現在の私の仕事の中心的なもののひとつが、この地域で持続可能な開発のための教育ESD(Education for Sustainable Development)をすすめていくことだ。持続可能な社会とは、一言で言えば、生態系の中で生きる社会である。グローバリズムに対抗するバイオリージョナリズム(生命地域主義)に基づく社会である。いのちの循環の中に生きていることを実感できる社会と言ってもよい。
ところで、昨日、病院に行って、医者から内視鏡(胃カメラ)検査の結果を聞いた。それによると胃に小さながんが見つかったとのことである。ごく初期のがんで内視鏡による手術によってその部分を切り取れば完治するという説明だった。その手術の説明を受けて思わず笑ってしまった。「内視鏡的粘膜下層剥離術」といい、その略称がESD(Endoscopic Submucosal Dissection)なのだ。
医師:「おやESDをご存じですか。」
私:「いや別のESDを仕事でやっていますので。」
とぼけた会話である。
最近、私はクオリティ・オブ・デスなど、人間がどういう死に方をするのかを考えることが多く、その最中に自分ががんを宣告されるとはまことに感慨深い。いやむしろ逆か。おなかの中のがんが私に死について真剣に考えるよう関心をむけさせたのかもしれない。
がんとは自分の体に他ならない。細胞分裂する際に、勝手な形になるのががん細胞、必要な場所に必要な機能や形をとって分裂していくのが健康な細胞である。
まったく同じ遺伝子をもちながら、筋肉細胞になったり神経細胞になったり骨細胞になったりと、まったく違う形の細胞ができる。しかもそれはどこかの器官が全体をみまわして指令を出しているわけではない。一つの細胞が分裂しようとするとき、「まわりの空気」を読んで、自らの「なるべき形」を判断し、その形になるのである。これは多細胞生物すべてにみられる本当に不思議な現象だ。一方、がん細胞は「まわりの空気」が読めないやつ、ということになる。
感染症の病原菌とはちがい、がんを憎むということは自分を憎むということになるからやっかいだ。がんを憎まず、自分を肯定するおおらかさが必要だろう。
せっかくがん患者になった(?)ので、これを期に日頃はできないこともやってみたいものである。ホリスティック医療というのには前々から興味があったが、別に病気でもないのに医者にかかるわけにもいかなかった。これで大手を振ってかかれるというものだ。ESDでがんを切り取るにしても、がんになった理由があるはずで、そこのところを改善しないともっと悪いがんがでてきてしまうだろう。そういう指導は普通の病院ではしてもらえないようなので、ホリスティック医療を経験してみたい。
それにしても、おなかの中に死の種を抱えているというのはなかなか感慨深い。内視鏡なるものが開発されたおかげで、このような初期の段階で発見できた。これがない昔はもっと進行してからでなければ発見できなかっただろうし、もっと昔は、そもそもがんとはわからずに死んでいったものと思う。このまま何もせずに放置したら確実に死ぬという状態におかれると、死というものが一定の実感をもって迫ってくる。「プチお迎え」と言ってもいだろう。
ただよく考えてみれば、「このまま何もせずに放置したら確実に死ぬ」のは健康な場合でもそうである。いつかは誰でも確実に死ぬのである。日頃は死というものの実感を忘れている、あるいは見えても見えないふりをしているだけだと思う。持続可能な社会づくりのこつは、問題を資源に変えることである。この際、しっかりと死を生の糧とできるように精進したい。
「ESDでがんを切り取るにしても、がんになった理由があるはずで、そこのところを改善しないともっと悪いがんがでてきてしまうだろう。そういう指導は普通の病院ではしてもらえないようなので、ホリスティック医療を経験してみたい。」
この方向僕も大賛成です。
無理のない食生活の改善と美味しくいただくという食の基本を取り戻すことと出来るだけストレスのない日常をという帯津良一さんの自然治癒力を高める著作などが参考になると思います。
だいずせんせいの科学者としての冷静な受け止め方にも感銘しています。
この機に健康についてゆっくり考え、ぜひ健康を取り戻してください。
お大事に。
淡々と綴られているので、思わず何度も
「がん」という言葉を見直してしまいました。
どうか無理なさらずに、健やかな毎日を
過ごして下さいね。無理しないで下さいね。
ガンを敵視せず、共存する道を考えることですね。免疫力が正常であるかどうかがポイントのようです。
実は、10数年前の初夏、私も胃ガンの宣告を受けました。
その瞬間、頭の中が真っ白になりましたが、
即刻入院手術を告げられて、家に残してきた幼ない二人の息子たちが心配で、
一日だけの猶予を頂き帰宅しました。
キッチンにこもり、子どもたちの好物を作っては、次々と冷凍庫に入れました。
『もしも・・・』を想定して、古い日記・手紙もまとめて片付けました。
夜も更けた頃、ふと、一ヵ月後に迫った次男の誕生日に思いが至りました。
そして、それぞれの20歳の誕生日までの毎年の『お誕生祝いの手紙』を綴りました。
こんな風に過ごした一夜は瞬く間で、死への恐怖を感じる余裕が全くありませんでした。
幸い早期の発見で、胃の3/4を摘出して手術は無事に済みました。
入院生活は、4週間に及びましたが、
結婚以来、自分の為だけの時間をたっぷり得られ、
神様からのご褒美のような、有意義な時間でした。
読みたかった本を片っ端から読み、友人たちにも、何年ぶりかの手紙を届けました。
一番の収穫は『死』と向き合ったことで、『それまでの価値観』が大きく変わったことです。
日常に流されて、見えなかったもの、見ようとしなかったもの・・・
本当に必要なもの、大切なものは何かが、はっきりと見えたように思います。
そして、いつも『明日になったら、やろう』と考えていたことを、
『明日はない、今すぐ始めよう!』と考えるようになりました。
あと、周りのみんなへの感謝の気持ちから、ほんの少し優しい私になれたような気もします。
あの時間は本当に『神様からのご褒美』かも知れません。私はそう思いました。
高野さんも、たくさんの素敵な発見に出会えますよ。きっと・・・
ガンも『早期発見』ならば、絶対大丈夫!!!
今は手術以外の方法もあるのでしょうか・・・
でも、少しゆっくりなさって、
お体は十分に労ってくださいね・・・
先生が病気になったことを読んでとても不安であり、自分の気持ちをまっすぐ言ってほしいです。そんなにがんばって下さる先生が病気にならないように、いつもこちらの方からお祈りしております。今日は冒頭から読んで頭がガーントぼんやりしました。でも、読めば読むほど先生の鋭さに感心しました。死は誰でもいつか迎えるはずです。悲しいよりも空しいことが怖く思います。親友(34)がリンパ癌で先月なくなった時に私はその無力感をしみじみ感じました。
先生がおっしゃったとおりに、「日頃は死というものの実感を忘れている、あるいは見えても見えないふりをしているだけだ」。一番簡単な例としては、大体の人は人生の最後にベッドで死を迎えるのでしょう。実は、ベッドに行って一日を終わるのは私達は毎日に繰り返しています。同じ場所で生と死が同棲しますが、日ごろは「彼岸」のことを忘れやすいです。しかし、いつか死が訪れることを覚えるよりも、毎日を充実に過ごして、自分なりに生きているのは一番すばらしと思います。
私は今まで浅い人生体験の中に、臆病になったり、諦めたくなったりするとき、その死のことを思い出して、どこか不思議な力が出られます。毎日、毎分、毎秒はこの人生の中にかけがえのないものなので、大切にしなければなりません。ということで、私は在日本の毎日を充実に過ごすようにがんばっております。また、先生とのお知り合いは縁であり、神様に感謝の気持ちで先生に教わる幸せさを大事にしたいと思います。古い漢文ですが、「一日わが師であり、一生我が父ともなる」(中文日訳は下手ですがすみません)。先生のことをいつも応援いたします。それでは、元気で毎日を!
水都の風さま>貴重な体験談、ありがとうございます。私も入院生活を今から楽しみ(?)にします。
さっそく、がんについて勉強をはじめました。「周囲の空気を読めない」細胞というのは、毎日百万個も生まれているけれども、ほとんどすべては免疫系によってやっつけられているそうです。その免疫系をかいくぐって生き残るほどの力を身につけた(遺伝子を変異させた)一つの細胞ががんとして増殖をはじめます。これは確率的なことなので、ある意味では十分長く生きていれば必ず起きます。それが目に見えるほどの大きさになるのには長い年月(20年とか)がかかるそうです。
ということは、がんというのは、やはり病気というよりは、正常な死へのプロセス、老いの一部ということかと思います。今回のがんを切り取っても、別のところに目に見えない大きさのがんが静かに増殖し続けているかもしれない。というか、それはほぼ確実なのではないでしょうか。まぁそれが命にかかわるほど大きくなるのにあと20年くらいかけてもらうとちょうどよいのかなと。
右肩上がりの成長の時代が終わり、これからはなにごとも右肩下がりの時代がはじまる、と私はいつも講演などで話をしていますが、私の人生自身が成長のプロセスから死へのプロセスのフェーズに入ったということかなと思います。
きょうかみさんに「何かいいことあったの?」と聞かれました。なんだかうれしそうだったようです。これからは細かいことに拘る必要はないし、くだらないことにおつきあいすることもない、功を焦る必要もない、好きなこと(次の世代の世の中のお役にたてること)だけやっていればよい、とシンプルに暮らせていけるような気がします。
http://healcancer.jugem.jp/
私の家系に「がん」は、なじみが薄いのですが、胃や腸ののポーリーぷは、両親共に経験...
どちらも、良性だったとのこと。
良性か悪性かは、転移と増殖性にある。
転移しても、そこで増殖しなければ良いことだし
増殖しても、転移しなければ良い。
それがいつどう変化するかわからない。
だから、不安をもあおる、やっかいなものなのだ
がんについての知識が深まってくると同時に、今の日本のがん医療がかかえる問題の深さも見えてきました。治療によって命を縮めるということがしばしばあり、情報が錯綜しており、また、「故意の誤報」のようなことが非常に多くて、医者や専門家の言うことを信用せず、基本的に自分の頭で考えろということのようです。科学者としての力がためされますね。
>転移しても、そこで増殖しなければ良いことだし
>増殖しても、転移しなければ良い。
確かにここがひとつのポイントのようです。こういうやつを「がんもどき」というそうです。おでんの具みたいですね?!
私はいつも自分が試練や壁にぶちあたった時に神様をおぼえます。(要するに困ったときの神頼みっていう感じです・・・笑)
そういう時は少しだけ聖書の言葉に励ましてもらいます。
新約聖書:コリントⅠ10章13節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練にあわせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
先生がんばってください!!
私もがんばります!!
私は「教えない・教えられる教師」を標榜しておりますが、こんなふうに学生から「はげまされる教師」になれて光栄です。(がんになった甲斐がありました(笑))。すばらしい言葉をありがとう。
今日、こどもとテレビのアニメを見るともなく見ていたら、エンディングソングで「・・自分が好き、自分かきらい・・・」というようなありがちな歌詞が流れました。そうしたら、6歳の息子が「どっちなんだよぉ」と言います。「おまえは自分のこと好きかい?」と私が聞くと、「うん!」と答えたあと、「きらいだったら死ぬやん」とこともなげに言いました。
現代におけるがん医療の大きな問題は、がんを敵視し、やっつけようとするところから来ている、という指摘があちこちから出ています。がんは自分自身。それがきらいだったら、ますますがんは進行してやがて死に至る、という本質を、6歳のこどもがずばりと言ってのけたことに、私はびっくりしました。やはりこどもはいのちの大河に近いところにいるのでしょうね。大人になるとだんだん遠ざかってしまうのでしょうか。
息子の頭をなでて、「おまえようわかっとるなぁ」とほめてやりました。
先日がんで亡くなった松田優作のHPを偶然見た。少し大げさだが自分の死が近くにあることを感じた。そして不思議なことにとても気が楽になった。告知されたわけでも無いが、以前は死を想像するだけで怖かったのが今は自然な気持ちで想像することができる。できることなら痛い死に方は避けたいとは思うが。
32年間マイナス思考のかたまりみたいな人生を送ってきたがここに来て少し楽になった。最近スリランカの原始仏教に凝っている。悟らずに死んだら次は死んだ時点からやり直すだけだそうだ。頑張っても頑張らなくてもやった分だけはきっちりカウントされて生まれ変わったら再スタート。ちなみに怒るとその分後戻りしちゃうらしい。そんな風に考えると人生そう悪くない。折り返し地点を過ぎた人生楽しく過ごしたいものだ。
daizu先生
今度楽しく飲みましょう。