自己決定の尊重? 2010-05-31 13:13:15 | 日記 ケースワーカーならばご存知な、バイスティックの「7つの原則」のなかに「自己決定の尊重」と言うのがある。 だが、この文章は正確ではない。 「クライアントの自己決定を『促して』尊重する」が正しい。 数回、このことについて考えていきたい。もしかしたら、以前も打った気がしているけれど。改めて。
認定調査の変さ 2010-05-30 06:52:25 | 日記 最近、認定調査を行いながら、しみじみ「無意味」と感じる。要介護認定審査会への情報提供と言われても、逆に不安が広がってしまう。 例えば… 名前や季節を答えられることは、介護の手間を省くことか? 「歩行」と「移動」という項目があるが、この2つはだぶっていないか?だったら「室内移動」と「外出」に分けたらどうだ? 「嚥下」という調査項目は、能力判定なのだが「見守り」という選択肢がある。「できる」か「できない」でよいだろう。 「意思の伝達」という能力判定の調査項目は、意図的に嘘をついても、「できる」をチェックせねばならない。嘘つけば、周りは手間かかるだろ? まだまだあるのだが、聞くのもバカバカしい項目がある。 この国のアタマのいい人たちは何を考えているのか…下々の私には、さっぱりわからん。 「介護の手間」を判定する、というワリには変な項目ばかりだ。 手間判定に加えて、「生活の質」の判定もなければ意味ない…気がするが、どうだろ。 とりあえず日曜日。お仕事なみなさま。今日が無事でありますように。
51C型の呪縛 2010-05-27 12:55:21 | 弱さへの思考 51C型とは何か…ご存知であろうか。機関車みたいだが、違う。 たとえば2LDKとか3LDKとか…というタイプの元である。 1951年に、東京大学建築学科の吉武らの研究室は生活調査の結果から「寝食の分離」、「親と子の就寝空間の分離」などのコンセプトを打ち出し、A・B・Cの3タイプの具体的な間取りを発表。ダイニングキッチン(DK)と親の寝室・子の寝室から構成される「51C型」が、その後の公営住宅の原型となり、さらにはマンションなどの間取りとして広く用いられるようになった。 ということで、みなさま。 これが普通のマンションやアパートの「当たり前」だと信じ込んではいないだろうか。 じつは、1951年以降の発想の1つでしかない。 家族が、私たちが生活する住まいが、たった1つの発想で現在の不動産業界はまかなわれている。これは恐ろしいことだ。単一思考である。信じ込んではいけない。 かつての日本家屋を見ればわかる。さまざまな形態があった。 家族を考えるとき…それは住居も同時に考えねばならないのだろう。
家族を超える社会学(新曜社:牟田和恵・編)part1(その7) 2010-05-26 18:16:10 | 日記 「親密圏」考察 「親密圏」を「家族」の代替用語として用いられた場合、積極的な意義と効果がいまいちである。ただ単に単語のすり替えにしか感じられない。 また、「親密圏」を採用することは、公私の領域分離を維持し、かつ、再生産し「公の不介入原則」を指示してしまう(躾と言う名の虐待を考えてみよう)。 そして、「親密である」の定義は「家族」の定義より難しい。これは主観的概念である。実際には親密でない関係を親密であると誤認する可能性もある。 がしかし、一番の疑問点は… 自立した成人間でなら成り立つかもしれない「親密圏」の概念を、ケアを受けざるを得ない子どもや高齢者や病人など「依存的な存在」までに広げることが可能なのか? 彼らは「親密でない」他者にでも依存せねば生きていけない存在だからである。 よって、積極的な「親密圏」採用前に、「家族」の考察があるべき、と考える。 この項、ここで一旦区切りたい。 次回はちょっと別角度から。
家族を超える社会学(新曜社:牟田和恵・編)part1(その6) 2010-05-25 16:36:30 | 日記 「親密圏」と「家族」 まぁ「言葉なんてなんでもいい」と思わず、考えてみましょう。 結局、親密な他者との関係を「家族」と呼ぶことで、偶然を必然に組みかえる…大変不思議な言葉「家族」としても、それがなぜ「家族」なのかという理由はわからない。 そこで「親密圏」という用語が現れる。これは、従来の家族観から、自立した個人による選択的な言葉「集団」の意である。 これを用いれば、家族研究が対象としてきた領域をカバーできる…と考えるひともいる。 また「シングル単位制」を唱えて、「家族」の最終的な解体を主張するひともいる。 そうなれば、「親密圏」とは、「自立した個人が選択によって維持する領域」であり、そこに法律(日本は法治国家)や制度が介入する必要はない…となる。 ならば、自立した個人間の関係は、すべて、市民社会の法律と契約関係でできることになり、「私領域を扱う法律は不要」となる。 本当にそうだろうか? 続きは次回。