小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

喪から再生へ(6)

2010-03-11 20:49:05 | 弱さへの思考
死を向かえる前にすべきこと(先立つ側)

とは言うものの、死はやはり不条理であり、理不尽である。
そして、それはだれもが、新しい初めての体験である。そして不安である。
そのようなものごとに直面したときは、受け入れることはできない。
受け入れるためには、プロセスが必要で、それは、健全な否認であり、正当な怒りであるとも思う。そして、先だって紹介した「先人の智恵」のように、決して新しいものではないのも事実であろう。
ここで、不安について考えると、不安とはある意味、将来への希望の裏返しであると思う。希望にフォーカスすることで、不安と戦っていると考えられる。

では、死への不安はどうなのか?期待となることが難しいからこそ、困難を感じるのだと思う。

そこへの解決策の1つが、「出会いがあるから別れがある」と思い・信じ、この出会いを感謝する決断をすることであり、それは「祈り」ではないかと、私は考える。
祈ることが未来へとなり、祈りを続けることにより癒しになる。
祈ることも大切で、同時に、祈られることも大切、と私は考える。
これは想うことも大切で、想われる事も大切という恋愛に近いものだとも思える。

思い出してもらいたい。
想い、想われることがいかに幸せか。
「想い」を「祈り」に変えるセンテンスは、死へ向かう時の不安への戦いになるのではないだろうか。そして、残された生(誰もがその状況であるのだけれど意識していないだけ)をなんとか、生きていけるのではないだろうか。

そのような関係=コミュニティがあることで、先立つ側は、残される側の中に生き続けると思う。または、そう思うことで、不安と戦うことすら無意味に思えて、祈ることができるのだと考えている。

これまで、様々な視点から喪を考えてきた。そして、再生へと向かうこと・先立つ側についても考えてみた。
また機会を持って、考えたいと思う。

少なくとも今、言えることは、「ひとりぼっちにならないようにしよう」=コミュニティと家族を大切に育もう。
こういうことが生き続ける事なのだと思う。

喪から再生へ(5)

2010-03-11 06:33:09 | 弱さへの思考
遺族として残された後

ナラティヴ=物語を先立つ人と綴ったとしても「あのとき、あの人にあのようにしてしまったのはよかったのか」と、遺族としては気持ちを持つ。
そのとき、遺族の大切なことは、コミュニティの関わり方である。
コミュニティが正否を下し、批判すれば、遺族は傷つき、「喪の過程」は長引くであろう。
しかし、コミュニティが「保証」をすることで、遺族は先立った人との物語を振り返り、周囲や自分自身の想いと出会うことで、時間をかけて遺族自身が納得させることができ、死を受け入れると考える。

例えばこうだ。
「あなたが、あのようにして下さったから、本人はとても幸せだったと思います(または、『そう言っていた』)」とコミュニティから言われることで「保証」が成立する。このような言葉で遺族は、死の受け入れが穏やかに行われると考えられる。

遺族は、コミュニティを持つことが大切である。それも適切なコミュニティである必要がある。
おそらく、友人たち、というコミュニティは、穏やかで温かいものとなると思われる。もしかすると教会などもその機能を果たすだろう。死への時間を共有した医療・介護スタッフとの交流(遺族会など)もその機能を持つ可能性がある。

次回は、死を向かえる前にすべきこと。(先立つ側)、を考える。