歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

なんちゃってとかなんとか

2021年03月29日 | 空想日記
なんちゃって(照)

茶化してごまかすなよ

だって自覚しちゃったんだからしょうがないじゃん

それはそうだけど

私だってそりゃあできれば思い込みたいよ

「思い込む」ねえ

そんなこと言うけど君は私でしょう、もっと仲良くしようよ

仲良くは出来ないんだよ



後ろにいる彼女はただそこにいるだけで、

私と思考を共有できるわけでもないし、

俯瞰とかそういう特殊な役目を果たしているわけでもない。

そこにいてこっちを見ているだけ。

私は彼女がいることが気になってしょうがない。

だから思考にさえブレーキをかける。

頭の中がいつも自由だなんてことはない。

私と同じ顔をした彼女はいつも後ろから私を見ている。



そんな彼女が稀に何かの拍子に私と同化するときがある。

他人なんじゃなかってちょっと期待してたんだけどね。

そういうときは発した思考がどこまでも飛んでいきそうなくらい頭の中がすっきりしてる。

それは自由。

どれだけ愚かであっても許される時間。

本当の一人の時間。

我を忘れるともいう。

ん?ってことはあっちが本体なのか。

なんちゃって。


すっかり春です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花田先生は走っていた

2021年03月18日 | 映画
夕方ラジオを聴いていたらとある女性歌手のラブソングが流れてきた。

名前は知らないが、透き通った高い声が綺麗で印象的だった。

ふぁんら〜とマイナスイオンが部屋に充満していく。

なんでか居心地が悪くなったので唐突にブランキーの「胸がこわれそう」を流してみた。

最初のギターの入り方がもうね、かき乱される。

これぞ汚れなき純愛ソング。

マイナスイオンは出てこないけど、脳からアルファー波が出てくる感じ。



そんな風に始まったYouTubeサーフィンは、しばらくブランキーの好きな曲を巡回してから、

バースデーの「カレンダーガール」にたどり着いた。

これもおっさんが書いたラブソングだ。

ベンジーもチバさんもなんてロマンチストなんだろ。

本当詩人だよ。



そして久々にミッシェルの「世界の終わり」を聞いてみたら抜け出せなくなった。

ラストヘブンの「世界の終わりの」のアベさんの表情を見ると毎回胸が締め付けられる。

ミッシェルはやっぱり特別だった。

「ジプシーサンデー」を聞いている時に、ああこの歌すごく好きだったなとか思い出して、

なんだかとても懐かしい気分になって衝動的に『青い春』のDVDを引っ張り出してきて観た。

これがやっぱりすごい映画だった。





『青い春』

監督:豊田利晃
脚本:豊田利晃
出演者:松田龍平、新井浩文、高岡蒼佑、大柴裕介
音楽:上田ケンジ、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
公開年:2002



押井守は若さに価値があるなんてデマゴギーだと言っていた。

若さは愚かさなんだと。

この映画は若さの賛美なのかもしれないと思う。

大人になる一歩手前の、愚かさと儚さと美しさを惜しみなく描いている。

手からこぼれ落ちそうなほど溢れている。

「若いって素晴らしい」ではなく「若いって痛々しい」っていう無条件の賛美だ。



90年代後半から2000年代初頭の映像作品が持つ独特の切れ味をここ最近渇望していた。

亡きものとされた10年の先の新しいカルチャーが芽生える空気とでもいうのか。

静かなんだけど、すごいエネルギーを秘めていた。

当時半ば無自覚に享受していたカルチャーを自覚的に手にできていたらと思うことがあるけれど、

そこまでいくともうあれだよね、ほら、盲信。

知らないのに見えてないって何もわかってないってことになる。

断片的であることには代わりないけど。



それでも私は恐れつつ少し期待していた。

もうこの映画では感動できないのではないかと。

手っ取り早い成長の確認だ。

しかし私はちっとも成長していなかった。

ファルコンのKEEに笑い、木村のかっこよさに惚れ直し、雪男の儚さに感激し、

青木の優しさと痛々しさを悲しみ、九条の美しさと存在感に圧倒された。

結果的に成長してなくてよかったと思う。



エンディングの「ドロップ」がすごいんだ。

朝九条が登校すると校舎が真っ黒になっていてダンダンダンダンってアベさんのギターがなる。

我に帰ると校舎は戻っていて、屋上にいる青木が「ひとーつ!!」って叫ぶ。

ラストを察した九条が全速力で走り出す。

映画の中で描かれる初めての九条の本気だ。

チバさんの絞り出すようなしわがれた声と、切り取られた校舎と、叫ぶ青木と、走る九条。

ブッシャーーー(涙)。

目の端に映る走る花田先生。

花田先生、九条と一緒に走っとるやん、もーー。

ぐしゃぐしゃに泣いた。

なんだよ、昔より泣くじゃん自分。

青木はただ九条と対等の友達でいたかっただけなのにね。

前日、下校する九条に青木が屋上からスプレー缶を投げるのだが、

その時のカランッていう乾いた音と青木の表情がどうしようもなく切ない。

置いて行かれた犬みたいだ。

九条だって番長とかじゃなくただの友達でいたかっただけなんだろう。

純粋すぎる。



観終わった後びしょびしょの顔をぬぐいながら思ったのは、花田先生走ってたなぁということ。

花田先生も青木の叫び声で彼が何をするのかわかったんだなぁとしみじみした。

そういえば屋上のチキンレースを、花に水やりしながら見上げていた。

急激に変わっていく青木を心配していた。

人を殺した雪男が乗ったパトカーを一生懸命追いかけていた。

いい先生だな。



当時この冷めた不良像がセンセーショナルだったようだけど、

それから約20年が経ちもう不良という存在が原型を留めていないように思う。

冷めるの先のうぬぼれた諦観とでもいうのか。

悪いことの定義がもっと深刻化、複雑化してしまったような気がする。



時代を強く反映しつつ、普遍性を置いていってくれる尊き映画でした。

次見るのは40代入ってからかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日のアウディ、今日のレクサス

2021年03月12日 | 日記
はじめに断っておくけど、アウディに乗っている人を批判しているわけではない。

アウディはかっこいいし、友人に乗っている人もいる。

夜にアウディ独特のテールランプを見つけるとなんだか得した気分になるくらい。



さて、私は運動のため毎日自転車で30分から1時間走っている。

基本的には整備されたサイクリングロードを走るのでスイスイ進めるが、

細々した道や線路が横断している場所は余裕を持って渡るべし。

ついイライラしていたり頭が痛かったりすると運転が荒くなることがある。

そういう時は危険なので諦めて帰ってくることにしている。



サイクリングロードと線路が並走していて、そこに車道が横断しているという場所がある。

踏切が降りると車は動けないので、サイクリングロードを走る自転車や歩行者は車の間を縫って進む。

大抵の車は止まる際サイクリングロード分の幅をあけてくれている、まぁ常識だ。



あれはつい1週間ほど前、いつものごとくその道に踏切が降りていて車が何台も止まっていた。

特に何も考えずあいているスペースを走り抜けようとした時、後ろの黒いアウディが幅を詰めてきたのだ。

タイミングやそれをすることの意味を考えると、完全なる嫌がらせだった。

あまりにも危険で横暴な態度。

顔を見ると身なりの整った50代くらいの男だった。

こちらに一瞥もくれない赤茶けた顔とツヤツヤの髪がすごくねちっこくて嫌な感じだった。



これは偏見だけど、裕福な人(真相は知らない)の嫌がらせって身の毛がよだつ。

心がざわつくのはなんでだろう。

家族の前では、あるいは会社の中では絶対に見せない顔なんだろうよ。

小さいことだけど、心に引っかかるものがある。

何か結末が欲しいがいい落とし所が見当たらない。



次の日そんなことも忘れて自転車で走っていた。

私が苦手意識を持っている車通りの多い車道にぶつかった。

タイミングを逃せばしばらく渡れない。

その時じっと待ってくれる車がいた。

うわーありがたい。

嬉しいなぁと思って渡る時に会釈をしたら大きな「L」のエンブレムが目に飛び込んできた。

白いレクサース、ああこれだ!

前日と同じ高級車に今度は道を譲られたことで締めくくり、なんだかうまいことなっている。

富裕層の過怠はやっぱり富裕層に回収してもらわないと落ちない。

まさに天使と悪魔。

いや悪魔なんて大層なものでもない。

ただのみみっちい嫌な奴だ。

あの小さな出来事をねちっこくここに書く私も私かナハハハハ


HAPPY BIRTHDAY
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俺たちは不用意に暮らしてる

2021年03月11日 | 日記
3.11から10年がたった今日、ラジオは朝から震災の話をしている。

いやがおうでも考える。

当時北関東の大学に通っていて、数日後には私たちの学年の卒業式があった。

私にとっての当時はなんていうことない。

流通が混乱していて食べ物やガソリンが手に入りにくく少し不便だったことと、

テレビがニュースばかりで不安な気持ちになったことをよく覚えている。

それから福島第一原発のメルトダウンに恐れおののいたことと。

卒業して社会構造の変容を横目にのうのうと暮らしてきた。

なんの当事者でもなく積極的にコミットするでもなく、未だ3.11との距離を測りかねている。

今日ラジオを聞いていて思ったのは、

この腹に沈澱しているしこりのようなものは罪悪感に近いのかもしれないということ。

何もしていないこと、悲しむこと、語ることに対する後ろめたさのような。

わからない。

ただ罪悪感を持っている人が少なからずいると聞いて、都合よく共感しただけかもしれない。



GAGLE(ガグル)の『I feel, I will』を聞いて思う。

あの時すでに成人していた私が未来に負う責任は何が何でも生き抜くことなんじゃなかと。

最初の歌詞は先月の2月13日に起きた福島県沖地震の様子を語っている。



ーーーーー

月命日を迎えても お互いに話題に上ることがなくなった
不思議に思う 恥ずかしいほどに湧かない実感が
いやがおうにも 長い年月 思わせるんだ
外に出るのを控えるライフ いつまでかな
そんな最中アラートが鳴る あの日の続き
響く十数秒 呼び起こす記憶のキー 錆びても反応
急な揺れとともに なだれ込んだバレンタインを
子供達は体感した 怖さで眠れず顔は腫れぼったい
大人たちは皆 万が一に追われ 電話の応対

「大丈夫大丈夫」
自分を納得させようとしたけど 体はとうに勘づいて
一瞬の間で 背中に流し込んだ 寒気をゾッと

連絡取り合う マンション 声かけあう
深夜なのに渋滞しちゃう道路
消防 サイレン 頭上ヘリが飛ぶ
停電 知らせるニュース
モニターに駅前の街並みがブレる
帰宅できず 夜は寒く人は戸惑う

混乱してる いつか来ること
わかっているのに 不安と幻想の境目
俺たちは不用意に暮らしてる

ーーーーー

ガツーンとやられた。

私たちは不安と幻想の境目で不用意に暮らしている。

なりふり構わず生きる努力をしろ。

不安に向き合え。



2月13日の地震は東京に住む私ですらどきっとした。

この曲を聴いて10年前から東北に住む人にとっての震度6強の現実を垣間見た気がした。

ガグルは地震を「地球のビート」と言い表す。

地震大国で生きていくということは、地震とともに生きていくということ。

悪意のない災害という自然現象だ。



前々から首都直下型地震や南海トラフ地震が起こるといわれている。

確実に来るらしい。

でもきっと多くの人が何一つ準備していない。

不安と幻想の境目で不用意に暮らしている。

もうそれじゃあだめだ、私たちは何が何でも生き抜かなければならない。

何から始めればいいのかわからないけれど、ちょっと真面目に学ぼうと思う。

それが何になるのかわからない。

無駄に終わればその方がいい。

図太く生きるということに向き合おう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おかしいのは誰ですか

2021年03月02日 | 映画
黒沢清監督の映画を3連続で観たらどうなるかという話だ。

思い立ってここ数日1日1本のペースで黒沢清の映画を観ている。

『CURE』、『回路』、『カリスマ』の3本だ。



『アカルイミライ』と『トウキョウソナタ』は好きだけど、

監督の本領とも言われるホラー作品には手を出していなかった。

どうしても『アカルイミライ』とホラーが結びつかない。

『アカルイミライ』が大事すぎて壊されたくなかったというのも大きい。



結論から言うと3日連続で黒沢清映画は観るもんじゃない。

頭がおかしくなる。

面白いからこそ変になりそうだ。

『CURE』『回路』を観た2日目から違和感が手触りを持ちはじめた。



その日はとても変な夢を観た。

夢とは往々にして変なものだけど、それにしても変だった。

輪郭の不明瞭な黒い靄に取り憑かれて、その靄から逃れようとするのだけどできない。

なぜならその黒い靄は私自身で、私だと思っている肉体の方がおまけだったのだから。

靄は攻撃的で発散されるエネルギーは外界に悪影響を与える。

「悪」とか「恐」とかとにかくよくなものを垂れ流していて、絶対的◯◯。

その肝心の空白が思い出せない。

一番良くないものをいい表す言葉だ。

ハリーポッターの「名前を言ってはいけないあの人」みたいなとても恐い言葉。

本当に「◯◯」が存在するのかはもうわからない。

自分が逃れようのない暗闇の中にいて絶望的なはずなんだけど、気持ちは妙に晴れている。

「ははははは」と滑舌よく高笑いしていたような、していないような、爽やかな気持ちだった。



そして今日『カリスマ』を観た。

ストーリーや「カリスマ」が何を暗喩しているかという話は一旦置いておく。

ここで注目したいのは登場人物たちだ。

みんなおかしい。

狂っている。

人物をストーリーから無理やり引き剥がしたからこうなったのか、なんなのか。

どこにも主観がない。

幽体離脱して空から眺めているような感覚に陥った。

誰にも心を預けられないのに、みんな自分に見えるような変な感覚だ。

多分3本連続で観たからだと思う。



人間ってなんだっけ。

私って誰だっけ。

まともってなんだっけ。

人間ははなから狂っていたんだ、そうだ、そうだ、そういえばそうだった。

「はははははははは」

私は笑いながらモノクロームの林の中を走っている。

葉は落ちて枯れた林が遠くまで見通せる。

枝に遮られた日の光がキラキラと目の端に移る。

私は木漏れ日落ちる両の掌をまじまじと見て、ああこれが人間なんだなって妙に納得した。



映画の途中で寝ていた。

夢で映画の続きを見ていたのだろうか。

軸を見失っているのに嫌じゃないのがなんだか気持ち悪い。

このふわふわした気持ちはなんだろう。

もう後戻りできないような気さえする。

おおげさかな。



『回路』はピンとこなかったけど、『CURE』と『カリスマ』はとても面白かった。

映像が美してくていつまででも見ていられる。

イメージしていたホラーとは違った。

そもそも『CURE』と『カリスマ』はホラーじゃないのか。

これは間違いなく『アカルイミライ』作った人だわ。

今『アカルイミライ』を観たら全く別の映画に見えるかもしれない。

それが楽しみでもあり、怖くもある。


いつもと反対から見た多摩湖。赤い満月ぼわわーん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする