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元親と浦戸城・・・堀内昭五郎(「城山」創刊号より)

2009-02-18 | 長宗我部元親に関すること
元親と浦戸城     堀内昭五郎 (「城山」創刊号より)




元親の水軍と浦戸の住民

 秀吉が天下を治めると、だんだんと海の彼方に目を向ける様になった。その理由は国政に多額の財政の必要性と軍事上から海上活動をしなくてはならない時代へと向かっていたからである。


 その点浦戸城は海辺に突出し、小高い山の上に南に太平洋を眺め、東は種崎を見て浦戸湾の入口となり、北側は山がせまって自然の要塞となり、西側が少し開けたところとなり、二の段が設けられ長浜方面からの
敵の攻撃に備えるという城としての本来の機能を備えつつ、かつ海上活動の拠点として格好の城であったと言えよう。


 元親は地形上と時代の必要性からも、どうしても海にあこがれた。平素は海上輸送にたずさわり、一たん事あれば水軍となり、活躍が出来る態勢を整えた。その為には近くの住民をこれに当てた。


 その船の船頭を、武士として待遇した。
 その時代から浦戸地区には、船と関わりあいのある仕事につく男衆が多かった。

 
 現在でも桂浜地区には、少数ではあるが、船頭として活躍した末裔が浦戸士族の住民として誇りを持ち続けている。
浦戸城をしのんで 元親五十一歳の時天正十七年(1589)浦戸城の築城に着手したようである。


 それは、一度高知城に移したが、城下が度々洪水に悩まされたので、三年でこの浦戸城に本城を移すことにした。


 規模は五十坪二層の天守閣を建て、これまでの城と違った中世の山城では新しい近代的な城にしたようである。


 それから十年の間、慶長五年(1600)までこの浦戸城は長宗我部氏の居城であり、土佐の政治の中心であった。桂浜、長浜、みませ、には人家が立ち並び城下町として大いににぎわった。


 この城に移る一年前、豊臣秀吉が関東の北條氏を小田原に攻めた時、元親は特命を受け水軍を率いてこれに参加し、武勲をたてた。


 これは、当時では強い水軍をもった大名は非常に少なかった故であった。


 また、この浦戸城に移った天正19年の翌年の文禄元年(1597) に始まった対外戦争、即ち文禄慶長の役にも秀吉に大船建造を命ぜられたり、水軍を率いては、はるばる朝鮮まで航海を行っている。


 現在、種崎に造船所があるのも、当時の名残である。
 元親の海に心を馳せた思いが、水軍となって現われ、浦戸の地に築城するに至ったこのロマンを偲びつつ城跡から太平洋を眺めると、また格別の味がするものである。



城山  創刊号  発行 (浦戸城址保存会・長宗我部顕彰会・元親会)より転載

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長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」



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