歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

ときの忘れ物

2022年07月27日 | 日記

恒川光太郎の小説『夜市』は何度となく思い出す忘れがたい物語だ。

そこに出てくる怪しげな和の夜市に思いを馳せる。

 

日本人だからと限定的に考えるのは時代遅れかもしれない。

と言いつつ太古から脈々と伝わる和の郷愁を共有しているのは確かで、

根底で繋がっている、そんな気がするのは思い違いだろうか。

それがDNAなのか育った環境なのかはわからない。

 

遠くから聞こえてくる祭囃子に心が踊ったり、

縁日の提灯や浴衣姿の少女に胸が締め付けられたり、

かげろうに揺れる日傘をさしたおばあさんに懐かしさを感じたり。

 

懐かしいという共通感覚が愛おしい。

自分の知らないところで形成されたノスタルジアだ。

 

BUMP OF CHICKENの歌に『涙のふるさと』という歌があるけれど、

涙ならぬ「心」のふるさとがあるんじゃないかと思うことがある。

漫画『蟲師』の光脈みたいな川のようなイメージだ。

心の帰る(還るではなく)場所。

輪廻とは違う意味でルーツをたどれば皆同じ場所にたどり着く。

日本人に限らずね。

 

参院選の日は日曜日で七夕の3日後だった。

投票がてらいつも車で通る気になる商店街へ寄ってみた。

七夕飾りがまだ残っていてやたら賑やかな雰囲気なのに、

人気はなく大きな飾りが風に揺られシャラシャラという音だけが鳴っていた。

お店はほとんど閉まっていて、七夕は終わっているのに飾りは爛々としていて、

日曜日なのに人っ子一人いなくて、カラッと乾いたいい天気で、、、方向感覚を見失う。

いったい私はどこに迷い込んだんだ。

『千と千尋の神隠し』の最初に出てくるテーマパークを彷彿とさせる。

漂う違和感が心地よくてその空気に身を任せてしまってもいいかな、

なんてそんなことをしたらお父さんやお母さんみたいに本当の迷子になってしまう。

あれは心のふるさとへの入り口だったのかもしれない、そうだといいな。

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パンについて考える午後

2022年07月24日 | 日記

納豆って昔からあまり好きじゃない。

まずいとは思わないけれど、日常的に食べるほど美味しくもない。

ネバネバが他のネバネバ食品より強力だし、面倒臭い。

 

それがなんのことはない、

筋肉をつけようという意識が芽生えると大事なタンパク源として重宝するようになった。

受け身にならず正面から向き合うとなかなか面白いやつでここ最近気に入っている。

今日なんかパンにのせて納豆チーズトーストを作って食べたくらい。

 

パンのサクサク食感に納豆とチーズのネバネバがのっかっていて美味しい。

いや、正直なところ美味しいのかまではわからない。

パンの味は薄れ主張の強い納豆に覆いかぶさるチーズが全体をマイルドにしている。

満足度が高いのはこのボリュームなんだろう。

 

ふーん、と思いながらサクサクネバネバやっていると、今度はパンについて気になり始めた。

「パン」ってなんだ?

パン、パンッ、パン、パパン

英語ではないし、いったいどこから来た言葉なんだろう。

「パン」ほどヘンテコな言葉パンだけだよな。

日本独自の言葉だったら面白いな。

日本にパンが入ってきたのが大航海時代くらいだとして、

その頃「パン」に近い言葉があったとしたらなんだろう。

鉄砲の発泡音?

信長が「今日はパンだ」とか言っていたら面白いな。

秀吉は「パン」と言っても違和感ないけど、家康は言わなそうだな。

 

調べてみると、

パンはキリスト教布教によって伝来したものでポルトガル語の「pão」に由来するのだとか。

なーんだ、よく考えればわかりそうなもの。

そもそも中国語や英語が語源でないとヘンテコに思えてしまう言語感覚が乏しいのだな。

発見があったようなないような、ポルトガルに少しだけ心の距離が近づいた午後でした。

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ホラーでアウェー

2022年07月19日 | 映画

夏だからってわけじゃないけど最近立て続けに3本のホラー映画を観た。

気づかないうちにそちらへ誘い込まれているのは、やっぱり夏のせいかな。

Netflixがホラーばかりおすすめしてくるからその流れを止めようがない。

 

 

みんな大好き(知らんけど)『死霊館』シリーズの最新作『悪魔のせいなら、無罪。』

タイトルにすべて詰まっている。

 

2009年のレニー・セルヴィガー主演映画『ケース39』。

福祉士が虐待された子供を預かるところから物語がどんどん不穏な方向へ。

 

そして今Netflixで超話題の台湾ホラー『呪詛』。

私の中で問題なのはこの映画。

世間の評判と私の感想が乖離しすぎていて、ずっともやもやしている。

ちーっとも怖くないし、ちーっとも面白くない。

でも話題になっているだけの理由はちゃんとあるはずなんだよな。

私にはそれがわかっていないのか、それを面白がれないのか。

 

ちゃんとしたホラー映画がNetflixの1位に上がっているのを初めて見た。

ヴィジュアルがいかにもアジアンホラーでタイトルが『呪詛』なんて最っ高と浮かれていた。

正直めっちゃ期待していた。

 

私は映像、本、漫画問わずホラー作品が好きだ。

とてつもない怖さは心を浄化してくれるような作用があると思う。

「恐怖」とは不純物をそぎ落としたとてもクリアな感情であり、

ホラーはその感情に直接触ることができる装置のような物だと考えている。

怖くなくても作り手の美学や精神性が深く反映するから面白い。

と言いつつそこまで観察眼があるわけではないから、あれこれ頭を巡らすのが純粋に楽しいのだ。

海外では若手の登竜門としてホラー映画を作ることがあるらしい。

だからかB級作品も溢れているけど、それはそれで違う面白さがある。

あまりに凄惨、残虐な描写に笑ってしまうくらいにはホラー映像に慣れている。

 

ホラー映画で大事にしているのは怖いか、ストーリーが面白いか、美学があるか、だ。

どれか一つでも感じることができれば総じて面白いと思うのに十分なのだ。

 

 

『呪詛』が怖くない原因はいくつかある。

 

まず全編擬似ドキュメンタリー(モキュメンタリーと言うらしい)の手法が使われているところ。

見せ方自体は嫌いじゃないけれど、撮影者の心情が画面に現れていないよう思う。

特に前半撮影者がほとんど主人公という点で怖さが半減している。

呪いを祓うために録画しているのだろうけど、録画する姿勢が常に冷静すぎるのだ。

娘がいなくなった時はカメラで撮影しながら追いかけるし、

娘がベッドの上で苦しんでいる時は最初にカメラの向きを娘に合わせる。

そんな場面をいくつも重ねると主人公の余裕が強調されて恐怖に対する疑問が浮かぶ。

ここで改めて気づいたのは登場人物が心底怖がっていないと観ている側も怖くないということ。

それとも呪いを浮き彫りにするため異常ともいえる行動を遠回しに見せてきているのか。

だとすると高度すぎる。

 

また主人公の押し付けがましさが気になって、一歩引いて観てしまうというのもある。

必死に追いかけられると逃げたくなる、あの心理だ。

冒頭から主人公はカメラ目線で視聴者に対し呪詛の唱和を求めてくる。

作品への没入感をアップさせる仕組みなんだろうけど、こっちの世界への介入はリアリティを削ぐ。

作品と実生活に通底する恐怖や問題意識は共有するけれど、

直接的に画面を超えてくるのはさ、なんというか面倒臭いというか子供騙しというか、、、。

画面の中のさらに画面の中から出てきた貞子は当時死ぬほど怖かったけど、それはまた別の話。

これに関してはもしかしたら私の性格の問題かもしれない。

そんなこと言ったらすべてそうなるか、ははは。

少し引いて観ていると執拗な唱和の懇願の意味を容易に想像できる。

一つ言えるのはわかっていたからこそ心の中でさえ唱和はしないよう努めたということ。

そこは一応物語に身を任せるんかい!と自分でも思いました。

 

それから上の二つも含めて、仕掛けや技法が盛りだくさんで監督のニヤニヤ顏が透けて見えてしまう。

どうだーうはははは!!!というドヤ顔(監督の顔知らんけど)が見える。

実際のところはわからないけれど、それくらい手法が際立ちすぎてバランスが悪い気がした。

それに散りばめられた各々の仕掛けの向いている方向がどうもちぐはぐなのだ。

恐怖を煽ってくる割には、村での脅かし方にお化け屋敷的なポップさがあったり、

リアリティ装ってるくせに、画面飛び越えてくるし、いったいどうなっとるんじゃーと叫びたい。

あなたはどこを見ているの!?何がしたかったの!?本当の意図は何!?

あれ、もしかして私、監督に振り回されてずっと作品のこと考えてる恋する少女みたい?

 

 

では、ストーリーは面白かったのか。

 

母娘、大陸から伝承された閉鎖的な土着信仰、呪い、軽率な行動が取り返しのつかない禁忌を犯す、、、。

物語を構成するいくつかの項目に目新しさはない。

この作品が話題になっている最大の理由が視聴者巻き込み型による後味の悪さだとしたら、

幾度となく画面越しに訴えかけてくる主人公に心を寄せた人ほど裏切られた時の反動は大きい。

深く没入していればいるほど怖いのだろう。

一歩引いてしまっている時点で相性が悪かった。

だって細かなあれこれが気になって集中できなかったんだもの。

 

 

では作り手の美学を感じたか。

 

監督はホラーを愛しているか。

あれだけ盛りだくさんの仕掛けと技法を使っているという意味ではそうかもしれない。

ホラー映画のびっくり箱という感じだ。

あるいは逆にこういうのが好きなんでしょ?という軽薄さも感じた。

 

美術は凝っていて結構面白かった。

天井の宗教画や見たことない造形の像。

特によかったのが最後に出てくる布で顔を隠された像の顔が有機的な空洞になっていたところ。

隠されたものの正体となるとハードルは上がるけど、いい意味で期待を裏切ってくれた。

 

映画を通して一貫したメッセージやこだわりを感じたかと言われればそうでもない。

台湾のお国事情を知らないから見落としているだけかもしれないけど。

感想で「アジアのミッドサマー」とか言っている人がいるけれどそれは見当違いだ。

田舎の異質な宗教という大まかなイメージからくるものだろうけど、精神性の深度が全然違う。

あれはどこまでいっても人間が主題で、人間の解放の物語だから。

『呪詛』には考えさせる奥行きがない。

 

ここまでいろいろ頭をこねくり回してやっと気づく。

この映画はザ・エンターテイメントなんだ、という初歩的なことに。

子供から大人までが楽しめる夏休みにおすすめのホラー映画なんだということに。

そう考えればホラーのびっくり箱なんて最高じゃないか。

はなから私みたいなニッチなホラー好きに向けて作られていない。

そうやって住み分けをはっきりさせればいいだけの話なのかもしれない。

これだけ映画『呪詛』について考えたのも楽しめなかったのが悔しかったからなんだと思う。

わかったところでやっぱり楽しめはしないんだけど、いろいろ整理ができてよござんした。

我ながらしつこいね。

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