小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

喪から再生へ(1)

2010-02-28 21:39:26 | 弱さへの思考
私の大切な友人(36歳女性)の祖母が一昨日突然逝去。
いくつで亡くなったのか、死因は何か、など詳細は分からない。ただし、彼女の心は大変な悲しみに満たされている。

人は、必ず、死ぬ。
しかし、死に遭遇することは非日常的である(その意味において戦争はあまりにもひどいことだ)がゆえに、そこにおける精神のコントロールは、とても重要であると考える。

たぶん「死生学」という学問に入るのだろう。次回以降、死について少し考えてみたい。

アサーティヴとは

2010-02-26 21:00:09 | 弱さへの思考
アサーティヴを「自己主張」と勘違いしているバカケアマネジャーを知った。

このくそばばぁケアマネジャーは日常的に口が悪い。それがいかに人の気持ちを傷つけているかを知らない。理解もしない。他者の気持ちも考えない。もし、男だったら、袋叩きに合うだろう。
その状況において、アサーティヴ=自己主張を信仰・信念としていることは大変やっかいである。しかし、それを受けて側が変えることはできない。よって、付き合うのは困難である。

アサーティヴとは、「自分の気持ちや意見を相手の権利を侵害することなく、率直に誠実に対等に表現すること」である。これをどう勘違いすると「自己主張」になるのかの思考レトリックがいまいちわからないのだが、ここで重要なのは、「自分の気持ちや意見」を「相手の権利を侵害することなく」である。しかも、誠実に対等な表現能力が必要であり、それは大変な技能を有していないとできない。

勘違いということは、大変、メイワクな話である。

何度も言うが、バイスティックにおける自由とは「自由は、それ自体が目標ではなく、1つの手段にすぎない。自由は人生における近い将来の、あるいは遠い未来の目標を達成するための手段である。それゆえ、自由といっても、自分や他者を勝手に傷つけることは許されないのである。」

本当にくそばばぁはうっせぇなぁ…みなさまもくそばばぁにだけはならないようにしましょう。

江戸川区で悲しい出来事

2010-02-22 21:20:21 | 日記
またまた東京新聞である。
2010年2月21日(日)の朝刊にて。

都職員、母の首絞める
容疑で逮捕「介護疲れた」供述-警視庁

記事をまとめると。
母親の首をネクタイで絞めたとして、警視庁小岩署は20日、殺人未遂の疑いで、東京都江戸川区西篠崎、都立病院事務職員石田某(48)を逮捕。
母親は病院で死亡確認される。よって、殺人容疑に切り替えて調べている。
母親セツ子さん(72)の首をネクタイで絞めたとされる。
石田容疑者は「介護に疲れた」と供述し、容疑を認めている。

この記事の悲惨さは、
○ 本当かよ?!(江戸川区で起こるものなんだ)
○ 都立病院勤務であっても介護疲労はひどかった。(インテリでも知識不足)
○ 母親と2人暮らしであった。(他者に相談できる環境ではなかったと考えられる)
○ 母親の疾病は「脳出血後遺症」であった。(重度認知症などではない。介護業界的に言えば、申し訳ないが比較的軽度である)

と言える。

たとえ、病院勤務であっても、知識が不足しているということだ。おそらく、認知症やら要介護状態の患者を見ているはずだ。
彼らと自らの母親の状況を比較すれば、それほど重度ではない事がわかるはず。
しかし、人の心の中はわからない。もしかすると石田は思いつめるタイプかもしれない。追い込まれていたのだろう。
人1人死んでいることを考えれば、残念だが情状酌量の余地はない。しかも、家族であり、母親を殺害。言語道断。

未婚で母子2人暮らしであり、他者との関係を構築することができないことは危険である。なぜなら、他者がその関係に入ることは、大変困難であることを、私たちは良く知っているからだ。
ただ、こういう事件が報道されるうちは、まだましなのかもしれない。
世界で1年間に8000件以上もテロが起きているにも関わらず、報道は稀だ。ということはテロは日常茶飯事であるのだ。池上彰氏が「日常的に起きている出来事はニュースにならない」と言っていた。これはとても正しいと思う。

介護疲れでの殺人が、日常茶飯事にならないことを祈る。頼むから、家族を殺すのはやめてくれ。もちろん他者を殺すのもやめてくれ。

短歌

2010-02-21 21:14:25 | 日記
例によって、東京新聞から。
「東京歌壇」(佐佐木幸綱歌人選)の中に、ちょっと郷愁をそそるものが、掲載されていた。

千葉市の石橋佳の子さんの作品

生徒らの 帰りしのちに 黒板の 隅に残れる"I have a dream"

あぁ、私もそんなことを、隅ではなく、後方の黒板にでっかく「BIGになる」などと書いたものだ(いや、この短歌の表さんとすることは、本当に黒板に書かれたものではなく、生徒の帰った残像のようなものが…まぁ、いいか)。
そんな私の現在は、BIGといえばビッグマックを食べるぐらいなもので、とても縁遠い。いや、体重はビッグサイズかもしれない。

"I have a dream"
いい言葉。

あの頃と比べると、相当トシをとったけれど、あんまり変わっていない。反省。

みなさま、今週も無事でありますように。

本当に独居がお望みでしょうか?(その3)

2010-02-19 21:31:17 | 弱さへの思考
この2日間、独居暮らしの高齢者に対し「特養ホームを良くする市民の会」という団体が実地調査したところ、7割の独居高齢者が「要介護度が重くなっても現在の住まいで住み続けたい」とのこと…を紹介した。
これを受けて、独居で暮らすためには、それまでの歴史・生活歴=他者との交流がものを言う。つまり、ツールは独居高齢者になる前に作られているのだ、という仮説が立つかもしれない。
しかし、そのような歴史を作りえなかった独居高齢者が「それでも自宅で暮らしたい」というとき、どのような方法があるのか。
これを考えてみたい。

その1)
様々な公的サービスを利用して生活構築していく必要がある。
これは1つの正解といえる。しかし、公的サービスには限界がある。
例えば「寂しさ」に対して補填する公的サービスは、ない。デイサービスがそれに当たるとお役人は考えているが、そこでの人との交流が誰とでも仲良くなれる、というわけではない。人は波長や気の合う人と友達になるのだ。
そして、公的サービスはタダではない。かならずお金がかかる。そして、利用するためには役所へ行って申請をしなければならない。要介護高齢者ができるほど簡単ではなく、申請の結果、却下もありうる。よって、公的サービスはメインとしてのツールではなく、補完的なものに過ぎない。

そこで(めんどくさいので)、1つの答えがある。
「無縁社会」という項目でも伝えたが、「お互いがなんとなく気に掛ける関係」を作っていくこと。
独居要介護高齢者が、この「無縁社会」の中で生きていくことは難しい。
よって、「有縁社会」を自ら作る必要がある。残念だが、これは実行しなければならない。自由の名において独居生活を続けたいのならば努力が必要だ。何もしないで自由は得られない。幸せも得られない。
それは、「弱さ」を通して「つながり」を持つことなのだと、私は考える。
独居要介護高齢者は「弱さ」であると確信する。よって、それを開示し、「いざというときは助けて欲しい」ということに対し了承する仲間を作らなければならない。人は1人では生きていけないのだ。独居要介護高齢者であるならばそれを理解できるだろう。
その弱さを開示して、他者とつながっていく。それを受容される場所や人がたくさんあることが、ツールになる。

では、それはどのようにすれば手に入れられるのか。
実は、未来における「希望」としか言いようがない。
誰かが、そのようなフィールドを作るか、そういう団体を作るまで待たねばならない。または、そういう思考を持つことができる個人や店や団体が少しでも多く、広がることにしか、道は見出せない。
そして、独居要介護高齢者は、自らすすんで、現在ある・未来にできる、快適な環境(場所)を見つけることが求められる。

独居高齢者+独居要介護高齢者が自宅で暮らすことは、予想以上に過酷である。
それでも本当に独居がお望みでしょうか?

私は、ここへできるだけ関わりたいと思う。そして、1つでも実現することを目的としている。乞うご期待。