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長宗我部ファンクラブ通信・・・2012年 師走号(12月10日発行)

2012-12-15 | 事務局からのお知らせ

長宗我部ファンクラブ通信・・・2012年 師走号(12月10日発行)

12月に入りました。いよいよ師匠(せんせい)が走り始めますね。本当に一年というのはあっという間です。…しかし、これから年末の大掃除が待っているのですよね…大変だ…。聞きかじった事なので間違っているかもしれませんが、昔の人は誕生日に関係なく新年が来たら一つ年を取る、って考えていたようですね。しかも数え年なので、年末に生まれた子供はまだ目も開いてないのに2歳扱いになったということでしょうかね…。

 
 (1)11月8日、長宗我部を語る会が開かれました!


 この日は語る会の後に1月13日に開催される、第一回合戦ウォークの打ち合わせもあり、安芸国虎についての勉強会となりました。出席者は安芸方の曽我さんも
 来られており、色々とこちら側で調べた資料だけでなく、現地の方からのお話も聞けて中々有意義なものとなりました。国虎の子供達の話、特に元親の妹で
 いの町成山に隠棲した養甫尼と暮らした安芸家友は国虎の二男と言われますが、安芸の方ではその次男の存在は確認できてないとか…七色和紙の製造にも携わった家友が国虎の遺児というのはいの町だけに伝わっているということで、地域での伝承にも差があるのだなと痛感しました。……出席するのが少し遅くて、詳しいラスト20分ほどしか聞けませんでしたので、ちょっと残念でした。安芸国虎に関してはまだまだ私も勉強不足なので、また色々調べてみたいです。
 合戦ウォークでは安芸方は浄貞寺(安芸氏の菩提寺で国虎最期の地)や新城跡を案内してくれます。国虎の意外な一面も知ることができるかもしれません。

 
(2)11月23日 長宗我部慰霊祭が開催されました。!


 この日も前日からあまり天気がよろしくありませんでしたが、神事が始まる頃には何とか雨が上がったようです。肌寒さも去年よりずっとマシで、雨降りだからカイロ必須かと思いましたが、それほどではありませんでしたね。去年に比べて出席者が少なく、特に去年多かった若い女性が少なかったですね(苦笑)。慰霊祭は浮ついたお祭りとは違いますが、ちょっと寂しい感じもしました。でも、権禰宜さんの舞が今年はありました!!とてもお美しかったです!!来年もやってほしいですね!!芸能関係は好きそうですし、元親公も喜ばれたかと思います♪
 その次の直会では、ファンクラブとして反省する点が多々ありすぎました。今年は直会の後にあるフリートークもアンケートを用意してみんなで楽しめるようにと企画していましたが、大勢の方が直会のみで帰ってしまい、ちょっと寂しいことにもなりました。このあたりは来年につなげるための反省点を多く含んでおり、考えさせられる場面にもなりました。
 本来の直会の意味が無かった事、年代による考えの格差、相互の連絡と打ち合わせの不備、事前準備の甘さ等々、今度の打ち合わせ会で話し合い、改善策を打ち出していこうと思います。

 
 (3)11月24日 k-fesに参加しました。


 高校生が主体で行われるという中央公園でのK-fesに皆様から後援をいただきまして、出店させてもらいました!!ここではちょっとしたクイズを作って、
 高校生に長宗我部について興味を持ってもらえるようにと『長宗我部検定-入門編-』を行いました。参加費無料、参加してくれた方には参加賞として七つ方喰のステッカー、全問正解者には表彰状とハンドタオルの景品付き。目的はとにかく興味を持ってもらうことだったので、高知市が作成した無料配布の長宗我部氏に関するペーパーから出題、このペーパーを見ながらの解答もO.Kというものでした。
 意外と小学生でも挑戦してくれる子がいて、グループでワイワイ言いながら解答していた小学生4人組や、おばあ様と一緒に回答していた小学生の女の子。このおばあ様が「地元の人の事やのにあたしゃひとっつも知らん。」と言っていたのが印象的でした。年配の方にも興味なければ知られていないのだなと痛感。これをきっかけに色々と知ってもらえたなら嬉しいですね。
 あと、島根県から観光に来ていたおじ様方もしてくれました。歴史に興味あるけど、高知といえば坂本龍馬しか知らないと言われました(苦笑)。厳密には違いますが、龍馬たち郷士の主君だったのがこの方だと説明しました。これをきっかけに…(以下略)。
 いずれは『長宗我部検定-初級編-』をはじめ、中級、上級と検定を発展させていきたいですね、龍馬検定のように!!!あ、この『長宗我部検定』の問題を作るにあたっては歴民からの監修を受けるようにと館長から直々のお達しがありました。もちろん、検定と銘打ってやるからにはそのつもりです!!
 とりあえずは二択問題のこの入門編と土佐戦国時代への入り口として広めていきたいですね。


 
(4)~~坂崎の史跡紀行(前編)~~
 
 12月初旬、京都の蓮光寺にある長宗我部盛親のお墓に初めて、行ってきました。盛親は大阪の夏の陣の折、敗戦を悟り大坂城から脱出して再起を謀りました。しかし、その途中に蜂須賀家の者に見つかり連行されて京都の六条河原にて妻子とともに打ち首になりました。かねてより親交のあった蓮光寺の住職が盛親の亡骸を引き取り、埋葬したと言われています。
 
 個人的に盛親に対して私はあまり良い感情はありません。盛親の判断ミスにより多くのモノが失われました。実兄津野親忠とその側近たちの命、土佐一国、
 家名と伝わっていた多くの品々、家臣領民の自由と命。一歩踏みとどまり冷静に判断していたなら、関ヶ原の西軍に着くこともなかったし、西軍に着いたとしても
 実戦の機微を悟って行動していたなら、西軍の勝利に貢献していたかもしれません。でも、何一つ判断できず、揚句運を天に任せました。結果、元親が秀吉に媚びへつらってまで必死に守り抜こうとした土佐は取り上げられ、家は潰されました。土佐は山内の支配を受け、その後苛烈な身分制度を設けられて長宗我部家旧臣達は苦渋をなめることになった…。元々長宗我部家の家臣(厳密にいうと津野家)だったという母方の影響もかなりあると思いますが、やはりその後の土佐を思うと許せないという感情が強いのです。
(次号後編につづく)


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