歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

あいだの空間

2011年09月07日 | 日記
ふとした時に、無作為に現れるあいだの空間。
「あいだの空間」とはもちろん私の感じた勝手なニュアンスだ。
生活の中で、見慣れた日常の風景にはっとするとき、その瞬間、その風景をそう呼ぶことにする。

それはいたるところに現れる。
散歩しているときや電車を待っているとき、働いているとき、
懐かしさと哀愁を秘めた不思議な風景がふと現れる。

夜、コンビニに出かけた時のこと。
店の外で立ち止まり一息ついて目の前の通りを見ると、
淡い照明の具合と「何何中学校全国大会出場おめでとう」という古くさい垂れ幕、その奥に広がる暗闇と一体化した商店街が絶妙な調和を保ち、私に何かを訴えかけてくる。

その先も水平かつ垂直にずっと続く現実の創造物からぽっかりと切り取られたあいだの空間。

都会と呼ばれる街を行列にまぎれ歩いていたときのこと。
目の前に錆びた汚い歩道橋が現れた。
シールが無造作に貼られ、スプレーのいたずら書きが目立つターコイズのハンドレール。
私はその画に吸い込まれそうになる。

ノスタルジアとコンテンポラリーが共存するあいだの空間。

例えば、あいだの空間は玄関先に現れることもある。




自然(夕日)と人工(ライト)が創りだす不思議な色の光。
錆びた階段、自転車、、、


あいだの空間は、几帳面に整備された住宅街やオフィス街にだって現れる可能性はある。
もちろんそれ以外の街と比べると、その機会は少ないだろう。
でもその街がどれだけ新しく創られ、都市化計画のさなかにあろうと、そうした同質化・画一化に完璧などあり得ない。
とすると、完璧を求める管理社会からこぼれ落ちた空間、時間が必ずあるはずなのだ。

そういったところにあいだの空間は現れやすい。

あいだの空間は、私をこの閉塞感から解放してくれ、リアリティを、実感を与えてくれる。
私の大好きなあいだの空間と、意図的に出会うことは難しい。
大抵が予期せぬときに現れ、瞬間的なものなのだ。

これは私の個人的な見解で、他の人と共有するのは難しいかもしれない。
でも玄関先で私と同じ時間、同じ空間に対して何かを感じた似てる感覚を持つ人もいるわけで、それはなんだか嬉しいんだ。




相方撮影。


後付けで理屈っぽく説明してしまったけれども、実は凄く感覚的で難しい話じゃないんだ。
私をカオスへと導く一つの道。