長宗我部ファンクラブ

目指せ!長宗我部、大河ドラマ化!

浦戸城石垣保存運動その起承転結・・・その5

2009-05-03 | 浦戸城
浦戸城石垣保存運動その起承転結(その5)
                                                    森田康彦



2008.11.23 浦戸城跡の説明を聞く「長宗我部ツアー」の若者達


結の部

 元来埋蔵文化財を保存するのに一番良いのは、埋め戻しによる保存とされている。

 このことは、われわれも十分認識していることでもあり、従って今回の地上保存運動は、前段の保存運動とちがって、加速がつきかねたし、地上保存についての確たる対案なり代案を持ちあわせているわけでもな
かった。

 やがて、一部には厭戦ムードも出始め、ついに刀折れ矢尽き、頃は弥生三月最後の御前会議を開き、期成同盟は解散し、鉾を収めることにしたのである。

 嗚呼。
 以下平成六年四月十日付最終投稿 「浦戸城跡石垣保存運動の終焉」
浦戸城石垣群発見後に、有志相集い、展開した保存運動の顛末については、いささか存念があり、この紙上を借りて、お知らせしたい。


 今回の発見個所は、一次、二次発掘をあわせて四個所で、うち一個所は既に取壊し済み、一個所は保存、二個所は取壊しにという時点で、発見石垣群のメーンである前述二個所について、保存を達成すべく、運動
に入ったのである。

 そして、市当局の英断(国民宿舎の位置をずらす)により、保存が決定した。
 保存と言えば、誰しも地上での英姿を思い浮かべ、ロマンを駆り立てたことであろう。

 と、ここまではよかったのであるが、やがて雲行きが怪しくなり、保存は保存でも、埋め戻しによる保存へと、移行するのである。

 私たち有志は、あくまで地上での保存を要望し続けたのであるが、当局の決定を覆すことはできず、刀折れ矢尽きたのである。

 そこで、市民の多くは、「石垣は残った」という報道で、地上での保存を念頭においていることであろうので「広報紙を通じてそうでないことを、はっきりと伝えてほしい」と、最後の要請をしたのであるが、「すべてが完了後の事後報告でよい」とのことであった。

 以上が、あえて他の守備範囲に立ち入って、記述せざるを得なかった理由である。
 石垣、路傍の石に変ずることなく、再び土中の静寂境に戻りたること、もって瞑すべきといえども、地上での保存に至らずして、また何をか言わんや、である。


編集後記

「浦戸城址」この城あとには、限りない愛惜の念を抱かせる何かがあります。
 今回原稿を寄せられた方々の紙背に共通して漂うものは、正にそれであると思います。

 今回会報を発行するに当たりまして、経費はかけないようにと、ワープロとコピー機をつかっての編集になりましたので、体裁の点での今一はお許しの程を。
 次回は更に多数の方の寄稿をお待ちしております。
事務局 森田


浦戸城址保存会会報 「城山」創刊号 発行日 平成八年五月二十日
発行所 高知市長浜四六九一の一  浦戸城址保存会事務局 発行責任者 事務局長 森田康彦

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城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



長宗我部ファンクラブ事務局(谷口)


長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」


浦戸城石垣保存運動その起承転結・・・その4

2009-04-24 | 浦戸城
浦戸城石垣保存運動その起承転結(その4)
                                                    森田康彦




2008.11.23 浦戸城跡の説明を聞く「長宗我部ツアー」の若者達

転の部

 苦労もついに報われるときがきた。


 平成五年十月二十七日付高知新聞の朝刊に「石垣は残った」の活字がおどったのである。
 前日われわれは、元親会館で経済部長より国民宿舎を当初の予定よりずらして建設し、石垣は残すとの言を得ていたのである。


 来年の長宗我部供養祭は県外ゆかりの人も招いて盛大にやろう、保存された石垣も見てもらおう、慰労会も景気よくやろう、と手を取り合って喜んだものである。


 やがて、大ドンデン返しが待ち受けていることなど露知らずに。
 波乱の平成五年も暮れ、年も改まった一月四日われわれは、突然社会教育課長の招きをうけた。
 何事ならんと出向いたところ、そこで切り出してきたのは、石垣については保存は保存でも、埋め戻しによる保存に決定したということであった


 青天に霹靂走り、愕然としたものである。
 われわれは、それでもなお、最後の抵抗を試みることにした。
 以下平成六年一月十九日付第三弾 「浦戸城石垣に地上保存の光を」 浦戸城跡石垣群保存の市民運動に対し、設計変更までして願いを入れた高知市の英断、そして迅速な対応に、従来のお役所観を払拭されるのを見て、喝さいを送ったものである。


 と、ここまではよかったのだが、最近どうも雲行きが怪しくなってきたようである。
 それは技術・予算両面で、地上での保存が困難で、埋め戻しによる保存(時期がくれば再発掘もあるというが、これは世紀単位の先で論外)を実施するやに聞きおよんでいる。


 保存の一方策として埋め戻しの存在を否定するものではないが、今回はちがう。
 発見された石垣群は、中世から近世への城郭の変遷を知る上で、学術上貴重なものとされ、生きた教材にもなる。


 何よりも、遠く戦国の世へと夢とロマンを駆り立てる、珠玉の観光資源ともなり、ここを訪れる人々に、秦氏栄枯盛衰の往時へ、熱い想いを抱かせ、少なからぬ感動を与えることにもなるだろう。


 先日の本紙夕刊一面掲載の「新春新景 空から高知」で、桂浜山頂にある龍馬館・国民宿舎とともに、シートで覆われた石垣群が上空写真で紹介され、「問題の石垣だが、市民運動の成果もあって結局保存に」と
いう記述があったが、筆者も地上での雄姿を思い浮かべこそすれ、埋め戻し保存を念頭において執筆したわけではあるまい。


 ここにきて、皆の期待を裏切ることなかれ。
 今は何としても、万難を排して、地表での保存策を講ずべきである。
 石垣群に平成の光を。


城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



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長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」


浦戸城石垣保存運動その起承転結・・・その3

2009-04-16 | 浦戸城
浦戸城石垣保存運動その起承転結(その3)
                                                    森田康彦


2008.11.23 浦戸城跡の説明を聞く「長宗我部ツアー」の若者達


承の部

 ところで運動の推進母体である「浦戸城址保存会」は大きな力であるが、当時は私もまだ入会してなく、また一般の人も幅広く参加していただいたほうが、より効果的であると考え、新たに「浦戸城石垣保存期成
同盟」を結成し、代表者には保存会の会長の浜口陽吉さんになっていただいたのである。


 さてその運動であるが、たびたび教育長・経済部長等々当局と交渉をもったのであるが、その堅牢を打ちくずすことができず、攻めあぐんでいたところ、地元の市会議員から議会へも働きかけたら良いとの助言を 得たのであった。




 そのためには議長はもちろんのこと、行政も含めて正式な文書を関係各所へ提出すること、そしてその文書はどこそこ宛ては陳情書、どこそこ宛ては請願書にするようにとのことであった。


 そこで皆さん、陳情書と請願書の区別はつくでしょうか。内容はどう違えたらよいかおわかりになるでしょうか。
 あれやこれやで、瀬戸さんと知恵をしぼって作成作業を進め完成させ、それぞれへ提出したのでした。
 以下平成五年九月二十九日付掲載第二弾「始めに取壊しありきか」
 今回の高知市教委による、浦戸城跡発掘調査での大規模な石垣群発見は、土佐における今世紀最大ニュースの一つといえよう。


 しかし、その保存については極めて悲観的で、取壊しに向かって突き進んでいるようにおもわれる。保存を願う声は、あちこちで聞かれ、私ももちろんそうであり、存念は山ほどあるが、紙面の都合もあるので、
一点だけ申し述べたい。


 それは「始めに取壊しありき」という当局の一大方針が、根底に働いていることを見逃してはならない。
 このことは「従って終わりも当然またしかり。中の論議不要なり」につながり、拙速の結果、悔いを千載に残すことになるのである。


 ここは「始めに保存ありき」ぐらいの気構えで総県民で英知を絞り、この貴重な遺構を守る方策を講じなければならない。


 その上で、万策尽き、願い至らずの結論であれば、悲しいながらも、荒城の月の下、遺構との惜別の宴を張り、それをもって静かに保存運動の終息としたい。


 そうでなく、一般市民の声に背を向け、一握りの関係者のみの談合的決定による取壊しであれば、遺構は消え失せるも、八十万県民の憤怒の気、痛恨の念は、秦氏の涙と合し、鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)の怨念の声と変じて、城山にいつまでも淀みただようであろう。

城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



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浦戸城石垣保存運動その起承転結・・・その2

2009-04-12 | 浦戸城
浦戸城石垣保存運動その起承転結(その2)
                                                    森田康彦



浦戸城跡の説明をする地元、御畳瀬の瀬戸鉄男さん(長宗我部顕彰会副会長)


起の部


 始まりは前述のとおりで、重複するので省略するが、最初の投稿がきっかけで「浦戸城址保存会」なる団体の瀬戸鉄男さんという方から、一緒にやりましょうと電話をいただき、有力な団体の存在を知り、同志を得るという第一段階の目的は達せられたのであった。


 以下平成五年九月十四日付高知新聞掲載の拙稿「ああ浦戸城跡残せぬ悲しさ」
 先日、高知市浦戸の工事現場から旧浦戸城の、石垣の一部が発見されたとの報に接し、私は勇躍して検証に出掛けたのである。


 それというのも、先祖代々長浜在住の私は、滅びの美学ではないが、秦氏浦戸城に日ごろから熱いものを抱いていたからである。
 さて、その検証だが、現場に行ったところ、市内の工事現場にあるような、高い仮の塀に囲まれて、中へ入ることはできない。
 それではと、わずかなすき間から文字通り垣間見たところ、あった。
みえた。


 四百年前そのままの姿の石垣が。感動が体を走る。
 これこそ一代の●雄、南海の地に興り、四国の覇者として瞬時の光芒を放ち、やがて露と消え失せた長宗我部氏最後の夢の跡。
 さて数日後、更に近くで見たくなり、塀をくぐってでもと、再度出掛けたところ、はや跡形もなし、建設のためつぶしたとのこと。
 それからしばらくして、もう出ないと思っていた石垣が約百メートルにわたって再び出現したということで、やれうれしや思ったところ、遺跡などを管理する市教育委によると、これも前回と同じようにつぶすとのこと。


 開発と遺跡遺構の保存、治山治水と環境保全などなど、合い入れぬ現代特有の事象が、ここでも出てきたわけで、結局はお上の方針通り、お取りつぶしに落ち着くのだろうか。一過性の問題にしかなり得ないとす
れば悲しい。
 特に山内氏の破壊策からか、遺構の皆無に等しい浦戸城跡においては、なおさらである。

城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



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浦戸城石垣保存運動その起承転結・・・森田康彦 その1

2009-04-08 | 浦戸城
浦戸城石垣保存運動その起承転結(その1)
                                                              森田康彦



平成五年八月十三日付の高知新聞を拡げていた私は、或る記事に飛びあがったのである。
 それは「浦戸城の石垣発見」の見出しとその記事であった。

 私は子供のころよく祖父に連れられて、桂浜へ行ったものであるが、その都度熱を帯びて聞かされたのが、長宗我部興亡の歴史と、ここがまさしくその栄華の夢の跡であるということであった。
 そしてその都度私の発する質問と、祖父の答えはきまっていたのである。



 2008.11.23 浦戸城の石垣後で説明を聞く「長宗我部ツアー」の若者達
 

それは、私「そんなら石垣か何か残っちゅうろうか」祖父「何ちゃあない」であった。
 以来長ずるに及んでも他の用件で桂浜を訪れる度に、遺構のことは頭にあり、あれやこれやで想いをめぐらし、さまよいもしたが、やはり「何ちゃあない」が最終結論であった。

 国内には城址・遺構の類はたくさんあるが、私はこれらにはそれほど関心がない。

 ところが「浦戸城址」これにはとめどもない愛惜の念があるのである。
 それが何によってであるか確たるものはないが、強いていえば、私は長宗我部地検帳にでてくる「イナハ」「イヤヤシキ」等々の字名のある 地を代々引き継いで所有しており、そのことから先祖はやはり一領具
足か何か長宗我部氏につながりがあって血がさわぐのであろうか。

 さて、それから一月足らずの内に更にびっくりするような第二次発見が。

 それは南北総延長百メートルにわたる石垣群の発見で遺構皆無に近いものとされていた浦戸城址としては、正に驚天動地の発見といえるもの あった。

 ところが何たることか、同所を管理する高知市においては、その時点で既に石垣は記録保存に留め取壊しが決定しているということであった。
 理由はいろいろ言われていたが、発見石垣群が国民宿舎建設位置と重なっていたことが、大きな影を落していたことは否めない。
 
 恐らく超オフレコものの討議を重ねた末「押し切れ」ということになったであろうことは、想像に難くない。
 それは市教育長談話として、新聞紙上で報ぜられた「仮りに今後保存の申し入れがあつても、決定の変更は難しい」が如実に物語っている。

 「何たる一方的発言」これが起爆剤になり一路保存運動へと突っ走るのである。
 さてどうしたらよいか。私一人ではどうにもならない。先ず同志を募ることであった。
 そこで思いついたのが、高知新聞「声ひろば」への投稿であった。

 ここでちょっと新聞投稿についてふれてみたい。
 自分の意志を不特定多数の人に伝えたいときには、大変便利であるが、その反面ボツになるというハードルがある。


 その採用率は、野球の打率並といわれている。
 そして、不採用の理由の一番大きなものが、感情のおもむくままに、対象のものを一方的に攻撃するような過激なものとされている。

 このことを踏まえて、心の中は煮えくりかえるものをもっていたのであるが、とにかく採用されなくては話にならんということで、気持ちを極力押さえて、傍観者的に今度の石垣発見をとらえた内容のものを投稿したところ、採用されたのである。

 さて、この採用がもとで、同志を得かつ知ることができ、運動を展開していくのであるが、その運動は大きく四たびの節目をむかえながら、推移することになるのである。

 そして、その都度あとはボツおかまいなく、感情のおもむくまま投稿し、それを通じて県民に訴えていくことになるのであるが、それがあとの三回ともすべて採用掲載されたのである。

四打数四安打。拙文にもかかわらずすべて掲載されたことは、新聞社においてもこの運動を好意的にとらえていたとみてよいのではないか。


 今振り返ってみるに、この節目は絶句の起承転結にあてはまるように思えてならない。
 以下運動の顛末を投稿文をまじえて、四部構成で。

城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より



長宗我部ファンクラブ事務局

長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」

浦戸城址の史跡となりて・・・瀬戸鉄男  (「城山」第一号より)

2009-02-02 | 浦戸城
浦戸城址の史跡となりて       
                 瀬戸鉄男  (「城山」第一号より)


(一)はじめに
 「月の名所」桂浜は、龍頭岬から眺める景観と坂本龍馬の銅像等、た
しかに日本を代表する景勝地であり、訪れる人は何かを感じることであ
ろう。
 しかしながら、単なる一日の外見的な観光に終わらせるには、惜しま
れる古城跡としての城山ではなかろうか。
 長宗我部盛衰の歴史に始まり、山内氏の入国、そして明治維新から近
代日本へと続く時代の変遷は、土佐の先人の足跡でもあろう。
 浦戸の城山から眺望する太平洋と北山の峰を借景として、浦戸湾から
高知方面を遠望するとき、この雄大なる景観に内包される四百年の歴史
を重ねて思うとき、しばし立ち去り難い城山ではなかろうか。
 長宗我部氏の歴史の中で、今年は慶長元年(一五九六)八月二十六
日、イスパニヤのサン・フェリペ号の浦戸漂着から丁度四百年目に当た
る。
 この漂着問題は、元親が浦戸へ移転後五年目の大事件であった。
 これに関する詳細を印した文献としては、関田駒吉歴史論文集「サ
ン・フェリペ船の浦戸漂着」(高知市民図書館発行)があるので、本紙
創刊にあたり、一部抜粋を交えながらこれらについて、またその他浦戸
城移転の背景等について以下記すことにする。

(二)サン・フェリペ船の浦戸漂着
前記紹介文献抜粋
 慶長元年(一五九六)の呂宋船
 慶長元年の秋、西班牙船サン・フェリペは、呂宋よりメキシコに向け
航海中暴風に遭遇し、舵機を破壊せられ、針路を転じて長崎に避航せん
とし、漂蕩して土佐浦戸港外に表はれた。
 長宗我部元親之を港内に引入れ、豊臣秀吉に急報した。
 秀吉即ち増田長盛を使はし、貨物全部を没収して之を大坂に運送せし
め、船員には食糧品を贈与して長崎より帰国せしめた。
 而して本件は、サン・フェリペの水先案内人フランシスコ・デ・サン
ダが貨物没収を阻止せんとして、威嚇的に布教に因るペリュウ、メキシ
コ等外国征服の実例を壮語せしたことから、秀吉の憤怒を買ひ、外教厳
禁の因を為したことと、尋で起った長崎に於ける教徒二十六人の殺戮と
に関連して著名なる事件である。(以下略)
 太平洋に面した四国唯一の海港の城下町を浦戸に求めた元親の構想
は、やはり近代につながる発想であったと思われる。
 秀吉政権下における国際的事件の舞台となったこの浦戸城山の一角に
サン・フェリペ号漂着の記念碑建立を切に待たるる思いがするものであ
る。
(三)浦戸移転の背景
 長宗我部氏の浦戸在城の時代は、わずかに十年の命運でしかなかった。
 元親は、天正十五年(一五八七)頃より居城を岡豊山より大高坂へ移
転しようと、諸般の施策を進めてきたようである。
 大高坂城への移転は、天正十六年より始め、二、三年後の十九年冬頃
終わった、と、諸書には記されている。 
 浦戸へ移転の理由はいろいろあったようであるが、大高坂水害の理由
が最大であったと思われる。
 従って当時の時代背景、次ぎの構想として浦戸をその居城にと行動に
移ることが急がれ、元親の指導力と大英断が要求されたものと思われる。
 当時の出来事をいくつか述べて考えてみたい。
 天正十三年(一五八五)七月、元親は秀吉に降伏して土佐一国を許さ
れた。
 翌年秀吉の命により九州へ出兵、長宗我部勢にしては、海を越えて水
軍による初陣であった。
 そして、豊後の国戸次川に於ける島津勢との戦いで、十二月十二日、
長男信親始め七百余人の戦死者を出す敗北となった。
 そのあと家督相続の問題から骨肉に争いなど晩年の元親は、人生が大
きく狂ってきたと思われる。
 この継●問題は、長宗我部の大きな悲劇となった。
 土佐に残る七人みさき怨霊の伝説が語り草となって伝えられてきたの
である。
 更に秀吉の命により、小田原戦に水軍を率いて参戦したのは、大高坂
城へ移転中の天正十八年であった。
 二年後の文禄元年(一五九二)には朝鮮遠征をひかえていたので、小
田原での水軍の経験からも浦戸湾という天然の良港をひかえた浦戸への
移転を決断して、人生最後の建直しを考えたと思いたい。

(四)最後の光芒
 秀吉は九州平定後の天正十五年五月には、羽柴秀長を通じて、大隅国
を元親に与えようと告げさせたという。(土佐国●簡集 巻五)
 元親はこれを辞退したのであったが、ついで九月より長宗我部検地を
始めたり、秀吉の信頼を一身に感じて元親は、ようやく立ち直ろうとし
た。
 思えば、永禄三年(一五六〇)元親十八歳の長浜城戸の本の合戦以来
慶長二年(一五九七)二度目の朝鮮出兵まで三十七年に及ぶ戦いに明け
暮れた時代であった。
 戦国乱世の人々の障害が、わかるような気がするものである。
 土佐が生んだ戦国英雄の一人長宗我部元親も遂に伏見の邸において、
慶長四年五月一九日六十一歳の生涯を終えた。
 法号「雪●怨三大禅定門」
 浦戸在住の十年の時代は、いうなれば、長宗我部氏最後の光芒であっ
た。
 平成五年八月十三日、国民宿舎桂浜荘の建築工事の始め天守台跡の南
に延びる一角の小山から土塁跡の石垣が発見され、次いで大規模な石垣
(総延長百メートル)が九月九日発見されたのである。
 ついに浦戸城は四百年の眠りからさめたのであった。
 浦戸城址保存会と住民の熱烈な運動によって、高知市はこれを永久保
存として、地中に埋めもどしたのである。
 この保存運動の詳細については、次の機会とする。



※ おことわり ●印は変換できなかった部分です。



城山  第1号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より転載

「月 の 桂 浜」 浦戸城址保存会会長  永 国 淳 哉

2009-01-28 | 浦戸城
今年の1月18日、「長宗我部ファンクラブ」か結成されました。

その中で、地元高知に居ながら高知の歴史上の人物や偉人を知らなさ過ぎる。

戦国武将の中でも人気の高い「長宗我部」について、県外の若い人たちが中心になって、"めざせ!長宗我部 大河ドラマ化!"の取り組みをしていることを知りました。

坂本龍馬のルーツでもあり、高知の観光資源の一つである貴重な歴史的文化を、もっと情報発信して多くの人に知ってもらおうということになりました。

長宗我部顕彰会の了解のもと、これまでに発行された「城山」の中からピックアップして、お知らせさせていただきます。

乞うご期待!  「長宗我部ファンクラブ」事務局役員一同




「月 の 桂 浜」
浦戸城址保存会会長  永 国 淳 哉

   

「桂浜の出身地だそうですが、語源は分かりませんか」との問い合わせを頂戴した。今まで考えてもみなかったことが不思議である。

 桂浜を愛した文豪に大町桂月がいる。本名は芳衛だそうだが、「桂浜月下漁郎」から桂月としたという。

  "見よや見よ みな月のみの 桂浜

     みずの面より 出づる月かげ"

長宗我部時代の浦戸城地図には「勝浦濱」とある。それが「月の名所の桂浜」のイメージから「桂」と書き始めたと推察できるが、それが何時の時代からであろうか。

 オリンピックでお馴染みの月桂樹。地中海沿岸原産の常緑低木で、英語で「ベイ」「ベイリーフ」「ローリエ」、フランス語で「ローレル」などと呼ばれる。

 月に生うる神聖な樹木とされ、その枝で作られた冠は勝利と栄光のシンボルとしてギリシャ・ローマ時代から使われてきた。

 私の生まれ育った桂浜の家の中庭にも一本の月桂樹があった。春には黄白色の花をつけ秋にはオリーブくらいの紺色の実をつけるという。が、しかし見たことがない。調べてみると雌雄異株で、日本では雌株は育ちにくいそうだ。

 しかたなく葉をハーブとして活用してみようと、煮込み料理の中にほりこんだ思い出がある。たいした香りも味覚増進の効果もなく「やはり外来種なんだ」と自分勝手な結論をだして何十年もたってしまった

 私の生まれ育った桂浜の家の中庭にも一本の月桂樹があった。春には黄白色の花をつけ秋にはオリーブくらいの紺色の実をつけるという。が、しかし見たことがない。調べてみると雌雄異株で、日本では雌株は育ちにくいそうだ。

 しかたなく葉をハーブとして活用してみようと、煮込み料理の中にほりこんだ思い出がある。たいした香りも味覚増進の効果もなく「やはり外来種なんだ」と自分勝手な結論をだして何十年もたってしまった。


 「月桂樹になったダフネ」の話も、青春時代に夜の桂浜で寝そべって聞いたことを思い出した。東京から来た女子大生たちに波打ち際で夜光虫を見せてあげた。その"お返しに"と、一人の美人が東京弁で語ってくれたギリシャ神話であった。

 「愛の神エロスが、金の弓矢で男女を結びつけるのを"変な玩具遊び"とアポロンがからかったのよ。"じゃあ、恋の苦しさが遊びかどうか試してあげようか"とアポロンに金の矢を射ておいて、テッサリア川神の娘ダフネの胸には鉛の矢を打ち込んだの。そしたら大変。アポロンはダフネが大好きになり、逆にダフネはアポロンが大嫌いになってしまったの。アポロは狂ったようにダフネを追って、とうとうテッサリア川辺でダフネに抱きついてしまったの。"止めてよ、大嫌い。お父様助けて"父親のテッサリア川神は、娘のダフネの白い肌を樹皮に変え、その細い体を月桂樹にしたのよ。」そう話しておいて「変なことすると私達も大木になるわよ」と、土佐男たちを東京美人たちは睨みつけて笑った。


 日本には月桂樹ではなく、「桂」という樹があったはずである。インターネットで見ると日本特産の「桂」は「花蘇芳(はなずおう)属」「建築材や家具などにも利用され、高さは三十メートルぐらいになる」大木で「山地の渓流沿いなど水辺にあり、早春、赤い花が咲き、葉は丸くハート形で、よく目立つ」とのことだが、まだ見ていない。「月桂樹」のように「月の名所」と「桂」は結びつかないのかと調べると万葉集にあった。

 「黄葉(もみじ)する時になるらし月人(つきひと)の楓(かつら)の枝の色づく見れば」

 幕末に流行したといわれる「よさこい節」の次の歌詞は、単なる地名の羅列ではないという。

    見ませ 見せましょ

    裏戸を開けて

    月の名所はカツラハマ

 土佐の若衆宿や夜這い(よばい)慣習も結びついた隠語で、このカツラのハマは色っぽいことだそうだが、私には分からない。

 こんな話も聞いた。

 酒国である土佐の藩政時代は、盆暮れと祭り以外は酒がご法度だったと。ところが、このご法度も海上には及ばないということで、「釣りにゆく」と徳利酒持参で浦戸湾を出て、五色の浜に上がって酒盛りをしたという。呑み助たちの集い場所の名前には「勝浦」よりも「桂」がよいというのだ。

 桂浜の特色は、五色の浜と松生うる竜王宮の奇岩と思い、そのあたりでもいろいろ考えてみたが、やはりカツウラ浜の語源は全くわからない。へ理屈でもよいので、誰か何か教えてくれませんか。

城山  第5号  平成16年6月19日発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)p.1~2より転載