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歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

遠い源ー追記ー

2017年12月07日 | 空想日記
例えばニーチェの「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」という有名な言葉がある。

それは至る所で多用されているが、実際に『善悪の彼岸』を読んだ人がどれだけいるだろう。

私は著名人の名言が羅列された本、またそういう便利さがあまり好きでない。

私自身そういうものを読んでしまうと知ったかになるからだ。



人が意識的に情報を扱うようになって久しい。

例外を除けば言葉が発明されたときから膨大な情報の蓄積は始まったといえる。

そして私たちが実際に触れる情報のほとんどはその源を遥か遠くに据えている。

つまり事象が情報になり私たちに届くまでには多くの媒体を介しているということだ。

媒体の数に基づく言い方をすれば、私たちが普段触れるほとんどの情報は二次ないし三次、四次資料、それよりもっと遠い。

感覚的な話だ。

確か正しい使い方は一次資料が直接的な情報(資料)で二次資料が間接的な情報(資料)、それ以外のいい方(三次、四次…)はなかったと思う。

手元に広辞苑がないので何を根拠に言っているかというとこれまた曖昧な記憶だ。

ネットで調べたところで発信源がはっきりしていない時点で情報としての価値は随分低い。

信憑性云々はおいておいて、発信源がはっきりしているか否かということが情報を扱う上で非常に重要なのだ。

だから著者、編集者、発行所がはっきりしている紙媒体の情報はすんなりはいってくる。

真実かどうかというより、誰の言葉なのかということが大事なのだ。

「真実」なんてものはほとんど意味がない。



本当の意味でニーチェの言葉を理解したいならば(あくまでより近づくだけだが)、

ドイツ語を学びドイツ文化を知りニーチェの生きた時代を理解しなければならない。

しかし全ての情報に対してそこまで真摯に向き合うのは時間的に不可能だ。

だから翻訳者がいて解説者がいる。

そうして様々な解釈が介在することで一つの言葉に対する情報が膨大に増えていく。



イメージの話だけど世の中に存在する全ての情報量と時代の相互関係をあらわしたグラフがあれば、

きっとこの数年はそのグラフの形をかなり歪ませていることだろう。

時代の進行に比例して安定して増えていた情報がある一点から急速に増大している。

ある一点とはほとんどの一般人が気軽に情報の発信源になることができるようになった時点だ。

もちろん過去にも活版印刷が発明された時、ワープロが発明された時、

パソコン、インターネットが発明された時といろんな点が存在したが、SNS時代の今程の変化は見られなかったのではないだろうか。



メディアリテラシーについてよく考えるけれど、私にはその力があまり備わっていないように思う。

自分が求める情報を集めるのは得意だけど、客観的に物事を見る力が乏しい。

ニュートラルや中立という言葉はあまり好きではないけれど、あまり感情的でもしょうがない。

必死に集めた情報が元々私が欲しかった内容でしかないことに気づいた時にとても嫌な気分になる。

制作者の作った物語の上で語られるドキュメンタリー番組を見たときの気分に近いかもしれない。

伊藤計劃の小説『虐殺器官』では、信じていた日常が足下から崩れて行く様が見事に描かれていた。

自分たちの平和な日常が何の上に成り立っているのか知るのは恐ろしい。

日本人の原発に対する安全神話みたいなものが、今だってきっとそこら中にはびこっているはずだ。

ただ私はそれを見極める力が貧弱だ。

いや見たいものしか見ない力が優れているといった方が正しいか。



映画『ブレードランナー2049』を見て興味深かったことがある。

それは視覚的な情報は多いが、情報を扱う手段があまり発達していないということ。

ネオンなどの文字情報やホログラムが街の至る所に張られているが、情報の管理方法や取得方法がアナログなのだ。

未来予想図として、この社会が電脳化された超情報化社会への道を辿るであろうことにあまり疑問を持たなかったが、

最近は意外と人は情報に対して鈍感でいたいのかもしれないと思うことがある。



情報化が進むこと自体はいいとして、それに伴い自分と事象との距離がどんどん離れていく。

そういう事態に慣れると今度は直接的な諸事に出会った時、物事の捉え方が分からず戸惑ってしまうのではないだろうか。

現実を受け入れるだけの度量が欠如してしまうというか、想像力が乏しくなるというか。

そういう点に関してあまり自分を信用していない。

だからたまに直接的な情報、工的な情報に触れることも大事だと思っている。

無意識的だが植物を育てるのもその一環かもしれない。

他にも例えば気持ちいい風を素直に気持ちいいと感じられるように感覚的な情報にアンテナを張っておくとかね。

意識的な時点で限界はあるけれど。



ー追記ー

言葉を間違えるというのは怖いことだ。

今回文中で「一次情報」、「二次情報」という言葉を使ったが、私が言いたかったのは「一次資料」、「二次資料」のこと。

この間違えは意味まで変わってきてしまうので文中の文字も訂正させてもらった。


瞼の裏の丘

2017年12月06日 | 空想日記
寝ようと思って布団に入る。

電気を消し目を閉じる。

眼球が右往左往して瞼がぴくぴくしているのがわかる。

ごそごそと何度も何度も寝返りを打つ。

体の位置が定まらない。

手が違和感を覚え、足が痛い。

横になってみたり仰向けになってみたりして呼吸を意識する。

鼻が詰まっていて息がし辛い。

交感神経との折り合いがうまくいかない。

寝たい寝たいと強く思えば思うほど眠気が遠ざかっていく。

寝るのってこんなに大変だっけ?



仰向けで目を開く。

最初は真っ暗で何も見えないが、時間が経つとうっすら天井が見えてくる。

目を開けたままぼーっとする。

思考の川から何かを救い上げるでもなくただ眺める。

しばらくすると視界がぼやぼやして目を開けているのか閉じているのか分からなくなる。

それでもまだ寝ていないという意識はある。



また目を閉じる。

脳、頭蓋骨、額、眉毛、目、鼻、口、頬、耳の力を抜く。

そこではじめて顔の細部にいたるまで力んでいたことに気づく。

外側へ広がって行く瞼の裏の世界。

暗いはずなのに白い光が満ちていく。

そこに最初はうっすら、そしてだんだんはっきりと丘が見えてくる。

真緑の雑草に覆われた海の見える小高い丘。

そよそよと風が吹いている。

たまに現れるそこはいったいどこなのだろう。

その景色が見えれば大抵そのあとの記憶はない。


熊本城の近くにあるクスノキ

Aマッソ

2017年12月06日 | 日記
冬はお笑いの季節だ。

お笑いと総じて言うが、私が好きなのは漫才やコントだ。

M1でラストイヤーのとろサーモンが優勝したのはつい先日のこと。

これから年末年始にかけて漫才やコントを見る機会が増える。

これは私にとってとても嬉しいことである。



丁度去年の今頃も若手女芸人「Aマッソ」について書いたと思う。

彼女たちの特異性に魅了され「これが売れない訳がない」と確信したのもその時だ。

どんどん角がとれ丸くなっていくバラエティ番組の枠にすっぽり収まる仲良し芸人に胸焼けするときがある。

いや芸人というよりは誰も傷つかない空気を重んじる視聴者や企業のコンプライアンスに対してか。

だからとんでもないことを口にしてスタジオを凍らせる爆笑問題の太田光が好きなのだ。

そういう意味では今年のM1のマヂカルラブリーは面白かった、もともとファンだけどね。



Aマッソの刺々しさは今のお笑い界では絶滅危惧種だと思う。

辛口芸人とか辛口コメンテーターという肩書きを持つ人たちがいるが、

その人たちはちゃんと空気を読んでいるから安心して見ていられる。

しかしAマッソ、特に加納の口の悪さはそこにある調和を乱す可能性がある。

頭がいいから言葉が強いのだと思う。

相方の村上も村上でヤヴァイ人だから面白い。

2017年は少しずつテレビやラジオ露出も増えてきてできるだけチェックしているが他の出演者や観覧者が引いてるときがある。

私なんかは、そのままぶっ壊したれと思うわけだ。

同世代の女がガツガツ人に食って掛かっている姿を見るとなんだか凄く元気が出る。

私変かな?

Aマッソは次世代のヒーロー。



ただAマッソのネタが広く一般受けしないのも分かる。

彼女たちの漫才やコントを理解するにはある程度の知識量が求められるからだ。

子どもからすると全く意味が分からないだろうし、年配の人からすれば口の悪さが心臓に悪そうだ。

しかし逆に言えば、使うことのない感性を溜め込んでいる人からすれば最高の発散場所になる。

下手したら「自分のつぼを表現してくれるのはAマッソしかいない」くらいのファンもいるかもしれない。



今年のM1の敗者復活戦でも全く客に媚びないわかりにくいネタをしていた。

会場はあまり受けていなかったけれど、個人的にはとても面白かった。

あ、でも他に面白いと思ったランジャタイとAマッソはそれぞれ最下位と下から二番目だったから、私がマニアックなのは前提としておくべきか。

もちろんメジャーなのも好きだけどね。



Aマッソは横並びなバラエティの世界に切り込みを入れられる可能性を秘める稀な芸人だと思う。

理屈抜きにして、彼女たちを見ているととても元気が出るのだ。

好きだ!


左 村上、右 加納

M1の3回戦