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長宗我部ファンクラブ通信・・・2013年 如月号(2月13日発行)

2013-02-13 | 長宗我部なんでも情報

長宗我部ファンクラブ通信・・・2013年 如月号(2月13日発行)

 

日中は暖かくて、夜は冷え込むという日が続いていますが、体調の方は

みなさん大丈夫でしょうか?すでに花粉が飛び始めたと言いますし、大気汚染

も心配な今日この頃です。日頃の健康維持が大事ですね。

 

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┃(1)1月13日、第一回合戦ウォークが開催されました!!

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 この日は天気が心配されましたが、何とか日中は曇りでしたが天気がもち、

ウォーキングが終了した夕方からの雨となりました。日頃の行い…というより、

元親と国虎の加護でしょうか?

 安芸方は安芸駅から国虎の菩提寺・浄貞寺を訪れて墓参、その後国道から山

へと入り、新城城跡や穴内城跡を巡っての決戦場所到着となりました。

長宗我部方は夜須駅から殿の号令の元に出発、道の駅を訪れた方々やコースで

出会った方々から、「どこまで行くの?」「なんのイベント?」といった質問が

ありまして、合戦ウォークの説明をすると「頑張ってね。」と誰もが笑顔で

応援してくれました!普段サイクリングコースを通らないので、新鮮でした。

 また、芸西村の海水浴場近くでは「萩森城」という愛媛の南予にあったお城

について、その子孫の方と思われる年配の男性が、ウォーキング参加者の方に

熱心に話をされていました。何でも萩森城も長宗我部に攻められたが、降伏する

ととても丁寧に扱ってくれて、それまでの支配権も認めてくれて…という話でし

たが、小耳にはさんだ程度で詳しくは聞けませんでした…ウォーキング中で無け

れば、もっとちゃんと話を聞いてみたいと思いました、はい(笑)。

 穴内公民館での決戦は………安芸方の「ちりめん丼」と「ナスのフィナンシェ」

が圧倒的勝利でした……れ、歴史が変わりました……次回はぜひとも、安芸に

リベンジを挑みたいですね!!

 安芸方からは「今度は岡豊に攻めていこうじゃないか。」

という話も合ったそうで、今回の合戦ウォークは大好評、大成功で終わることが

出来ました。

 

 実行委員として頑張ってくださった馬楽さんや、安芸の観光協会の方は本当

にありがとうございました、そしてお疲れ様でした!!

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┃(2)来年度より新体制を発足させるため、現在色々調整中です

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  来年度、4月より新体制に移行するため、現在会則や会員登録について

見直しをしています。また、詳しいことが決まりましたら改めてお知らせし

ますが、現段階では、会員制として正式な登録と管理、年会費の設定を行い、

会員証の発行も行おうという運びになっています。また、ホームページの

新設を行い、インターネット環境が無い方も考慮して季刊誌の発行も予定

しています。ホームページと季刊誌には投稿欄も設けて、投稿ページを

増やしたり会員同士の交流も活発にしていきたいと思っています。

 

 また、詳しいことが決まればお知らせします。

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┃(3)宗我部さんは長宗我部の子孫?

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 つい先日、知り合いと飲む機会がありまして、色々話をしていたのですが、

その方は岡豊城跡がある豊岡山のすぐ北側の地区に住んでいるそうです。

何でも、その方の話を聞くにご先祖は「山内家を見張るため」に土佐へ来た

武士であり、今住んでいる岡豊で土着したそうです。そうした身分であった

ために特に土地は持ってなくて、明治維新後、一気に落ちぶれてお墓を建てる

ことすら出来ないほど貧乏になったそうです。実際、高速道路ができるので先祖

の墓を移すということになり、建設予定地の江戸時代期の墓がある場所に初めて

入ると、近代に建てられたお墓(明治以降は家の近くの土地に建てていたとの事)

よりずっと立派な石造りのお墓があって、驚くと同時に明治以降の石を敷き詰めた

だけの お墓を思い浮かべて「土地持ってないので一気に落ちぶれたんだなぁ」と

感慨深くなったそうです。

 ご本人は「山内家を見張る」と言ってましたが、場所が場所(長宗我部家の

本拠地のすぐ近く)だし、山内家というより、長宗我部の血縁(直系ではなく、

傍流や分家筋)や元家臣達(谷忠澄さんの一族も確かこの辺りにいたはず)を

見張るための様な気もするのですがね…。特に歴史が好きという訳でもないし、

口伝で伝わっているらしいのでそのあたりを問いただすのも微妙で、話を追及は

しませんでしたけれど。

 その中で、その方の母方は長宗我部の血筋だというのですよ。なんでも母方は

「宗我部」さんで、長宗我部の子孫だというのです。もちろん、元親より前に

分かれた家だったが、関ヶ原で敗れてから長宗我部の血統と知られるのがまずい

ということで、「長」を除けて「宗我部」と名乗ったんだと言ってました。

残念ながら母方なので、家系図は残ってないし、誰が始まりなのかはわからない

と言ってました(父方は土佐に来てからの分がしっかり残っているそうです)。

「宗我部」という名字については、一説で秦氏が土佐に来て土地の支配者クラス

で「宗我部」が多いと聞き名乗ったものの、近くにも「宗我部」さんがいて、

区別つけるために「長」と「香」をつけて、「長宗我部」と「香宗我部」と

なった話もあるので、口伝で伝わるお話を鵜呑みにすることはできませんが、

これはこれでロマンがあっていいのかな?とも思いました。

 先祖が家を開いた場所と歴史の流れを考えると、本当に人の歴史と時代の流れ

を感じるな、としみじみ感じ入りました。

 今回は特に史跡巡りをしていませんでしたので、私事になりました。

しかし、自分の名字や住んでいる土地、家の事を知るのも楽しい事だと思い

ませんか?という話をしてみたかったのです、はい。

 

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┃(4)~~坂崎の史跡紀行(後編)~~

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(2012年師走号からの続き)

 結果、元親が秀吉に媚びへつらってまで必死に守り抜こうとした土佐は取り

上げられ、家は潰されました。土佐は山内の支配を受け、その後苛烈な身分

制度を設けられて長宗我部家旧臣達は苦渋をなめることになった…。元々

長宗我部家の家臣(厳密にいうと津野家)だったという母方の影響もかなり

あると思いますが、やはりその後の土佐を思うと許せないという感情が強い

のです。

 しかし、一方で大坂の陣では自らの不明を知りもう一度土佐(この場合国

と民)を取り戻そうと戦に臨み、そのために生き抜こうとした姿は真田幸村は

また違った意味で最後の戦国武将としての気概も感じてはいました。だから、

全く嫌いだとも言えないのですが、やはり県外ということもあり、親和や親忠

ほど「お墓詣りに行きたい!!」というほどのものではありませんでした。

でも行く気になったのは23日夜に話す機会があった盛親が好きだという方

(長曾我部最高委員会から出席された女性)の影響がかなりありました。

彼女がいなければ墓参りに前向きにならなかったでしょう。

 主たる目的は別だったのですが(関ヶ原町の某武将隊だったし・笑)、

利用した高速バスが京都発だったので、観光ついでに…と足を向けました。

蓮光寺は京都の人も良く知らないと言ってましたが、地図を持って行っていた

ので、聞きながら無事につくことができました。お寺に着く少し前から雨が

降り始めていましたが、さほど強い雨でもなく、コートのフードで十分でした。

 お寺の方では法事をされているのか読経が聞こえており、その中を失礼に

ならないよう足音をなるだけ立てずにお墓のある奥へと進みました。

墓地の突き当りにある、五輪塔。そこが盛親のお墓。手を合わせたものの、

うまく言葉が出ませんでした。恨みつらみはある、でもそれを言うのは私

ではないし、400年前に亡くなった方に対してぶつけるものではない。

かといって最期のおそらく初めてであろう自分自身の判断である大坂参戦を

賛辞するのも違う…う~~ん、今は世は戦がなく平和です、土佐も多少変わり

ましたが、天地の有様は変わりありません…というよくわからないものに

なりました(苦笑)。

 謝罪のために大坂に赴き、そのまま土佐に帰ることが許されなかった最後の

殿様。取り返すことのできなかった国と民。異郷の地で眠っていますが、

そのまどろみの中で見る夢はやはり土佐の天地なのでしょうか?……

帰りたくても、帰れない故郷。でも、その故郷には己が奪ったものが

たくさんある。だから、取り返したかったのではなかったのか?取り返すまで

土佐に帰れないと思っているのではないか?そんな思いが頭を過ぎりながら、

帰途に着きました。

 

※8日発行予定が本日に遅延しました。お詫び申し上げます。

■ ご意見、ご感想などはお気軽にどうぞ!

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発行    :長宗我部ファンクラブ

お問合せ  :dokodemodoa0328@yahoo.co.jp

 

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
光秀にとっての本当の四国問題 (明智憲三郎)
2014-02-21 18:30:25
 明智光秀謀反の動機として四国問題が言われていますが、メンツや出世のレベルではない本当の問題を拙著「本能寺の変 431年目の真実」で解いています。読者より圧倒的な支持を得て、発売以来3か月ですが7万部。ご覧になって、是非、本当の歴史を知っていただきたいと思います。
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曽我部さんでは? (明智憲三郎)
2014-04-08 21:07:49
 先日、講演会で曽我部さんという方から、「なぜ、長宗我部と書くのか?長曽我部だ」と言われました。私も迂闊でしたが、確かに元親は長曽我部姓ですし、曽我部の地から発したが故に、長曽我部であり、香曽我部でした。
 昨年、長曽我部氏のご子孫にお会した際に「明治政府が叙勲の際に、どういうわけか曽でなく宗と書いてきたので長宗我部が正式になった」と聞きました。ちなみに、そのご子孫は長曽我部姓です。
 研究者がことごとく長宗我部と書いているため拙著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)でも長宗我部と書きました。でも、曽我部さんのご指摘の通りですので、その旨の注釈を次版で追記することにしました。
 このファンクラブのタイトルも長曽我部に替える方がよいように思いますが、いかがでしょうか。間違いなく元親本人は「長曽我部元親」でした。
返信する
長曾我部を宣伝します (明智憲三郎)
2014-05-12 21:20:14
 拙著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)も初版は「長宗我部」と書いてしまったのですが、7刷からは注釈を付けて本来は「長曾我部」である旨を書きました。15万部の内の最新7万部にはこの注釈が書かれています。今後さらに部数が伸びて、「長曾我部」の理解が広がることを期待しています。
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