歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

湿っぽい朝とゴミ出し

2014年04月18日 | 日記
前の仕事を辞めてから生活リズムが崩れ、今や昼に起き丑の刻から半時程に寝ることが多くなっている。

今朝目覚めたのは5時56分。
睡眠時間は約4時間ほど。

ゴミを捨てなければという強迫観念から来るものなのか、
それとも睡眠サイクルの中で良い波のときに丁度目を開けただけなのか。

いずれにせよ、最近の睡眠時間を考慮するとこのまま起きていたら昼寝に走りそうだ。
しかし、寝る気も起きないのでしばらくはこうやって思うままに文でも書こうと思う。


先ほど、念願の燃えるゴミを捨ててきた。
前述の通り最近は早くに起きるのが難しいため、度々ゴミを出しそこねるのだ。
少しずつ暖かくなり生ゴミは前ほど融通が利かなくなってきている。
そのためきちんとゴミを出せるだけで充実に満たされた気になる。

最近はカラッと乾いた晴れの日が続いていたのだが、今日は打って変わって霧雨が降っている。
コンクリートが湿った何とも言えない匂いは、日本らしい懐かしさを秘めている。
一瞬の風景や匂いが形のない場面をふっと蘇らせる。


最近ポストの上に見慣れぬノートが置かれていた。
その下にはちりとりと箒。
ついにこの家の番が回ってきたらしい。
噂には聞いていたがこんなにも早く回ってくるとは予想外だった。
ゴミ捨て場の掃除当番というやつは、住宅街ではよくある話らしい。

ゴミが回収されたであろう時間にゴミ捨て場に赴き掃除をし、
もし回収されていないものがあれば自分が責任を持って管理する。
それをノートに事細かに書くだけ。
たった一週間の勤めなので楽勝だと高をくくっていた。

仕事を承って2日目、プラと段ボール、古紙の回収日である。
皆当たり前のように段ボールや古紙を積み上げていく。

段ボールや古紙は回収業者がいつもと別なのでわりかし遅めに来る。
そこでお昼頃に様子を見に行くと、まだ回収されていない。
まぁそんなこともあるだろう。

午後に事務的な役目を終え夕方頃帰ってくるときにまたゴミの様子を見に行った。
すると段ボール、古紙がまだ当たり前のようにそこに置いてあった。
呑気な私もさすがに焦りだす。

ノートに書いてあることを確認すると、回収されていないものは大抵当番が持ち帰り、
正しい回収日に改めて出すというのが通例らしい。
となると話は厄介である。
大量の段ボールと雑誌や本、新聞の束を持ち帰ることを創造するだけで骨が折れる。

責任を持たされるとちょっとしたことでも見方が変わる。
こんな面倒なゴミの山を世話するのははっきり言ってご免被る。

早速区役所のゴミの担当部署に電話をした。
するとまだ回収が間に合っていないというただそれだけのことであった。

これにて一安心。
いやぁただゴミの担当を任されるだけで、こんな気分になるとは思わなかった。
加えて町が機能するためにはいろんな人が携わっているんだなとしみじみ感じたのだ。
ゴミ回収の人、それを管理する役所の人、ゴミ捨て場の掃除をする人。
当たり前すぎるから、こんなことがない限りわざわざ考えることもないだろう。

そういえば今日は霧雨が降っているから、掃除がいつもよりやり辛いだろうな。
雨の日も風の日も雪の日も掃除をしていた人がいたのだな。

それにしても新参者に無言でノートと箒セットを置いていくだけなんて不親切があったものか。
横のつながりが希薄な地域ならではのことなのだろうか。

久々の雨、一日の天気としてはなかなか悪くないし、まっいっか。
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ボブ・ディランのミラクル・ドロップ

2014年04月02日 | 音楽
今日ボブ・ディランのコンサートに行ってきた。
天の邪鬼の私ではあるが、この人は素直に好きである。

大学生の頃から部屋に貼っているポスターは、陽に当たり黄色く焼けてしまった。


そのポスターと今回のチケット。

高校生のときに初めて聞いたのが1965年の「Highway 61 Revisited」。
「Like a Rolling Stone」はもちろんだけど、
10分間以上もある「Desolation Row」は意味も分からず何回も何回も聞いた。

今までボブ・ディランを生で見たいなどという願望を持ったことがなかった。
なぜなら自分の中で偉大すぎるが故に遠い存在で、そういった望みにはリアリティがなかったからだ。

それが同居人Kの卓越したアンテナにより、あっさり見ることを許されてしまった。
今日は朝からなんだかよく分からないふわっとした感情が私の中でごろごろしていたのだった。


整理番号待ちの時間にマジックアワーを迎えた。

私はライブやコンサートというものによく行く。
今年に入ってからボブ・ディランを含め既に5公演行っている。

私はライブに行くたびに心がけていることがある。
それは、音楽を「過去」で聞かないこと。
言い方を変えると、「今」聞こえる音楽を聞くということである。

もちろん皆さん好きなアーティストでも好きな曲やそうでもない曲というものがあるだろう。
しかし、ライブではそんなことはどうだっていいのだ。
偏見やもともとあるイメージで曲を聞いてしまってはもったいない。

なぜそんなことを心がけるのかというと、生で聞いていることを少しでも実感したいから。
歌っている人が目の前に見えても、そこで歌っていることを実感することはとても難しい。
そもそも実感出来るのかと聞かれれば分からない。
これは単なる願望の話だ。

音には実体がない。
もちろんミクロの話をすれば音も小さな粒子という話になるだろうが、
それも小さすぎて手にとることすら出来ない。

しかし稀に実体と認めることが出来るほどの大きな音の粒子が現れることがある。
私の行ったライブでも数回見たことがある。
初めて見たのが忘れもしないフジロック2012のRadiohead。
赤や黒が混ざった楕円形の雫がとてつもないスピードで飛んできて、
野外にも関わらず見渡す限りを音の粒子で埋め尽くした。

その他にも同じくフジロック2012のGALACTIC with Special Guests Corey Glover 、
くるりワンマンライブツアー2012の日本武道館、
サマソニ2013のEarth, Wind & Fire、
先日のDiane Birch。

それは本当に珍しい現象だ。
アーティスト、観客、会場、音響、照明、天気と様々な要素が絶妙なバランスで織り成す奇跡的な瞬間。
ステージから観客の方に、直径1cmから5cmほどのツルツルの雫が無数に飛んでくる。
皆見えていなくとも無意識的にその雫を取ろうとして手を上に延ばす。
私と同じように皆その時間を自分のものにしたいのだな。
もちろん私は誰よりも大きく手を延ばして、「今」を手に入れた気になる。

今日も突然その時がやってきた。
14曲目の「Spirit On The Water」だ。
会場は一気に優しい空気に包まれ、ボブ・ディランがピアノを弾いている右端の方からぶわーっと雫が飛んできた。
それは会場全体にまんべんなく行き届くのだ。
私は胸の前当たりで手を広げて待ち構えているのだが、彼の雫は簡単に指の間をすり抜けていく。

あ、そっか、ボブ・ディランの音楽を私のものにしようってのがそもそもの間違いなんだな。

彼の歌の掴めない優しさが心地よくて、なんだか嬉しくてしょうがなかった。

ださいのだけどその雫を奇跡の雫ミラクル・ドロップと名付けようと思う。
ボブ・ディランのミラクル・ドロップは虹色だった気がする。
妄想の話だけど、妄想だけの話でもないんだな。


ボブ・ディランがいたステージを皆名残惜しそうに眺める。

感想を文章に書くとその言葉が記憶に残ってしまうので書くのはやめておく。
優しくてかっこよくて幸せな時間をありがとう。
あなたがいた時間を私は忘れません。


今回のツアーのパンフレット。年をとってもかっこいい。
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