小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

「誰のための仕事 労働vs余暇を超えて (鷲田誠一著)」(岩波新書) を読んで その4

2011-06-30 09:00:23 | 弱さへの思考
「誰のための仕事 労働vs余暇を超えて (鷲田誠一著)」(岩波新書) を読んで その4

「遊び」…この言葉には、それ自体が持つ意味と同時に構造体の「すきま」という意味がある。
この遊びを内蔵してこそ、構造体が作動し始める。例えば、歯車というものがそれだ。
きっちりとはまっていては動かないし、ゆるすぎると空回りする。ちょうどよい「遊び」=「すきま」がないと歯車は動かない。
人間の体も、(知っている人はご存知とは思うが)すきまがあってこそ、ホメオスタシスが維持されている。
結局、うまく作動するか否かは「遊び」がいかに設置されているかにかかっている。

人間の活動について言えば、「遊び」こそ、アイデンティティを揺さぶるような、その根拠を賭けるような真剣さがあり、厳粛さすらある。
あらゆるギャンブル…スポーツ…海外旅行…読書…音楽の演奏…根拠を賭けているのでは?

しかし、こわばりをほどく力…これこそが「遊び」ではないだろうか。

将来のゆめ

2011-06-30 06:14:57 | 日記
…人生を長い目でみて、肩の力をぬいてみること


…ぼくはぼくの人生の主役なんだって、自分におしえてあげること。


…もってる力をうまくいかせば、前に進んでゆけるんだって気づくこと。


…金メダリストだって、ぼくらとおんなじふつうのひとかも、って考えてみること。


こども哲学「人生ってなに?」(オスカー・ブルニフィエ)より

「誰のための仕事 労働vs余暇を超えて (鷲田誠一著)」(岩波新書) を読んで その

2011-06-29 09:08:29 | 弱さへの思考
「誰のための仕事 労働vs余暇を超えて (鷲田誠一著)」(岩波新書) を読んで その3

とはいうものの「遊び」もコントロールされつつあるのを、実感するだろうか。
気持ちいいこと・楽しいことこそしなければ!という意識が煽りたてられている。
「絶えず何かをしていないと不安になる」という「病」が生産される。

なぜ、そうなったのか?考察して見よう。
「労働フェティシズム」のように執着することで自己保持を構成するかの如く、休みの日にも「何かしなければ」という意識が芽生える。労働フェチの延長である。

それを煽るように、すべてのメディアは、構成されている。
「旅に出よう」とか「これはお買い得」とか「こうするのが正しい余暇の過ごし方」のようなアプローチだ。
それに乗せられて、騙されてはいけない。いや、満たされれば騙されてもいいのだが…

結果、仕事も遊びも、手を抜くことなく全力投球…というきまじめなメンタリティが形成されてしまう。

「遊び」について、もう少し考えてみたい。