歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

イタリアンレストランへ

2016年01月31日 | 日記
「イタリアンレストラン」…

庶民的な生活を送っている私にとって、この類いの言葉は身構えるのに十分だ。

今までイタリアンレストランでフルコースなんて経験はほとんどない。



縁とはありがたいもので、知人の紹介でとあるイタリアンレストランが私の絵を飾ってくれるという。

そこで昨年末頃、下見と相談を兼ねてそのレストランに食事に行ってきた。

座席数はそこまで多くなく、落ち着いた雰囲気のかっこいいお店だった。

ウェイターは大人のスマートな男性。

お客さんは皆手慣れた空気を醸し出し、

テーブルの上にはフォークやスプーンがたくさん並んでいる。

「これはどうしたものか」と困惑していると料理が運ばれてきた。



最初はぎこちなかったが、おいしさに負けた。

一品一品食べるのがもったいないくらい手がこんでいて驚くばかり。

このような手のこんだ食事にはあまり興味がなかったのだが、食べず嫌いだったようだ。

普段の食事とは別物。

言うなれば朝食、昼食、夕食、デザード、イタリアンくらいのものである。



そんなこんなでイタリアンレストラン初体験を終え、先日無事に絵を飾ることができた。

めでたし。





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小さな循環型庭

2016年01月28日 | 日記
今住んでいる家にはありがたいことに庭がある。

2畳分程の小さな庭だ。

私はここに引っ越したときから用途不明のその空間が好きだった。



端には梅の木があり、足下には苔が生えている。

手入れをしなくても草が生えすぎることも絶えることもない。

そこに小さな世界が完結しているようだ。

まだ見ぬ生き物の営みを想像するとわくわくする。

それは子どものころ遊んだミニチュア人形の家を眺めているのと少し似ている。





梅の花が開きはじめた。

そうか、もう初春なんだね。





まさにミニチュアの世界だ。

目線を下げるだけで苔の森にでも迷いこんだかのよう。

濃い緑の苔はスギゴケだと思う。





こっちの苔はタイ類のなんとかゴケモドキとかそんな感じだろう。





ロゼットがアールヌーボーの模様に見えるのは私だけだろうか。

上がタネツケバナ、したがウラジロチチコグサのロゼット(多分)。

これが春になると花をつけるのだから不思議だ。

植物は季節に従順でけなげ。

小さな虫も微生物も植物も苔もなんだか愛くるしいな。



今日道端で変な種を見つけた。

ネットで調べてもなんの種だか分からなかった。

このビジュアルそそられる。

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忘れる前に神名平四郎

2016年01月27日 | 日記
昔から忘れっぽくて困る。

記憶違いも多いし、ぽかミスもあるし、もしかして記憶の中枢に重大な欠陥があったりして。



本など読んだ後は一様に盛り上がるのだが、日が経つと熱だけ残り内容はすっかり忘れてしまう。

だから「あの本は面白かった」とか率直な感想以外確かな事を言えなくなることが多い。



そういうことで、今日は藤沢周平の『よろずや平四郎活人剣』について忘れる前に少々。

藤沢周平の本は、つい昨秋母に勧められて初めて読んだ。

『殺人の年輪』ですっかりはまり、

『日暮れ竹河岸』、

『喜多川歌麿女絵草紙』、

『三屋清左衛門残日録』と順調なペースで読んできた。

他にもあったような気がするけど、ほら、もう忘れている。



それでも『殺人の年輪』に収録されている葛飾北斎の『溟い海』は鮮明に覚えている。

私も絵を描くからか、昔から絵師や芸術家が出てくる話は特別好きだった。

感情を表現する直接的な言葉はないのに、なぜあんなにも北斎の気持ちが流入してくるのか。

あの話は本当に好きだ。



藤沢周平の小説について感想を述べるにあたり、いくつかの論点が出てくる。

まず藤沢周平について、

次に時代小説について、

そして個別の物語についてという感じだろう。

藤沢周平については、まだ何か言える程読めていないのが現状。

時代小説については、先日とある歴史家がラジオで「最近の時代小説はリアリティがない」と言っていたので少し考えてみた。

特に時代小説の現実性・物語性・必要性、あるいは娯楽としての時代小説の位置づけなどについて。

それも根本的な議題は「創造物としての物語について」というような大きな話になってしまうので、ここではやめておく。

今回書くのは、単純に『よろずや平四郎活人剣』について。



初めはあまり身が入らなかった。

というのもその前に『三屋清左衛門残日録』を読んでおり、その主人公が隠居したおじさんだったからだ。

渋いおじさんの哀愁に浸って、分かりもしない寂しさを感じて満たされたばかりだ。

平四郎はピチピチの24歳。

しかし若さに対する違和感も最初だけだった。

軽快なテンポによりすぐに『よろずや平四郎活人剣』の世界に入っていった。



文春文庫の上下巻でページ数に換算すると約1000ページ。

旗本の末弟として育った平四郎が家を出て浪人として生きていくためによろずやをはじめるのが物語の始まり。

知識もなければコネもない、あるのは磨かれた剣術とよく回る口。

若さ溢れる平四郎と彼らを取り巻く様々な事情を抱えた庶民。

呑気で明るくお調子者かつ豪快な平四郎と軽快に進んでいく物語。

脇を固める登場人物もみんな個性的で面白い。



平四郎は武士と庶民の世界を行き来するのだが、現場を知るという意味では他の武士よりたくましく見える。

役人である兄と平四郎の温度差も面白いところだ。



読み終わった後この話を実写化するとしたら(実際にされている)平四郎は誰がいいかななんてことを考える。

若い割りに時代的に早熟で、現代の平均的な精神年齢に当てはめると若くても35歳くらいじゃなかろうか。

イケメンはダメだ。

一歩引いた雰囲気を持っている俳優、松田龍平や綾野剛では線が細すぎるし、

若かりし頃の浅野忠信だと個性あり過ぎだし、若かりし頃の永瀬正敏なんかがいいかもしれない。



極めて個人的な話は置いておいて、『よろずや平四郎活人剣』面白いので是非。

時代は江戸後期、終わり行く一つの時代と新しくはじまる若者の人生。

何かで落ち込んでいたとしても、それすら吹き飛ばしてくれそうな気持ちのいい作品だ。

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Bon Iver

2016年01月25日 | 音楽
ボン・イベール。

2006年に結成されたアメリカのフォークロックバンド。

友達のすすめで一昨日知ったバンドだ。

初めてシガー・ロスの曲を聞いた時の衝撃に少し似ている。

情報は全く持ち合わせていないけれど、それで構わない。

ただ目の前に広がるのは草原と青い空。

大地に足を着け大きく息を吸いこもう。


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知りすぎた世界

2016年01月24日 | 日記
「知らぬが仏」

なんと的を得た言葉だろうか。

最近この言葉が妙に胸に響く。



例えば誰かの悪意、

例えば過去の自分の失敗、

例えば犬の糞を踏んでしまったこと。






飽くなき好奇心とそれに伴う科学技術の発展は、空っぽの満腹感を人々に与えた。

そこかしこに情報が溢れ、地球の反対側のニュースであろうと一瞬で知ることができる。

皆ネットの中の異次元に魅了され、その世界の住人まで現れるようになった。

このような高度情報化社会はどこまでも膨張し続け留まるところを知らない。



私が小学6年生になった頃、家に初めてのパソコンが届いた。

丸っこくて可愛らしい青色のMacだった。

それからネットという夢の世界を知り、私自身も夢中になった。



そして現在、ソーシャルネットワーク(SNS)が発達し人と人とを繋ぐ架け橋となっている。

FacebookやTwitterがその先駆けと言えよう。

今やたくさんの人が画面の中で繰り広げられる言葉の往来に取り付かれているかのようだ。



私もFacebookやTwitterの利用者のひとり。

画期的なシステムはアナログ志向の私でさえ楽しく利用出来る。

きっといろんな人に合った有益な使い方があるはずだ。

私にとってSNSは人間関係の円滑化というよりも情報収集の手段としての役割が大きい。

だから今まで大事な情報を取りこぼさないよう、まめにチェックしていた。

しかし、最近なかなかそれらを開く気にならない。

というのもあまりに情報量が多く、言葉の海に溺れそうになるからだ。

文字で人の感情に触れれば触れる程、「そこまで知る必要があるのか」という疑念が大きくなっていく。

今まで知らなかった事なのに、

今まで知らなかった事だから、

今まで知らなかった事だけど…。



知らなければ生まれなかった憎しみだってあるだろう。

しかし知ることで得た喜びもあるのだから難しい。



デカルトからはじまった科学的思考は全てのものを素粒子まで細分化し、記号化し理解しようとしている。

はて、今まで知り得なかった細菌の存在が高機能顕微鏡により視覚化されたが故に、

今まで全く気にされなかった随所にわたり「殺菌」という言葉が叫ばれるようになった。

まるで自ら悪をつくり退治することで正義を奉る安っぽい自作自演だ。



なんだか変な感じがするのだ。

これを嫌な予感というのかな。



当初の好奇心を忘れてしまえば、知るという事が「満足」ではなく「勘違い」や「驕り」をよびよせる。

多くを「知る」ことは「分かる」にすりかわり、いつしか「全てを理解できる」と錯覚してしまう。

感覚的な話だが、知り得ないことや分からないことをそのままにしておく勇気も必要だと思う。

曖昧であることは人と人、あるいは人とそうでないモノとの間でクッションのような役割を果たす。



梶田隆章さんがニュートリノに質量があることを発見しノーベル賞を受賞したニュースは真新しいが、

そういう話に心からワクワクするのは梶田さんの笑顔が子どもみたいだからかもしれない。



頭にばかり刺激を与えて、麻痺しはじめた脳。

最近書いたメディアリテラシーの話に繋がるかもしれないが、毎分毎秒増え続ける膨大な情報を前に、

いかに冷静でいられるかということがとても重要になってくる。

それは中立や客観性を保つということではなく、情報との向き合い方の話。



ネットの膨張は既に人間がコントロール出来ないところまできてしまったのではないだろうか。

基本的に発信は無責任な行為だから、特に受信する際に私たちの真価が問われるというわけだ。

垂れ流された情報を浴び続ければ、本当に必要な情報も取りこぼしてしまう。

私自身も多くの矛盾を抱えながらこの問題と対峙していかなければならない。






余談だが、父は昔信号機に従うのが嫌いだった(今はわからない)。

子どもの頃、理由を尋ねたら「なんで機械の命令に従わなきゃいけないんだ。自分で考えられるんだから自分で考える。」と言っていた。

やっていることはめちゃくちゃだが、言っていることは大事なことのような気もする。

何も疑わず与えられる環境を与えられるままに受け取っていると、考える力が衰退してしまう。

情報に関しても同じこと。
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