小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

弱さ研究(1)

2009-11-30 19:31:26 | 弱さへの思考
人は、社会は、いつから強さをよいものとしたのだろうか。

仮にダーウィンの進化論が正しいとするならば、全ての生物は弱いものを淘汰して、強いものが生き残る、と考えられる。
しかし、それならば現在ある多種多様な種を、ダーウィンはどう説明するのだろう?
自然淘汰された結果であるとするならば、弱さを抱えたものは生まれてこないはずではないのか?
突然変異はなぜ起こるのか?
一定の割合で脳卒中や認知症や統合失調症が発症したり、ダウン症が生まれたりするメカニズムをどう説明するのか?それとも現在進行形で自然淘汰がなされており、その過程であるのか?

疾病や障がいを抱えた人々、貧困で困難な状況にある人々、現在の社会構造に疑問を抱いたり不適応であったり強さを持てなかったりする人々…などを「弱さを抱えた人」とする。

弱さを抱えた人々は、実は大半を占めるはずである。
にも関わらず、一部の強さを抱えた人々を神のように奉信し、そのようになろうと「強さ」を求めるのはなぜなのだろう?だれもが目に見えぬ競争というレースに参加しているのだろうか。よく考えてほしい。亀田興毅のようにボクシングが強いだろうか?ビル・ゲイツのようにOSを世界中に売りさばけるだろうか?競走馬ウォッカのように世界を相手に勝てるだろうか?石川遼のように賞金王になれるだろうか?
なぜ弱さを抱えていながらも、競争して勝とうとするのだろう。
レースに参加することを降りるという選択肢もあるはずだ。
勝負をしない人生のほうがたくさんあるはずだ。
勝ち負けにこだわらず、生きてことが可能なはずだ。

これから、「弱さ」というものを考えていきたい。飽きないように考察するので、当分の間、共に考えてもらえると幸いである。

観劇

2009-11-29 22:32:41 | 日記
今日の午後2時は友人の劇団公演に行った。「人は1人じゃ幸せになれない」という主旨の劇であった。

この劇団はこれまで6回の公演を行っているが、最も完成度は高かった。成長していることが分かる。

「人は1人じゃ幸せになれない」
この、しごくもっともなことを演劇で表現しようとする時、それは大変な労力と説得力が必要になる。それは役者への比重が大きいだろう。それは表現されていたと感じた。もちろん演出もよくできていた。

人というのは、ともすると自分だけで生きていると考える。
しかし、他者との関わりを認知すると「そうではないな」と思う。

この演劇とは関係ないが、ある日、ロンドンの老女が自殺した。理由は「この1週間、誰も話しかけてくれなかった」からである。そんなばかなと思う人は、マザー・テレサの「貧困と戦うのは、むずかしい。でも、食べ物への飢えより愛への飢えを鎮めることのほうが、もっとむずかしいのです。」と語っている言葉を考えてほしい。
もし、1週間、誰とも会話しなかったら…あなたは耐えられるだろうか?それも、大都会で。

本日の演劇は、このことを再確認できた。よい収穫だ。
みんな生まれたときから死ぬまで、誰かと関わっている。1人で生きているなんて強がり言わないで、周りの人々と関わっていこう。できれば誠実に。もしかすると「幸せ」というものがそこにあるのかもしれないと思う。

ジャパンカップ

2009-11-28 13:59:41 | 日記
東京競馬場にて。
明日は第29回ジャパンカップとのことで、海外メディアが来場。

このクルーは、対話内容からアメリカの様子。
競馬というものを通して、ここから世界がつながっているのを実感。
地球は意外に狭い。

優劣の観念

2009-11-27 22:08:27 | 日記
優劣の観念の根は、しばしば科学的な数値によって裏打ちされる。テストの点数、営業成績、IQなど。

劣の方、つまり「弱さ」について概念をまとめている。いずれ公開予定。

みなさま、おやすみなさい。

認知症の心についてのちょっとした考察(最終回)

2009-11-26 21:41:03 | 日記
これまで5回にわたり認知症の心についてちょっとだけ考察をしてきた。

簡単にまとめると
○認知症(であろうとなかろうと)の方々、1人ひとりにはそれぞれの歴史がある。高齢者は特にその時間が長い。そこへ「昨日ひょっと出」の職員が関わることはむずかしい。
○しかし、そこへ関わるということは「人間的な行い」であると考える。
○要介護者家族への支援も必要で「全体としての関わり」も必須である。
○混乱を伴いつつも、他者との関わりは広がりを見せると思われる。
○環境、特に場所というものの選択も注意深く行う必要がある。それは本人・家族との綿密な話し合いにより決定。
○BPSDは原因不明が多いのだが、分かれば取り除く。関わる人々には「相性」という問題は不可避である。

利用者の歴史が長いことは、ケアワーカーを含む家族をも悩ませる。その歴史の長さに到達できないことは決定的である。
よって「相性」とは「介護の質」ではなく「(その人の)資質」である。コミュニケーション技法や相談援助技術をもたない、ボランティアが適切な対応を行うことは少なくない。ということは関わる側の人生観のようなものが問われ、かつ、表れる。
そして、その関わりは科学的というよりは文学的・芸術的な感覚が必要になる。介護技術よりも信頼されること。それは創造性を問われる「芸術的」での関わりであり、さらに加えて、不確実・カオス・世のはかなさ・不条理なものを伝える「文学的」である必要があると思う。
もちろん医学的な観点は必要である。
しかし、病院のように統制管理社会が完結し、実践されている場所では認知症の心に変化は生まれるはずは無い。指導・教育・指示的態度は、基本的に高齢者に対して失礼であり、認知症にはあまり効果がない、ということをもう1度振り返る必要があろう。病院は治療をして在宅に戻るところであり、永久にいる場所ではないのだから。

結論。
認知症の心に関わることとは「人間的な行い」であり、人が人と関わる時の思いやりや丁寧さなどが有効である。それは家族に対する関わりの大切さと近似する。そのような資質、良質なものをもった人に、関わる側は「成る」必要があると考える。そのときこそ「癒し人」になれるのではないか。