歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

クリスマスの疑似ロスト・イン・トランスレーション

2014年12月24日 | 日記
まず映画『ロスト・イン・トランスレーション』が、

私にとって何を意味するのかという事について触れておきたい。

この映画は異国の都市トウキョウで出会うアメリカ人男女の話である。

彼らの孤独を浮き彫りにするトウキョウの人の波、ネオン、ぼやけた景色、

アンダーグラウンドな世界、圧倒的な煩雑・喧噪、日常という名の非日常。

演出上、孤独感を増幅させるために日本語の台詞には字幕がついていないらしい。



この映画が描くトウキョウはとても冷たく、さみしさを助長する。

受け入れてくれる様に錯覚させておいてどこにも居場所はない。

街は決して心を開かず、遠い存在のままそこにある。

静かな映画だけど、その街の印象はいまだに強く残っている。



さて、今日はクリスマスイブ。

なんてことない1日だが、なんてことある1日でもある。

人々はイベントにかこつけて消費の動機を得る訳で、

街に出ればそこら中が浮かれ足の人々でいっぱいだ。



こんな日は普段であればもっぱら避ける傾向にあるのだが、

デビット・フィンチャーの『ゴーン・ガール』がどうしても観たくて、

街に繰り出す事にした。

向かったのは桜木町の横浜ブルクという映画館。

いつもはレイトショーに行くので、昼間の人の多さには驚いた。



イベント事に疎い私ともう一人は、映画を見終わった後何を血迷ったか

このイベント好きな街にもう少しだけ深入りしてみる事にしたのだ。

きらびやかな電飾に囲まれた道を突き進み、恋人たちの巣窟コスモワールドに潜入。

どちらかというと大衆化した娯楽を外部から観察したかったのかもしれない。

そうする事で天の邪鬼の体裁が守られるというわけだ。



それにしても、コスモワールドの光は私には眩しすぎた。



観察どころか自分を見失いそうになる。



人工的に作られた非日常が、人々の感覚を鈍らせていく。

いろいろなことに鈍感になっていくことで、自分の孤独をも紛らわせる。

それに違和感を持った者には排他的で冷たく、孤独を与えうる。

ここでいう孤独は寂しさや心細さを含むものである。



コスモワールドという遊園地とクリスマスというイベントの

相乗効果によりうまれる、なんともいえない街への違和感。

これは私にとって疑似ロスト・イン・トランスレーション体験といえるかもしれない。



いつも表現が極端だが誰かを批判したいわけではない。

そうやって自分を守っているだけのこと。
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ニッポンを食尽す大怪獣ジバニャン

2014年12月22日 | 日記
この頃こんなキャラクターが流行っているのを知っているだろうか。





名前はジバニャン。

2013年に発売されたニンテンドー3DS専用ゲームソフト「妖怪ウォッチ」に登場する主役級のキャラクターだ。

この妖怪ウォッチの人気が現在子どもたちの間で社会現象となっている。

まわりに子どもがいないので、流行ってからしばらくは知らなかったのだが、

もはや町を歩けばどこかしらで目にするオレンジ色の猫のフォルム。

そろそろ無視出来なくなってきた。



このキャラクターの存在を「くだらない」と言って一掃するつもりはない。

ただこのキャラクターの存在意義を考えるとなんだかやるせなくなるのだ。



最近仕事でよく映画館に出入りしていて、つい先日妖怪ウォッチの映画が公開されることになった。

公開当日も映画館に居合わせたのだが、その日は本当にいろいろと考えさせられた。

もともと妖怪ウォッチはクロスメディアとして売り出されたものであり、

既にゲームから飛び出しアニメやヘンテコな歌でかなりの経済効果を生み出している。

この映画もそのプロジェクトの一環といえる。



その日は朝から映画館のロビーが人でごった返していた。

人口密度70%くらいだろうか、身動きが取れないほどだ。

客の9割が親子か家族で、その半分以上は子どもだ。

早い時間帯からどんどん席が埋まっていく中、親たちが子どものために一生懸命になってチケットをとり、

一生懸命になってジバニャンカップのポップコーンを買い、妖怪ウォッチ限定メダルを確保している。



妖怪ウォッチに対する皆の信じきった目と子どものために妖怪ウォッチに従事する親たちの行動は、

見ていてとても違和感を感じるものであったし少しだが怖ささえ感じた。



何者なんだ、この猫は。

新興宗教の教祖的力を持っているのか?



多くの子どもがそろってジバニャンが好きだと言う分には、

与えられたものを素直に受け取った結果にすぎないわけでかわいいもんである。



問題はそれを何の疑いもなく与え続ける大人たちだ。

こうやって小さな頃から一部の大人の都合のいい様に育てあげられるのかもしれない。

ジバニャンはお金儲けのための最高のコンテンツにすぎないのだ。



映画館がこんなに込み合う事もそうないわけで、

興行収入とか構造的な話になると子どもにウケるものがてっとり早いわけで、

そういうものにお金をかけるとなると情熱的に映画をつくるマイナーな映画監督がつぶされてしまうわけで、

日本の文化水準がどんどん下がってしまう。

なんだかやるせないな。



メディアを通して一元化されていく価値。

妖怪ウォッチの映画の公開初日は危機感さえ覚える風景であった。

こんなうさんくさい猫にニッポンを乗っ取られてたまるか。



最近大事な選挙があったというのにその話が巷で話題になる事はほとんどない。

人々はジバニャンに夢中になり、東京駅記念Suicaがもらえなくて怒り、無心に仕事場に向かう。

これはいったいどういうことなんだろうか?
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立派な迷子

2014年12月20日 | 日記
いろいろあるのに何もない。

正確には、いろいろあるのに何も書けない。

あるいは何も書く気がしない。

もしくは実際は何もない。



それなら何も書かなければいいのに、と自分でさえ思う。

しかしなぜかそう言う訳にもいかない。

この訳の分からない感じはなんなのだろうか。

どこから来るものなのだろうか。

自分だけの問題とも言い切れないほど、ここには自分がない。



そんな気がするだけか。



外は凍えるほどの冷たい風が吹いている。

それでも外に出て何処かに向かわなければならない。

それはいったいどこなのだろうか。

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