社会学の基礎の基礎(8)
台風は、どうやら過ぎ去ったようで、ほっとしました。
今夜は卵納豆ぶっかけごはんを食べました。
やはりうまいです。
今回は、相互行為と社会についてです。
相互行為とは社会学の基本単位です。
相互行為のセットが社会と考えられます。つまり、社会は相互行為によって形成されます。行為(目的合理的行為も価値合理的行為も)は常に相互行為の1部です。
そこで、相互行為の規則を考えたいと思います。
不安定のように見えて、安定している社会(そういえば、自民党は民主党に政権を譲りました。奪われた?)。
シナリオがないのに現実の相互行為が予想に違わず形成されることが多い…(同上)
これは相互行為の形成を制御する規則があるのです。
相互行為のパターンはだいたい、決まっています。ナンパという行為を思い浮かべていただければわかりやすいでしょう。(男性からみた場合のパターン)
声をかける→①大反応(超好みのタイプ)②ちょいと反応(何かが嗜好に反応)、③無視(興味なし)、④拒絶(大嫌い)
わかりやすいと思いますが…どうでしょうか。女性側としても、この4つの反応以外はないかと…
取り急ぎ、ネットワークと相互作用について考えたいと思います。
社会学は「つながりの科学」です。心理学や哲学は、どちらかというと、内向きな科学といえると思います。自ら思考を深めるのが哲学で、心理学は、相手(精神科医やカウンセラー)と共に(通して)自分の思考を深めます。
社会学の見地からは、ネットワークとは、繋がっている当事者間におけるクモの糸であり、コンセプトは「つながりの量」と「方向」などに注目する際に用いられる「物理的側面」であると言えます。
ずっといい続けていまする「相互行為」とは「当事者たちの『意味内容』を対象」としているのです。
どちらも、「つながり」であり、ネットワークは「物理的側面」で相互行為は「意味内容」と考えられます。
う~ん、難しいかしら…
基本は「つながり」であり、ネットワークといった場合、それは「物理的」であり(例えば、インターネット・メール・手紙・人と人とのつながり・人脈っていうやつ…など)、相互作用といた場合は「意味」(愛しているとか好きとかよろしくとか嫌いとか)を表していると考えると分かりやすいかもしれません。
で、実は、この後、社会学は「プロセス」とか「マクロ」とか「統計学」とか、そのような視点で展開したいと思ったのですが、あまりにも、膨大なので、一旦休止します。
それは、私たち「小うつでケアマネな人々」に必要なことは「生きるためにどのような考え方を持てば、楽であるか」がテーマであると思うからです。
そこで、次回から、「家族社会学」を考えていきたいと思います。
「家族」という響きはあまりにもこっ恥ずかしく、懐かしく、必要なものであると思いながらも、形成することが難しくもあり、簡単でもある、なんだか嫌な・不思議なものであると思います。「ファミリー」というとまた、違う意味になったりします。
でも、人は皆、1人では生きていけないとするのであれば、「家族」という概念を捨てることは出来ないと、私は考えます。
家族とは「血がつながっている」ものなのか?(え?!じゃぁ夫婦は?)
親族だけなのか(え?!じゃぁ、ものすごく親しい人たちで1つ屋根の下で生活しつつある高齢者たちは『家族』ではなのか?)
バツイチ同士が家族を形成することは?(え?!それは現状にfitしていないじゃない?!)
子どもを産んで保育する(え?!じゃぁ、同性愛者の家族で養子を迎えた場合、その関係性は家族ではないのか?しかもチョー仲が良いのだけれど)
ホームレスなんだけど、世界中の人が家族である、と考えている人は、家族の一員なのか?誰の家族の一員なのか?
こういう疑問を持ちつつ、「家族」を考えて生きたいと思います。
それは、
「小うつな人」「ケアマネな人」にとって、とても重要なファクターだと思うからです。
共に、家族を、考えていきませんか?フィードバックはいりません。それぞれが答えを持って下されば幸いです。
○「サザエさん」よりは「ちびまるこちゃん」の方が、もしかすると現代に近いことを、ちょっと意識しつつ。
○ホームレスの人や孤立無援の人が、何らかの形で、人々と関わっているとする(と思うの)ならば、それは家族である、ということを意識しつつ。
○今、パキスタンやガサ地区で起こっていることは、私たちと関係があるのか?ということを意識しつつ。
台風は、どうやら過ぎ去ったようで、ほっとしました。
今夜は卵納豆ぶっかけごはんを食べました。
やはりうまいです。
今回は、相互行為と社会についてです。
相互行為とは社会学の基本単位です。
相互行為のセットが社会と考えられます。つまり、社会は相互行為によって形成されます。行為(目的合理的行為も価値合理的行為も)は常に相互行為の1部です。
そこで、相互行為の規則を考えたいと思います。
不安定のように見えて、安定している社会(そういえば、自民党は民主党に政権を譲りました。奪われた?)。
シナリオがないのに現実の相互行為が予想に違わず形成されることが多い…(同上)
これは相互行為の形成を制御する規則があるのです。
相互行為のパターンはだいたい、決まっています。ナンパという行為を思い浮かべていただければわかりやすいでしょう。(男性からみた場合のパターン)
声をかける→①大反応(超好みのタイプ)②ちょいと反応(何かが嗜好に反応)、③無視(興味なし)、④拒絶(大嫌い)
わかりやすいと思いますが…どうでしょうか。女性側としても、この4つの反応以外はないかと…
取り急ぎ、ネットワークと相互作用について考えたいと思います。
社会学は「つながりの科学」です。心理学や哲学は、どちらかというと、内向きな科学といえると思います。自ら思考を深めるのが哲学で、心理学は、相手(精神科医やカウンセラー)と共に(通して)自分の思考を深めます。
社会学の見地からは、ネットワークとは、繋がっている当事者間におけるクモの糸であり、コンセプトは「つながりの量」と「方向」などに注目する際に用いられる「物理的側面」であると言えます。
ずっといい続けていまする「相互行為」とは「当事者たちの『意味内容』を対象」としているのです。
どちらも、「つながり」であり、ネットワークは「物理的側面」で相互行為は「意味内容」と考えられます。
う~ん、難しいかしら…
基本は「つながり」であり、ネットワークといった場合、それは「物理的」であり(例えば、インターネット・メール・手紙・人と人とのつながり・人脈っていうやつ…など)、相互作用といた場合は「意味」(愛しているとか好きとかよろしくとか嫌いとか)を表していると考えると分かりやすいかもしれません。
で、実は、この後、社会学は「プロセス」とか「マクロ」とか「統計学」とか、そのような視点で展開したいと思ったのですが、あまりにも、膨大なので、一旦休止します。
それは、私たち「小うつでケアマネな人々」に必要なことは「生きるためにどのような考え方を持てば、楽であるか」がテーマであると思うからです。
そこで、次回から、「家族社会学」を考えていきたいと思います。
「家族」という響きはあまりにもこっ恥ずかしく、懐かしく、必要なものであると思いながらも、形成することが難しくもあり、簡単でもある、なんだか嫌な・不思議なものであると思います。「ファミリー」というとまた、違う意味になったりします。
でも、人は皆、1人では生きていけないとするのであれば、「家族」という概念を捨てることは出来ないと、私は考えます。
家族とは「血がつながっている」ものなのか?(え?!じゃぁ夫婦は?)
親族だけなのか(え?!じゃぁ、ものすごく親しい人たちで1つ屋根の下で生活しつつある高齢者たちは『家族』ではなのか?)
バツイチ同士が家族を形成することは?(え?!それは現状にfitしていないじゃない?!)
子どもを産んで保育する(え?!じゃぁ、同性愛者の家族で養子を迎えた場合、その関係性は家族ではないのか?しかもチョー仲が良いのだけれど)
ホームレスなんだけど、世界中の人が家族である、と考えている人は、家族の一員なのか?誰の家族の一員なのか?
こういう疑問を持ちつつ、「家族」を考えて生きたいと思います。
それは、
「小うつな人」「ケアマネな人」にとって、とても重要なファクターだと思うからです。
共に、家族を、考えていきませんか?フィードバックはいりません。それぞれが答えを持って下されば幸いです。
○「サザエさん」よりは「ちびまるこちゃん」の方が、もしかすると現代に近いことを、ちょっと意識しつつ。
○ホームレスの人や孤立無援の人が、何らかの形で、人々と関わっているとする(と思うの)ならば、それは家族である、ということを意識しつつ。
○今、パキスタンやガサ地区で起こっていることは、私たちと関係があるのか?ということを意識しつつ。