昨日(2025年7月17日)の午後、私のiPhoneにニュースが届いた。これはいつものことであるが、そのニュースの中の一つに目が留まり、すぐに武満徹の「系図」のフレーズが、断片的にではあるが思い浮かんだ。
「系図」は管弦楽団と語りのための曲である。語り手によって谷川俊太郎の詩六篇が朗読されるのであるが、一聴すると、朗読と管弦楽の演奏とは無関係にも思えるような瞬間がある。勿論、そのようなことはないが、互いに独立しているようにも聞こえる、それでいて融合しているようにも感じられるという、不思議な印象を受けた。しかし、所々で、例えば変ニ長調でホルンが懐かしく思えるような旋律を奏でる。最後のほうでアコーディオンがフィーチャーされ、その効果に驚かされる。「弦楽のためのレクイエム」、「ノヴェンバー・ステップス」などの作品とは全く異なる、むしろ対極にあると言ってもよいような作風であるが、武満には「翼」のような曲もあるから、不思議なことでも何でもない。調性的ではあるが、絶えず転調を繰り返すような作品であり、その点においてドビュッシーの中期および後期の作品、例えば「映像第2集」の1曲目であるCloches à travers les feuillesに類似するのかもしれない。武満がドビュッシーの作品に親しみ、影響を受けたことは知られている。このことを見落としてはならない。また、無調はすぐに限界に達する。バルトークも晩年にはしっかりとした調性を感じられる作風に至った(例として、ヴァイオリン協奏曲第2番、管弦楽のための協奏曲、無伴奏ヴァイオリンソナタを想起されたい)。
私が「系図」を知ったのは、1996年2月、武満徹が亡くなってからすぐに、NHKで追悼番組が放送された時である。この番組で「系図」を聴いた。初演は英語版であるが、番組では日本語版であった。日本初演は岩城宏之指揮のNHK交響楽団によるものであったが、それが番組で聴くことができたものであったか否かはわからない。いや、それはどうでもよい。すぐに「これは非常によい」と思った。歌ではなく、語りにしたことが好ましく感じられる。音楽によって言葉が犠牲になる場面が、とくにポップ系統では多いからである。言葉を無理にメロディーに乗せてしまうと、アクセント、速度、発音、息遣い、感情などが損なわれる。そのためであろうか、「系図」を耳にして、武満ほどに言葉を大事にする作曲家も多くないのではないかと問うてみた。言葉を無理に音楽へ引き寄せるのではなく、独自の空間に漂わせる。そう簡単にできることでもなかろう。
また、この曲においては語り手を誰にするかという選択の問題もある。演技力も必要なのかもしれないが、それだけではわざとらしく聞こえるだけかもしれない。感受性なども必要であろうし、声質も重要であると考えられる。
同年中に、追悼盤のCD「レクイエム」がフィリップス・レーベルとして発売された。このCDに収録されているのは、小澤征爾指揮のサイトウ・キネン・オーケストラによるもので、アコーディオン奏者の御喜美江も参加している。私は、発売されてすぐに六本木WAVEで購入した。何度となく、CDを通しで聴いたが、その中でも「系図」を選ぶことは多かった。理由は語りである。時に切々と訴えかけ、それでいて感情を爆発させない。若者らしい複雑な心理の一端も表に出されている。一音一音を大切に発する。これらをバランスよく行うにはそれなりの力量なりこだわりなどが求められるかもしれない。
これまで、私は一切「系図」を聴き返していない。しかし、頭の中に演奏が繰り返された。だからここまで書くことができた。
「系図」の日本語版の初演で、またCD「レクイエム」に収録されている「系図」で、語り手を務めたのが遠野なぎこであった。