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長宗我部元親(一) その1・・・永国淳哉

2009-02-21 | 長宗我部元親に関すること
長宗我部元親(一) その1・・・永国淳哉  (「城山」創刊号より)




戦国末期ついに四国平定をなしとげ、「四国の鬼」とうたわれた長宗我部元親。
 しかし、その「鬼」のうけとりかたが、四国内ですら県によって全く違う。


 出身地高知では、勇猛果敢な戦国の名将としての「鬼」である。ところが四国の他県では、とんでもない話。長宗我部は、かって生きた人間を食い散らした聞くも恐ろしい「鬼」である。


 高知県境に近い愛媛線喜多郡内子町出身のノーベル賞作家、大江健三郎氏は、その代表作「万延元年のフットボール」でこう著述している。


 「チョウソカベはあらゆる時間と空間に偏在している、恐ろしく巨大な他者だ。僕が反抗すると、祖母はチョウソカベが森からやってくると威嚇したが、その声の響きは、幼児の僕のみならず八十歳の祖母自身にも、われわれと同時代に生きている恐ろしく巨大なチョウソカベの気 を実感させた」


 長宗我部元親の出城である岡豊城の跡地(南国市)高知県立の歴史民俗資料館が完成した時、「土佐人は、自分たちの歴史の恥を知っているのか」との、憤りの手紙を他県より頂戴し、いまさらながら驚いた。


 「元親の最後の居城だった浦戸城の本丸跡に、県立で坂本龍馬記念館 を建てる史観錯乱の土地柄だから、今さら文句をいっても仕方ないでしょう」という中央の歴史家もいた。



戦国武将の悲しいさだめ


 高知市長浜にある元親の墓所の立札には、次のように書かれている。
 「長宗我部元親(一五三九~一五九九)初陣永禄三年(一五六〇)二十二歳の時、長浜で本山氏と戦い、以後十五年間に本山、安芸、一条の群雄を滅ぼして土佐を統一。続いて十年経て四国を併せたが、豊臣秀吉に降って土佐を保つ。


 翌天正十四年(一五八六)豊後戸次川戦に大敗後は、領国支配の刷新を図り、検地、城下町建設、掟書制定に当たり、政治家として、面目を発揮したが、慶長四年(一五九九)伏見に病死。この地に葬られた」


 関ヶ原の前年に途絶えた元親の六十年。それは、この四国においては、群雄割拠の戦国時代の最後の一幕であった。


中央勢力が、西洋伝来の銃で順次装備をしてゆく中、地方においては、兵農未分離のままの状態で戦いはくりひろげられた。

全ての村の男たちに刀槍をもたせ、女子供まで巻き込み、力の論理が支配した凄まじい半世紀であった。


 多くの血の代償として成し遂げた四国の統一。「四国の雄」として讃えられた名将が、はかり知れない犠牲で獲得した全てを失うのに、時間はかからなかった。地方のリーダーの悲しい運命。

中央の戦局も常に分析し、織田信長ラインに配慮し、秀吉にも充分に義理をつくし、忠節をたててきた。九州での島津勢力の北部進攻に抗し、大分の戸次川合戦に長男・信親とともに参戦し、不利と知りつつ突進したのは、秀吉の命に従った結果であった。

その戦いで、最愛の長男と最強の七百騎を失う。
武力でたつものは、力に負ける世のならい。二百年続いた土佐の豪族は、元親で大きく花咲き、そして壊滅してゆく。あたかも線香花火が、地に落ちる寸前に、持てる力の全てをついやして闇を照らす一瞬に似た長宗我部元親の生涯を紹介しよう。


 日本の天下をわけた関ヶ原戦のあと、長宗我部にかわり、土佐には遠州(静岡県)掛川より山内一豊が入城してくることになるのである。


財団法人 香川経済研究所発行   調査月報(110号)より転載




城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より


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長宗我部顕彰会ほか発行の「城山