長宗我部ファンクラブ

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歴史勉強会を行いました(ツアーガイド養成講座)

2009-06-26 | 長宗我部なんでも情報
昨日(6月24日)
歴史勉強会を行いました。


  ついにツアーガイド養成講座が始まりました。


    講師は高知県歴史民俗資料館館長の宅間一之様です。



    ガイド養成講座には、7名の者で参加しました。もちろん私もその中の1人です。

 これからもガイドは募集していきますが、我々も講師先生方から学んで、教えられる立場になって行かなくてはいけません。
 それで今回は、ガイドとしての心構えなどを教えて頂きました。

 とにかく勝頼に関する知識が必要であり、なおかつ土佐の勝頼をよく知らなくてはならないという事です。
 ツアー中には武田勝頼に関する質問も出るでしょうし、何より土佐の場合は、「どうして土佐に?」という問いにも答えられるようにならなくてはいけません。
 この問いに答えられる方は現在少数です。
ですが、この問いに答えるべくしての勉強会なので、しっかりやらなきゃです。

 
館長の宅間さんの話しは大変興味深く、面白いものでした。




 現在の歴史の定説というものは、そのほとんどが軍記物を参考に作られたものだが、このほとんどは、家臣によって都合よく作られたもので、疑わしいところが多いという事です。
 例えば甲陽軍鑑(こうようぐんかん)に関しても疑わしい所が多すぎると指摘していました。
 資料として見つかった文献とは内容が会わない点なども多いという事です。
 日記などは、通常は自分に都合が悪い事は書かないという事と同じだということです。なるほど納得できます。
 
 そういう事も有り、現在では科学的な調査などが代頭し、史跡内から木が出てきた場合でも、その木の切られた年月ごろまでが証明できる、という様な、そのような調査も行われて来ているというのです。
 私たちの知らないところで、科学技術は進歩してますね

 ですので、軍記物を参考にした歴史は現在は大変疑われ、
 それに比べて、我々が調査の元にしている史跡郡などは、それを専門家が見た時点で年代や格などが分かり、また系図や地検帳他というものは、事実のみをまとめて簡潔に書く事から、信憑性も高く。
 400年も前から所縁(ゆかり)のあるとされる伝統も有り。
 物的証拠としての鏡や城跡である大崎八幡宮。系図に出てくる史跡郡との整合性などから、しっかりしていると思いました。

 このような事から、歴史が大きく変わりつつある時代であると、宅間館長さんが仰られました。



 大崎八幡宮は城である条件を整えた、自然の要害(ようがい)で、城の下の平らな部分で戦いが行われていた場所を土居(どい)といい。
以前までは、この大崎八幡宮の下を土居と呼んでいた事、勝頼が葬られた場所を土居屋敷と呼ぶ事など、ここにも関連が明らかな事から、
大崎八幡宮は間違いなく、城であった。という事です。

 館長からは、武田勝頼に関する書籍を3冊も貸して頂いたので、どんどん知識として頭に入れて行きたいと思います。
 そうする事で、今までつながらなかったキーワードが分かったり、閃(ひらめ)いたりが多くなるんじゃないかと思う。

勉強会が終わった後は、現在の最新情報などを伝えました。

最近ですが、とても驚くような発見が相次いでおりまして、
実はその事を調べるために忙しくなってきております。

この事は、大体の事が大きく判明した時点で少しづつ公開して行きたいと思っております。

その後は、玄蕃太鼓の練習でした

↓はお弁当コンテストなどイベントの様子です。今後も沢山のイベントを行って行きます。





武田勝頼土佐の会 さんの記事

武田勝頼土佐の会【歴史上は滅んだ武田が今よみがえる】

2009-06-26 | 長宗我部なんでも情報
高知ファンクラブに参加しての、ブログ記事初投稿となります。

発見情報やイベントの日程などをお知らせして行きたいと思います。

既存のブログとは別にイベントや発見を中心としたブログとして活用させて頂きます(^^)/

武田勝頼は、戦国最強といわれた武田信玄の4男になります。

定説では1582年に天目山で自害となっておりますが、土佐では

土佐に落ち延びて数多の活躍の後に1609年に没したとあります。


今年2009年が勝頼が没して400年にあたる事から当会が発足しました。

昨年の10月に会を発足してより、予想以上に発展がありました。

当初は仁淀川町からの地域振興という事で取り組みを初めておったところ

テレビ東京や誌面などへ歴史ミステリーとして広く扱われることになり

大きな発見も相次ぎまして武田家ゆかりの地との交流も始まりました。

結果として大変ロマンのある、深い物語が形作られようとしております。



また勝頼が伝えたとされる、玄蕃踊りや、

勝頼をイメージして復活した玄蕃太鼓(太鼓踊りは後継者不足で消滅しましたが、20年前に有志で作られました)

芸能の方でも広く知って頂きたく思います。


ホームページはこちらhttp://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html

ブログはこちらhttp://katsuyori.seesaa.net/


武田勝頼土佐の会 さんの記事

長宗我部元親謀殺の陰謀を暴く

2009-06-10 | 長宗我部なんでも情報
長宗我部元親と本能寺の変との関係については拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社)に書きましたが、その後の捜査で長宗我部元親の謀殺の陰謀があったことの確信が深まりましたので、ご報告いたします。

 羽柴秀吉にとって本能寺の変の真相を知っている長宗我部元親とその一族(正室の兄の土岐石谷頼辰も含めて)は極めて危険な存在であったことは拙著をお読みの方にはご理解いただけることかと思います。

 そこで、秀吉が長宗我部元親を始めとして一族を抹殺しようとしたのが、本能寺の変から四年後の天正十四年(1586年)の薩摩島津攻めでのことです。このとき、長宗我部軍は仙石秀久の指揮の下に豊後の戸次川(へつぎがわ)で島津軍と激突します。多勢に無勢で勝ち目がないと元親が出陣を止めるように進言したにもかかわらず、仙石秀久が勝手に出陣した上に、戦場から逃げ出してしまったため、長宗我部軍三千人は全滅状態に陥り、嫡男信親、義父頼辰も戦死してしまったのです。

 仙石秀久は秀吉子飼いの大名でしたが、この件で死罪にはならず謹慎したのみで、四年後には信濃小諸城主に復活しています。こういった史実をみると、戸次川の戦いは長宗我部氏抹殺を仕組んだものとみられます。それ以外に秀久の不可解な行動も秀吉による不可解な処遇も説明がつきません。

 ブログ『明智憲三郎的世界(光秀子孫の思い)』http://praha.at.webry.info/でも関連の記事を掲載していますので、御覧ください。 

                           明智憲三郎



明智憲三郎  さんの記事