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歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

レ・ミゼラブルーLes Miserables

2017年12月07日 | 映画
民衆の歌ーDo you hear the people sing? - Les Miserables


『レ・ミゼラブル』
監督:トム・フーパー
脚本:ウィリアム・ニコルソン
   アラン・ブーブリル
   クロード=ミシェル・シェーンベルク
   ハーバート・クレッツマー
原作:小説 ヴィクトル・ユゴー
   ミュージカル アラン・ブーブリル、クロード=ミシェル・シェーンベルク
音楽:クロード=ミシェル・シェーンベルク
主演:ヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイ
国:イギリス
公開:2012年



ミュージカル映画はあまり得意ではない。

ヒュー・ジャックマンに対しても苦手意識があり今まで彼の映画はできるだけ避けてきた。

今回痛感したのは固定概念のせいで多くを損しているということだ。

舞台のミュージカルもミュージカル映画もほとんど観ないので、この映画が何度も演じられてきた名作『レ・ミゼラブル』の中でどれほどのものかは分からない。

ただ対私のみのシンプルな世界でこの映画は非常に印象深いものだった。



観ようと思ったきっかけは劇中歌「民衆の歌」の日本語の歌詞が好きだったからだ。

初めて聞いたのは偶然で、その時深いところで私の琴線にふれた。

曲の背景も知らぬまま最初のフレーズにズドーンと打ち抜かれたのだ。

「戦う者の歌が聴こえるか」

毎度だが、言葉の持つ威力に心を打たれる。

きっと英語歌詞で聞いていたらそれほど引っかからなかったと思う。

ミュージカルの世界では言わずと知れた名曲らしく、なぜか横浜Fマリノスの入場曲にもなっているのだとか。

私はこの曲がどんな局面で歌われるのかということだけを知りたくて2時間半ある、しかも苦手なミュージカル映画を観た訳だ。



今までなぜわざわざミュージカルにするのだろうという疑問があった。

しかし今回歌うことで作中に膨大なエネルギーが渦巻く様を体感した気がする。

生でないのに演者のパワーがピリピリ伝わってくる。

一番凄かったのはアン・ハサウェイの「I Dreamed a Dream」だ。

まるで命を削って歌っているかのような迫力で、感情が揺さぶられる。

この曲に出会えただけでこの映画を観た価値があると確信できる名演だ。





キリスト教徒であればこの物語をより深いところで理解できるのかもしれない。

往々にして宗教意識の低い日本人にとって宗教と人との深いつながりを心から理解することは難しい。

節操のない神頼みでは到底分からない、信じるのは唯一無二の神様だ。

その節操のなさがときに愛らしかったりするんだけどね。

神様への深い感情は想像するしかないが、分からないなりに面白かった。

あとフランスが舞台なのに英語というポップさはあるが、ミュージカルという時点でリアリティより芸術的側面を重視すればそれもありだと思った。



「民衆の歌ーDo you hear the people sing? 」はこの作品のテーマ曲のようだった。

フランス革命から数十年が経ち民衆が大政の下に虐げられ貧困に苦しむ時代、

かつて革命のために戦った者は今やパンのために戦っている。

そんな時「民衆の歌」が彼らを勇気づけ、立ち上がらせるのだ。

最後はなんか凄かったな。



戦う者の歌が聴こえるか
鼓動があのドラムと響き合えば

新たに熱い命が始まる
明日が来たとき そうさ明日が



そういえばジェラルド・バトラーがファントムを演じた2004年の『オペラ座の怪人』はなんか好きだったな。

少しミュージカルにはまりそうな予感。
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遠い源ー追記ー

2017年12月07日 | 空想日記
例えばニーチェの「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」という有名な言葉がある。

それは至る所で多用されているが、実際に『善悪の彼岸』を読んだ人がどれだけいるだろう。

私は著名人の名言が羅列された本、またそういう便利さがあまり好きでない。

私自身そういうものを読んでしまうと知ったかになるからだ。



人が意識的に情報を扱うようになって久しい。

例外を除けば言葉が発明されたときから膨大な情報の蓄積は始まったといえる。

そして私たちが実際に触れる情報のほとんどはその源を遥か遠くに据えている。

つまり事象が情報になり私たちに届くまでには多くの媒体を介しているということだ。

媒体の数に基づく言い方をすれば、私たちが普段触れるほとんどの情報は二次ないし三次、四次資料、それよりもっと遠い。

感覚的な話だ。

確か正しい使い方は一次資料が直接的な情報(資料)で二次資料が間接的な情報(資料)、それ以外のいい方(三次、四次…)はなかったと思う。

手元に広辞苑がないので何を根拠に言っているかというとこれまた曖昧な記憶だ。

ネットで調べたところで発信源がはっきりしていない時点で情報としての価値は随分低い。

信憑性云々はおいておいて、発信源がはっきりしているか否かということが情報を扱う上で非常に重要なのだ。

だから著者、編集者、発行所がはっきりしている紙媒体の情報はすんなりはいってくる。

真実かどうかというより、誰の言葉なのかということが大事なのだ。

「真実」なんてものはほとんど意味がない。



本当の意味でニーチェの言葉を理解したいならば(あくまでより近づくだけだが)、

ドイツ語を学びドイツ文化を知りニーチェの生きた時代を理解しなければならない。

しかし全ての情報に対してそこまで真摯に向き合うのは時間的に不可能だ。

だから翻訳者がいて解説者がいる。

そうして様々な解釈が介在することで一つの言葉に対する情報が膨大に増えていく。



イメージの話だけど世の中に存在する全ての情報量と時代の相互関係をあらわしたグラフがあれば、

きっとこの数年はそのグラフの形をかなり歪ませていることだろう。

時代の進行に比例して安定して増えていた情報がある一点から急速に増大している。

ある一点とはほとんどの一般人が気軽に情報の発信源になることができるようになった時点だ。

もちろん過去にも活版印刷が発明された時、ワープロが発明された時、

パソコン、インターネットが発明された時といろんな点が存在したが、SNS時代の今程の変化は見られなかったのではないだろうか。



メディアリテラシーについてよく考えるけれど、私にはその力があまり備わっていないように思う。

自分が求める情報を集めるのは得意だけど、客観的に物事を見る力が乏しい。

ニュートラルや中立という言葉はあまり好きではないけれど、あまり感情的でもしょうがない。

必死に集めた情報が元々私が欲しかった内容でしかないことに気づいた時にとても嫌な気分になる。

制作者の作った物語の上で語られるドキュメンタリー番組を見たときの気分に近いかもしれない。

伊藤計劃の小説『虐殺器官』では、信じていた日常が足下から崩れて行く様が見事に描かれていた。

自分たちの平和な日常が何の上に成り立っているのか知るのは恐ろしい。

日本人の原発に対する安全神話みたいなものが、今だってきっとそこら中にはびこっているはずだ。

ただ私はそれを見極める力が貧弱だ。

いや見たいものしか見ない力が優れているといった方が正しいか。



映画『ブレードランナー2049』を見て興味深かったことがある。

それは視覚的な情報は多いが、情報を扱う手段があまり発達していないということ。

ネオンなどの文字情報やホログラムが街の至る所に張られているが、情報の管理方法や取得方法がアナログなのだ。

未来予想図として、この社会が電脳化された超情報化社会への道を辿るであろうことにあまり疑問を持たなかったが、

最近は意外と人は情報に対して鈍感でいたいのかもしれないと思うことがある。



情報化が進むこと自体はいいとして、それに伴い自分と事象との距離がどんどん離れていく。

そういう事態に慣れると今度は直接的な諸事に出会った時、物事の捉え方が分からず戸惑ってしまうのではないだろうか。

現実を受け入れるだけの度量が欠如してしまうというか、想像力が乏しくなるというか。

そういう点に関してあまり自分を信用していない。

だからたまに直接的な情報、工的な情報に触れることも大事だと思っている。

無意識的だが植物を育てるのもその一環かもしれない。

他にも例えば気持ちいい風を素直に気持ちいいと感じられるように感覚的な情報にアンテナを張っておくとかね。

意識的な時点で限界はあるけれど。



ー追記ー

言葉を間違えるというのは怖いことだ。

今回文中で「一次情報」、「二次情報」という言葉を使ったが、私が言いたかったのは「一次資料」、「二次資料」のこと。

この間違えは意味まで変わってきてしまうので文中の文字も訂正させてもらった。

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