感想文
土居健郎は、私は好きな人で。先日お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたしますと同時に、ずっと、「甘えの構造」は読まれ続けると思われます。精神科医であり、市井の人々にも目を配られたじっちゃん(失礼)と思っています。これからも時々登場させていただきたいと思います。
ひとつ例を。
「妬み」は「甘え」から発生しており、これは克服するしかない、と語っています。
嫉妬は克服したいと思います(私はあまりないのでした)。
ところが、「恨み」は「甘え」がくっついているので関係が続けば、なんとかなるものだ、と語っています。
妬まず、恨みましょう。でも、関係を続けましょう。
そんなことで、感想文です。
「病気」があったから、医学は生まれました。どういう場合に病気と考えるか?全ての病気に共通する特徴は何か?
1.自分では説明のつかない苦痛、ないしは、不快感を指すように思われる。
2.病気の体験はいつも意外性を持って始まる。誰でも「思わず」病気になる。
3.本人は原則として責任を問われない。または責任を免れる。つまり、なろうと思ってなったわけではない。不養生・不摂生はあったとしても。
4.普通は治る可能性があると考えられている。
5.心と体の分化。人は元気でいる時はあまり、心と体、というふうに区別し意識しない。病気になると、少し、別々に意識化される。
ちなみに「妄想」は病気を「病気」と考えません。よって、医師に助けを求めません。
心の病の難しさはここにあり、たいていは人間関係に問題があったため、ということができます。
「なくて七癖」ということわざがありますが、癖はたいてい、小さい神経症か人格障害(!)と考えてよい。これは幼児におけるしつけの段階に問題がある、と土居先生はおっしゃっています(もしかするとそうかもしれません…自分を振り返る私)。
しつけ=社会化(家族社会学でも打ちましたが)です。これは「甘えられる関係」の構築でもあるのです。(詳しくは甘えの構造をお読みください)
甘えられる関係は受診時に「信頼できる医師」としての確信を得ることで「プラシーボ=偽薬」効果があります。これが重要です。
元々プラシーボはラテン語で「喜ばせる」の意味があります(なぜ、だます、になったのかは不明ですが。似ている?)。
図をご覧下さい。自分や世界を…
わかっている→パラノイア圏
わかられている→分裂病圏
わかりっこない→躁うつ病圏
わかってほしい→神経症圏
わかられたくない→精神病圏
と考えてみてください。自分は、または、(ケアマネの方の場合は)利用者はどこにいるかで(それぞれの混ざり状況も含めて)、生き方や対応が変わると思います。
「わかってほしい=神経症」の方々は「甘え」の気持ちが残っているので「付き合いやすい」のです。それ以外の方々は付き合いづらく、程遠い…なんとなく、ご理解いただけますでしょうか。
ここで考察。
「病気」認識の無い方々がたいていは「統合失調症」である可能性があるかもしれません。例えば、(ちょっと違いますが)認知症の人のほとんどは病識はありません。その意味で、受診=医師の助けを借りない、という人は多いと思います。ちょっと似ているかも。ともあれ、そのような状態であったとしても、人々と関わる必要はあると、私は考えます。
自分や世界を理解して、わかっていると思っていることに、疑いを持つことが重要です。人は変化します。そこを間違えてはいけません。新しい技術や情報を手に入れて、変化するものなのです。そうしなければ、地球では生きていけません。出来ない場合は「パラノイア」=妄想性障害であり、すでに「妄想」の域に達しているかもしれません。性格・環境・ストレスが関与していると考えられています。「病気」を病気と考えません。
みなさま。「まとも」とは何でしょう?
ちょっとだけ考えてみませんか。
土居健郎は、私は好きな人で。先日お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたしますと同時に、ずっと、「甘えの構造」は読まれ続けると思われます。精神科医であり、市井の人々にも目を配られたじっちゃん(失礼)と思っています。これからも時々登場させていただきたいと思います。
ひとつ例を。
「妬み」は「甘え」から発生しており、これは克服するしかない、と語っています。
嫉妬は克服したいと思います(私はあまりないのでした)。
ところが、「恨み」は「甘え」がくっついているので関係が続けば、なんとかなるものだ、と語っています。
妬まず、恨みましょう。でも、関係を続けましょう。
そんなことで、感想文です。
「病気」があったから、医学は生まれました。どういう場合に病気と考えるか?全ての病気に共通する特徴は何か?
1.自分では説明のつかない苦痛、ないしは、不快感を指すように思われる。
2.病気の体験はいつも意外性を持って始まる。誰でも「思わず」病気になる。
3.本人は原則として責任を問われない。または責任を免れる。つまり、なろうと思ってなったわけではない。不養生・不摂生はあったとしても。
4.普通は治る可能性があると考えられている。
5.心と体の分化。人は元気でいる時はあまり、心と体、というふうに区別し意識しない。病気になると、少し、別々に意識化される。
ちなみに「妄想」は病気を「病気」と考えません。よって、医師に助けを求めません。
心の病の難しさはここにあり、たいていは人間関係に問題があったため、ということができます。
「なくて七癖」ということわざがありますが、癖はたいてい、小さい神経症か人格障害(!)と考えてよい。これは幼児におけるしつけの段階に問題がある、と土居先生はおっしゃっています(もしかするとそうかもしれません…自分を振り返る私)。
しつけ=社会化(家族社会学でも打ちましたが)です。これは「甘えられる関係」の構築でもあるのです。(詳しくは甘えの構造をお読みください)
甘えられる関係は受診時に「信頼できる医師」としての確信を得ることで「プラシーボ=偽薬」効果があります。これが重要です。
元々プラシーボはラテン語で「喜ばせる」の意味があります(なぜ、だます、になったのかは不明ですが。似ている?)。
図をご覧下さい。自分や世界を…
わかっている→パラノイア圏
わかられている→分裂病圏
わかりっこない→躁うつ病圏
わかってほしい→神経症圏
わかられたくない→精神病圏
と考えてみてください。自分は、または、(ケアマネの方の場合は)利用者はどこにいるかで(それぞれの混ざり状況も含めて)、生き方や対応が変わると思います。
「わかってほしい=神経症」の方々は「甘え」の気持ちが残っているので「付き合いやすい」のです。それ以外の方々は付き合いづらく、程遠い…なんとなく、ご理解いただけますでしょうか。
ここで考察。
「病気」認識の無い方々がたいていは「統合失調症」である可能性があるかもしれません。例えば、(ちょっと違いますが)認知症の人のほとんどは病識はありません。その意味で、受診=医師の助けを借りない、という人は多いと思います。ちょっと似ているかも。ともあれ、そのような状態であったとしても、人々と関わる必要はあると、私は考えます。
自分や世界を理解して、わかっていると思っていることに、疑いを持つことが重要です。人は変化します。そこを間違えてはいけません。新しい技術や情報を手に入れて、変化するものなのです。そうしなければ、地球では生きていけません。出来ない場合は「パラノイア」=妄想性障害であり、すでに「妄想」の域に達しているかもしれません。性格・環境・ストレスが関与していると考えられています。「病気」を病気と考えません。
みなさま。「まとも」とは何でしょう?
ちょっとだけ考えてみませんか。