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「正史」との戦い-欧州戦線

2014-01-29 20:39:32 | 欧州情勢複雑怪奇

ダボス会議で安倍首相が、第一次世界大戦前の英独と現在の日中を比較したという話が流れている。その前には、誰だったかどこだったかで、第二次世界大戦前の宥和政策の話を引き出していた人もいた気がする。

で、今回安倍氏が1914年の方に行きついたのは、今年が勃発100年だったため、確か去年の終わり頃の英の著名雑誌が、最近の状況は第二次世界大戦前というよりもむしろ1914年のサラエボ事件をきっかけとして世界大戦となった頃と似ているとかなんとか書いていたことで、安倍首相またはその側近たちの頭にも残りやすかった、とかいう実に単純な理由なのではあるまいか。

ともあれ安倍氏の発言で世界中がびっくり、ということになっているけどどうなんでしょう。実際問題、これってアナロジーとして適格でなさすぎると思う。1914年が大戦争になったのは確かに英独が反目していたこともあるが、欧州の状況というのが小国が大国を振り回すことを防止できない体制にあったこととが一番大きいでしょう。で、日本の周辺にはそういう込み入った同盟関係はない(いや、あるんだ、韓国がという気はするけど)。

それよりも、まだしも第二次世界大戦前夜と言われるミュンヘンのあたりを検討してみる方が適切な気がするが、実のところこっちも話が合わない。つまり、どっちの大戦の話もアナロジーとして適切でないと私は思う。しかし、どうも日本では、特に保守派の方の中で、勃興する中国に対して宥和外交はダメなのだ、といった文脈でヒトラー・チェンバレンの時代を念頭に置かれる意見がちらほら聞こえる。

たとえばこんな感じ。


中山なりあき ‏@nakayamanariaki 7 時間
ダボス会議で安倍首相が日中間を第二次世界大戦前の英と独に例え、経済的には最大の貿易相手国であっても戦争が起こったという発言が波紋を広げている。英のチェンバレン首相の宥和外交が独をつけあがらせたといわれる。下手に出ると嵩にかかってくる中国だ。他山の石にして、毅然とした対応が必要だ。
https://twitter.com/nakayamanariaki/status/428009311436935168



私は中山先生を勇気ある国会議員の方として尊敬しているが、このご発言には賛成できないです。

なぜなら、上でも書いた通り、1938年の事情と現在の日中の事情は根本的に似ていないから。ドイツとイギリスの場合には、イギリスの側に、ドイツの事情を考えるとドイツの行動は要する「旧領回復」運動なわけで、そのやり方は問題だがこうなるのは時間の問題だったのではないか(つまりヴェルサイユ体制はアホだった)という考えが根底にあったために後世「宥和」と呼ばれる事態になった。

しかし、日本と中国の間の尖閣の問題では、中国には別にそんな事情はない。尖閣はそういう領土ではない。従って、比較すると妙な憶測を呼び込むことにもなりかねない(例えば、中国には昔日本にやられたという感情があるから云々という余禄)。

宥和外交と言われるたびにいわゆるミュンヘン会談の話が出てきて、あそこでイギリスが引いたからヒットラーはつけあがって次の要求に移ったのだというある種の教訓ができあがっている。

しかし、では逆にイギリスが引かなかったらどうだったのか、と考える人はあまりいない。

現実には、当時のイギリスにはドイツを倒せるだけの用意はないから強硬に出てみてどうにかなるものでもなかった。だからこそ、ひたすら会議をやっている。そして、話がややこしいのは、ドイツが領土的「野心」を抱いたと今日書かれるそこは、ヴェルサイユ体制以前にはドイツ系住民が支配的な場所だったので、ドイツが力をつけてくればそのような主張が出てくるだろうことが懸念されていた、という暗黙の了解があったこと。これがとても重要。。

ダンツィヒの場合は防衛上の問題もある。東プロシアが敵地の真ん中に置かれた安定のわけもないし、ヴェルサイユ体制で新しくできたポーランドという国家が平和的で宥和的な国家であったわけでもなかった。(下図の上の方で濃い水色のドイツ領土が赤と黄色を挟んでまた出てくるところ。黄色がダンツィヒ)

だからこそ、チェンバレンやフランスのダラディエらは、ミュンヘンの交渉が合意に達したいことでよかったよかったと歓迎された。チェコスロバキアの非ドイツ系の人には誠に気の毒だが、まぁこんなもんでしょという感じだったのだろう。ついでにいえば、この地図を見ればわかる通り、ミュンヘン協約はドイツだけがチェコスロバキアの分割に参加していたわけではなくて、ポーランド、ハンガリーもそれぞれ領土要求をしている。

肝は、ヴェルサイユ条約の際に、さあみなさん民族独立ですよ、ただしドイツ人を除く、として適当な国境線を引いたことが誤りだった、と。


分割されるチェコスロバキア。1はドイツ要求地域。2はポーランド要求地域、3はハンガリー要求地域の南部スロバキア、4は同じくカルパティア・ルテニア、5はチェコ、6はスロバキア  source: wiki


で、通説では、これで味をしめたヒトラーは、みたいな書かれ方をする。確かにそれはそうかもしれない。ミュンヘン会談の翌年春になってチェコスロバキアが再度問題になった時、ヒトラーのチェコの処遇は問題だっただろう。そして、ここで面子をつぶされた格好になったイギリスのチェンバレン他が、予想外の方向に強気になっていく。

チェコスロバキア方面ではなく、バルト海沿岸のダンツィヒの問題の英仏の対応のことだ。ここもずっとポーランドとドイツが交渉を続けてきたが、こっちもまた、ダンツィヒはそもそもドイツなんだし、そもそもこんな割り方が無茶でした・・・という態度または考えがイギリス、フランスの外交、政治サークルにはある。ドイツの言ってることも無理ないじゃないか、というやつ。だから、ポーランドとドイツの交渉がまとまることを望んでいたし想定していた。

ところが、フランスとイギリスがポーランドに軍事的な保証を与えてしまう。もともとフランスとポーランドには軍事的に近しいのだが、その上で、ポーランドが攻撃されたらフランス軍は参戦の義務を負いますよ、といった協定を4月に結ぶ。

こうなると、ドイツとしては西はフランス、東側にも仏が、ということは英が出てくる可能性のある体制になり、そこで、なのかなんなのか、このへんの因果関係はいろいろ解釈があると思うが、ともあれ8月23日にいわゆるモロトフ・リッペントロップ協定が結ばれる。そして、すぐその後の8月25日、イギリスがフランスと同様の協定をポーランドと締結する。

このへんは、要するに大陸国家でしかあり得ない駆け引きなんだろうと思う。そして、この成り行きを見れば、ドイツが有無をいわさず、なんだかいつも突然攻撃しているみたいなイメージは間違いなのがわかる。

さて、そうやって英仏に背中を支えてもらったのでポーランドは強気になっている。しかし、イギリスはその背後でドイツのリッペントロップとの間で、ダンツィヒをドイツに返して、ポーランド回廊地域では住民投票をしようといった条件を詰め、ポーランドに全権委任する。しかしまとめきれず手切れとなる(一説によればポーランドは全権を持たない人を派遣した)。

そこでドイツはポーランドに侵攻し、ソ連もまた協定通りに反対側からポーランドに侵攻。イギリスもフランスはドイツ相手に宣戦布告するものの兵を動かそうとしなかった。もちろんポーランドは英仏に催促をするのだが、英仏は応じない。ソ連の侵攻は協定の想定外だしぃ、みたいな。(要するに、英仏はドイツを敵にしてポーランドを庇ってどうするよ・・・なのだ。)

そういうわけで、1930年代の欧州戦線が大戦争になっていく過程から何か教訓を得ようとするならば、次のようになるのではないかと私は思う。

  • 小国にむやみな保証を与えない。大国の保証を与えられた小国は、自分が隣人としてできる以上の要求をするものだ。
  • 小国にその他全体の運命がかかるような決定をさせてはならない。
  • 民族の混在している中に、突如大国が贔屓した特別な国家を作ってはならない。不自然な国境は悲劇の元。国境線の変更には時間をかけるべき。

で、だからこそ戦後の欧州では、NATOとかEUとかいう仕組みを使って、小国に大きな決定権を単独で与えない仕組みが奨励されてるんじゃないか、と私は思ってます。どの国もみんな平等よ、とかいう建前を出すためにも縛りは強化する、と。別の言い方をすれば、大きな決断以外は自由です、という主権国家群になってる、と。

お話戻って、上のダンツィヒのケースでは、交渉が決裂し、独ソがポーランドを東西から侵攻した時、英仏はドイツに対して宣戦布告をしたが、その後7か月間何も起こっていない。

これがいわゆる「まやかし戦争」といわれる期間。この間何をしていたかといえば、お互いに軍備を整えつつも、ドイツとイギリスは和平交渉を行っていた。もちろん今日の視点からは、ヒトラーがふざけた要求をしただけだ、ってことになっているが、この経過から考えればそうとも言い切れないだろう。

なせなら、この時点にあっても、どの時点にあっても、イギリスにもフランスにも大陸の戦争を勝ち抜く力はなかったし、そうしたいとも思ってない。さらに、もう一つ重要なのは、この時点ではソ連の動向は確実ではない、というのもリスクファクターだったと思う。

スターリンは、アメリカのレンドリース(1941年3月成立)があって、自分が攻撃されてはじめてしっかりとした米英仏側に立ったが、それまでは別に「仲間」といえるかどうか微妙ではなかろうか。西欧側が「まやかし戦争」期間にある中、翌年1940年ソ連はフィンランド、バルト海方面の侵略に忙しい。対ナチといえばそう言える動きだが、ともあれこのソ連の行動はいうところの国際社会はこぞって非難をしていた。

ということは、いや、単なる夢想だが、可能性として、ヒトラーがもし、イギリスやらスターリン並に節操がなければ、ソ連と大きな約束をして欧州平定を共に戦おうではないか、という提案だってあり得たわけだ(次にまた大戦争をするとしても)。しかし、ヒトラーはそうしなかった。それは反共こそ旗印だったからでもあろうし、共産主義者と組んでイギリスを敵にするという選択をしたくはなかったのだろうと考えることもできる。しばしばヒトラーは大英帝国を尊敬していたといわれているのはこのへんを指すんだろうと思う。

そういうわけで、このあたりは、ヒトラーだけがひたすら悪い、だって彼は変人だから、だって彼らはファシズムだからとする「正史」と、もっと詳細に見るべきという人々が地味な戦いを続けている場所だ。

去年ちょっと書いた、

不必要だった二つの大戦: チャーチルとヒトラー/パット・ブキャナン

は、この手の話を扱った中では、おそらくもっとも売れた本ではないかと思うけど、別にこれはブキャナン氏のオリジナルでもなんでもなくて、どうやら戦後ずっと地味にいろいろこの手の説が出ているらしい。最近すっかり興味を失ってたけど、そのうちまた探したい。

ついでにいえば、そもそも第一次世界大戦は、イギリスが出ていかなければ欧州戦争で終わっていて世界大戦にはならない、大戦になっていなければヴェルサイユ条約もない、ヴェルサイユがなければヒトラーもない、ユダヤ人問題もない、ロシア革命もない、なんでそれで終わらせなかったのか、という知見もある。これは人気のある歴史家ナイアル・ファーガソンが2000年あたりに言っていた説(『The Pity of War』)。

仮にドイツが欧州大陸で勝利を重ねていったとして、それはつまり現在のEUができるだけじゃないのか、と考えてみれば、共産主義者の勃興による惨劇よりよかったことないですか、という意味だと思う。

そういうわけで、このあたりの「正史」は実は揺れている。だから、へんなアナロジーを使って妙な勘繰りを受けるまねはすべきではないと思う。きっと今後も中国が強気なことを言うたびに、日本の保守陣営はそのようなことを言い出すんじゃないかと思うんだけど、根本的に事情が異なるのでこのアナロジーからは離れるのが吉、と私は思ってる。

繰り返しになるが、ドイツとイギリスの場合は、イギリスの側に、ドイツの事情を考えると仕方がないのではないのかという考えがあったために後世「宥和」と呼ばれる事態になった。しかし、日本と中国の間の尖閣の問題で、中国に仕方のない面はない。尖閣はそういう領土ではない。あってないアナロジーは誤解の元だ。

「正史」に対する日本の保守派の奇妙な態度

思えば日本の保守派はとても妙だ。あの戦争は侵略戦争ではない、自衛のための戦争だ、大東亜戦争の大義を、といった主張は、たとえどれだけ理があっても、現在のアングロ-アメリカン覇権とでもいうべき体制からみれば「正史」見直しだ。そして日本の保守派の多くはこれを熱望する。それなのに、欧州戦線については「正史」至上主義なのだ。これは一体なんなのだろう?

私は、「正史」のまやかしが見える場所は、欧州戦争については「まやかし戦争」、アジア戦線においては「第二次上海事変」あたりじゃないかと考えている。ここにフォーカスがあたると、「正史」が言うほど物事単純じゃないのがわかる。


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