小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

相談業務の哲学(6)

2010-01-31 11:00:44 | 弱さへの思考
④全人的見地からの生活を送るために必要な相談援助


人は経験を通して歴史を作り、生きている。
それは、法治国家を超越した存在として、在る。
経済的・生物学的・家族社会学的・恋愛的・認知社会学的・コミュニケーション論上としても在ると考えられる。
ということは、もしかすると人知を超えた存在として人は在るのでは…ということも考えられる。

これまでを簡単にまとめ。
そういう人々に対して、ただ単に情報を伝えることが相談業務ではない…のではなかろうか。
相談員は、それぞれのポジション(事業所)内での業務を行うため、その範疇だけ伝えれば業務遂行完了となる。これだけでもけっこうすごいことかもしれない。だいたい雇われの身、ポジション以上のことをしても、給料は上がらない。これだけしていればいいや、と思う人がいると同時に、これではなんだか悩む…何かが違う…と思っている人には、辛い業務だ。
そこで、バイスティックやBowersは言った。
相談者と環境のあいだに、よりよい適応をもたらすため、自他者を傷つけない範囲内での自由という手段(自由は目的ではない)を用いて生きられるように、様々な情報を伝える。それはartである…と。

自らの職責内でありながら、「何か」を伝えることができる技法が、相談員に求められているのかもしれない。
なぜなら、人は法律や通知・通達文のみで生きているのではなく、それらを超えた「赤飯が好き」とか「競馬は欠かせない」とか「昼寝したい」とか「登山がしたい」とか「この概念は外せない」とか…様々な要望や欲望や信念によっても生きているのだ。そこを「個別化」し「非審判的態度」を持ち尊重しながら、持てる情報を総動員し提供、よりよい選択ができるようにすることが、相談員に求められている。
相談者は、本当に困って、相談したくないけれども相談に来ているのだから。

その人々に新しい経験と歴史を得て生きるきっかけを与えること。
それは立派な芸術であり、芸術創作活動である!
…と、このくらいの誇大妄想すると、様々な悩みがばかばかしくなって、業務が楽しくなる…かもしれない。
自分もできる限り行っていきたい。とりあえず、今日はお休みしますけれど。

お仕事の方、無事に帰宅できますように。お祈りしております。

相談業務の哲学(5)

2010-01-30 21:16:12 | 弱さへの思考
③生きる上での基本の再構築

相談者たちは、それまでを密度高く深く考えすぎるぐらいの人生を生きてきた。
そして今、それが崩れようとしている。だから相談に来ている。
その後の生き方として、2通りある。

○これまでの人生を継続する(または、したい)。

○新しい価値観を取得し、新しい人生を生きる。

相談者として、誰かに相談している時点で、前者は難しいと考える。人間という生き物は基本的に不可逆である。予想だにしなかった状況に追い込まれた際、例えば脳卒中になった際、「元に戻りたい」という気持ちを持つだろう。現状の自分を受容することはとても難しい。そして自分というものはよくわからない。否定や怒りの感情後に、失意を持ちながら、全人的復権を目指すことができるかもしれない。

相談者予備軍の現状認知が不足している場合、相談に踏み切れず、事態は悪化する可能性は高い。
現状、それまでの人生を継続すしていることはとても難しいことで、奇跡的なのかもしれない。

しかし、不可逆な中、何らかの方法と手助けにより、ある程度は継続可能となる可能性がある。
そして、新しい価値観を持つことが、新しい人生を獲得することができ、幸せのベクトル変換を行えば、それまでとは違った世界で生きることができるだろう。
「自分は、どう生きていたいのか」これまで考えてこなかった課題に立ち向かう作業は、痛みや苦痛を伴う。
それでも、人は死を迎えるまでは生き続けねばならない。そしてできれば、幸せである時間が、たくさんあるほうがいい。

そこへのために、相談業務は必須であり、何度も言うように芸術的であると考える。
ベクトル変換には時間がかかり、信頼関係が必要である。大変、芸術的な行為と思える。

バイスティックの原則の中に「自己決定の尊重」がある。クライアントが「死にたい」と言ったら「どうぞ」というのがいいのか?
そこで考えることとしてバイスティックの答えは明確である。
「自由は、それ自体が目標ではなく、1つの手段にすぎない。自由は人生における近い将来の、あるいは遠い未来の目標を達成するための手段である。それゆえ、自由といっても、自分や他者を勝手に傷つけることは許されないのである。」
つまり自己決定の制限がある。自由の名の下にやってはいけないこと。それは殺人だ。自殺だ。殺してはいけない。死んではいけない。
生きる。ともに生きよう。未来の目標を達成するために、自由を手段として。

相談援助において、それをアプローチできることが相談者を支え、自らの力で生活再構築に結びつくと考える。
なかなか難しいのだけれど。

相談業務の哲学(4)

2010-01-29 20:37:08 | 弱さへの思考
②実質的利用価値のある情報伝達

年末の公的派遣村にて相談援助をしているシーンをテレビニュースで見た。
「仕事も金もない」という相談者に向って、援助者は「役所やハローワークへ行け」と淡々と事務的に感情を交えず言っていた。
相談者である彼は、そんな答えが欲しかったのではないと思う。それならば、誰もが知っていることであり、そんな援助者は、たぶん、誰でもできる。そして例えば、田舎で農作業しているばあちゃんやじっちゃんは違う答えを言うだろう。そして、そのほうが利用価値ある情報に違いない。

相談者は、意を決して、覚悟を決めて、相談にくる。それは清水の舞台から飛び降りる気持ちか華厳の滝に飛び込むような気持ちでくるはずである。
そこを汲み取った上で、どのような対応をするかで全ては決まる。この対応については省略し、別な機会に伝えられたらよいと考える。
それとは別に、「相談に対する適切な回答」の方が重要である。

相談者が望んでいるものは何か?
それを察知した上で、援助を行わないと電車のレールのように双方は永遠に平行線を保つだろう。だからこそ、相談援助は技術芸術=artであるのだ。
現在の日本において、公的サービス(公的扶助を含む)は、機能していない。相談者にとって、ものすごくハードルが高いのだ。そして、それをクリアしたとしても、望む生活を手に入れられる可能性もあまりない。
例えば、精神障害自立支援医療というものがある。これは、公費を使って、通院等の利用料金の負担軽減をするものであるのだが、これを得るためには①自分で役所に行って申請②受診歴がある程度必要③収入について調査される④診断書は自費(介護保険の場合は費用負担なし。受診料金のみ)⑤書類をそろえて再度役所に行って申請⑥受給証発行まで最長3ヶ月かかる。
今すぐに必要な人々に対して、煩雑かつ時間のかかるこのシステムは、実質的利用価値のあるものであるとは言いがたい。ならば、これを利用しないで受診できる方法は?
個々人によるとは思うが、もしかすると、「社会に出て他者と関わる比較的穏やかな・快適な環境構築を行い、定職により稼ぎ、医療保険を使って3割負担で定期的に通院すること」なのではないか。

そのような判断が、相談援助において、求められていると思う。
芸術家は、常に精進している。よって、相談援助者は、相談者が必要としていること=ニーズを察知する能力の開発と、同時に、常に最新の情報を得て提供できるような情報収集能力を持たねばならないと思われる。
どうせ、この国は借金だらけ。公費を抑制することが役所に求められていることが明確であるならば、民間の力を利用し、自ら切り開いて生きていかねばならない。
うむ~…面倒くさい世の中だ。

相談業務の哲学(3)

2010-01-28 20:11:32 | 弱さへの思考
①バイスティックの基本(その2)

誠信書房:刊「ケースワークの原則」(F.P.バイスティック著・尾崎新他訳)によると、「バイスティックの7つの原則」は以下のようになる。

1.クライエントを個人として捉える
2.クライエントの感情表現を大切にする
3.援助者は自分の感情を自覚して吟味する
4.受け止める
5.クライエントを一方的に非難しない
6.クライエントの自己決定を促して尊重する
7.秘密を保持して信頼感を醸成する

これを社会福祉の勉強をするときには「個別化・感情表出・自分の感情のコントロール・受容・非審判的態度・自己決定の尊重・守秘義務」となってしまう。
実はもっと深いものなのである。興味ある方は、上記書物を紐解いて欲しい。それぞれの項目が、深く考察されており、より理解できる。

前回、相談援助は技術・芸術=artであることを伝えた。
みなさんは芸術家なのだ。
芸術家には一定の技能が必要である。絵を描く技法・書の技法・音楽演奏の技法…など。
上記7つは、60年前の考察であるにもかかわらず、現代でも適応できる技法であると思われる。それはヴァイオリンの奏法やフレンチホルンの吹奏方法に不変性があるように。
一気に全部は無理だけど、1日1つぐらいを意識して対人援助に望み、「自分は芸術家だ!」という気合を持って相談業務を行えば、そこに何かを見出せるかもしれない。

相談業務の哲学(2)

2010-01-27 09:15:15 | 弱さへの思考
①バイスティックの基本(その1)

F.P.バイスティックを知らない人もいるかもしれない。彼は、キリスト教カトリックの聖職者であり、「ケースワークの原則」を著した。ということは、キリスト教における「懺悔」という情景がまずあり、そこからケースワーク論を展開したと考えられる。
仏教的ケースワークやイスラム教ケースワークもあるとは思うが、私はよくわからない。勉強不足で申し訳ない。
しかし例えば、精神科の受診というのは、仏教的ケースワークに近いかもしれない。「偉い坊さん(優秀な医師)が、相談者に喝(問診と投薬)を入れる」という構図が心療内科になっているような気もする。
それとは別に、神父などが、生活相談やら罪の告白に対し「神の御心のままに」などと言う結論へ導く以前、具体的なことを伝えようとしたところにケースワークの原則が生まれたと考えられる。

1949年、Bowersはソーシャル・ケースワークを「クライアントと彼の環境全体とのあいだに、あるいは環境の一部との間に、よりよい適応をもたらすために、人間関係についての科学的知識と技術を用いながら、個人の能力や地域の資源を動員する技術(art)である」と定義している。
役所の相談窓口から心理カウンセリングやらマクドナルドの店員さんにいたるまで、この概念を持って接している相談業務従事者は、多いのだろうか?
全ての「接客」=対人援助は芸術であり技術(art)なのである。その前提なくしては、相談援助はありえないと考える。
そして、行政は今さらながら声高々に「インフォーマルなサービスの利用考察を!」「エンパワーメントの活用を!」などとケアマネジャーや地域包括支援センター職員に言っているが、そんなことは第二次世界大戦終了直後から言われている。この国は、相談援助技法において、欧米から60年、遅れている。

次回は、バイスティックの(有名な)7つの原則について。