を採用している。ガス事業や鉄道料金についても同様に考えてよい。

 また、金沢地判昭和50年12月12日判時823号90頁などは、競馬、競輪などの「公営競技」も「社会福祉的目的をもつ行政作用」であると述べている。もっとも、公営競技による収益が学校の新設などに役立っていたことは否定できないが、公営競技そのものが「社会福祉的目的をもつ行政作用」と言いうるかどうかは問題である。

 ドイツの著名な行政法学者フォルストホフ(Ernst Forsthoff, 1902-1974)は、行政について次のように述べている。「国家は、警察を通じて公共の安全および秩序に配慮し、租税を徴収して(その徴収した)資金を然るべき利用に供し、道路および運河を設置して道路および運河における交通を規律し、職業安定所を通じて労働力を分配して労働力に社会保障において保護および配慮を与え、学校、大学、博物館および劇場を経営し、エネルギー経済をコントロールし、社会的に重要な組織および企業に国家の財政上の援助およびその他の援助を与え、自身の銀行を通じて貨幣制度の担い手となる。――こうした機能全てにおいて、国家は行政(権)を行使する」〈Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts, Band 1, Allgemeiner Teil, 10. Auflage, 1973, S. 1f.〉。基本的な事情は、日本においても同じである。

 また、新聞、テレビやラジオのニュース、さらにインターネットなどを見てみるならば、毎日、どこかで行政の責任あるいは公務員自身の責任が問われていることがわかる。いかなることであろうが、行政の活動について報道がなされない日はないであろう。

 さて、こうしてみると行政というものが我々に身近なものであるということが、多少なりともわかっていただけたと思う。中学校や高校で、社会科の授業で立法、司法、行政という言葉が登場し、それぞれどのようなものであるのかを、多少とも勉強したのではなかろうか。しかし、ここで立ち止まると、行政というものについて「そもそも一体何なのか」という疑問が出てくるかもしれない。

 上の例を御覧いただければおわかりのように、行政は、社会生活の広い範囲に関係する。すなわち、多様性を有する。一度、市町村の役場か都道府県庁に行かれるとよい。よくわかるはずである。我々の生活と密接な関係を有するだけに、行政法とされる法律の数も範囲も膨大である。そればかりではなく、行政法は、実に多様な分野を、直接的であれ間接的であれ、規律している。

 これを裏返して言うならば、行政は、警察、教育、社会保障・社会福祉など様々な外観をとるにもかかわらず、一つの概念にまとめられている。また、人事も行政に含まれる。すなわち、国家公務員法、地方公務員法など、公務員の身分に関する法律も行政法に含まれる。そのため、行政とは一体何かが問題となる。

 行政法の教科書を開くと、最初に行政の定義に関する記述がなされていることが多い〈もっとも、最近の行政法学の教科書には、行政の定義に触れていないものも少なくない〉。日本語の「行政」という言葉は、英語・フランス語のadministration、ドイツ語のVerwaltungからの訳であるが、これらの言葉は、元々、管理、経営という意味を持っている。最近よく用いられるgovernanceが統治などを意味するのに対し、administrationやVerwaltungは、国家や地方公共団体の日常的な業務の運営や管理、さらにはこれらを行う事業体の経営をも意味することになる。

 しかし、日本国憲法など世界各国の憲法典を概観すると、国家や地方公共団体の業務の運営や管理、そして経営の全てを行政が行っている訳ではない、ということがわかる。例えば、いかなる業務を国家が行うべきであるか、いかなる経営方針を採るべきかについての基本原則などは、法律として示されることになるが、これは行政ではなく、立法機能を担う議会(国会)が制定するものとされている。また、社会においては、法律の適用などをめぐって、人々が有する権利や利益に関する紛争が生じ、これを解決しなければならないという場面が多くなる。そのような紛争の解決も国家や地方公共団体の業務であると考えるべきであるが、その業務、少なくとも最終的な解決については司法機能を担う裁判所が行うものとされている。

 このように考えると、行政は、国家や地方公共団体の業務の運営や管理、そして経営の全てを指すものではない、ということになる。近代立憲国家は、ロック(John Locke, 1632~1704)を嚆矢とし、モンテスキュー(Charles Louis de Secontat de la Brède et de Montesquieu, 1689~1755)を大成者とする権力分立主義を採用するため、運営や管理、経営の基本的な方針の策定などを立法権に、社会において生じる紛争の最終的な解決を司法権に担当させるのである。日本も、明治時代の大日本帝国憲法において、決して十分と言えないが権力分立主義を採用しており(但し、当時としては急進的な憲法であったとも評価されている)、昭和時代の日本国憲法は、権力分立主義をより徹底したものとしている。

 ここで日本国憲法を参照してみる。憲法は、国家の国家作用(国家の活動)を、立法・司法・行政に分け(三権分立)、立法を国会に(第41条)、司法を最高裁判所以下の裁判所に(第76条)、行政を(第一次的に、かつ最終的に)内閣に担当させる(第65条)。また、都道府県および市町村(地方自治法第1条の3第2項にいう普通地方公共団体)は司法を担当しない、従って、都道府県および市町村は裁判所を持たない。そのため、都道府県および市町村の作用は立法および行政となる。立法は議会に(地方自治法第96条第1項第1号を参照)、行政は都道府県知事または市町村長(同第147条以下を参照)を筆頭に、地方自治法第161条以下に規定される副知事(都道府県)・副市町村長(市町村)、地方自治法第168条以下に規定される会計責任者、その他の執行機関によって担われることになる。但し、行政法学においては、伝統的に、地方公共団体の作用を、性質の如何に関わらず行政として扱うことが多い。

 このことから、日本において、立法とは国会(立法府)が行う活動、司法とは裁判所(司法府)が行う活動、行政とは内閣(行政府)が行う活動である〈但し、憲法第90条に注意!〉、と記すことができる。

 しかし、これは、憲法がそのように定めているから、組織上このようになるというだけのことであり、形式的な説明で終わっている。具体的な中身については何も説明していないに等しい。適切な表現であるか否かはわからないが、器の問題と言いうる。このような説明で述べられる概念を、行政法学などにおいては、それぞれ、形式的な意味における立法、形式的な意味における司法、形式的な意味における行政という。

 形式的な意味における立法・司法・行政の概念では、それぞれの具体的な中身、すなわち、実質的な意味における立法、実質的な意味における司法、実質的な意味における行政を説明することができない場合がある。

 例えば、憲法第55条は「両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する」と、また、第64条第1項は「国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける」と規定する。このことは、例外的ながら、立法機関であるはずの国会が司法機関である裁判所の機能を有する場合があることを示している。

 また、第73条第6号は内閣の政令制定権を規定し、第77条第1項は最高裁判所の規則制定権を規定する。これらは、行政機関であるはずの内閣および司法機関であるはずの最高裁判所が立法機関としての機能をも有することを意味する。さらに、第80条は、最高裁判所が高等裁判所以下の下級裁判所の裁判官に関して実質的な人事権を有することを規定する。これは、最高裁判所に人事行政権が与えられていることを意味する。器が立法であるから中身が全て立法であるとは限らないのである。

 このようにみると、形式的な意味における立法・行政・司法と、実質的な意味における立法・行政・司法は、重なり合う部分が多いものの、完全に一致する訳ではないことがわかる。憲法が、国家機関の権力均衡を重視して役割の分担を定めているため、形式的な意味と実質的な意味とが一致しないのは、むしろ当然のことである。

 そこで、中身の問題、すなわち、実質的な立法・司法・行政とはそれぞれ何かを考える。行政とは一体何かという問題に答えるためには、まず、立法および司法とは何かという問題に対して答えておく必要がある。日本の公法学(憲法学、行政法学)は、明治時代以来、現在に至るまで、ドイツ公法学の影響を強く受けている。そのためもあって、立法、行政および司法のそれぞれについて、形式的な意味のものと実質的な意味のものとに分け、様々な国家作用を考察する際の前提としている。

 まず、立法について考えてみる。形式的な意味における立法とは、上に記したとおりであるが、さらに記すならば、国法の一形式である法律を定立する機能のことである。ここでは、法律に含まれる規範の中身を一切問わない。しかし、これでは憲法第41条の解釈に際して不都合が生じる。国会は唯一の立法機関であるとされるが、形式的な意味における立法の概念を採用すると、国会は法律という法を定める機関であるということになり、法律で最低限として何を定めるべきかという問いには答えられない。また、法律は、国法の一形式である法律を定める機能を有する国会が定立する法であるということになり、同義反復の説明で終わることになる。そこで、憲法学においては、第41条にいう立法を実質的な意味の立法と解するのである。

 実質的な意味における立法は、法律、政令などというような法の形式ではなく、「法規」(Rechtssatz)という特定の内容を有する法規範を定立する機能をいい、現在では、およそ一般的・抽象的な法規範全てを定立する機能であるとされている。

 次に、実質的な意味における司法とは「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」であるとされている芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第七版〕(2019年、岩波書店)336頁による〉。言い換えると、法律上の争訟、すなわち法律上の関係(権利義務)に関する争いごとを裁断する行為のことである。

 例えば、AがBに1000万円を貸したがBが返さない場合、BはAに金を返す義務を果たしていない場合を考えてみる。これは、見方を変えればAがBから(相当の利息も付いた上で)金を返してもらう権利を有するが、まだその権利が実現されていないことでもある。この場合に、Aは裁判所に、BがAに金を返すようにという訴えを提起することになる(民事訴訟の典型的な例)。

 また、CがDを殺し、警察・検察に逮捕され、検察官が訴えを提起すると(刑事訴訟法第247条)、裁判所が、Cが有罪であるか否かを判断し、有罪であるとすればCがどの程度の刑罰を受けるべきかを判断する(刑事訴訟の典型的な例)。従って、この場合には権利義務の関係ではないが、Cの法律上の関係についての問題を扱う、と言いうる。もっとも、CがDを殺したということは、CがDの権利を完全に否定したということであるから、その意味においてはCとDとの権利関係が存在しない訳ではない。また、犯罪は、個人に対するものばかりではなく、社会全体に対するもの、国家に対するものも存在するが、その場合であっても、社会全体の利益や国家の利益を損なうのであるから、社会全体に対する法律上の関係、国家に対する法律上の関係が問題となる。

 これに対し、実質的な意味における行政については、見解が分かれている。これは行政の多様性に由来する。行政権がなすべき作用には、警察、教育、社会保障・社会福祉などがあって多様であるし、人事も行政の重要な一分野である。それにもかかわらず、行政という一つの概念にまとめられているため、定義が困難であると考えられるのである。

 現在の日本においては、こうした困難性を承知の上で積極的な定義づけを試みる説(積極説)もいくつか存在するが、むしろ、困難性の故に、実質的な意味の行政について正面から定義づけることを断念する消極説が支配的である。この説は、立法および司法を上記のように定義した上で、国家の全ての作用(活動、機能)の全体から立法と司法を差し引けば、実質的な意味における行政が残ると考えるため、控除説ともいう。

 消極説に対して、これでは定義にならないという批判もある。たしかに、このような定義には、行政の具体的な内容や特性が明らかにされないという難点がある。しかし、立法・司法・行政のいずれも、封建制から絶対王政を経て立憲君主制、さらに共和制への発展という歴史に応ずる形で成立した概念であり、このような定義のほうが、幅広い行政を一つのものとして捉えやすいという大きな利点がある。行政は、規制をすることもあるし、逆に給付をすることもある。権力的な手段を使うこともあるし、非権力的な手段を使うこともある。

 また、もっと積極的に行政を定義しようとする試み(積極説)もあるが、成功してはいない。たとえば、積極説と解されている定義の中には、消極説と大差がないものも見受けられる。

 ドイツ行政法学においては、積極説のほうが有力であるようであるが、定義に関する記述には、消極説と大差がないものも見受けられる。事情は日本においても同じである。フォルストホフは、先程引用した文の前に、「行政は、記述はされうるが定義はされえない、ということが行政の特徴において存在する。行政の個々の仕事は多様性において広がっているが、その多様性は、統一的な形態を無視する」と述べる〈Forsthoff, a. a. O., S. 1f.〉

 さらに、積極説は実益に乏しい。例えば、実質的な意味における行政を積極的にて意義づけようとしなければ、行政行為、行政指導、行政契約などというような個別的な概念が成立しない訳ではない※。逆に言えば、積極説を採る論者の説を概観してみても、積極的な定義づけが個別的概念に直結していない、あるいは、個別的概念の説明などに際して、実質的な行政に関する積極的な定義づけが生かされていないという問題点がある。積極説を採る論者は、これをどのように考えているのであろうか。

 ※塩野宏『行政法Ⅰ』〔第六版〕(2015年、有斐閣)5頁を参照。なお、ドイツ行政法学において実質的な意味における行政の定義づけが盛んに試みられるのは、おそらく、行政裁判所制度の存在によるものと思われる。しかし、仮に行政裁判所制度が日本に存在したとしても、そのことと実質的な意味における行政の定義づけの必要性の有無とは別の問題であろう。

 以上のことから、私は、この講義ノートにおいて消極説(控除説)を採用することとしたい。

 なお、勿論、行政の活動を分類することは可能である。これにも様々なものがあるが、行政手続法や行政事件訴訟法などとの関連、さらに国民の権利義務との関連という点において、規制行政(侵害行政という表現もある)と給付行政との大別が重要である(正確ではないが、人権論にいう自由権と社会権との区別に、ほぼ対応している)。

 

 ▲第7版における履歴:2020年2月25日掲載。

 ▲第6版における履歴:2015年11月11日掲載。

            2017年12月20日修正。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月も

2020年03月16日 08時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 3月に多くの学校で卒業式などが予定されていましたが、中止とした所が多くなりました。また、4月の入学式も中止とする学校も多くなっています。

 それでは止まりません。大学で、新入生ガイダンスなどの時期を遅らせ、次いで前期の講義期間開始を遅らせる、という所も現れています。おそらく、今後、多くの大学で同様の対応がなされることでしょう。

 実は、私が勤務する大東文化大学では、2020年度の前期は7月下旬に東京オリンピック開催が予定されているということで、講義期間が短くなっており、期末試験の期間も例年より一週間ほど早められています。他の大学でもそうなっているのではないかと思われます。したがって、このままでは前期の講義期間が極端に、というほどではなくともかなり短くなってしまう訳です。

 そうなれば、夏休みの短縮なども考えられることになります。

 今月に入ってから、とくにヨーロッパでひどい状況になっています。南極大陸を除く全大陸で流行しているくらいですから、オリンピックどころの話ではないと思うのですが、いかがでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする