小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

土居健郎の「病いの話」を読んで

2009-09-30 21:10:08 | 日記
感想文

土居健郎は、私は好きな人で。先日お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたしますと同時に、ずっと、「甘えの構造」は読まれ続けると思われます。精神科医であり、市井の人々にも目を配られたじっちゃん(失礼)と思っています。これからも時々登場させていただきたいと思います。

ひとつ例を。
「妬み」は「甘え」から発生しており、これは克服するしかない、と語っています。
嫉妬は克服したいと思います(私はあまりないのでした)。
ところが、「恨み」は「甘え」がくっついているので関係が続けば、なんとかなるものだ、と語っています。
妬まず、恨みましょう。でも、関係を続けましょう。

そんなことで、感想文です。

「病気」があったから、医学は生まれました。どういう場合に病気と考えるか?全ての病気に共通する特徴は何か?

1.自分では説明のつかない苦痛、ないしは、不快感を指すように思われる。
2.病気の体験はいつも意外性を持って始まる。誰でも「思わず」病気になる。
3.本人は原則として責任を問われない。または責任を免れる。つまり、なろうと思ってなったわけではない。不養生・不摂生はあったとしても。
4.普通は治る可能性があると考えられている。
5.心と体の分化。人は元気でいる時はあまり、心と体、というふうに区別し意識しない。病気になると、少し、別々に意識化される。

ちなみに「妄想」は病気を「病気」と考えません。よって、医師に助けを求めません。
心の病の難しさはここにあり、たいていは人間関係に問題があったため、ということができます。

「なくて七癖」ということわざがありますが、癖はたいてい、小さい神経症か人格障害(!)と考えてよい。これは幼児におけるしつけの段階に問題がある、と土居先生はおっしゃっています(もしかするとそうかもしれません…自分を振り返る私)。
しつけ=社会化(家族社会学でも打ちましたが)です。これは「甘えられる関係」の構築でもあるのです。(詳しくは甘えの構造をお読みください)
甘えられる関係は受診時に「信頼できる医師」としての確信を得ることで「プラシーボ=偽薬」効果があります。これが重要です。
元々プラシーボはラテン語で「喜ばせる」の意味があります(なぜ、だます、になったのかは不明ですが。似ている?)。
図をご覧下さい。自分や世界を…

わかっている→パラノイア圏
わかられている→分裂病圏
わかりっこない→躁うつ病圏
わかってほしい→神経症圏
わかられたくない→精神病圏

と考えてみてください。自分は、または、(ケアマネの方の場合は)利用者はどこにいるかで(それぞれの混ざり状況も含めて)、生き方や対応が変わると思います。

「わかってほしい=神経症」の方々は「甘え」の気持ちが残っているので「付き合いやすい」のです。それ以外の方々は付き合いづらく、程遠い…なんとなく、ご理解いただけますでしょうか。

ここで考察。
「病気」認識の無い方々がたいていは「統合失調症」である可能性があるかもしれません。例えば、(ちょっと違いますが)認知症の人のほとんどは病識はありません。その意味で、受診=医師の助けを借りない、という人は多いと思います。ちょっと似ているかも。ともあれ、そのような状態であったとしても、人々と関わる必要はあると、私は考えます。
自分や世界を理解して、わかっていると思っていることに、疑いを持つことが重要です。人は変化します。そこを間違えてはいけません。新しい技術や情報を手に入れて、変化するものなのです。そうしなければ、地球では生きていけません。出来ない場合は「パラノイア」=妄想性障害であり、すでに「妄想」の域に達しているかもしれません。性格・環境・ストレスが関与していると考えられています。「病気」を病気と考えません。
みなさま。「まとも」とは何でしょう?
ちょっとだけ考えてみませんか。

白旗の少女

2009-09-29 21:00:24 | 日記
本日もお疲れさまです。

明日、テレビ東京系列で「白旗の少女」というドラマがあるそうです。

ちょっと観たいと思います。

では、みなさま、おやすみなさい。

しかし…

2009-09-28 19:03:39 | 日記
皆さま、本日もお疲れさまです。

はぁ…
しかし、どうして「上司」ってゆう人種は、偉ぶるのでしょうか?

おまえはケアプランも書けなきゃ、ケアワークもできないんだから事務員らしく、ちゃんと仕事してろ!
稼げないくせに偉そうにしているな!

と、久々に怒りました(口には出さない)。

この業界、だんだんバカになっている気がするです。

明日は多少前向きにならなきゃなぁ。

おやすみなさい。

家族社会学についての考察(19-最終回)

2009-09-27 11:21:27 | 日記
「新しい家族社会学(森岡清美・望月崇 共著 培風館)を読んで(感想文19)」

「家族形態の変化」について。

今回で家族社会学、おしまいとします。

私が読んだ「新しい家族社会学」よりもさらに発展させて現代にfitした本などがあるとは思います。
私がいつも、現代に合っているものだけではなく、古典(?)というか、かつての考え方や定義を学ぶことは重要だと考えます。
その上で新しい概念を構築する。そして、違う見方を獲得することは、生きていく上で幅が広がる…というか、質が豊かになるような気がします。

では、本題に。

旧ソ連の学者・ハルチェフは「産業化の進行と家族規模の縮小は相関する」と語りました。

現代では、家族の構成員と人数は様々です。
独居から始まり、小家族・中家族・大家族と様々あります。

しかし、前回も打ちましたように、
別世帯を形成しながら、家族としては1つであることが少なからずあり、その意味では近居の増加が挙げられる。
現代家族の規模を語ることは難しい。

と締めくくられていました。

ここで考察。
長きに渡り、「家族」というものの基礎を感想文という形を取りながら考えてきました。
1960年代までの「家族」の概念と現代は確実に変化していると思います。それは環境=社会的背景の急速な変化が1つの要因であると思います。
改めて「家族」を考えることは、とても重要であります。

幼児にとっての、
小学生にとっての、
中高生にとっての(男の子・女の子にとっての)、
若者にとっての、
同性愛者にとっての、
1人ぼっちと思っている人にとっての、
中年にとっての、
高齢者にとっての、
長年連れ添った夫婦にとっての、
認知症疾患者にとっての、
統合失調症者にとっての…

○○にとっての家族とは何か?

成員による幸福追求と情緒的援助が行われれば、その他の問題(経済・ライフサイクル・役割や地位・しつけ…など)は、
課題として捉え、運命を切り開き、生き続けることが出来ると私は思います。

成員の選択とその中での情緒的受容の相互性。
これが自己の中での家族定義である、と私は考えます。

現在放送中の「仮面ライダーダブル」でさえ、「家族」について考えている(と私には見える)のですから、現代は、この件について考える時期に来ていると思います。

改めて。
あなたにとって「家族とは」なんですか?
それは親族に限定されますか?
それとも、
デイトからコートシップに移り、性的な関係があってもなくても「家族」と考えますか?
友人同士で住む・日々質疑応答が行われている1つ屋根の下で暮らすことも家族と考えますか?
遠方に住んでいる「縁族」も家族と認識できますか?
ガサ地区で空爆にあっている人々や各地の内戦で被害にあっている人々を「家族」と思えますか?

そして。
ケアマネな方。
利用者を今後、どのように捉えますか?

小うつな方。
あなたの周りや交流(モノローグでも可)がある人は、誰がおられますか?
あなたの食べ物や服は、素材も含め、誰が作り・調達してくださっていますか?

私も、折々に、考え続けて生きていきたいと思います。

家族社会学についての考察(18)

2009-09-27 11:20:30 | 日記
「新しい家族社会学(森岡清美・望月崇 共著 培風館)を読んで(感想文18)」

「家族と社会的ネットワーク」について。

社会的ネットワークの定義は「特定の個人や集団を焦点にして放射状に広がる社会関係の総体」とすることが明記されています。

以下のようなものがあります。

○親族関係:血族(親子関係)・姻族(夫妻の関係)→この2つを「族縁」と呼びます。
○近隣関係:近くに住むいくつかの家族。この関係には限界があります(当たり前ですが)。例えば、冠婚葬祭などのイベントは手伝っても、日常的に食べ物を供給することは無い、などです。上の「族縁」には、日常的に食べ物を供給することは…ありますね。
○社会機関:各種法人・公共機関・学校・職場・商店・宗教的教会など。
○友人関係:個人性・選択性が最も大きい関係。拘束率は少ない。


家族の責任として、成員の幸福追求にどこまで責任を持つか?
情緒的支援は成員間における受容が無い限り、達成は難しいものです。
そのときに社会的ネットワークの支えが必要となります。


ここで考察。
社会的ネットワークは、「そこにあるもの」もありますが、向こうから何かしてくれるものではありません。主体的にこちらから働きかけ、作り・育み・認識し・大切に活用するものです。親族はともかく、その他の関係は、個人が積極的に行動を起こさない限り構成できないもの、と思います。
これが…実は意外に難しい。

近隣。騒音オバサンみたいな人とネットワーク構築し情緒的支援を双方でできるでしょうか?できる人はすばらしい。私は難しいです。または、過疎地に住んでいる場合、近隣ではなく遠隣だったりします。それはそれでプライバシー保護や力関係の微妙さが保持できるかもしれません。

社会機関。信仰を持っていれば教会における交流関係は有効であると思います。ケンタッキーフライドチキンが好きであれば、ケンタッキーのお店はかなり有効です。なじみの小料理屋さんなんかは酒と料理と情緒的支援を受けられるのでは。しかし、公共機関は一筋縄ではいかない(当たり前ですが…法治国家上法律に沿って活動していますから)し、学校や職場もいじめややりがいがないと活用は難しい。何よりも行くのが嫌でしょう。情緒的支援の成員間受容が難しい。そもそも、目的も違う(学校は勉強する場所であり、会社は稼ぐところ・社会貢献するところ。それにより情緒的支援を受けられない場合は、それらの行動は厳しいとは思います)。

すると、友人関係というものが、不安定要素が多いながらも、情緒的支援を受けることが可能であります。その度合いは高いものと思われます。孤独感の解消、共に何かを行うことでいきがいのの構築ができ、もしかすると結婚や出産時には支援(プレゼント)を受けられる…たまにはごはんも、一緒にしたり、おごり・おごってもらったり…

よって、幸福の追求の1つである情緒的支援は、友人関係が重要なポジションを占めることとなるでしょう。
これを発展させた形は「友人と家族になる」ことなのかもしれません。
ここのところ増えている「高齢になった独居の女性たちが、1つ屋根の下でプライバシーを保持しながら友人たちと共に家族として生活している」スタイルは、新しい家族としてもっと広がるかもしれません。もちろん、経済的な問題は重要となりますが。

次回は、「家族形態の変化」について。これで家族社会学、おしまいとします。