歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

仕事ができない某国民

2015年02月23日 | 日記
経済至上主義、たまにこの言葉を見るけれど正規の言葉かどうかは知らない。

意味は、「経済的利益が最優先される社会」という感じだろう。

国策とかそう言ったレベルでこの言葉を謳ってるかどうかは知らないけれど、日本はその気が強い。

資本主義社会は少なからず経済的利益を追い求めなければ成り立たない。



戦後70年間、まっすぐ突き進んできた経済の形は今や日本の隅々にまで浸透している。

多くの職場では効率性・利便性というものが最優先され合理的でないものは排除されてきた。

いつでも仕事ができる人は賞賛され、要領の悪い人や頑張らない人は蔑まれてきた。

好み云々は置いておいて私もこの形には慣れていたし、あまり疑問を持った事がなかった。

なんといってもそれがお金を生み出す一番の方法だからだ。



しかし近頃そういう考え方に疑問を持つ様になってきた。

ここでの問題点はこの社会の仕組みというより、経済至上主義的思考が蔓延しいつしかそれが絶対的価値観として人々に重宝される様になってしまったこと。

何かを崇める様に、何の疑いもなくその理念を信じること、あるいはそれを信じるが故にそれに当てはまらない価値観を認めないこと。

資本主義社会において経済的利益を追い求めた結果、人々は経済至上主義を妄信することになった。



大げさな表現に聞こえるかもしれないけれど、身近な話を例にとれば誰でも思い当たるだろう。

職場において優秀な人頑張る人がいる一方でできない人頑張らない人(ひと事ではないが以後そこは考慮しない)というのは必ずいる。

「できない」と「頑張らない」とでは少し印象も違うだろうけどここでは曖昧なままにしておく。

その「できない」や「頑張らない」というのはもちろん経済的利益を生み出すか否かという判断基準に基づく。

そしてそういう人は他人から冷淡な視線を受けることになるだろう。

誰しもが誰かができない事に文句を言った事があると思う。

しかし、できた方がいい頑張った方がいいというのは誰が決めたことなんだろうか?

資本主義社会においてこれが可笑しい問いであることは重々承知だ。



そもそもこのことを考えるきっかけになったのは、幼なじみとの会話だった。

当時幼なじみは東京で荷揚げ屋の仕事をしており、その仕事を始めた当初はてきぱきと要領よく働く人、または頑張る人に一目を置いていたらしい。

そう言う人は職場の人々から信頼されており、一般的に善とされる。

しかし時間が経つに従い、仕事ができない人・頑張らない人の方に興味がわく様になったと言っていた。

頑張るというのは普通の事で、頑張らないというのは勇気のいることだからとかそういった理由だった気がする。



幼なじみのこの考え方が面白くて、その後もそれついて何度か考えた。

だからといって仕事ができないと言われる人を擁護したいわけではない。

今考えるのは、あまりにも当たり前に享受してきた一方的な価値観をこれからも疑う事なく信じるのかという自分自身への問いである。



世界は今を生きる人間の数だけあると思っている。

見えているものが全く違うのに、人に何かを押し付ける事ができるだろうか。



そんな事をいちいち考慮したら何も言えなくなるね。

もちろん言いたいことは言ったらいいけど、人と違うからという理由で誰かの存在を踏みにじることはしたくない。

善し悪しの二極化はとても危険だ。



コップのふちこさんはやっぱりコップのふちに座って私に問いかけてくる。

「当たり前ってなんですか?」

「仕事は頑張るべきものなのですか?」

すみませんが、わかりません。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月の朝霧

2015年02月13日 | 日記
朝日が登りまた1日が始まる。

この頃は7時くらいの空が驚くほど綺麗だ。

薄く広がる水色に東の方からピンクのグラデーションが攻めてくる。

仕事に出かける時、半分寝ぼけながら家の扉を開けると目の前に広がる唐突な景色に目を覚ます。

ある程度太陽が昇ってくると色はピンクからオレンジに変わり、

マンションやオフィスビルによってつくられたオレンジの閃光が無数に現れ町を一気に染めあげる。



町全体が目覚めるにふさわしい静かで唯一無二の美しさ。

圧倒的な美しさは時に残酷な結末を予感させる。

一つの星が生涯で一番輝くのが爆発する前だなんて皮肉な話だ。

ロマンチストの戯れ言か、映画の観すぎか。



しかし今日の朝は少し違った。

まず扉を開けた瞬間湿り気を帯びたコンクリートの匂いがかすかにした。

匂いは人の感覚を敏感にする。

このことについて科学的な証明があるかどうかは知らないけど、私はそう考えている。

記憶の中に眠っている場所がぶわっと目の前に現れるのだ。

体に染み付いた感情が否応無しに露わになる。

感情的なものが大きすぎてその記憶が本当に起こった出来事なのか、そうでないのかもよくわからない。

コンクリートの湿った匂いもまた私には大事な記憶スイッチだ。



私の持論は置いておいて、今朝は空の具合もやはり違った。

寒々とした2月の朝、霧が降り注ぐ町に太陽は優しく光を当てる。

靄がかかった視界の中で、朝日はいつもより曖昧なグラデーションを描いていた。

こんな朝は人々の目覚めも穏やかで心地よいに違いない。

製造中止になったiPod ClassicでSigur Rosの「All Aright」を流して、さぁ今日も歩いていこう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エンドレス・ドビュッシー

2015年02月03日 | 音楽
クラシックに関してはほとんど無知である。

ショパンとかバッハとかヴェートーヴェンとか、

本当に有名な作曲家の名前を知っているくらいだ。



もともとの音楽の聞き方も結構適当でこだわりがない。

いいと思えば聞くし、好きじゃなければ聞かない。

気になれば調べるけど、名前と曲しか知らないアーティストもたくさんいる。

ジャンルは関係なく、クラシックも例外ではない。

でもやはり敷居が高いイメージがありBGMに流すくらいの関係しか持ってこなかった。

出会わなければ能動的になるのも難しい。



最近エンドレスで聞いているのが、ドビュッシーの「Clair De Lune」。

邦題は「月の光」、1890年制作のベルガマスク組曲の第3曲である。

ドビュッシーの曲の中でもとりわけ有名で、親しみやすい曲想で知られているらしい。



ある日なんとなく静かな曲で作業がしたかったので、

iTunesの中にあるクラシック曲をランダムに流していた。

そしてある曲がかかった瞬間、作業部屋の空気が一変したのだ。

カップが、スケッチブックが、本が、筆箱が一瞬にして

瑞々しさを帯びそれらが何かを訴えてくる。

何も分からないまま私は感情の深淵に沈吟する。

それがまさにドビュッシーの「月の光」であり、奏者フジコヘミングであった。



それからというもの飽きる事なく思い立ったらこの曲を聴いている。

何か大切なものを思い出させてくれる様な、

私が大切にしているものを守ってくれる様な、

それでいて儚くいつ崩れてもおかしくない安寧を与えてくれる。



他の人の演奏を聴いた事がないから今はこの曲が好きだという印象だけれども、

他の人の演奏を聞いてやはりフジコ・ヘミングの演奏が好きだっていう風になるのも面白い。

クラシックの扉が数センチ開いたかな。


電車の中から夕日が見えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノー・タイトル

2015年02月03日 | 日記
悲しみの連鎖。

2月1日の朝から流れていたニュース。

丸一日そのニュースに触れる事ができなかった。



後藤健二さん解放の誤報が流れたりしたのもあるけれど、

きっと彼は助かるのだと安易に考えていた。

FacebookなどのSNSで流れてくる果てのない情報。

その中で少しだけ見えてきた後藤健二さんという一人のジャーナリストの生き方。

自費で戦地に赴き、弱き者たちの生活を命がけで伝えてきた人。



「自己責任」とか「自業自得」という言葉はあまり好きじゃない。

まして人の命に関わる事で自業自得なんてことはありえない。

亡くなっていい人なんていない。



悲しみは連鎖している。

戦いの始まりを探しても見当たらない。

武器を使っているのは過激派組織も先進国の部隊も同じこと。

武器を持ち続ける限り戦いは終わらない。



今日は国会で共産党の小池晃さんがその事について質問していた。

湯川さんや後藤さんが拘束されている事を知っていたのに、

なぜ1月17日カイロでの演説でイスラム国対策としての2億円の資金提供を表明したのか。

人の命に関わる事なのになぜもっと慎重にできなかったのかという趣旨だった。

願わくば、もっと慎重にしてくださいと言わんばかりの鬼気迫る質問だった。

安倍首相の返答は「テロに屈してはならない」の一点張り。



予算にないお金を国民の是非を問う事なくテロ対策として外国に提供。

背景にアメリカがいる事は誰が見ても分かる。

被災地への支援もままならない今、内側に目を向けなければならないのは自明だ。



日本がかかえる最大の問題はアメリカの軍産複合体と

巨大バイオ産業を天辺においたアメリカ式のヒエラルキー。

がんじがらめにされた構造的資本主義の鎖をほどかなければならない。

斧ではなく鍵を探そう。



それは砂漠の中で一本の針を探す様な途方ない話かもしれない。

でもそこに目を向けなければもう何もかもがめちゃくちゃになってしまう。



話をしよう。

怒りは怒りしか生まない。



今本当に大事な事は「テロに屈しないこと」ではないはず。

どうか後藤さんと湯川さんの命を、この戦争に利用しないでください。

どうか中東で生きる人一人の命を軽んじないでください。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする