歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

戦争について

2022年02月26日 | 社会
ここのところニュースを見るのが辛い。

24日、ロシア軍のウクライナ侵攻によって戦争がはじまってしまった。

これは遠い国の話、なのか?

違うよな。

命に危機が迫る恐怖を、大切な人を亡くすかもしれない恐怖を、

日常が脅かされ故郷を追われる悲しみを想像すると胸が締め付けられる。

この足元から地続きの世界で実際に起きていることだ。

政治が、イデオロギーが、宗教が、お金が人を殺す。

いったいなんなんだ。

アフガニスタンもパレスチナもシリアもミャンマーも全部この地面は繋がっている。

ずっと前から世界中で戦争が起きているのに、

国連の常任理事国に名を連ねる大国が戦争をはじめて再認識する。

そして社会がいかに危ういものに支えられているのかを実感する。

ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で書いたように社会は神話という虚構で成り立っている。

国、倫理、法律、宗教、経済、企業、、、。

一方で固持し、他方で簡単に捨てる。

国を堅持するために、人という根元あるいは実存をないがしろにする。

神話が捻れていく。

ビデオニュースで廣瀬陽子さんは「プーチンはエモーショナルなメンタリティーで動いている可能性がある」と言っていた。

要はプライドの問題だ。

「ウクライナはロシアの一部なのだ」であるとか、

「世界がアメリカと中国ばかりに気を取られている、ロシアを無視するな」だとか。

それもつい1週間前の話だ。

この1週間で世界は変わってしまった。

私は歴史を知らなすぎる。

軍事評論家の小泉悠さんはラジオで「戦争が始まってしまった以上どんな道へ進んでも最悪の事態は免れない」と言っていた。

ロシアがウクライナを制圧し世界に暴力の効力を見せつけるにしても、

アメリカがウクライナ側に武器を渡して泥沼のゲリラ戦を展開するにしても。

どうか人々を守ってくれと、祈る先もないのに祈るしかない。



人とは一体なんなのだろう。

この期に及んで私はそんなことを頭の中だけで考えている。

個人が世界にコミットする方法はあるのだろうか。

フェイスブックで知り合いがウクライナの人々への寄付を呼びかけていた。

小説家の平野啓一郎さんはNPOほうぼくの理事長奥田知志さんとの対談で、

「日本人は寄付だけをすることに後ろめたさを感じやすい」と言っていた。

奥田さんは「社会には寄付は必要だ。寄付は社会参加の原点なのだ。」と常々おっしゃっている。



土曜日の昼下がり、窓からはランニングやサイクリングをする人たちが見える。

その風景は『ストレンジャーシングス』における平和な世界の裏側に張り付く負の世界を連想させる。

それよりもっと悪いのは、今起こっていることはこっち側の世界の話なんだということ。

何かに寄りかかるな、立ち続けろ、自分に言い聞かせる。

でも疲れたら少し休んでください。

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ブルースウイルスはどうしてるかな

2022年02月19日 | 日記
夫に頼まれて夜に大切な書類をポストに出しに行った。

自転車で行こうとも考えたが、ゆっくり夜風に当たりたい気分だった。

歩いても5分かからない場所だ。

家の密集地を抜けると急に空が広くなり、右上が少し欠けた月が見えた。

雲一つない晴れやかな月夜だ。



月は昔から私の妄想を刺激する。

実家は家から離れた場所にお風呂場があり、子どもの頃よくお風呂から出て外のベンチで涼んでいた。

月が出ている日は薄闇の中に畑や小屋がうっすら見えるのでそれをぼーっと眺めるのが好きだった。

雲が多くなってくると、雲の奥から魔法使いの集団が飛んでくるという妄想をよくした。

頭の中ではペジテの船からナウシカが飛び立つときのデデデデ、デデデデという音楽が鳴っている。

当時ハリーポッターの本が大好きで、この世界にただならぬ危機が迫っていると考えると胸が高鳴った。



月を見ているとこの世界が同時進行していることを実感することがよくあった。

アメリカの人は、ヨーロッパの人は、アフリカの人は、ブラジルの人は今頃何をしているだろう。

見知らぬ人の名もなき営みを想像するととても幸福な気持ちになった。

目の前の小さな日常から抜け出すおまじないや慰めみたいなものだったのかもしれない。

グーグルアースがある一点をフォーカスするように私の妄想も詳細がはっきりしていた。

パリの街角のオープンテラスで笑いあう人、同じ月の元ベッドに入る黒髪の女の人、

アメリカのガラス張りの邸宅の中で佇むブルース・ウイルス。

映画『キッド』の一場面だ。

『キッド』がどんな内容で面白かったのかどうかは全然思い出せないのに、

なぜかこの妄想をするときは決まってあのガラス張りの家を思い出す。

映画を観た当時確かにあの家に衝撃を受けた。

こんな家が存在するのかと驚き、将来アメリカでこんな家に住みたいと強烈に憧れた。

でもガラス越しのブルース・ウイルスはうつむき加減だったんだよな。

当時はそのことなど気にもかけなかったけど。



右上が少し欠けた月を見て、久しぶりにブルース・ウイルスのことを考えた。

今頃彼はどうしているだろう。

私は結局アメリカにもガラス張りの家にも住んでいない。

今日もそれぞれの場所で営まれているそれぞれの暮らしのディティールを想像して自分の位置を確かめる。

子どもの頃と少し違うのは、その妄想の中に苦しみや悲しみが多く含まれていること。



昔は「ウイルス」で通っていたのに久々に調べたら日本語表記が「ウィリス」になっていた。

英語の発音により忠実に従ったのだろうけど、私の見てきた彼はウイルスだからそのまま行こうと思う。

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空き缶とわたしとあなた

2022年02月12日 | 日記
夕方に西武新宿線に乗っていた時のこと、

20年以上前の社会学の本を手に難しい言葉の羅列と格闘していた。

馴染みのない言葉が並んでいるとどうしても読むのが遅くなる。 

知らない熟語があると構成する漢字を見て適当に当たりをつけるが、

それが間違っていることも多々ある。

一つの熟語の意味を取り違えるだけで文章の意味まで変わってしまう。

そういうことが何度かあって最近は都度意味を調べるようにしている。

最近きっかけがあり、惰性で本を読むのはやめようとつとめている。



夕方の西武新宿線は混んでいるというふうでも空いているというふうでもない。

座席は埋まっていて立っている人もそれなりにいるが、まだ空間に余裕がある。

私は座席に座っていて正面に座っている人たちを観察しようと思えばできるくらいの余裕だ。

左前方に背中を向けて立っている女性二人組がいて、車両で喋っているのは彼女たちだけだ。

その近くには眠っている女性、スマホを触っているキャップを被った男性、サラリーマン。

いつもの代わり映えのない風景と代わり映えのないわたし。



この空間が車くらいの速さで移動していると思うと不思議な気持ちになる。

見知らぬ他人と一緒に動いているのが異様でもあり当たり前でもある。

本の影響で、この人たちも日本という沈みゆく船の乗組員なんだよなとか考える。

そう思うとなんだか情けなさと愛着のようなものが同時に芽生えそうになるんだけど、

何の目線なのかがわからなくなって手前でそっと胸に押し込んだ

目の前の人に一方的に仲間意識を持たれても気味が悪いだけだろうしね。



目線は本に戻してうむむと難航していると遠くの方からカラカラと乾いた金属音が近づいてきた。

カラカラカラカラカラッカラカラー

空き缶が転がってくる。

と認識するや否や、空き缶の半径2メートルくらいの空間にぐっと力が入ったのを感じた。

みんなが一様に空き缶の行く末を見守っている。

こっち来んなとかどうしようとか動揺する気持ちがなぜだか手に取るようにわかる。

二人組の女性なんかはあからさまに空き缶に気持ちを持っていかれている。

なぜなら空き缶の登場で会話が途切れたから。

無言の車両をあざ笑うかのように空き缶はカラカラと音を立て縦横無尽に動き回っている。

その感じが可笑しくて可笑しくてたまらなかった。

もう笑いをこらえるのに必死だ。

全部わたしの妄想なのかもしれないけどそれでもいい。

空き缶の動向を注意深く観察する自分自身も可笑しかったのだ。



意思のない空き缶一つにたじろぐ大人たち。

そこに子どもがいれば違っていたかもしれないし、海外の人がいれば違ったかもしれない。

「公共」を持たない日本人の大人しか居合わせなかったことがこの状況を生んでいる。

自分だってどうだ、足元に来たら拾おうくらいの他人任せだ。



空き缶は電車の急停止に合わせて一足飛びでどこかにいってしまった。

その後ぱったり音が消えたのはきっと空き缶が、

ロマンスグレーの髪を丁寧になでつけチェスターコートの襟を立て、

カシミアのマフラーを巻いた紳士の磨かれた靴にぶつかったのだが、

紳士は空き缶なんぞに心奪われることもなくそれを手に取り、

次の駅で降りてホームのゴミ箱に捨てさったからだろう。

紳士のおかげで空き缶は本来持つべきでない存在感を失いあるべき場所に帰った。

少し寂しいけど、これでよかったのだろうと思う。




人っ子一人いない昼間の伊賀鉄道
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2人のディズニーランドについて

2022年02月10日 | 日記
夫が唐突に「そろそろディズニーランドにでも行きたいね」と言ってきた。

この行きたいねの「ね」が味噌だ。

暗に同調を求めているところがなんか変だ。

そろそろも何も2人でディズニーランドへ行ったことは一度もない。

そもそもお互いディズニー好きなんていう認識はないし、そんな話をしたこともない。

『アナと雪の女王』は出遅れていまだに見れてないことが少し胸につかえてるくらいなもので、

まぁ『スターウォーズ』は今はディズニーだけど7、8、9は酷かったしな。

このナイナイづくしが反対にいいのかしら。

いや、でも、やっぱりおかしい。

ディズニーランドで何するんだろう?



わたし「どうなるか全く想像できない」

夫「はははははは」



いや、楽しいのかもしれない。

でも、アトラクションではしゃぐ2人も、行列に並ぶ2人も、パレードを見たい2人もやっぱり想像できない。

いや、楽しいのか?



と、いろいろ思い返して今やっと夫の真意がわかった気がする。

私たちもそろそろディズニーランドへ行っても楽しめる歳になったんじゃない?ってことだ。

なるほどね。




椅子を占領された。

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