歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

消えた足跡

2017年04月18日 | 空想日記
大分むぎ焼酎 二階堂 「消えた足跡」



近道は遠回り。

急ぐほどに、

足をとられる。

始まりと終わりを

直線で結べない道が、

この世にはあります。

迷った道が、

私の道です。

(大分麦焼酎二階堂CMより)



子どもの頃からTVで流れている二階堂のノスタルジックなCM。

なんとなくずっと気になる存在だったけど、改めてその言葉に立ち止まる。



言葉って凄いな。

「そんなの前から知ってた」って?



自分の中にあるものを言葉にするってなかなかできることじゃない。

詩人然り、哲学者然り、作家然り、コピーライターしかりしかり。

なんというか、発した言葉を形に残して普遍的な存在にしてきた人たち。



形にされた言葉に共感して一丁前にわかったつもりでいるけれど、

共感するのはきっと当たり前なことでその先が難しい。

ある友達が自分は「死ぬまでに人の心に残る言葉を1つでも残せるだろうか」と憂いていた。

どうだろうね。

誰かにとっての詩人にならなれるのかもね。



実家に帰ると大抵父に映画などの映像作品を勧められる。

前回の帰省で一番のヒットだったのが1994年のイタリア映画『イル・ポスティーノ』。

一人の詩人と郵便屋さんの話だ。

控えめな演出で静かに語りかけてくる。

こんないい映画は滅多に出会えるものじゃない。

その中でハッとした言葉がある。



「詩は書いた人間のものではない。必要な人間のためのものだ。」



誰かの残した言葉は、私のものでもあるんだ。

それを許してくれる言葉は今までなかった。

イタリアから遥か遠く離れたこの地で、それを必要としている私がいる。

知っているようで分かっていない言葉の力に、可能性に、魅力にはたと気づく。

何度でも気づく。

何度でも失望し、また気づく。

何度でも何度でも出会う。



言葉が普遍的な存在になるのは、発した人と受け取った人がいたからかな。

もてはやさず静かに受け取ろう。

それができればいいんだけどね。


TSUTAYAの駐輪場
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ハリウッド版『GHOST IN THE SHELL』鑑賞

2017年04月10日 | 映画
数ヶ月前に、ハリウッド版『GHOST IN THE SHELL』のトレーラーが解禁され、

その数分に垣間見える実写の質の良さについて興奮気味にレポートを書いた。

端々に映る研究施設や怪しい町並みなど物語を構成するディディールにこだわり、

さらにハリウッド版であるというプライドを持ってヴィジュアルをデザインしていると感じだ。

その最たるものが芸者ロボット。

この何とも言えない怪しさは西洋から見た芸者なのか、

士郎正宗の原作でも押井守の『Ghost In The Shell』でもなく、全く新しい攻殻機動隊の一端を見た気がした。

こんなの見せられたら観に行くしかないと、公開2日目のレイトショーにいざ出陣。





ここからはネタバレになるので、純粋に映画を楽しみたい方は見ないでください。





私は押井守の『Ghost In The Shell 攻殻機動隊』と『イノセンス』がとても好きだ。

崇拝していると言っても過言ではない。

作品の完璧さも不完全さも、未だ理解したとは到底言えないその全体像を感覚的に捉え、

自分が抱く感情を制御することも言葉にすることもできずに、ただ作品の中に沈んで行く。

埋没する。



しかしどれほど好きでも、今回その大元をそこまで重要視するつもりはない。

むしろ、最も興味深かったのは「攻殻機動隊」というコンテンツを実写でいかに表現するかという点だ。

ハリウッドが全力で作った「攻殻機動隊」を観てみたかった。



ストーリー

主人公は難民ボートの事故により脳以外全ての身体を失い、全身義体化されることで命をつなぎ止めたミラ。
ミラの全身義体化は史上初の成功例であり、それを成功させたのが義体技術を開発しているハンカ・ロボティックス社だった。
彼女は人類の未来、進化においての重要な存在となり、公安9課に配属され少佐となった。

ある日、芸者ロボットがハンカ社の幹部をハックし殺すという事件が起きる。
この事件の担当となった公安9課は芸者ロボットを操り事件を起こした黒幕を追うことになった。

少佐は芸者ロボットの記憶装置にダイブし、黒幕の片鱗に接触したが、
彼は「ハンカ社と組むと危険だ」というようなメッセージを残し消えてしまう。
その後それがクゼと呼ばれるテロリストだということが判明する。
クゼの目的とは?
ハンカ社とのつながりとは?
プロジェクト2571とは?

そして事件の進行と同時に描かれる、全身義体であるがゆえの少佐の孤独と葛藤。
断片的な記憶、時たま現れるフラッシュバック、自己を自己たらしめる根拠の曖昧さに思い悩む少佐。
彼女はいったい誰なのか、それが分かる時事件の全容が見えてくる。

続きは割愛します。



感想

見終わった率直な感想は「中途半端」。

ネガティブな感想をこういう場に書くのはあまり気が進まない。

しかし、予告レポートであれだけ煽ってしまったので責任も兼ねて感想を書くことにした。

以前書いた記事「<Ghost in the Shell>ついに4月7日公開」



いくつかの目を見張るような美しい映像表現、原作にない面白い発想など、

作品を部分的に考察するといいところもたくさんある。

挑戦的な作品なわけで、よくぞ作ってくれましたという気持ちも強い。

しかしそれを踏まえても1つの映画として面白いとは言い難い。



その一番の原因は脚本、ストーリーだ。

攻殻機動隊じゃなくてもいいじゃないと言いたくなるような既視感漂う単純なストーリー。

それでいて今まで日本で作られてきた連続性がないはずのいくつもの「攻殻機動隊」が盛り込まれている。

「Ghost In The Shell」「イノセンス」「Stand Alone Complex」「S.A.C. 2nd GIG」、

それぞれが重厚な物語を有しているにもかかわらず、これらをパッチワークのようにつぎはぎしてオリジナルストーリーを作っている。

物語を構成する多くのパーツは、乱暴に組み込まれ無責任に放置されたまま終わる。

原作の中で重要な場面を、その場面を見せたいがために表面的にさらっている。

CMを観て「きっと監督は相当なGhost In The Shellファンだ」と思ったのは思い違いかもしれない。

無理矢理寄せ集めたために矛盾や隙が増え、結果リアリティの全くない映画になった。



我ながら厳しいこの感想を読んで、「そう思うのは攻殻機動隊ファンだからだよ」と思うかもしれない。

しかし、それは大きな間違えだ。

むしろ攻殻機動隊ファンだから曲がりなりにも観ることができたのだと思う。

「この場面がこういう風に使われているのか」、「クゼはこういうビジュアルなんだ」、

というように原作との違いを発見したり、実写での描き方を少なからず楽しむことができるからだ。

攻殻機動隊ファンではなく一人の映画ファンとして観る方が厳しくなってしまうこと必至。



原作ファンと大衆性どちらも大切にしたかったが、それゆえどちらにおいても中途半端になってしまったという印象を受ける。

どちらに寄るにしろ、もう少し割り切って作ってほしかった。

超が付くほどの原作ファンが原作と切り離して観るのには今作は相性が悪い。



余談だけど、今回吹き替えの声優をアニメのスタッフ陣がそのまま演じるという面白い試みをしたそうで、

これを見た人たちの評価は結構いいらしい。

私は原作と切り離してみたかったので字幕で観たけど、原作を大事にしたかったら吹き替えで観るのもありかもしれない。



なんにせよ元々のファンとしては作ってくれて感謝。

アメコミ的なザ・エンターテイメントが好きな方は面白いかもしれない。

それに美しく逞しいスカーレット・ヨハンソンは見物だ。

そういえば、発表当初懸念されていたビートたけしの荒巻は別物だけど思ったより渋くてよかった。

私の思う現実性を纏っていたのがたけしで、だからこそ少し浮いていたとも言える。



次は神山健治だ!

すでに攻殻機動隊で実績積んでいるから期待を裏切らないはず。

楽しみだ〜。

『攻殻機動隊』新作アニメの制作が決定 監督は神山健治&荒牧伸志
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「落語」と聞いて構えるなかれ

2017年04月06日 | 演芸
最近、深夜に民放で『昭和元禄落語心中』というアニメが放送されていた。

原作は雲田はるこによる漫画で、これを少しばかり読んでいたので入りやすかったのもあるだろう。

何とけなしに見ていたけれど、これがなかなか面白かった。



話の始まりは、刑務所から出てきた一人の若者が「弟子をとらない」と有名な八雲師匠に弟子入りを懇願する場面から。

なんでも慰問で刑務所に訪れた八雲師匠の落語「死神」に聞き惚れたのだとか。

「与太郎*」と名付けられた明るく大柄で粗暴な若者は、そのまま師匠の家に転がり込む。

頑なに弟子を拒んだ八雲師匠がなぜ与太郎を受け入れたのか、それには師匠の頭にちらつくもう一人の男の顔があった。

『昭和元禄落語心中』は戦前から昭和を生きた二人の落語家の人生と時代とともに変容していく落語の世界を描いた物語。

単純な感情では計れない深い友情と落語への愛を辿る名作だ。

漫画は最後まで読んでないけれど、アニメのクオリティーも高いのでお勧めしたい。

Amazonプライムでも全話見れます。

*与太郎は江戸時代から使われている「馬鹿」「間抜け」「のろま」「役立たず」といった意を含む擬人名で、落語で使われたことから広く浸透した言い回し。


アニメヴァージョン


単細胞というかなんというか、これを見て落語を見よう!と思い立った訳だ。

以前から聞いてみたいという淡い願望はあったけれど、いざ聞いてみようと思うとあまりにも広大で手の付けようがない。

しかし私にはそれをひも解く手がかりがあった。

以前母が「落語、落語」と騒いでいたので、母に聞けば少しくらいはイメージ出来るだろうと思ったのだ。



丁度先日実家に帰る機会があって、さっそく「落語に興味がある」という話をすると、

母だけでなく父や近所の寺の和尚さんまでいろいろと教えてくれた。

こういう大人が近くにいるというのはありがたいことだ。

そうして母が聞かしてくれた桂枝雀(かつらしじゃく)の「親子酒」と、

父と一緒に聞いた立川談春の「紺屋高尾(こうやたかお)」が私の落語生活の始まりと相成った。



桂枝雀の「親子酒」は涙が出るほど笑い、立川談春の「紺屋高尾」は笑いあり涙ありの人情話で、

いずれも落語という一見分厚く屈強に見える扉をパーンと開け放ってくれた。

これほど話が通じることに、江戸時代も今も人は変わらず人なのだと納得させられる。


桂枝雀


立川談春



家で「落語、落語」と母のように騒いでいると、先日夫になったKが「じゃあタイガー&ドラゴン見よう」と言ってきた。

「タイガー&ドラゴン」は宮藤官九郎脚本の2005年のドラマでやくざが落語家になる話を描いている。

一話ごとに有名な落語の演目をテーマとしており、ドラマのストーリーが落語のように進んでいく。

主人公の小虎が現実に起きたことを落語にして高座(寄席の舞台)でお客さんに聞かせ、最後きれいにさげ(落語のおち)る。

これもまたなかなか面白い。

「芝浜」からはじまり「饅頭怖い」「茶の湯」とんで「子は鎹(かすがい)」と締まる。





落語には古典落語と新作落語があり、その名の通り古典落語は昔から伝わる話、新作落語は新しく作った話だ。

最初は噺家にこだわらず、古典を軸に聞きまくろうと思っている。

「死神」「居残り佐平次」「野ざらし」「品川心中」「芝浜」とアニメの知識に加えて、

「紺屋高尾」「文七元結」と両親に勧められた話もいくつか、

さらには「タイガー&ドラゴン」に出てきたもろもろ、これを手札にじわじわ攻めている最中。



今まで気にしたこともなかったけど、TSUTAYAのレンタルCDコーナーに落語のCDがたくさん並んでいて驚いた。

しかも結構借りに出されているもんだから、知らないところで聞いている人はいるんだなと感心した次第。

早速好きな演目かつ聞きやすそうな人を選んで15枚借りてきた。

一話に1時間かかるものがあったりして、CD1枚に物語一つしか入っていないものもある、そういう発見の一つ一つが面白い。

実家から帰ってきて約一週間、作業中はずっと落語を聞いている。

これがおなじ話を何回聞いても飽きないんだから不思議な世界だ。



こんなに素直に落語が入ってきたのは、もともとが江戸時代ファンというのもあるかもしれない。

小説や映画、ドラマに漫画と媒体に拘らずとにかく一定期間江戸時代に触れていないと、禁断症状のようにその片鱗を探してしまう。

厳密には「江戸時代らしきそれら」という曖昧模糊な偶像を追いかけているわけだが、

そういう意味では落語という媒体は他のもに比べ江戸時代に強く結びついているような気もする。

言葉で伝わってきた分説得力があり、落語という綱を引っ張ればいつか江戸時代にたどり着きそうな妄想を起こさせる。



いやぁ面白い。

すぐそばにこんな面白い世界が潜んでいたなんて。

新しいことに出会うと、いつもそのことに驚く。

「落語」と聞いて構えるなかれ、いつでもそれはそこで待っている。
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