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長宗我部ファンクラブ

目指せ!長宗我部、大河ドラマ化!

長宗我部元親・・・永国淳哉

2012-05-22 | 長宗我部元親に関すること

長宗我部元親・・・永国淳哉

長宗我部元親(一) その1・・・永国淳哉

長宗我部元親(一)その2・・・永国淳哉

長宗我部元親(一)その3・・・永国淳哉

長宗我部元親(一)その4・・・永国淳哉

 

長宗我部に関する主な記事 目次

 長宗我部ファンクラブ 

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから

 

 

 

 


5月23・24日、長宗我部ツアーで若者35名が来高・・・その3

2009-05-26 | 長宗我部元親に関すること
昨年11月に続いて、5月23・24日、長宗我部ツアー(インターネットで結びついている長宗我部最高委員会の皆さん)で35名が東京など各地から来高しました。

5月23日、一行は国分寺を参拝し、岡豊城を散策(高知県歴史民俗資料館 宅間館長が講師)しました。

そして、5月24日は朝倉城址を散策し、11時からの若宮八幡宮での「長宗我部元親初陣祭」に参加しました。

「初陣祭」














参加した若者の中から選ばれた人たちが、長宗我部元親銅像の台座をたわしで洗ったり、高所作業者に乗って排ガスなどの付着物をふき取る作業に参加していました。

長曾我部最高委員会では、長宗我部ブームをもっと盛り上げたいと、大河ドラマ化を目指した署名活動をしています。

長宗我部ファンクラブ」にも署名用紙がプリントアウトできるようにしてあります。

http://www.webrush.net/tukasa1/Tosa-ryoumakaisya/cyosokabe-taigadoramaka.html
県内では、若宮八幡宮と県立歴史民俗資料館で受け付けています。



HN:サカチャン

5月23・24日、長宗我部ツアーで若者35名が来高・・・その3
5月23・24日、長宗我部ツアーで若者35名が来高・・・その2
5月23・24日、長宗我部ツアーで若者35名が来高・・・その1

5月23・24日、長宗我部ツアーで若者35名が来高・・・その2

2009-05-25 | 長宗我部元親に関すること
昨年11月に続いて、5月23・24日、長宗我部ツアー(インターネットで結びついている長宗我部最高委員会の皆さん)で35名が東京など各地から来高しました。

5月23日、一行は国分寺を参拝し、岡豊城を散策(高知県歴史民俗資料館 宅間館長が講師)しました。

そして、5月24日は朝倉城址を散策し、11時からの若宮八幡宮での「長宗我部元親初陣祭」に参加しました。



朝倉城址を散策その2



やっと到着です。人それぞれの感じ方、行動がありました。








歴史に詳しい近森さんの説明を熱心に聴いていました。













11時からの若宮八幡宮での「長宗我部元親初陣祭」に間に合うよう急ぎ足で下山です。



HN:サカチャン



5月23・24日、長宗我部ツアーで若者35名が来高・・・その1

5月23・24日、長宗我部ツアーで若者35名が来高・・・その1

2009-05-25 | 長宗我部元親に関すること
昨年11月に続いて、5月23・24日、長宗我部ツアー(インターネットで結びついている長宗我部最高委員会の皆さん)で35名が東京など各地から来高しました。

5月23日、一行は国分寺を参拝し、岡豊城を散策(高知県歴史民俗資料館 宅間館長が講師)しました。

そして、5月24日は朝倉城址を散策し、11時からの若宮八幡宮での「長宗我部元親初陣祭」に参加しました。


朝8時30分、バス到着。ここからは乗用車6台に分乗して朝倉城のぼり口までピストン・・・



近森さんの丁寧な説明を聞きながら、一行は一路朝倉城址へ。







眼下に高知大学などを眺めながら・・・参加者は実に熱心です。





竹が密集する竹林の急な坂を上ります。







跡最上部に到着。地元の私は初めての経験ですが、参加者の中にはすでに何回か来ている方もおられるようでした。(明日につづく)

HN:サカチャン



11/23 長宗我部供養祭ツアーに参加しました

第17回「近江屋対談」・・・「長宗我部元親の魅力」面白かったですよ!

2009-05-25 | 長宗我部元親に関すること
5月23日、坂本龍馬記念館で開催された第17回「近江屋対談」・・・「長宗我部元親の魅力」に妻と一緒に参加しました。

対談前には恒例になった「桂浜水族館」学芸員・丸林友文さんによる紙芝居がありました。

毎回これも楽しみの一つです。



「長宗我部元親の魅力」

元親が長浜 の「若宮八幡宮」で初陣戦勝祈願をしたのが5月26日とか、のタイミングで開かれた対談でした。

坂本龍馬記念館の三浦学芸員が聞き出し役になり、、「若宮八幡宮」の宮司・大久保千堯さんと県立歴史民俗資料館の学芸員・野本亮さんに迫りました。







最近若い世代に人気の戦国武将・元親の魅力の秘密は・・・戦国バサラ!

長宗我部最高委員会が「長宗我部の大河ドラマ化」の取組みもしており、単なる一過性の人気で終わらないのでは・・・そう在ってほしい・・・。

入り口はゲームであっても、結構勉強されていて、質問に戸惑ったことも・・・

岡豊城から浦戸城へ出てきたのは、浦戸が地形的にも水運・海運の拠点だったため・・・など三浦さんの素晴らしい引き出役に、お二人が歯切れ良く説明されていました。

随分新しい情報を得ることが出来、実に楽しいひと時でした。

HN:龍馬


高知県立図書館HPで・・・長宗我部元親*特設ページ

2009-04-22 | 長宗我部元親に関すること
高知県立図書館HPで

長宗我部元親*特設ページ

(以下はHPより抜粋)

★長宗我部元親を知ろう★
 
 近年、女性や若者を中心に戦国武将ブームが広がっています。戦国時代を扱ったゲームソフトや大河ドラマの影響が大きいそうですが、武将ゆかりの史跡や各地の歴史資料館、博物館などにも女性や若者の姿が目立つようになってきたと聞きます。徳川家康や伊達政宗などはもちろんですが、特に関ケ原で敗れ、家系が江戸時代まで存続しなかった大名が人気のようです。

 土佐は長宗我部。3年前の『功名が辻』で注目された山内一豊・千代夫妻に代わって、一豊の前の国主で四国制覇を成し遂げた武将元親の人気は、その一族滅亡の悲話とも相俟って全国的にも沸騰中です。

 このたび、高知県立図書館では館所蔵資料の中から元親を、そして長宗我部一族とその時代を知るためのマニュアルを作成しました。

 来年(2010年)は大河ドラマ『龍馬伝』で坂本龍馬と岩崎弥太郎に注目が集まります。しかしその前に・・・今年は土佐の戦国時代に思いを馳せ、長宗我部元親にどっぷりと浸ってみませんか。



HN:長宗我部ファンクラブ事務局



長宗我部氏にとっての本能寺の変~織田政権の視点から~

2009-03-13 | 長宗我部元親に関すること
高知県若宮八幡宮HomePageより

國學院大學院友会発足120周年記念事業

 『長宗我部氏にとっての本能寺の変』
                   ~織田政権の視点から~          


      全国制覇を謀ろうとする織田信長の眼に
             四国を制圧しようと怒涛の進撃を続ける
                     元親の姿はどう映っていたのだろう...



日  時 :平成21年3月21日(土) 開場:午後1時30分 開演:午後2時 
   会  場 :高知会館 (高知市本町5-6-42)
   講  師 :三重大学教育学部教授 藤田達生先生
         :高知県立歴史民俗資料館学芸員 野本 亮氏
   主  催 :國學院大學院友会高知県支部
   定  員 :300名
   入場料 :無料
   問合せ :〒781-0270 高知市長浜6600  若宮八幡宮
                          Tel 088-841-2464
                          Fax 088-841-2463



國學院大學院友会発足120周年記念事業 ご覧ください。


「長宗我部ファンクラブ」事務局

長宗我部元親(一)その4・・・永国淳哉

2009-03-09 | 長宗我部元親に関すること
長宗我部元親(一)その4         永国淳哉    (「城山」創刊号より)



国親の遺言「本山を討て」


 本山勢を浦戸城まで追い込んだ国親は、すかさず兵を送りこみ攻めたてた。

海に突き出した山城の守りの固さを知ると、長浜の若宮八幡宮の前から海ぎわまで柵を作り、海には船を浮かべて食料供給ルートを遮断する作戦にでた。


 しかし、浦戸城は堕ちなかった。ここまで追込みながら、本山にとどめを刺すことなく国親は、囲みをといて対岸の種崎城へと急に引き上げた。
 国親は、五十七歳。戦闘に疲れ、すでに体調を崩していたのであろう。長浜城の合戦から一月もたたない六月十五日、長子元親を枕元に呼びよせ、遺言した。


 「我が為には、本山を討つより外に供養なし。我死せば、十七日の間は、世法に随ひて汝が心に任すべし。夫れ過ぐれば、喪服を脱ぎて甲冑に換へ、軍議を専らにすべし。此皆堅く心得よ」(土佐物語)
 こうした間、本山茂辰は浦戸城をのがれ、朝倉城に新しい力を結集し
はじめていた。


 元親は、種崎城に江村小備後、茂辰の引きはらった浦戸城に弟の親貞を置き、長浜城は破却。

自分は、もとの岡豊城からの出発。本山打倒から、さらに土佐の統一への作戦を開始した。



土佐統一から四国制覇へ

 本山を討ち、安芸の国虎を自刃に追い込み、吉良、津野の勢力を陥落させ、やがて一条にも銃を付き付けることとなる。つぎつぎと陥れていった各地の豪族とも、嫁婿のやりとりで長宗我部家と深い姻戚関係にあった。

そうした義理も無視して、それらを撃退するのは戦国の習わしとしても、一条は父国親の育ての親である。長宗我部一族の再興を祈願し、岡豊城への長宗我部一族の復帰を実現させた恩人。

その一条をも放逐してしまったのである。


 そして矛先は、再び東に向かい奈半利城、野根城とおとしいれ、ついに甲浦にいたる。元親初陣より、わずか十五年。天正三年(一五七五)
この甲浦城の陥落で、長宗我部元親が「土佐統一」を宣言するのである。


 天罰を覚悟で成し遂げた、元親の土佐平定は「土佐の出来人」の評判とともに、周辺の村々の間では恐ろしい「鬼」の噂となってひろがっていった。



 もはや止まることをしらない元親軍は、ただちに阿波侵攻に着手。たちまち阿波東南部を手中におさめ、続いて中央部から四国山地の峠を越えて進軍した。


 元親が、四国制覇の最重要拠点と睨んだのは白地の要地。阿波池田の町はずれ、吉野川をまたぎ国道のインターチェンジのあるあたり。

その城跡には、いまは郵政省の白地簡易保険保養センターがあり、誰でも気軽に宿泊できるようになっている。
 この白地城を中心舞台として、四国各地で激戦が続く「長宗我部、魔の十年」となる。天正十三年(一五八五)瀬戸の海を渡ってきた豊臣秀吉軍と長宗我部軍の間で、和議が成立したのも、この城であった。(つ
づく)

財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載



城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」


長宗我部元親(一)その3・・・永国淳哉

2009-03-04 | 長宗我部元親に関すること
長宗我部元親(一)その3          永国淳哉   (「城山」創刊号より)



元親初陣をかざり、本山氏を破る

 元親の初陣は、復帰した父の国親が本山氏と再び激突した長浜城(高知市)の戦いであった。

 本山氏は、養明の子・本山海渓茂宗の代に南下し、大きく勢力をのばし、その次の茂辰の代で、中央部の土佐郡、長岡郡、吾川郡の主要地をほとんど全て、その手中におさめていた。

中央部東方の岡豊城に落ち着いた長宗我部国親は、戦国大名の常として、その三人娘の一人、すなわち元親の妹を、宿敵・本山茂辰に嫁がせていた。


 そうした情勢の中で、国親も南下し、すでに本山氏に属していた中央部の秦泉寺城、大高坂城、国沢城、久万城とつぎつぎ攻め落としていった。

 そして永禄三年(1560)長浜戸の本において長宗我部と本山の両軍は、直接刃を交わすことになった。元親は、二十二歳の若武者になっていた。

 虎視たんたんと、起死回生の機会をまっていた国親にとって長男・元親の成長は何にもまして心強かったに違いない。

 事件は、浦戸湾(高知市)からおこった。その六百年程前には、同じ場所を船出した紀貫之が和歌をおりこみながら「土佐日記」をしたためたところである。

 長宗我部が、大津から湾口の種崎の出城に向けて出した船を、対岸にあった本山の支城の潮江の城兵が襲い、水主を殺害して兵糧米を奪った事件に端を発した。

 国親は、本山茂辰に抗議したが、誠意のある返事がなかった。反撃の口実はできた。永禄三年(1560)五月二十六日の夜、長宗我部軍は、種崎から浦戸湾を渡り、本山の長浜城を奇襲した。

 本山茂辰は、その報を朝倉城で聞いた。明朝さっそく兵2500余をととのえ長浜に向かった。長宗我部の兵1000余。兵力では本山がはるかに優勢であったものの、初陣の元親をもりたてて、長宗我部の勢いは凄まじかったという。

一時は、茂辰の指図で、元親は大勢の兵に囲まれたが「元親を討たすな」の国親の声に、勇猛果敢な江村小備後の指揮する一段が、槍先をそろえて突進。多勢の包囲網を、突き破った。
 茂辰は、湾口の浦戸城に逃げ込んだ。


財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載





城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」



長宗我部元親と本能寺の変

2009-03-01 | 長宗我部元親に関すること
従来の歴史研究では、長宗我部元親と明智光秀との関係の把握が不十分であり、このため本能寺の変との関連性も重視されてきませんでした。

 三月四日に出版となる拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(amzonで予約受付開始済み)の中で、従来の説を覆す以下のような新しい視点を提示しています。長宗我部ファンクラブの皆様を始め、長宗我部氏に関心をお持ちの方はご期待ください。

①元親と光秀との関係は天正三年の元親・信長同盟の時に始まったのではなく、それより10年ほど前とみられる。(本能寺の変から遡ること20年近く前)

②元親と光秀との間を取り持ったのは光秀家臣の斎藤利三といわれているが、むしろ彼の実兄の石谷頼辰(いしがいよりとき)とみられる。頼辰は元親の正室の兄。本能寺の変後、土佐に逃れ、娘は信親(元親の嫡男)の正室となった。

③元親と光秀との関係は信長への取り次ぎといったものではなく、畿内・四国同盟といった強固なものとみられる。そのキーとなったものは「土岐氏」である。土岐氏は一族の強固な結束力を誇る一族であり、石谷氏も明智氏もその土岐氏一族であった。

④織田信孝を大将とする長宗我部征伐軍は本能寺の変の翌日に四国へ出陣の予定であった。この阻止が謀反の目的のひとつであった。ただし、これが全てではなかった。織田信長が進める織田家長期政権化の施策により、光秀が盟主となった土岐氏にはさらに大きな危機が降りかかってきていた。

                                             明智憲三郎



明智憲三郎  さんの記事

長宗我部元親(一)その2・・・永国淳哉

2009-02-23 | 長宗我部元親に関すること
長宗我部元親(一)その2    永国淳哉   (「城山」創刊号より)


元祖は秦の始皇帝

 長宗我部の名が、高知の歴史に現われるのは、南北朝の初期である。
足利尊氏の関係文書の中に、土佐の長宗我部新左衛門が登場する。

 この人物は、康暦年間(一三八〇年頃)室町幕府の管領職の名門、細川氏に従い、土佐に進出した一門といわれている。
 大陸渡来の太唐人・秦氏を元祖としているといわれている一族である。

秦の始皇帝十二世の孫・功満王あるいは融通王などが、波多姓を賜り、信濃の国で力をつけた秦一族の出身という。

土佐中央部の長岡郡宗部郷に住みつき、地名から長宗我部を名乗ったであろうといわれている。
 他頭職を与えられた長宗我部新左衛門信能を初代として、元親は二十一代目となる。

 この二世紀の間に細川氏は、四国各地の土豪や地頭を支配下に組み込み、しだいに守護領国化していった。

阿波を根拠地として、勢力を延ばし、讃岐一帯を傘下におさめると、一族の細川頼益を土佐に派遣して、さらに領国化の輪をひろげていった。


 しかし、応仁の乱(一四六七年)で、事態は一変した。京都の都での戦乱は、全国に波及。巻き起こった下克上の嵐の風潮の中で、当時の守護代、細川勝益も土佐を去らざるをえなくなった。

守護領国は崩壊し、土豪は独立をもくろみ、互いに勢力を争いはじめ、群雄割拠の戦国時代
へと突入していった。


 土佐だけでも七百近くもあったといわれる山城海城も、長宗我部元親の代の頃にはついに「土佐の国七郡、大名七人、御所一人」(長元物語)といわれるまでに淘汰されていった。

 すなわち、「御所」といわれている四万十川流域の公家大名・一条家。

応仁の乱を逃れ、土佐国幡多郡に所有していた荘園を頼ってきた関白の一門である。それに津野、大平、吉良、本山、安芸、香宗我部、長宗我部の七守護大名である。


祖父・兼序自刃、一条家へ

 ラストステージに残った「七人守護」の争いは、中央部の本山氏と長宗我部氏の雌雄決戦から展開していった。
 元親の祖父にあたる長宗我部十九代兼序も名将の誉れ高い人物であった。

「武勇才幹衆に越え、大敵を見ては欺き、小敵を侮らず、寡をもって衆に勝ち柔をもって堅を挫くこと孫呉が妙術を得たる大将」(土佐物語)細川氏の庇護のもとで「威勢甚だ盛ん」であった。

 しかし、長宗我部が頼りにしていた守護大名細川氏の勢いが弱まり、永正四年(1507)細川政元が殺害されると、さすがの兼序も窮地にたたされた。

翌年、長宗我部領内の農民と本山領内の農民の水争いを火種に、本山養明を中心に、周辺の吉良、大平、山田、の連合軍三千余騎に攻め込まれ、ついに岡豊城は落ちた。

兼序は、幼少の千雄丸を家臣に預け、西の一条家に赴かせ、夫人と娘を伴い自刃して果てた。
 千雄丸は、四万十川のほとりの一条家で養育せられ、子供のころは軍記物語を好み、大蛇が人を呑み込むような豪快な話を好んだといわれている。

当主の一条房家が「この高い二階からとび降りるなら、長宗我部の家を再興してやろう」と、冗談にいったところ、当時まだ七歳頃の千雄丸は、いきなり屋根から下に跳んだという。


 「此の子眼ざし平人に非ず。成人の後に家を起こさん」(土佐軍記)と、一条房家の信を得た。やがて本山、吉良、大平、山田の間の仲介役となり、永正十五年(1518)に千雄丸の元服式をとりおこない、長宗我部国親と名のらせ本拠の岡豊に帰城させた。


財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載





城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」

長宗我部元親(一) その1・・・永国淳哉

2009-02-21 | 長宗我部元親に関すること
長宗我部元親(一) その1・・・永国淳哉  (「城山」創刊号より)




戦国末期ついに四国平定をなしとげ、「四国の鬼」とうたわれた長宗我部元親。
 しかし、その「鬼」のうけとりかたが、四国内ですら県によって全く違う。


 出身地高知では、勇猛果敢な戦国の名将としての「鬼」である。ところが四国の他県では、とんでもない話。長宗我部は、かって生きた人間を食い散らした聞くも恐ろしい「鬼」である。


 高知県境に近い愛媛線喜多郡内子町出身のノーベル賞作家、大江健三郎氏は、その代表作「万延元年のフットボール」でこう著述している。


 「チョウソカベはあらゆる時間と空間に偏在している、恐ろしく巨大な他者だ。僕が反抗すると、祖母はチョウソカベが森からやってくると威嚇したが、その声の響きは、幼児の僕のみならず八十歳の祖母自身にも、われわれと同時代に生きている恐ろしく巨大なチョウソカベの気 を実感させた」


 長宗我部元親の出城である岡豊城の跡地(南国市)高知県立の歴史民俗資料館が完成した時、「土佐人は、自分たちの歴史の恥を知っているのか」との、憤りの手紙を他県より頂戴し、いまさらながら驚いた。


 「元親の最後の居城だった浦戸城の本丸跡に、県立で坂本龍馬記念館 を建てる史観錯乱の土地柄だから、今さら文句をいっても仕方ないでしょう」という中央の歴史家もいた。



戦国武将の悲しいさだめ


 高知市長浜にある元親の墓所の立札には、次のように書かれている。
 「長宗我部元親(一五三九~一五九九)初陣永禄三年(一五六〇)二十二歳の時、長浜で本山氏と戦い、以後十五年間に本山、安芸、一条の群雄を滅ぼして土佐を統一。続いて十年経て四国を併せたが、豊臣秀吉に降って土佐を保つ。


 翌天正十四年(一五八六)豊後戸次川戦に大敗後は、領国支配の刷新を図り、検地、城下町建設、掟書制定に当たり、政治家として、面目を発揮したが、慶長四年(一五九九)伏見に病死。この地に葬られた」


 関ヶ原の前年に途絶えた元親の六十年。それは、この四国においては、群雄割拠の戦国時代の最後の一幕であった。


中央勢力が、西洋伝来の銃で順次装備をしてゆく中、地方においては、兵農未分離のままの状態で戦いはくりひろげられた。

全ての村の男たちに刀槍をもたせ、女子供まで巻き込み、力の論理が支配した凄まじい半世紀であった。


 多くの血の代償として成し遂げた四国の統一。「四国の雄」として讃えられた名将が、はかり知れない犠牲で獲得した全てを失うのに、時間はかからなかった。地方のリーダーの悲しい運命。

中央の戦局も常に分析し、織田信長ラインに配慮し、秀吉にも充分に義理をつくし、忠節をたててきた。九州での島津勢力の北部進攻に抗し、大分の戸次川合戦に長男・信親とともに参戦し、不利と知りつつ突進したのは、秀吉の命に従った結果であった。

その戦いで、最愛の長男と最強の七百騎を失う。
武力でたつものは、力に負ける世のならい。二百年続いた土佐の豪族は、元親で大きく花咲き、そして壊滅してゆく。あたかも線香花火が、地に落ちる寸前に、持てる力の全てをついやして闇を照らす一瞬に似た長宗我部元親の生涯を紹介しよう。


 日本の天下をわけた関ヶ原戦のあと、長宗我部にかわり、土佐には遠州(静岡県)掛川より山内一豊が入城してくることになるのである。


財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載




城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より


長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山



元親と浦戸城・・・堀内昭五郎(「城山」創刊号より)

2009-02-18 | 長宗我部元親に関すること
元親と浦戸城     堀内昭五郎 (「城山」創刊号より)




元親の水軍と浦戸の住民

 秀吉が天下を治めると、だんだんと海の彼方に目を向ける様になった。その理由は国政に多額の財政の必要性と軍事上から海上活動をしなくてはならない時代へと向かっていたからである。


 その点浦戸城は海辺に突出し、小高い山の上に南に太平洋を眺め、東は種崎を見て浦戸湾の入口となり、北側は山がせまって自然の要塞となり、西側が少し開けたところとなり、二の段が設けられ長浜方面からの
敵の攻撃に備えるという城としての本来の機能を備えつつ、かつ海上活動の拠点として格好の城であったと言えよう。


 元親は地形上と時代の必要性からも、どうしても海にあこがれた。平素は海上輸送にたずさわり、一たん事あれば水軍となり、活躍が出来る態勢を整えた。その為には近くの住民をこれに当てた。


 その船の船頭を、武士として待遇した。
 その時代から浦戸地区には、船と関わりあいのある仕事につく男衆が多かった。

 
 現在でも桂浜地区には、少数ではあるが、船頭として活躍した末裔が浦戸士族の住民として誇りを持ち続けている。
浦戸城をしのんで 元親五十一歳の時天正十七年(1589)浦戸城の築城に着手したようである。


 それは、一度高知城に移したが、城下が度々洪水に悩まされたので、三年でこの浦戸城に本城を移すことにした。


 規模は五十坪二層の天守閣を建て、これまでの城と違った中世の山城では新しい近代的な城にしたようである。


 それから十年の間、慶長五年(1600)までこの浦戸城は長宗我部氏の居城であり、土佐の政治の中心であった。桂浜、長浜、みませ、には人家が立ち並び城下町として大いににぎわった。


 この城に移る一年前、豊臣秀吉が関東の北條氏を小田原に攻めた時、元親は特命を受け水軍を率いてこれに参加し、武勲をたてた。


 これは、当時では強い水軍をもった大名は非常に少なかった故であった。


 また、この浦戸城に移った天正19年の翌年の文禄元年(1597) に始まった対外戦争、即ち文禄慶長の役にも秀吉に大船建造を命ぜられたり、水軍を率いては、はるばる朝鮮まで航海を行っている。


 現在、種崎に造船所があるのも、当時の名残である。
 元親の海に心を馳せた思いが、水軍となって現われ、浦戸の地に築城するに至ったこのロマンを偲びつつ城跡から太平洋を眺めると、また格別の味がするものである。



城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より転載

長宗我部ファンクラブ事務局



長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」


長宗我部元親と明智光秀

2009-02-06 | 長宗我部元親に関すること
長宗我部ファンクラブに入会させていただいた明智憲三郎です。

 入会の動機はただひとつ。長宗我部元親と明智光秀の深いつながりを知っていただきたいという

ことと、その視点で新たな史料・史実の発掘を期待してのことです。

 と申しますのも、私は長年、本能寺の変を研究し、ようやく全貌を解き明かすことができましたが、

光秀謀反には長宗我部元親との深い関係があったとの確信を得たからです。その全貌は『本能寺の

変 四二七年目の真実』としてプレジデント社から3月に出版いたしますが、長宗我部氏に関する

史料は少なく(その理由も拙著の中で説明しております)、もっと裏付けの史実を得たいと考えている

からです。

 これは拙著をお読みいただかないとご理解を得られないかとは思いますが、元親と光秀は土岐氏

を軸とした畿内・四国連合体を構想していたと考えています。